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大人の花様年華と、子供の青春

わたしはテニスコーツというアーティストが大好きで、きっとずっといつまでも尊敬しているだろうと思う。最近、彼らのこのMVを見て、「これは大人の花様年華だ…」という気がすごくした。見てると何かが込み上げて泣きそうで、苦しいんだけど、決して嫌じゃない。

BTSの花様年華と聞いて、人がイメージするものはなんだろう。

花様年華の定義とは?

このMVを見て「なによ、全然花様年華じゃないじゃない!」と思われる方もおられるかもしれない。わたしが花様年華と言って一番最初に出てくる言葉は、「エモい」だ。しかし「エモい」は主観も結構含まれているから、エモさで花様年華を定義するのは難しそうだ。あとわたし自身、「エモい」が、実は、よく分かっていない。

ところで。

わたしが大変に信頼する仲の良い友人が虐待サバイバーである。彼女は「子供の頃から、自分が家族の幸福度を下げていた」、その理由は、「家族が楽しそうに団欒している時、一緒に心から喜ぶことが出来なかった、嘘の感情を演じるようにしか喜びを表現できなかったから」と言った。彼女は時折前後脈絡なくお母さんから与えられる大きな喜び(褒めてくれる、何かを買ってくれるなど)の直後に、予測なくどん底に落とされることがしばしばあったと言い、あるいは、「子供の頃、生のネギを口に入れて吐き出してしまった時、母親がそれに対してビンタする時と、何も言わない時があった。なぜその時々で反応が違うのか分からなかった」とも言った。

彼女の話を聞いて、(子供は生のネギを食わんやろな…)と思いながら、原因と結果が起因しないでランダムに発生するお母さんからの極端な扱われ方が、彼女の純粋な喜怒哀楽の幅を、精神を守るために、その上限と下限を、カットしてしまったのだろうと思った。

それから映画で観たアウシュビッツのシーンを思い出した。

映画の中で、収容された人々は、就寝中だろうと、労働中だろうと、不規則に前触れなく理由なく集合させられる。整列した人々の中から、管理者がランダムに2、3人を射殺する。人々は直後解散させられ、おのおの部屋に、もとの労働に戻る。

これはおそらく、ごく短期間で、人々の反抗精神を削ぎ、団結力を、思考力を、自立心を、ほとんど徹底的に喪失させたであろう、おそろしく研究され、おそろしく整理されている方法論だと思った。召集されるタイミングと被射殺者の選定がランダムであればあるほど、どこをどう探しても「次にいつ誰が殺されるか」の答えは、そもそも無いのだ、無いように、管理者の思考のくせやパターンみたいなものが排されているほど、このシステムは効果が高かったのではないか。

考えてもそこに答えがない場合、人は考えるのを止めてしまう。極限の緊張と弛緩を繰り返し体験するのは、大変な負担が脳にかかる。正常に思考し続けては精神の安全が保たれないとなった場合、精神を保護するために、人は、感じるのを止める、考えるのを止める、そうやって生き延びさせようとするのではないか、食べる、眠る、消化する、最小限の生体機能の恒常性を維持するために。

わたしの友人は、大人の女性は、親しくなるとすべからく暴力を振る性質の生き物だ、と長いこと思い込んでいたらしい。愛情を込めて先生など大人の女性が自分の体の一部に触れることを、殴られるかもしれないことの前哨だと警戒した。どんなに優しくされても、褒められても、殴らないということは自分は気を許されていないんだ、と思っていたそうだ。

ただただ「嬉しい」だけのものが自分に与えられることがあるはずはない、と学習してしまっている。「嬉しい」ことは直後に奪い去られるかもしれないから、「絶望」しなくて済むように感じないようにする。(でも喜んだ風がないとお母さんの機嫌を損ねるから、「喜び」の表現を型で演じる。)感情を一定の範囲内に収め、精神の恒常性を保とうとしたことで、彼女には他人から与えられて受け取れなかったものが長い期間ずっとあった。彼女に無条件の親愛を与えてくれた人は子供の頃から幾人もいたはずなのに、そこに暴力が介されなかったので彼女はそれを信頼して愛情として受け取ることが、ずっと、長いこと出来なかった。彼女のお母さんに本人なりの理由があっただろうことを尊重した上で、その上で、なんて罪深いんだろうと、わたしはただただ、がっくりした。

