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遊び感覚 16~20話

第16話 気になる看板

 看板にもいろいろあるけれども、効果という観点からすると首を傾げたくなるものが多い。「交通安全宣言都市」という文句が大書された大層立派な塔のような看板をときたま見かけるが、これがドライバーの安全運転になにがしかの寄与をしている、などと考える者はまさかいないだろう。予算が余ったために建てたのだろうか。却って余所見運転を誘発して安全を損なう。同じくらいの規模の看板で長野県に「正直村の野菜クッキー」という奴があるが、何だろうと思って気がかりになり、これまた事故の原因になりかねない。看板自体が交通安全とは矛盾した存在なのだと思う。
 国道17号線を三国峠を下って月夜野へ入る途中に、赤ランプの点滅で「目をさませ!」というもの凄いものがある。これなどは確かに効果を狙っているのは分かるが、びっくりしてハンドルを切り損ねる心配がある。驚くという点では似ているのがパトカーに似せた看板。柿崎と新井を結ぶ街道沿いに一つある。これも赤ランプがついているが、慌ててブレーキを踏んで事故を起こしたら、冗談では済まされまい。ぞっとする看板もある。大湯温泉から枝折峠を経て尾瀬方面に向かう国道は、紅葉の季節は素晴らしい景観を見せてくれるけれども、それと同時に底知れぬ恐怖も与えてくれる曲折に富んだコースだ。その途中に「落ちると死にますよ」というペンキ塗りの警告がある。なんたるリアリズム!これを書いた人のブラック・ユーモアには脱帽してしまう。
 ユーモアといえば、当事者は意識していなくても、結果的に滑稽になってしまった看板がある。国道7号線を中条を通り過ぎて胎内温泉方面に県道を右折すると、最近では南イリノイ大学がやってきた関係でやたらと英語が併記してある。郷土資料館が data house (museum が普通だろう)になっているのはまだいいとしても、昆虫の家が insect house (insectarium という英語があるし、別の標示ではそうなっている)とあるのを読んだアメリカ人は何を考えるだろうか。ドアを開けると蜘蛛の巣が顔に引っ掛かり、足元ではバッタがチャールストンを踊っている家?
 謎めいたものもある。信越線(※現在は、しなの鉄道)小諸駅から見てちょうど正面にある天ぷら屋。ここの揚げ饅頭は絶品なのだが、その話ではない。店のメニューが入口に掲げてある。どこが謎かというと、値段を見ると他の店ではありえないことが書かれている。天ぷらうどん=三百円、天ぷらそば=六百円。もしかすると、これは罠なのかもしれない。倍も違うとなると「何かある」と誰しも思う。そしてまんまと高い方のそばを食べてしまう、という狙いだってありうる。私は三百円の方は試してみたけれど、かき揚げの入った普通のうどんであった。奸計にかかるまいと、いまだそばの方は食べていないけれども、やはり変に気になる。今度行くときっと食べてしまうに違いない。今は昔となった軽井沢の九千九百円の珈琲にしてもそうだが、長野県はさすがに商売上手だ。
 

[33年後の注釈]

1) 街のヘンなものを撮影した別冊宝島のVOWシリーズによほど投稿しようと思った。たとえば「猫山宮尾医院」。これは新潟大学医学部の近くにある。テレビで珍百景として取り上げられたこともある。猫がミャオじゃなくて、何故か看板はパンダの絵。それと大学近くの回転寿司の求人広告。「回る寿司職人募集!」というのがありました。自転しながら寿司を握る職人がいるのか、と考えてしまう。正直村の野菜クッキーは今でも他県にある。
2) 三国峠を越えてから信号のない区間が三十キロは続くためか、久しぶりに見る信号に驚く前に、まず道路の凹凸ハンプで予告してから「目をさませ」が現れる。ハンプは英語で sleeping policeman と言うそうだ。パトカーも露骨だが、「子供の飛び出し注意」の看板は園児の絵が描かれていることが多い。どういうわけか笑顔で、これには不満がある。園児の方にも緊張感をもって頂きたいですね。
3) 枝折峠は奥只見湖を反時計回りに進むコースで道が狭く危険なところが多い。だが銀山平から時計回りに進むコースは距離にして40キロも遠回り。どちらも新潟から尾瀬に行くときに利用する街道。
4) 南イリノイ大学新潟校は1988年に開校して2007年に惜しまれることなく閉鎖。地方の大学には不似合いな高級車やスポーツカーが学生駐車場にあって、裕福だが余り考えることの好きではない学生が集まっていたのか、と訝んだ。
5)虫の家は馬場金太郎先生の個人コレクション。昆虫標本の博物館。黒川病院の精神科医だった先生は、電気ショック療法を国内で初めて使用したことでも知られる。標本コレクションもショック療法も凄いんだけど、金太郎という実名に初めてお目にかかった。ラジオ講座「科学者と故郷」を担当したときに取り上げさせて頂いた。
6) 小諸の揚げ饅頭の天ぷらや「亀や」で場所は変わって駅を背にして左側に移ったけれど現在も営業している。驚いたのは、ネットで確認したら、天ぷらそば六百円に対して、天ぷらうどん五百円!33年の間にそばは値上げしていなかったし、やはりうどんの方は百円安い。
7)軽井沢の高額珈琲は旧軽の茜屋。今ではこのメニューはないが敷居の高さを感じる店だ。「おいしいぐれーぷじゅーす」とか強気の表現が弱気の自分には合わない感じだ。近辺のドイツソーセージの店のレバーパテは好物だったが閉店した。長野県は商売上手だけれど、垢抜けていてセンスの良い店が多い、と補足しておこう。
 

