見出し画像

破草鞋

ここ数日、Rap Monsterのミックステープ『RM』を聴いている。ジンくんと言って思い出す言葉は「無一物」だ。

わたしの文章を、どういう方が読みたいと思ってくださるのだろう。フォローしてくださってありがとうございます。

わたしは誰のことも助けられると思っていない。自分を愛するかどうか、愛するべきかどうか、愛さない、本当に!その人のそれぞれの選択だ。尊重されるべき選択だ。誰も無理強いしない。どうしたって他人を変えることはできない。愛する人を「自分を愛せない人」から「自分を愛する人」に変えることはできないのだから。

自分のことを愛そうと、愛すまいと、今世のゴールは同じだ。土に還ってもとの魂の状態に戻る。愛さない人は、愛さずに自分を殺してしまったとしても、その人生を通して周りの人間に充分に学びを与えている。辛かった人生にそれ以上の役割があったはずだと、わたしはそれ以上を求めることはできない。だから、ごめん。わたしは本当に愛が何か分からなかった。今は一生、愛について知ろうとし続けたいと思っている。

20代の頃、わたしは「家族もいて五体満足だけど、幸せじゃない」「学歴も充分与えてもらった、でも幸せじゃない」というところにいて、それを一生懸命ほじくって煮詰めるのが作品をつくるということだった。そしてわたしの妹が2回の自殺未遂が3回目で成功してしまった後、わたしは自分の「でも幸せじゃない」という気持ちを表現者のアイデンティティとして持ち続けるのをやめた。

表現の世界を離れてみたら、アートの人たちは、「幸せになってしまったら作品の動機が無くなってしまう」と思っているように見えた。幸せになることの平凡さを積極的に拒んでいるように見えたのだ。そしてそのまま30、40、50、60代と、「自分は幸福じゃない」という気持ちを大事に握りしめたまま、年を重ねているように見えた。わたしはそっちに行くのはやめよう。わたしは表現者になれなくてもいい。幸せな人になろう、と、彼らと決別した。

その後、生活のために仕事をするうち、「わたしは本当は何を表現したくてアートの世界に興味を持ったんだろう?」このまま生活のために生活していたら、それがいつまでも続いてしまう。そんなのわたしの人生じゃない。生活のためにしていた仕事も全部やめて、やりたくないのにやっていることも全部やめて、全ての時間を自分のために使おう。本当にしたいことをしよう。そう思ってやめた。全部やめたら、自分の本当にしたいことだけが残ると思った。

そして全部やめたら、やりたいことはなにもなかった。

なんと!正直これには本当に驚いた。「こんなはずじゃない」「これは本当のわたしじゃない」「社会がこうした」「家族がこうした」「本当のわたしはもっとできる」「世間が正しく評価していないだけ」わたしは自分に与えられている評価が自分で納得いくものでなかったのを、全て「わたしが正しくないと考える何か」のせいにすることから活力を得ていたのだった。わたしを妨げている、そう思わせる抑圧を全て外した時、そこには何者でもない、初めて対峙した、ただの自分がいた。エネルギー源を失ったわたしに、誰かに言いたいことは何もなかった。何がどの時期どうマイナスに影響したとしても、そのいびつで凸凹だらけの、貧弱な今の自分が、わたしの持っている全てだった。「これが自分」で「これが本当のわたし」だった。

これを認めるのには勇気がいった。これを認めるのには時間がかかった。だけど最終的には、「この、貧弱でいびつなこの子を、親に望むように愛されなかったこの子を、わたしが愛することを許そう」。地上で、わたしだけでも、わたしがわたしに愛されることを許そう。こんな歪んだ子を誰が愛さなくても、たった1人、わたしだけにでも愛されることを、わたしが許してもいいのじゃないか。そう思った。

これは、この、まったく自分が望むようでない、理想と違う自分に、自分が責任を持つということだった。もう誰のせいにもできないということだった。自分が自分を生涯引き受けるということだった。このことも簡単ではなかった。わたしは「妹を適切に愛さなかった両親」から、「わたしの望む両親」に変わってくれることを期待する心を変えなくてはならなかった。社会は部分的に間違っているかもしれないが、自分の未熟さが未熟なままでいることとは無関係だと考えなくてはならなかった。

