【伝えておきたいブルースのこと】㉒電波に乗ったブルース
人気ラジオ番組と黒人DJの登場
力のあるミュージシャンの影響はどのように広まっていったのか。生演奏を直接見ることもあれば、レコードを通して学ぶこともあった。1940年頃からはラジオ番組がその役割を果たしてきた。ブルースの電波ジャックは50年代に入ると勢いを増していく。
1938年、アーカンソー州ヘレナのラジオ局KFFAで始まった番組「サニー・ボーイのコーンミールとキング・ビスケット・ショウ」は、その後「キング・ビスケット・タイム」の名で親しまれた。番組の顔、サニー・ボーイ・ウィリアムスン(ライス・ミラー)は、断続的ながらその後27年間に渡って出演を続けた。毎日午後お昼の時間に放送されていたこの番組をB・B・キングは覚えている。
キング・ビスケット・タイムにはサニー・ボーイの相棒ギタリスト、ロバート・ロックウッド(ジュニア)も出演していた。1940年代に入るとドラムス、ピアノも加わり、バンドでの演奏が電波に乗って南部の黒人たちに広まる。当時の音源は残されていないが、1942年撮影とされるサニー・ボーイとロックウッド、二人の演奏を捉えた映像が21世紀になり発掘された。音声は無し、わずか2分程の短いものだが、食料雑貨店の前で演奏する二人を見に大勢の人が集まっているのがわかる。何度見ても息をのんでしまう。YouTubeで「king biscuit time, 1942」と検索されたし。
ロバート・ロックウッドは1945年頃にはエレキ・ギターを弾いていたという。当時最新のブルースは、ラジオから響いていたのだ。
生のブルース演奏を聞かせる番組はその後ぞくぞくと登場した。ロバート・ナイトホーク、ハウリン・ウルフ、エルモア・ジェイムズもラジオ番組で演奏、なかにはDJをするものもいた。
1947年に開局したメンフィスのWDIAは、翌年に黒人DJ、ナット・D・ウィリアムズを採用し、黒人向けのラジオ局として再スタートを切る。若きライリー・B・キングは局を訪れ、その場で一曲歌い、出演が決まった。自ら歌い演奏し、宣伝をする番組はスポンサーの商品名から「ペプティコン・ショウ」と呼ばれた。そこで付けられたDJ名「ビール・ストリート・ブルース・ボーイ」から、「B・B」の愛称が生まれている。
文:濱田廣也
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