第17話 毒殺未遂か?

 うむっ、この味はどうしたことだ!「美味しんぼ」の中の台詞ではない。ある昼下がりに台所で、紅茶を飲んだときのこと。何か殺虫剤のような、世の末を思わせる激烈な味がする。思い出してみよう。帰ってきて戸を閉め、台所に直行して湯を沸かし、例のごとくバッハを弾いた後、中身が半ば化石となったポットにクレンザーをかけてごしごし洗い、ドライヤーで乾かして新宿の高野で買ったダージリンの葉を小匙で四杯。妹の亭主の兄貴が焼いてくれた陶製カップに熱湯を注いで温めておき、面倒くさがらずにもう一度沸騰させてからポットに五百cc入れたところまで別段いつもと変わらない。
 もれ出てくる葉を茶漉を通して、カップに注ぐ。おお、麗しきひとときよ!幸福感に満ちて一口飲んだところに、地獄の責め苦が待っていたわけだ。一体どうしたわけだろう。毒薬?ありうることだ。紅茶を調べてみよう。艶がよく縒りの大きい特選ダージリンの葉も匂いも異常は見られない。買ってから一度も封を開けてないことだし。それじゃ、ポットか?前に飲んだ時のカスの中で、特殊な毒性細菌が発生したのかもしれない。まだかなり残っている。うん?普通の匂いだ。おそるおそる他のカップに注いでなめてみる。うむ、平気。
 じゃ一体全体…そうか、私がいつも使っているカップの内側に誰かが毒液を塗ったと考えるとつじつまが合う。私の行動パターンを熟知したやつだ。あまり人から恨まれるようなことをした覚えはないが、友人Iには思い当たることがある。彼宛の年賀状を書いているときに、何か用事ができ「様」の一文字を落としたまま出してしまったことがあるからだ。彼は大層怒っていて「恋文の件ばらしてやるからな」と脅しの電話をかけてきた。その恋文というのは、中学時代に私が韻文調の恋文をある女子学生の鞄に入れようとして、間違って彼の鞄に入れてしまったものであり、それ以来、このことでIから何度かゆすられた。でも、あいつは今東京にいるわけだし。無理な話だ。
 侵入経路はどうだろう。風呂場か?なるほど、十センチばかり開いているし、二十センチ間隔で微かな泥の跡。指が四本?…猫が犯人てことはないだろう。とまれ、まともな紅茶を入れてもう一度考え直してみよう。さっきと同じようにして、カップは洗いたてのものを出して、と。新たに入れた紅茶を右手に持って、と。茶漉しはどこかな。うっ!分かりましたよ、原因が。茶漉し置きと間違えて灰皿の上に載せていたのか。何ともまあつまらない結末だ。
 この話を翌日、科学的な推理の実例として学生に紹介したのだが、後から一人の学生がやってきて質問された。「もしかしてその話、先生がトロいだけのことではないんですか?」。裸の王様を見て、はっきりと裸だと指摘できた少年の話のように、真実を愛する行為をどうして誉めないでいられようか。素直に認めました。
 

[33年後の注釈]

