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遊び感覚 第1話~第3話


第1話

勉強しなさい、と親から言われずに育った私は、ときどきそう怒鳴られることを夢想することがある。独身生活だから、現実には叱ってくれる人間はいないのだけど、誰かに強制されることにも、少しばかりは良い点があると思う。というのは、日常生活の習慣の大部分が模倣と強制から形成されるからだ。
私には未だに勉強する習慣が定着していない。机に向かうまでが大変で、そのためには六種類の飲み物を必要とする。さあユートピア論のノートを作らなきゃと決心すると、とりあえず珈琲を淹れてということになる。寺尾の「交響楽」か古町の「シャモニー」あるいは吉祥寺の「もか」(この店は全国珈琲店番付を作って店内に貼りだしている。勿論自分のところが東の横綱)の豆を買い置きしていて、産出国別に缶に入れてあるのだが、あの本はややこしい議論が多いから、酸味も苦みも程よいブラジルにしようと思い、珈琲メーカーをセットしてヴィラ・ロボスのCDを聞きながら、勉強前の士気を高める。電子レンジで温めておいたカップに挽きたて入れたての珈琲を注ぎ、いざ鎌倉、とはならない。大抵は、珈琲を啜りながら音楽をソファで聴くことになる。
 こうしていてはならぬ、と立ち上がると飲み物はもうない。机に行くにも手持ち無沙汰だし、それならアールグレイの紅茶を淹れて分析理性を研ぎ澄ますことにしよう、と決意する。薬罐に水を入れ火にかける。沸くまでの間どうするかと言うと、実は台所にピアノがあって三百CCの水を沸騰させるのに丁度よい曲があるのでそれを弾き始める。バッハのパルティータ第一番の前奏曲。いつもこうしているものだから、別の機会にこの曲を聴くとやたらと薬罐を思い出してしまう。さて、反復を入れて終結部にくると薬罐が鳴っている。火を止める。紅茶を入れて、それでは書斎へ。と、足を踏み出した時にいつも折角だからジグまで弾いてしまおうと思いなおす。実際は、その後一時間ほど近所迷惑な雑音をがなりたてることになり、演奏技術の未熟さに切なくなってくる頃にピアノの蓋を閉める。
 すると紅茶は冷えている。やっぱり勉強するには烏龍茶だと頷いて、今度は六百CCほどの水を沸かす。本当なら六百CCにはモーツァルトのソナタ第八番がうってつけだが、洗濯のことを思い出して、風呂場に行って昨夜洗ったやつを今度は脱水にかかる。てな具合で、その翌日に干すことになる。残念なことに烏龍茶をもってしても勉強を開始するには至らないのだ。ついで燕の知人から貰った延命茶を入れ、その次は表現意欲を掻き立ててくれるハニーレモン、そして最後にやはり私は日本人だ、と今更のように気がついて、煎茶を丁寧に入れて、ようやくワープロの前に座ることになる。最近、高麗人参茶に味をしめて常用しつつあるが、これは第七の飲み物になるのではないか、と心中深く恐れている。

[33年後の注釈]

1)このエッセイの連載は4年間の助手時代が終わり、やっと授業をもつようになった時代(1989~1990年)。「新潟日報」の毎週水曜夕刊に掲載された。
2)吉祥寺もかは東大大学院時代に三鷹のピアノのレッスンの帰りに立ち寄った。店主の標交紀さんは2007年逝去。
3)この頃はWINDOWS95の発売前でパソコンでなくワープロ専用機で授業の準備をしていた。
4)台所のピアノはこの連載が終わる頃にグランドピアノを購入したので、同僚の斎藤陽一氏に譲った。
5)なかなか勉強が始まらないのは33年後の現在も同様。

第2話

 新聞を開くとこの頃やたらと旅行広告が多い。いわゆるパックというやつだ。顔に膏薬のようなものを塗り付けるものもパックと言うけれど、してみると人間をがんじがらめにしてしまうものの総称なのかもしれない。そう言いたくなるほど、他人に仕組まれた旅行は不自由で窮屈な感じがする。名所は確かにいいし、旧跡もまた味わいがある。けれども、風光明媚な場所や由緒ある史跡に旅心を動かされるようなことは、私の場合さっぱりない。そもそも、旅をしようと決意した時には想像もつかない事件が起こり、その種の意外な展開に心地よい旅の思い出が生まれてくるものだ。
 例えばこんなことがあった。大阪で学会があって行くつもりでいた。受付で名前を書いたら遁ずらして、有馬温泉に行って久しぶりに鉄分の多い湯に浸かり、炭酸煎餅をかじって、それから神戸に戻り中華街で豚まんを食べるか、三宮の懐かしいレトロのパチンコ屋に行こうかと迷っているうちに、友達から連絡があって新潟に来るという。それなら、新潟のどこを案内しようか、佐渡へ行ってから関西に出るのは大変だなどと思案していると、到着した友人は花巻に行ってみたいと言いだした。逆方向だ。少々説明がいるのだが、その友人とは、井上ひさしが故郷の山形県川西町に蔵書を寄贈して建てた遅筆堂文庫という所で開催された生活者大学校で知り合いになった。その時のテーマが宮澤賢治だったという伏線がある。
 さあ忙しい。国道49号線を56年型ルーチェで快調に飛ばし、不動湯温泉で旅塵を落としてから東北自動車道に出て、花巻に着くとすぐに賢治記念館、羅須地人協会を回って休むことなく遠野へ。途中道に迷い山中で魚売りの軽トラックに先導して貰ったのだが、この兄さんの運転の素晴らしいこと、ジェットコースターに乗っているようなスリル満点の曲芸運転であった。(それにくっついていく私もスピード狂ということになるが)。遠野で美味しい酒饅頭があるというので見つけてそれを食べ、Uターンして鉛温泉へ。帰りは地酒が気になり、一の蔵と関山という酒を買って車に積んで新潟に戻ったのだが、忘れられない体験をした。賢治が発見したイギリス海岸(ドーヴァーにあるのと同じ地層の泥岩があるという)へ寄った時のこと。うっかり土手から川岸まで見事に転んでしまった。靴からジーパン経由で上着まで泥岩であることの有無を言わさぬ証拠を描きこむことになった。私と同じ憂き目に遭うであろう人を三十分ばかり待ったがとうとう現れず、二度とここには来まいという決意を固くした。翌日夕方、学会には何食わぬ顔をして出席し、かつての学友と談笑していると、「なんでお前の靴片方だけ泥がついているの」と聞く。「昨日イギリス海岸で滑ってついた泥だよ」と答えても信じて貰えない。大腸菌のことしか知らない専門××だから日本の地名など思わなかったらしい。

