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牡丹社事件148周年記念活動

5月20日に開催された牡丹社事件148周年記念活動、
沖縄県民間大使/県人会顧問の陳保佑さんを通じてお誘いいただき、
黒島会長の代理で出席させていただきました。


[台湾の先住民族排灣族 ]


台湾の最南端に位置する屏東縣に牡丹鄉牡丹村があります。
この地域は汝乃山の東側に位置する山々に囲まれた部落、
野生の水牛や蝶が生息し、現在は自然生態保護区になっています。
この地域に住む、『排灣族』の祖先発祥の地は『大武山』の高所と伝説では言われており、北排灣、中排灣、南排灣、東排灣と細分化され生活の範囲は各地に広がり『南排灣』と呼ばれるようになりました。

排灣族には世襲制で嚴格な階級制度があります。
頭目、貴族、勇士、平民と4階級に分かれており、自然と祖霊を信仰し、山は祖霊が宿る神聖な場所として崇められ、伝統狩猟領域としても大切にされています。


【琉球漂民事件から牡丹社事件への流れ】


1871年11月、那覇を出港した進貢舟が台風で票流して『八瑤灣』に流れ着きました。
進貢舟には、宮古島の地頭や文書吏員、首里・那覇の商人を含む69人が乗っていました。漂流の際に3人が溺死、66名は台湾の東南部、山中に進み、高士佛社・牡丹社・竹社の境界に侵入した際に、排灣族に遭遇しました。
飢えている遭難者の空腹を満たすために、排灣族は貴重な米やお粥、サツマイモなどを与え、琉球人を客人としてもてなされましたが、琉球人は意思疎通ができず、誤解からか、その場を逃げ出してしまいました。結果、殺害されることになり54人がお亡くなりになりました。

この事件は、八瑤灣事件、八瑤灣琉球人事件、琉球漂民事件、宮古島民台湾遇害様々な呼ばれ方をしています。


[当時の琉球]


琉球は、1609年の薩摩藩による侵攻の後、薩摩に服属し、明朝(中国)との朝貢貿易を継続する一方で、日中両属の状態にならざるえない状況にありました。
1871年当時も、清国(中国)との冊封・進貢関係が続いていましたが、明治政府は1871 年7月の廃藩置県を受けて、薩摩藩が新たに鹿児島県となり、琉球国を鹿児島県の管下に置くことになりました。
翌1872 年には琉球国を廃し明治天皇の冊封で尚泰王を藩王としますが、琉球は清国冊封下の王国は、依然として清国への朝貢を行い、政府の命令に従いませんでした。

[ローバー号事件]


琉球漂民事件の4年前、1867年3月にも米国船ローバー号が台湾で遭難し、乗員が台湾原住民に殺害される『ローバー号事件』がありました。当時厦門の米国領事に任命され、5つの条約港である厦門、基隆、台北、淡水、高雄を任されていた『ルジャンドル』氏は、1872 年に厦門から米国へ戻る途中、日本に立ち寄り、明治政府と台湾問題の武力解決を話し合いしました。
その後、ルジャンドルは米国領事の職を辞し、1872年12月に外交および軍事顧問として明治政府に雇用され、台湾出兵の手伝いを行うことになります。


[台湾出兵への流れ]


1871年9月には、伊達宗城が清に渡り、日清修好条規が結ばれましたが、最恵国待遇の条項などをめぐり日本政府内に不満が生じたため、批准が遅れました。1873年に副島外務卿が特命全権大使として清に渡り、穆宗同治帝に謁見し台湾遭難事件などの件を問いただしましたが、清朝の外務当局は、清国の統治のおよばぬ領域での事件と回答して責任を回避しました。
『明治六年政変』で明治政府が分裂し政情不安の中、1874年に西郷従道は台湾出兵を指揮し、長崎に待機していた征討軍を出動させました。

[牡丹社事件]


1894年11月に、西郷従道率いる軍は、台湾南部の恒春半島に兵士を送りました。その際、先住民族排灣族の2つの村と交戦し、牡丹社では西郷軍との戦いで、南排灣族 頭目の『阿祿古Aruqu』父子ら多くの犠牲者を出し村は焼き払われました。西郷従道率いる軍は半年間この地を占領しましたが、その後、日本の琉球併合を経て、朝鮮を巡る対立から日清戦争となり、その開戦によって日清修好条規は解消されました。


[琉球その後]


琉球はその後、1372年から250年以上続いた中琉朝貢貿易、外国との交渉を禁止され、清国への朝貢は差し止められました。王は東京に住まう事、そして首里城は開け渡し王府は解体する事など、多くの処分を受け、1879年に琉球王国は幕を閉ざされ、沖縄県が設置されます。
その後の、同化政策により、琉球古来の風習、ハジチや母語も禁止され、独自の文化が失われていくことになります。

[遺族の和解]


牡丹社事件のような悲しい出来事があった後も、台湾の原住民、排灣の人々は蔑視され辛い経験をしてきました。
その後、沖縄大学客員教授の又𠮷盛清さん等の研究や、双方遺族の和解の働きがあり、遺族の和解や、記念碑・お墓の整備などが行われています。


[おわりに]


今回、牡丹社にお伺いした際に、阿祿古Aruqu父子の碑が建てられた牡丹社紀念公園の他、牡丹社の頭目に案内され、琉球人が殺害された後に一度埋められた山の麓も案内していただきました。

ここは、いつでもお祈りができるようにと、個人で整備を行なっていて、沖縄の人がいつきてもいいよと言っていただいています。
現地の想いも汲んで、今後は、沖縄出身の台湾留学生や、子供たちの交流のきっかけが作れればいいと考えています。

残念ながら、日本ではこの史実がまだ深く検証されず、多く伝えられていないのが現状です。
日本(明治政府)が加害者の台湾出兵『牡丹社事件』と、琉球民が被害者である琉球漂民事件。過去の歴史から学ぶ教訓をもとに、文化の相互理解の大切さと世界平和を伝えていけたらと思います。

先人に哀悼の意を表します。

2022年5月20日
在台湾沖縄県人会
会長:黒島真洋
代理 / 副会長:伊禮 武志

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