でもこの心の動きは、彼女にだけ限ったことではなくて、大きく感情を動かすことを止めて行ってしまうのは、自分も同じだったのではないか…。決して彼女の引き受けたものと同列ではなく、部分的にではあるが、喜びすぎない、がっかりしすぎない、びっくりしない、ショックを受けない…、動じないでいた方が次の事態に対処しやすい、それが合理的で、それが大人になるということだ、と、感情を減じさせていく。それは目一杯感じる感情の起伏の落差が、大きな喜怒哀楽の触れ幅が、それを処理するのは自分にとってあまりに大きなストレスである、と認識していたからだった。「慣れた」。「動揺してない」。「冷静」。それは自分の精神の安定を保つのに必要なステータスだと。

ところで。話は変わるが、最近我が家は変革期で、長年住んだ借家を購入させていただくことになり、これまで家の半分相当にぎっしり詰まってあった大家さんの荷物を運び出すことになった。それに伴って入居時からずっとお借りして使わせていただいていた座卓が居間にあったのだが、それをお返しすることになった。

娘が物心ついた時から7年間、毎日食事をとっていた座卓。それを運び出す日の朝、娘は泣いていた。「どうして?これはずっとここにあったらいけないの?お別れしたくない」。大家さんの座卓が、それがあまりに立派で、大人二人でやっと運べるような重厚な物だったので、「ください」とも「買い取ります」とも言えなかった。

その親としての不甲斐なさを恥じるべきか…と思っていたわたしは、帰宅した娘が、引き取られた座卓の代わりに置かれたおもちゃのような古道具のちゃぶ台、結婚前に買った、を見るなり、大笑いして、「かわい〜〜〜〜!!これからよろしくね〜〜〜〜!!」と頬擦りしたので、「え?これでいいの?」と、こちらが面食らった。そして彼女が感じる感情のメモリをマックスまで使って座卓との別れを悲しみ、新しいちゃぶ台との出会いを喜んだことに、密かに感動した。娘は「あれがなくなったのはとても悲しいけど、これはこれで良い」。

きちんと悲しみ、きちんと喜び、そのシーンを全うして、気持ちにケリをつけて、けじめをつけて、終わらせる。そして次のシーンに移る。娘を見て受けた印象は、新しい感じがするとともに、懐かしい気もした。先のことなど考えていない、今しかない感じ。娘がまだしゃべれない赤ちゃんの頃、彼女は寝起きに毎朝満面で微笑むのだった。なんだ?この最高に幸せそうな、ご機嫌な生き物は?目を開けたら一番大好きなママが見えて、心から嬉しいと感じることを恐れていない。直後に絶望を体験する可能性があるかもしれないことを恐れていない。彼女の瞳を通して見る乳幼児の脳は、まだ何もカットされていない。

先日、島の友人宅のガレージバーベキューに誘われた際、島の高校生男子たちがバーベキューのあと「氷鬼」をしに駆けて行った。「氷鬼」?純朴すぎやしないかい…?日も落ちて、街灯のほとんどない島の夕闇は暗い。その集落の「ここから中学校まで」というスケールで喜んで暗がりに駆けていくのを、昼間小学生たちが白熱していたのと同じ遊びであるのを、不思議な気持ちで見送った。「それ楽しいんかな?」。

シンプルなことに没頭できる、今の瞬間を純粋に楽しめる。

ああ。この子たちは喜怒哀楽の上限と下限を、カットされていないということなのかと思った。満面の笑みで起きる娘の、延長線上を育っている高校生たちなのか。

ところで。BTSの新しいアルバムに含まれるシングルのタイトルが公開された。

わたしは別のnoteで「花様年華は終わった」と言い切ってしまったので、新しい曲のタイトルが「花様年華はまだまだこれからッ(Yet to Come (The Most Beautiful Moment)」であるのを見て、「ヒ、ヒァ〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」とはなった。そして、「花様年華は終わった」と言い切ったにもかかわらず、今回のnoteのタイトルに「大人の花様年華」と付けてしまっていることについて、「矛盾しているじゃないッ!」と言われれば、本当にその通りです。すみません。

でもRMくんのVLIVEを見て「終わったんだなあ…」と思ったのと同じ強度で、テニスコーツのMVに花様年華を感じたの。大人の。大人の花様年華を。

終わったのは子供の花様年華なのか?

