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20240606 応答と興味

今日はもう6月7日なんだけど、昨日の日記ということで書かせてください。昨日書こうと思ったことが、昨日の段階であったから、これも6月6日の日記なのでしょう。

私は子供の頃から、人の要求するものに合わせてきた。友達が話に興味を持ってほしそうなら、それに応えて興味を持つ。恋人が何かを要求してそうなら、それに応える。そんな生き方をしてきてしまったので、今は自分の要求ってものが見えにくい。そのくせ勝手に合わせて、勝手に疲れる。自分の要求が、「相手の要求に応えないこと」みたいに歪んで、怒りとして発露してしまうこともある。

また、相手が要求を出していると勝手に察して、先回りして対応し、まったく見当違いの応答をしているときもある。それなのに、「私は応えている」と感じて、勝手に心がすり減る。

最近、相手に興味を持てないときは持たなくてもいいというのを友人から学んだ。目からウロコだった。これはたぶん、私が興味を持ってもらえることに喜びを感じる人間だから、相手に興味をたくさんもってあげた方が優しいと勘違いしていたのかもしれない。興味もってもらえると嬉しいよね。私はずっと興味持たれたいよ。

上記の精神的特徴とともに、私は誰かに応えたい弱い性格があるから(あえて弱い性格というよ)、興味を持って貰えるように人格を形成してしまったような感じがある。興味を持って貰えるように知識を獲得するし、面白い話し方をする、などなど。

いままで誰かに応えたいというのは、美徳のように考えてきたけど、いまは違う。誰かに応えたいというのは、自分がどうしたいかわからないということ。それを相手に委ねたくなってしまっているということ。心の底から奉仕の人間で、相手に委ねられるならそれでいい。けど、たまに反動で疲れているわけだから、俺の心の形はまるまる奉仕の形にできていない。

私は誰かに興味をもってもらえるように行動を形成することが多い。誰かに興味を持って貰えるように生きるということは、誰かの人生を生きることに近い。結局人は1人じゃ生きられない論はあるけど、要求のスタート地点に誰かを置いてしまうと、誰かの人生になる。いまはそう思う。

私はいまでも自分の選択に自信がない。自分の欲求ベースで、未来や世界を構築するのが苦手。だから、誰かや世界の需要に合わせて未来を構築してしまう癖がある。いまではYouTubeや音楽をやっているけど、それを求めてくれる誰かが傍にいたからなのかもしれない。もしくは、それが求められていると勘違いして、進めていたのかな。

自分で勝手に合わせているくせに。自信がないだけなのに。YouTubeでアルゴリズムに合わせて動画をつくっている時も、誰かに聴いてもらえるように音楽をつくってボツにしたときも。自分で自分を閉じ込めているのに、世界は自分を許してくれないと思って、なげやりな気持ちになる。

「全部をありのまま許してくれ」と言って、子供のように泣き叫びたい日がある。けど、やったことはない。やってみればいい。

そのままの自分を受け入れてもらえるはずがないと感じ、自分を切り刻んで、誰か用の自分にしたのはまぎれもない自分だと思う。

ただ、問題の本質は、ここじゃない。俺の中には、誰かの要求に応える or まったく応えない。誰かに興味を持つ or まったく持たない、の両極端の選択肢しかない。これが問題。

グラデーションがないから、すべてを白黒つけたくなって、応える時は全部応える、そうなって疲れる。これを改善できれば活路が開ける気がする。

要求に合わせたくないからといって、「お前の話興味無いよ」というような、そんなトゲトゲしい言葉は使えないでしょう。友人が言っていた「ふーん、そうなんだ」みたいな優しいピリオドをいくつか獲得したい。自分は興味無いよとやんわり伝えること、これも自分の要求を出していくリハビリなのかも。いままでやってこなかったから、非常に難しいよ。

いまもnoteを書きながら、読まれる文章を目指そうとしてしまうけど、とりあえず今は吐き出せるままに吐き出したい。歪なまま許してほしい。

歪なまま許してほしいというと、「どう歪なのか教えてくれ」と言われる気がする。しかし、それを提示したら、また合わせていることになるから。出たものがそのまま許されたい。ただ許されたいよ俺は。


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