1)「美味しんぼ」はまだ連載開始(1983年)から6年ほど。全く知らず坂井健君に知らないことを驚かれ、それ以来欠かさず単行本で読んだ。原作者の雁屋哲は14歳上で東大教養学科の出身。花咲あきらの絵は最初、眼がでかくてとっつきが悪かったが、世の中そんな相貌の人も結構いるので慣れてしまった。
2)この頃、紅茶は新宿高野で買っていた。「モーニングアッサム」が一番好きだった。ダージリンは独特の香りがあって、何故か私の胃腸と相性が良くない。
3) 妹の亭主とは、下の妹・光映の連れ合いの当時劇団民藝の俳優、矢野勇生のことで、広島県の呉市に陶芸家の兄、矢野国夫さんがいる。今では二人とも故人。国夫さんには1992年の結婚記念品のカップを焼いてもらった。
4) 結末は確かにくだらないが、ニコチンとタールを含むこの毒入り紅茶はもの凄い味だったことは確かである。この頃はキャスター・マイルドを吸っていた。子供が生まれた1994年に禁煙して現在にいたる。途中、たまらなくなると山内さんからもらい煙草をしていた。
5)年賀状の宛て名に「様」を書き忘れた相手は、中学時代の友人・石井恒司。なんだかんだいって、一番つきあいの長い悪友。悪巧みや狡賢いことのあれこれを伝授された。弱みを握られ、高校から大学までは彼のレポートを押しつけられ、もう時効だから言うけれど、替え玉で期末試験を受けたこともあった。成績が良過ぎてばれたと言っていた。当たり前ですよ。石井の良いところは、肩書や経歴をまったく意に介さないこと。だから「お前、ガリ勉じゃなくて、本当に好きで勉強してるんだな」と滅多に誉めない彼が彼流の誉め方をしてくれたときは嬉しかった。私生活では私の四倍多く結婚し、子供も四倍くらいいる。老後も働いている感心な奴だ。共通の中学以来の友人・狩野真一は2015年に咽頭癌で逝去。狩野が横浜マリノスの社長をしていたことは死後に知った。
6)ニセ恋文はよく書いた。中一の時が最初で十円玉大の禿のある柳沢君に、大島って女子からだということで、ありったけの美辞を並べて書き、オマケに香水を振りかけて鞄にしのばせた。発覚後に散々叱られた。南方熊楠がアメリカでの放浪時代サーカスに属して、多国籍の仲間のために恋文を多言語で代筆した話を後に読んで、まんざら悪いことではなかった、と今は懐かしく思い出す。
7)私のことをトロいと言った学生は一倉忍という前橋出身の女子学生。二代目のゼミ生で、彼女は酔っぱらうと誰彼かまわずにプロポーズするという悪癖があった。
 

第18話 電話あれこれ

 電話は現代生活に欠かせない道具である。それは認めています。でも、人にもよるのだろうけど、私の場合、電話の鳴る音は悪魔のつぶやく呪詛の言葉のように不吉な響きをもっている。これまであまり良い思い出がなかった、ということもあるけど、A・G・ベルの発明したこの文明の利器からこれまで私の受けた損害は、計り知れないものとなっている。
 まずは長電話。女に限ったものではない。いい年をした男が「寂しくない?」などと脆弱な声色で丑三つ時にかけてくる。付き合いも長いことだし、それに、季節によって弱きになることだってあるし、こちらが不機嫌に応答したばっかりに、あらぬことを考え出すやもしれない。だから、大抵はどんな愚痴でも聞くことにしている。「十七回目のプロボーズを振られたんだけど、おれ、そんなに魅力がないのかなあ」(どう考えたって多過ぎますね)。「育毛剤使うのと、男性用かつらとどっちがいいと思う?」(男らしく堂々と磨きを入れとけよ)。「最近、笑えないんだよね」(鏡を見て練習したら?アランがそんなこと書いている)、とまあそれなりに真剣に対応しているわけだが、ある事件があってからというもの、もう長電話はしまいと固い決意をした。
 かかってきたのは、午前零時。鍋焼きうどんを食べていたから、きっと冬のことだったと思う。この瞬間何人かの顔が浮かぶが、思いもよらぬ友人からであった。現在は長崎に居てやはり私と似たような仕事をしている彼は、そのとき、明らかにぐちをこぼすために私を呼び出したわけではなかった。「夜分すまないんだが、どうしても解決できなくて眠ることができない問題がある。君の所見を聞きたい」と、出だしは尋常なものであったと記憶している。けれども、その問題が問題であった。「いいかい、縄文時代の人がですよ、初めて海を見たとき、なんて言ったと思う?」。彼の意見では「うっ!」と唸ったのだという。それが後に訛って「うみ」なった云々、というもの凄い説なのだ。私たちが結論を出すのは尚早だと、互いに認め合ったのは午前の八時!延々八時間も海辺の縄文人を想像しながら、議論を交わしたわけである。立ち直るまで一週間はかかった。
 間違い電話も困る。間違ってかかってくるのが困るのではなく、その度ごとに未知の人と友達になってしまうからである。相手の回した番号が違っていることを教えたのに、次の日もまたかかってきたりする。そのうち、最初からこちらを呼び出したり。散々喋りまくった揚げ句に「あなたも暇ですね」など失礼なことを言う。
 以上の理由から最近は、留守番電話の世話になっている。常にオンの状態だから、録音の声を聞いてから慌てて出ることもある。相手も知っているらしく「観念して出たまえ、君のいることは分かっている」とテープレコーダーに向かった怒鳴った友達もいた。
 