子供の花様年華と、大人の花様年華と、違いは?

わたしが冒頭のテニスコーツのMVに大人の花様年華を感じたのは、その最大の理由は、彼らの感受性が閉じていないからであった。落差があるかもしれないことの恐怖に打ち勝って、あるいはしなりを持って適応する強さでもって、喜怒哀楽の、つまり感受性のどこをも死なせず、カットせず、オフにすることもせず、繊細さを繊細なまま、そのまま感受性のひだを伸ばして、どんどん伸ばして、「大人として対面するもの」「大人として対処するもの」を浴び続けながら、自分が受け取るものと差し出すものをますます洗練させているのが分かるからだ。

その自分が受け取るものに関して、喜怒哀楽を端から端まで使って、瑞々しく出会い、ますます瑞々しく反応し、他の人がカテゴリ分けや一般論や合理性の前に通り一遍に片付けてしまうようなことを、しない。

大人の花様年華とは、傷つくことすら、味わえることである。

今、全てが満ち足りたハピネスを味わっていて、その直後にどんでん返しが来ることだってあり得ることを大人は経験で知っていている。今、自分の全身を包んでいる瑞々しい幸福が、一生続くものではないことを知っている。でも、そうであったとしても自分の本質的な持ち物が損なわれるわけではないことを知っている時、今味わっているものの価値が減るわけではないことを知っている時、閉じることなく、感受性を開いたまま、自分の物語を体験することができる。

その、喜怒哀楽の落差に恐怖せず、今を味わう、今を受け取る準備ができていれば、人はどれだけ年齢を重ねても、ずっと今この瞬間が花様年華であるだろう。

それは芸術家を選んだから可能な生き方では?

そうでもあるが、それだけじゃない。わたしたちは、いつ、どの瞬間でも他人のそれを目の当たりにすることで、自分の中のスイッチを、生き延びるためにオフにしたものを、また接続し直すことの影響を無意識に受け取り続けている。BTSのメンバーたちが本気で素朴な遊びを遊ぶ様子を見たりしながら。高校生が本気で「氷鬼」するのを見送りながら。我が子が座卓とちゃぶ台に一喜一憂した様子を、「青春だなあ…」と、思ってわたしは見ていた。7歳児の青春。高校生の青春。

島の高校生は、娘は、そのことで何かが損なわれただろうか?

「青春」を思い出すと、わたしの青春とは決して華やかで美しいものではなかった。みっともなかった、愚かだった、浅ましかった。傷ついた。子供を育てるのは、ぷよぷよの肌の生き物に、耐えられる程度の刺激を厳選して、少しずつ少しずつ体験するものを増やしていくのと同義である。食べるもの、着るもの、遊び、場所、人、受け入れられる範囲の刺激を、無理なく、無理強いせずに、様子を見ながらバリエーションを増やしていく。

その、見守られていた環境を離れ、あるいは振り切って、わたしが初めて社会の中で深く存分に、他人に傷つけられたのが「青春」だった。わたしの青春の記憶は「傷ついた自分」という主観で長い間いっぱいだった。けれど今思い返すと、「傷つけられた自分」というイベントの背景には、無数のものが、わたしを祝福するものが、たくさんあったじゃないか、ということに気付いてくるのである。

「青春」を体験した結果、傷つく予感を察知して、安全だったルーティンを固く守って、これまで通りの通常の自分を保護して、これが定型、これなら文句を言われない、尊重してもらえる、わたしは感動しすぎない、喜びすぎない、わたしは他者に期待されることが重荷で、期待の気配だけでも重荷で、なぜなら必ず人はわたしにがっかりするから、他人の落胆を味わうのが怖いから、だから安心しすぎない、いつまでも続くものじゃない、険しい顔をして、朝目を覚ます。