[33年後の注釈]

1)この話は事件の時系列を見ると誤解されやすい。友人が来たのは木曜で戻ってきたのは土曜。まだ大阪行の夜行列車「きたぐに」が運行していた時代で、大阪についたのは日曜早朝のこと。この記事を読んだ庶務係の事務官が「ウィークデーに遊びに行くなら休暇届けを出してくれ」とお叱りの電話をくれた。
2)井上ひさしの「生活者大学校」は第二回(1989年)のテーマは「宮澤賢治・農民ユートピア」。大広間で参加者はざこ寝をして、隣に寝ていたのが漫画家のますむらひろし氏だった。井上ひさしさんに舞台づくりのこととか沢山教えて貰った。

第3話

「朝だ元気だ、朝日が昇る」。確かこんな出だしの曲があったと思う。中学生のとき歌わされた記憶があるのだが、考えてみると人迷惑な歌詞で、元気な人はどうぞ元気にして下さい決して咎めはしません、とつい言いたくなってしまう。人には朝元気でないことを選ぶ自由だってある。つまり、有体に言えば、私には朝とは長引いた夜のことで、そうでなければ大抵は寝ていて、お日様が日本海の洋上かなた佐渡島へと沈みかける頃にようやく頭がはっきりしてきて、文字通りの意味で元気になってくるからだ。
 さすがに空腹で目覚めることが多いので、碌に顔を洗わずにマーケットに買い物に出る。勿論「朝」御飯の用意のため。入り口に近い野菜売り場から値段と品とを見比べつつ、安くて早くて美味しい三ッ星マークのメニューをあれこれ考える。「今日はカボチャが半個98円なのか、それなら、冷蔵庫の中で既に次世代へのバトンタッチを用意しつつあるニンジンを処分するためにも田舎煮なんかどうだろう」など思案しつつ、後ろ髪を引かれる思いで魚売り場を通過し(というのは好物の銀ダラの値段が気になるから)、肉売り場で127グラム108円の豚肉をとって籠に入れ・・・。しかし、この後がいけない。肉売り場からコーナーを回ったところにお惣菜売り場がある。しかも五時を過ぎていてダンピングが始まっているのだ。ここから安物買いの銭失いという結論が引き出される。目の前には「百円引き」の赤シールの貼られたコロッケやてんぷらが、冷えきっていかにもまずそうな顔をして並んでいる。しかし赤シールの魔力にはかなわない。芋天麩羅と鶏唐揚げをつまんで、しめて二百円得したなどと思いつつも、先程の献立のことを思い出して、少々気恥ずかしくなるのだが、まあ、明日に回そうなどと思いレジへ急ぐ。
 何しろ腹が減っている。払いを済ませると目の前にお菓子屋がある。食後のケーキはサヴァランにしよう。「美味礼賛」はまだ読んでいないけれど、序文の代わりくらいにはなるだろう。買い物袋もずいぶんと重くなって、家の鉄アレーと同じくらいかなぁと考えていると、次第に怠け心がふつふつと沸き上がってくる。目の前には、かの日本一まずいと自称する中華店があるからだ。ずしりと重い袋をわきにもたれさせながらラーメンをすすってから帰路につく。こういう日は自己嫌悪の情がつのってきて、やりきれずふて寝してしまう。まあ、こういったわけで、休日はほとんど無駄としか言いようのない生活をしているみたいだ。仕事が午前からある日はそうもいかず、目覚まし時計を三つ並べ(それもベルの音が不愉快な不協和音となる組み合わせになっている)とにかく起きるのだが、冒頭で言ったように、元気であるはずがない。亡霊のような足取りでなんとか大学へ行って、夢見心地で授業を終え、研究室のベッドにもぐり込む。
 

[33年後の注釈]

1)これでよく首にならなかったと思う。もともと助手は任期があってどこか移るか、浪人生活に戻るかいずれかになる公算が高かったが、東大定年後に教授として赴任していた山本信教授に親友の大森荘蔵先生が「早くやめて井山君に椅子を譲れ」と言ってくれたために、そのまま講師になることができた。大森先生のお嬢さんは成城学園高校時代に私の父のクラスにいて、この私は院生時代に先生の授業に出ていた、という複雑な関係だった。
2)このマーケットは清水フード新潟大学前店のことで、家から歩いて五分。菓子屋と中華店が併設。この「日本一まずい」東華楼はそこそこ旨いしリーズナブルな値段で利用する同僚が多かった。西洋史の松本彰先生がこの店のフロントのガラスにぶつかって破壊するという事件があった(1998年)。先生は無事だった。

✲当時の読者が切り抜きをとっておいてくれたので、以後、3話ずつ再録していきます。

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