自分を愛するということは、わたしにとっては過酷なところから始まった。そのことでやっとわたしの人生は始まり、初めて精神的に自立し、初めて育ってないものを育て始めることができた。このことが人生においてとても重要な意味があることはとてもよくわかっている。でも決して、まったく楽なことではない。

だから、誰もがそうしたらいいとは決して思わない。口先だけでも「今日の自分はよく頑張った」と言えない人のことをよく知っている。わたしはその人の人生を、生きづらそうだと感じることはあるが、自己肯定感の低い人が息を吸って吐くようにそうであることを、息を吸って吐くように自己肯定感が高い人と同じように、何かを変えるべきだと自分の考えで決して思わないことにした。ただ望むようにあってほしいと思う。

でももしも、「自分が幸せになることを許す」、「自分が自分を愛することを許す」、そちらへ踏み出すことを選択した人がいたら、わたしは自分が通ったルートに関しては、「こんなものがあったよ」「このつぎはこんな風だったよ」と、マップを広げて見せることができる。それはまったく役に立たないかもしれないが、部分的には役に立つ人もいるかもしれないと思った。自己肯定は始めの「認知」のところが辛い。自分にがっかりすることもたくさんある。自分のために辛抱してあげる時間もたくさんあるだろう。それから少しずつ、肯定を支える力を注いでくれるものの存在が世界にあることに気づいてくる。

ナムさん(RM)が、ある時期から無垢材の家具を好むようになる。彼が使っているものはむっちゃくちゃ高価なものだけど、わたしも無垢材の家具が好きだ。わたしは無垢の家具を作る人、および器、匙、生活の道具を作る作家の人たちと出会い、話をし、彼らが同じ「もの」を作る人たちでありながら、アートの人たちとまったく違うことに驚いた。

無垢材の家具は長く使われることを前提として、修理をしながら何代にも渡って使うことが出来る。「あなたのエッセンスはこの先何代にも渡って生きる」ということを全面的に肯定して作られているのである。生活の道具もそうだ。お箸や、器や、「これで美味しくご飯を食べて、明日を生きてね」という、圧倒的に、生活を、生きることを、命を肯定する力に満ちていた。それは作り手が存在理由として持っている、ただ生活することを肯定する力だった。わたしは日々使っている道具から、代わり映えしない毎日を、何者にもなれない毎日を、完全に肯定されているのを感じる。それは感謝と言ってもいい。だからナムさんが、作り手のエネルギーにシンパシーを感じて無垢の家具を好むようになったなら、それはとても彼を肯定するのに力を貸しているのじゃないかと思って、そのことをとても良かったと思う。

ナムさんがRMと名乗る前のRap Monsterだった頃のミックステープの楽曲は、パクチーはすごいインテリジェンスな、クレバーな人の音楽だと感じる(ま、実際インテリだしクレバーなんだけど)。知的に音楽を聴いてる人の構成の仕方だなあと思う。エモーショナルな方向じゃなく、理性的な攻め方と言おうか。音楽やっている人が好みそうで、パクチーはすごく面白い。(ぜひ良いスピーカーか良いヘッドホンで聴いてね、別物だから!)。歌詞は分からない、でもf■ckをすっごい言っているのは聞こえる。そしてRMはこの時代をすっ飛ばしては、今の慈愛に満ちたRMにはならなかったのだろうと思う。

今やわたしは、この世は「コントラスト」なのか、と感じている。自己肯定というベクトルが、マイナスからプラスのメモリがあるとして、人生の体験がマイナスからプラスのメモリがあるとして、全てが闇から光に転換しうるのがこの世界のすごいところなのか、と。目の前ですごい展開を見ることがある。わたしなんかよりずっと深い闇の、魂を歪めるネガティブな体験が、そのマイナスのメモリの分プラスに転換された時、わたしは心から驚くと同時に、この世にこれ以上の素晴らしいことがあるだろうか?と思う。大きなメモリのマイナスには、同じ振れ幅でプラスになるポテンシャルが含まれているとでもいうのだろうか?わたしは自分の全てのマイナスをプラスに転換することを体験したくて生きているのかもしれない、と思った。そして、たまにその軌跡を言語化出来る人がいる。自分がいる闇になにがあるか、目をそらさず、積極的に見つめ、言語化する努力をする人。そのわたしの友人や、RMや。

