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20240621 ただやる、慣れる

昨日は、地元の友人と千葉にジビエを食べに行った。猪と鹿のお肉を食べたけど、そんなに臭みもない。というか普通においしい。チョリソーやソーセージやカレーだったので、調理が上手かったんだろうな。偏見で、ジビエに一癖を求めていた俺らとしては面食らったけど、旨いなら旨いで良い。脂に動物のクセが凝縮されてるかもと思って、鹿のモモ肉と、猪の脂身の多い肉を買ってBBQで食べたけど、これまたクセがない。うん。たぶん処理が上手いんだろうな。食物に感謝。害獣という概念とはなんだろう。

猟師工房ドライブインにて

話はがらりと変わって、友人とドライブ中、鍛錬の意味について語り合った。友人はFXをやっていて、意識的ゾーンに入ることについて、かれこれ1年くらい研究している。世間一般で言われる、集中的ゾーンに入ることは、指をひとつ鳴らすだけで入れるようになったが、その先に入る方法を模索しているらしい。

友人いわく、その先のゾーンというのが、無我の境地に近いらしい。その場にふさわしい選択を、自らが選んでいるという自覚もなく、自分が消えていく感覚。しかし、目的のようなビジョンは定まっていて、失敗という概念が見えてこない領域らしい。「言葉で説明しても伝わらないと思うけど」と言われたけど、なんとなくわかる。

友人は、FXで勝利するためにはその領域に入ることが不可欠だと考えていて、そのためには検証とか、トレードの数をこなす必要があると言っていた。つまり鍛錬だ。その理由を深く聞いてみると「考えずに手法を手足のように扱えるようになって初めて、あの領域の安心感を感じられる」と言っていた。これは友人の仮説だから、必ず正しいわけじゃないと思う。けど、俺はこの話を直感的に正しいと感じたので、ここからは俺の説明を付け加える。

ちなみに、この"領域"というのは恐れや躊躇などの思考が存在しない、無我かつ心の落ち着いた明鏡止水的な領域のことらしい。どこまで言葉にしても、しょせん言葉だから想像し続けていてください。

たとえば、人前で「こうありたい」という話し方があったとする。それを普段から再現しようともしないで、いきなりぶっつけ本番でやろうとすると、慣れていないので思考がそこに介在して、話し方がぎこちなくなる。自分の"普通の状態"じゃないから。でも、自分のこうありたい状態を息を吐くように自然に行えるようになったら、それはもう自分の普通になる。そうすると、友人の言っていた"領域"のなかでもそれは普通のこととして通過する。その領域のなかで「失敗するかも」という感覚になるのは、思考が介在して恐れを生じさせるから。息をするのに難しいと感じないように、普通になってしまった所作に恐れは感じない。

ここで大事なのは、いまの自分にとって普通ではない所作を試そうとすると、ゾーンから抜けでてしまうということ。だから鍛錬で自然にする。血肉にする。呼吸にする。鍛錬でははじめから、勝つための(そうありたいとする)動作だけを染み込ませる。この動作をやれば勝てるという動作を自然な呼吸レベルまで染み込ませる。そして、勝負の時になったら、いまの自分の自然な動作以外は行わない。ないものはだせないから。
そうすると、「今自分にあるものを出すだけ」という明鏡止水の領域にいけるのだと思う。

だから、自分が自然に行いたいと思う所作を鍛錬の段階から選び抜くこと。ここに人生の真髄が隠れていると思う。余計な所作(格好つけるとか、誤魔化すとか)を人生の中で繰り返しても、くだらない贅肉がつくだけだ。

意識を変えただけで、なりたい自分の像になれるなら苦労しない。なりたい自分に、"なった"とするのはいつか。それは行動が、言動が、呼吸のように染み付いてきたときだと思う。自分にないものを出そうと力むのではなく、あるものを使って勝ちに行く。そのために鍛錬があると思う。

鍛錬というとおおげさかもしれないけど、要は反復だ。そして、反復こそ人生だ。

最近はSNSですぐに評価がわかるようになってきたよね。だから、鍛錬の過程でなりたい自分になっていくことより、その場での評価に価値があると俺は思ってしまっていたのかも。いまある指標に合わせにいったり、上手くいかないなーなんてうじうじ悩んだりしてさ。だせぇな。弱い。弱いな俺。おいザコ。ザコ俺。

音楽も、写真も、文章も、やり続けていくなかで肉体に染み付いていくものがある。慣れてこそ尖る骨がある。血肉にしていく過程こそが、人生。だってなりたい自分になりたいんだろ?そうだよ。俺はなりたい自己像が自然に見えるようになるまで繰り返したいんだ。それだけだ。だが、それはいつ訪れるかわからん。なれるかもわからん。ただそのときが訪れると信じて、やるだけ、慣れるだけ。

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