[33年後の注釈]

1)携帯を利用するようになる十年前の話。この電話機はアレキサンダー・ウィルバーフォースから譲り受けたもの(正確には買った)。アレックは幼なじみの中野葉子(今は早大で英文学を教えているが、互いの母親が友人で、中高と学校が同じ)の最初の亭主なのだが、カンタベリー大司教ウィルバーフォース卿の玄孫で貴族。実家は石造りの大邸宅で部屋が百以上あると言っていた。その四年前には妹のソファイアが来日して一月ほど面倒を見た。
2)ベルの発明は数時間差でグレイとの特許申請の競争に勝ったことで歴史に残った。昭和三十~四十年代は課金システムが完備しておらず、十円で何時間でもかけられた。朝日新聞連載のサザエさんでは、煙草屋の店先の赤電話でサザエさんが長電話して、待ち人をイラつかせる話があった。女性コンビの「ピンクの電話」は営業用に実在したのピンクの電話による。テレフォンカードが普及し、緑の電話になり、やがて携帯の普及に伴い公衆電話はしだいに姿を消していく。怪しいチラシが貼り付けてあった電話ボックスが懐かしい。
3)プロポーズをしまくったのは故金森修氏。フランスに留学する際に妻帯していると条件が良くなるということで、毎日のようにしていた(被害者?の一人から聞いた話)。結局帰国後に無事結婚した。結婚式でお祝いに自作の「結んでひらいて変奏曲」を弾いたのは、この連載の始まる少し前だった。
4)言語の起源に関する長電話は、どうも記憶がごっちゃになっていたようです。新潟に赴任する前年に先輩の河本英夫さんとの会話。後でなぜ切らなかったかという話になったら、「君の精神状態が危険だったので、何とか話を切らさないようにしていた」そうで、ずい分と心配をかけてしまった。河本さんと、九州大に行った吉岡斉さんと三人で尾瀬に行ったことがあって、ふだん話すことのない吉岡さんに何故誘ったのか聞いたところ、「一人で行くと何かと危険だから」という返事が返ってきた。保険のために呼ばれたのかと、その時は思った。河本さんは燧ケ岳登頂後に駆けって最終バスで帰り、私は足を痛めたこともあって吉岡さんと山小屋に宿泊した。「何かと危険だった」のは私の方でご迷惑をかけた。先輩には恵まれていた。南山大学に行った横山輝雄さんには、さんざんイジられたけど(今なら虐めと言うんだろうけど)、今は良い思い出。
5)アランは楽しいから笑顔になるのではなく、笑顔になることで楽しくなる、という考えの持主。アラン著作集はこの頃大人買いしたので、初めの方は読んでいた。
6)こちらが間違えて、それがきっかけで知り合いになったこともある。大学教養部で同クラスだった医学部に進学した古江君に電話したら番号が違っていたが、その相手が鹿児島で彼と同窓だった、という偶然。
 