ここでVくんの天使の話をしたい。

テテちゃん(V)が、自分の天使と話をすることが、しばしば語られる。わたしは以前、別口から「人を助けたい天使が、それぞれのエリアをうろうろしている」という話を聞いた。そして皆んなそれぞれに天使がついているとも。そして天使は、「泣いているあなたを助けたいのだけど、助けを求められなかったら助けられない」という。パクチーは別の記事でも書いた通り、まったく霊感みたいなものがない。

でもその話を聞いて以来、積極的に助けを求めることにした。自分がこの世でたった1人でいるような気持ちの時、布団に潜って、深呼吸して、「天使ーー!!たすけてーー!!!」と、至ってシンプルに助けを求めるようにした。それは天使なのか?絵に描いたような?羽があったり輪っかがあったり?それをなんと呼ぶのが適切なのかわたしにはわからない。それでも「たすけて」と言った0.5秒後くらいには、眉間にぐっと血が集まっていたようなのが、すっと和らぎ、胸からふわっと力が抜ける。そして「だいじょうぶだ…」という気持ちが起こる。それは自分自身なのだろうか?それでも便宜上、それを天使と呼ぶのは一番起きている現象と合っている気がする。

ちなみにパクチーは、同じ寝室で寝ている旦那くんが、疲れていていびきがうるさい時も天使の力を借りる。わたしの天使から、旦那くんの天使にお願いしてもらう。「いびきをなんとかしてあげて」。そして宇宙のエネルギーが旦那くんの天使を通して、旦那くんの音が出ている部分に染みていくのを考える(宇宙のエネルギーを使うのは、気功の人の本で「自分の力を使う気功師は早死にするが、宇宙の力を使うようにすれば、宇宙の力は無限だから大丈夫」という文章を読んだからだ)。即座に止まるわけではないのだけど、だいたい2分くらいでいびきが収まるので、効果はあるようだ。

最後にジンくんの話を。abyssに自分がいることに気づいたら、もう半分以上は解決している。その子との付き合いは一生続くが、原因がわからずに不安になることはない。

我が家の居間には「破草鞋(はそうあい)」という書がかかっている。もう亡くなられておられるが、今お借りしているお家を建てた方の所蔵だ。草書で読めなかったが、泊まりに来た友人が意味を調べてくれた。禅の言葉らしい。草鞋とは草履のことで、道行の途中で破れた草履は役に立たないので道端に捨てられ、やがて土に還る。素晴らしさを極めた人はそのようであれ、という意味らしい。誰の気にも止まらない、賢いのか凡夫なのか分からない、敬われずに生きろと。村人の畑を手伝い、気のいい茶飲友達だったお爺さんが亡くなったら、その人は高名な禅僧だったという。無一物。禅が定める人のゴールはそこであるらしい。

成功して有名になったら、大きな家、大きな車、大きなリングを買って、自分の成功を証明したくなるだろうか。像でも建てて、後世に痕跡を残したいと思うだろうか。一方、無一物、なんの肩書きも持たず、人と自分の間に垣根をつくらず、目の前のひとりひとりと、本心と共にもたらされる心の交流をして、それを魂の財産とする考え方がある。自分の所有物は持たず、ものと知恵を貸し借りしあって、人と人の間に生きる。ジンくんにはなぜかそのイメージが湧く。ジンくんと無一物をリンクづけても誰も共感しないと思うが…。

ところで、レールを外れると、そこは奈落のように感じるかもしれない。

しかしパクチーがレールを外れたから実感からすると、レールの上以外にも当然人生はあり、それを生きる多様な人々が点在していた。わたしはそこに降りて初めて、そこにいる人々と目が合った。そこにいるのは痛みを知る人たちだった。そこでは自分の経験はまったく特別じゃないということがよくわかった。その人たちとの出会いを通して、わたしは世界がもっと多層でグラデーションのあるものだと知った。レールを外れたら、そこは地面だった。しかも果てしなく広がる草原だった。

今日はここでおわり。それではまたね。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?