精神の安全を守りながら、生き延びるために。

でも、

もう、それを取っ払っちゃってもわたしは大丈夫なの。

わたしの幸福は、わたしの内側の光から見出されるものだから。

わたしの喜怒哀楽が、ちゃんと今その瞬間に反応していることの方が大切だから。わたしはわたしを支えるものをもう内側に見出しているから。それは何かにがっかりしたくらいで、他人の肯定が得られなかったくらいで、消えてしまうような類のものではない。

感受性を閉じないで生きる。

それがわたしの感じた、大人の花様年華の生き方だ。

BTSのメンバーたちが、自分の外側(社会的ステータス)に自分の存在理由を依存するのでなく、幸福を、いつも自分の内部から見つけようとして、見つけたものを周囲にシェアしようとしているように感じて、それが、実はものすごいことなんじゃないかと思う。今あるポジションを失うかもしれないことを、「墜落」と「着地」で比較して、自分が味わうかもしれない落差に適応するために、どうやったら過不足なく必要なものを準備できるか?ということについて、彼らはできる限り精度高く、お互いの考えをシェアすることで、自分に起こる心境を予測しようとしているように見えた。

でもその様子を見て、はたと、「どうして今より富と名声が下がることを、人は下だと考えるのだろう?」とわたしは思った。これだけ価値のあることを成し遂げた強い魂と磨かれた経験が、それはどんなものにも代えられない最高の財産では?その高い意識は、どんな境遇であろうと、彼らを不本意なままにはしておかないのでは…?

例えば自分が本当に大切だと思う人と、確実な信頼関係があると信じられることが幸せだとすれば、例えば彼らがステージから離れたところで、今得ているものとは違った形でそれをはっきりと手にするかもしれない。個人的な幸せをより確実に獲得するかもしれない。逆に、富と名声が極端に高いことは、本当にただただ幸せだろうか?誰もが「上」だと思い込むそれは、本当にただただ「上」なの?

彼らは、彼らに与えられた極端なポジションに対して、かなり厳密に、自分が受容できる範囲を見極めながら、受け取れると思った範囲を受け取っているように見える。ハイになるのでも、不感症になるのでもなく、自分が行った行為に対してイーブン、適切に相当する範囲を冷静に見極めながら、自分に与えられた地位・富・名声等々が、自分のどういった要素に与えられたものなのかを冷静に理解しようと努めているように見える。

それは、生き延びるために、傷つきすぎないように、喜びすぎないように、感情の上限と下限をカットする行為と、一見それほど違わないように見えるが、実は全く性質の逆のことだ。外側が華々しく自分の内側にがんがん影響を与えてこようとすることに対して、どうあっても影響されない、自分の内側に確実にある損なわれない光を、いつでも何度でも見直そうとする、手にとって確認する。この現代の社会で「生き延びる」とは?何もかもを感じすぎないようにすることではなくて、いつでも自分の内側から発せられる光に、立ち帰れることなのでは?彼らを見ていると、現在進行形でそれが実践されているように見えるんである。わたしの気のせいだろうか。

だから、島の高校生はそのままでいいのだ。わたしはといえば、古く固くなった感情を剥がして、でも怖いから少しずつ様子を見ながら、中でまだわずかに生きていた新芽を伸ばすように、自分がカットしてしまった部分の隅々までを使って感じることを再び始めたい。自分を損なわせようとしてくる外因に、いつも損なわれてあげなくてもいい。いじわるな人や、他人を苦しめたい人が望むような、わたしが、その人たちが望むような在り方で、いてあげなくてもいい。

そうやって子供から大人までの範囲の全てが、自分の感知の範囲になる。

大人の花様年華とは、自ら閉じさえしなければ、意識が拡張して、ただ、いっぺんに持っている量が増えていく。そんなようなことなのかもしれない。

彼らの曲の、タイトルが公開されて、作品は未公開の状態で、テーマをモチーフに自分の中を省みたり思索を広げてみるのは、緊張するし…、独特の楽しさもあるね!果たして、何もかすらないのか、まったく違う場所の畑なのか、どうか。彼らの世界を楽しみに待っています。


それではまた!




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