第19話 佐渡へ論理学を教えに

 三年前から佐渡によく行くようになった。金井にある看護学校に年間十回ほど論理学を教えるために通うからだ。論理学というと、何か難しい印象を抱く人も多かろうけれども、本当のことを言えば、われわれが共通にもっている判断力が前提になって初めて成り立つ学問なのだから、ありていに言えば、理屈の正しい使い方を教えているにすぎない。しかし、果たして私の知っている論理が正しいと誰が言えよう。ときどき悩むことがある。
いつだったか、アキレスと亀の話をした。せっかく佐渡に来ているのだから、アキレスの代わりにジェットフォイル、亀の代わりにフェリーと置き換えて、古代ギリシャのパラドックスを説明した。フェリーが先に出発します。四十分遅れてジェットが追いかける。さて、フェリーに追いつくことはできるでしょうか?ジェットが追いかけ始めたときにフェリーがいた海上の場所にたどりつくと、その間にフェリーは先に進んでいます。さらに、その進んだ分ジェットが進むと、またまたフェリーは先にいることになって、いつまでも抜くことはできないのです。
 ここらで、変なことを言ってるな、という顔がちらつくはずなのだが、誰も不思議に思ってくれない。だってねえ、実際、ジェットは追い抜くんですよ。船内アナウンスで教えてくれるでしょ?それでも、皆、私が黒板に書いた詭弁をおかしいと思ってくれない。これでは、ジェットどころか私の授業が先に進めないのではないか。と思った矢先、そうか、佐渡には佐渡の論理があるのだと、電光のごとく理解した気持ちになった。彼らが正しいのである。私は時間の関係でジェットに乗ることが多いのだが、観光で行くならフェリーの方がはるかに楽しい。ジェットだと五千円以上(現在6900円)払っているという緊張感に加えて、狭い座席のためぐっすり眠れない。結局、一時間が二時間以上に感じてしまう。ところがフェリーとなると移動は自由だし、涼風に髪をなびかせながら甲板でビールを飲んで気持ちよくなってから、毛布にくるまって寝てしまう。到着の鐘が鳴ると「もう着いたのか」と思うほど熟睡している。だから、二時間二十分が一時間以下に感じるのである。そう。だから、フェリーの方が実は速いということを彼らは知っていて、ゼノンの屁理屈を素直に受け入れたのである。私の方が論理を教えてもらったわけだ。
 初めの学年のときうっかり口を滑らせたために、学生の手相を見ることになってしまい、それが慣行になっている。どう考えても、佐渡に論理学を教えに行って手相を見るというのは看板に偽りがあるようで申し訳ない。しかし、このような私のちぐはぐな一面は手相に表れていて、私の右手の知能線は運命線と交差するあたりから大きく二股に割れている。ものの本によれば「互いに相いれない二つの才能が伸び悩んでいる」ことになるらしいのだが、そんな立派な解釈よりも、今述べたごとく、気まぐれで統一のとれていない人間であることの証左として方が私にはふさわしい。
 

[33年後の注釈]

1)佐渡は今でも行っている。この記事を書いた頃は学生と年も近く、一緒にカレーを作ったり散歩したり、よく遊んでいた。同僚だった社会心理学の石郷岡教授に頼まれて始めたのだが、今度は私の方から若手の哲学の先生方にお願いするとにべもなく断られた。「佐渡ですかあ」と相手にされない。金曜に行くときが多く、本土に帰る看護学生とフェリーが同じになるときは、もう一人の公衆衛生学を教えに来ていた宮西邦夫先生とともに宴会になった。遊びに行っていたようなものか。
2)アキレスと亀の話を不思議に思わない学生は、要は、言われるがままに受け入れる従順さをもっているけれど、この後しばらくは(そして現在でも一部は)この話を始めると寝始めるようになった。往復六時間かけて寝顔を見るだけでは切ないので、若い子が興味をもてる映像資料を見るようにしている。猫島の一日、恋愛講座、チャップリン名演集、チャングムの誓いベスト場面、お笑いセレクション、ミステリー・ゾーン傑作選、ヒッチコック劇場、レオナルドの生涯などなど。
3)手相は高校時代に昼は高校にパンを売りに来ていて、夜は手相見をしているオジサンに余りものを買うことを条件にして手相の基礎を教えてもらった。あまり当てにはならないけれど、大体にして手相を見てくれという学生ほど、何を言っても「どうして分かるんですか!」と驚いてくれるので、調子に乗って今でもときどき見ているので、のべにすると数百人の手のしわを拝んだ計算になる。そう言えば、同僚だった山内志朗さんはもっと専門的に見ることができたし、先輩の河本さんも飲み屋の姐さんの手相をよく見ていた。

第20話 猫を飼う

 今ごろポンはどうしているのだろう。ロキはまだ生きているのか。冬がくるといつも思い出す。尻尾の先まで真っ黒の子猫がわが家の玄関先に運ばれてきたのは、四年も前のこと。「飼っていた人が捨てていったの」と知り合いの子は言う。冗談じゃない。なんで私が引き受けねばならないの?大体、ひとたび情けをかけてやった相手を裏切るなんてひどい話じゃないか。よし、分かった。子猫を置き去りにした卑怯なやつのところまで、車で追っかけてやろう。「だって、関西に引っ越したんだよ」。うむむ。そうだね。はい、どうもって受け取るわけないか。とにかく何とかしなきゃ。思い当たる人に電話をかけまくった。暮れの忙しい時期でもあるし、乗り気の返事はなし。結局、安住の地が見つかるまで、家に置くことにした。とは言っても、生後一月くらいだろうからミルクが必要になる。冷蔵庫にあることはあるが、何しろいつのものか分からない。当たったりしたら気の毒だ。それに、トイレも作らないと。勉強どころじゃなくなった。
 しばらくたって、とうとうもらい手が見つからず同居することになった黒猫に、私はロキと名をつけた。ロキは私を家族と信じるようになり、私のひざは彼女の瞑想の場となった。そう、まぎれもなく「彼女」であることが、次第に私の脳裏にさまざまな将来の困難を思い浮かばせるようになっていたのである。いいか、ロキ、品の悪い近所の雄猫とつきあったりするなよ。お前はまだ独身でいいんだ。猫の平均結婚年齢も最近では上がっているって言うじゃないか。
 私の懇願はあっさりと無視された。花見の客が出始める季節になると、ロキのお腹は今にもはち切れそうになったからだ。あいつの仕業だな。私の留守に風呂場で逢引きしては、ロキの餌を食い散らしていく行儀の悪い白猫を見かけたことがある。連休明けのさわやかな休日、ロキは四匹の子猫を産んだ。やっぱり、あの野郎だ。メンデル修道士の教えた通り、白三匹(一匹は死産)に黒一匹。幸い白猫のソルとモンは神田さんという猫好きの女子学生が連れていってくれたが、私の元にはロキとポンの黒猫母子家庭が残った。
 その後、二度目にお産を控えたロキは、学生が、留守中私から依頼されて病院に運ぶ途中に逃げて行方不明となったが、ロキと見紛うほどそっくり生き写しのポンが生後半年で老獪な虎猫に見初められ、不義の子を産む段になったとき、私は恐ろしいネズミ算の成立する自然世界を心から恨んだ。ポンが産んだ虎猫モグとムクは、動物を愛する心根の優しい人である山田さんが引き取ってくれたから、再び、ポンとの共同生活が始まったのだが、そう長くは続かなかった。
 血筋というものがあるのかどうか、ポンは瞬く間に新しい恋人を作り五ヶ月後にはらみ、風呂場から母親の後を追うように失踪した。心残りなのは、その直前に喧嘩したことだ。ポン、本当に怒ったんじゃない。お前の無計画な猫生設計を案じて言っただけなんだ。いつでも戻れるように風呂場の窓は開けてあるから。
 

[33年後の注釈]

1)最初にロキを連れてきたのは綾ちゃん。天涯孤独の不遇の子で、仕事と住処を見つけるまで暫く預かっていた。近くのアパートを借りて、使わなくなった私の炬燵や布団を運び入れ、食器をいくつか付けてやり、さらに蒲鉾工場のバイトを見つけあげて、何とか独り立ちさせたが、寂しくなるとよく遊びにきていた。やがて割烹の料理人と仲良くなって、挨拶に来てからはほとんど会っていない。元気かなあ、信じられないくらい人を疑わない子で、子猫を拾ったときも、私なら必ずなんとかしてくれると思っていたらしい。自分の人生で精一杯なのに、ロキを飼うようになると、責任を感じてか餌をもってやってきた。一度だけ、こんなことがあった。あるひどく雪の降る晩に、仕事からの帰路一キロほど自宅まで歩いてくると、傘をもって踊っている姿があった。綾ちゃんだった。「だって、井山さん、傘ささないでしょ」。結構遅かったから、雪のなか道の途中で何時間も待っていてくれたのだ。「風邪弾くじゃないか、それに大学までくればいいのに」と言うと、行き違いになると困るから、と。その綾ちゃんは、もうすぐ還暦だ。会えたら、ロキの話を存分にしたい。
2)避妊を考えるべきだ、と今なら分かる。キャッツフード買うくらいしか知恵がなかった。部屋は三部屋あったので、二階の客間は住処が決まるまで綾ちゃんに譲り、洋間が私のベッド付の書斎、和室の居間が猫の部屋。台所にピアノがあった。猫がいなくなってから、グランドピアノにかえた。
3)神田さんは隣の貸家にルームシェアの二人の学生と一緒に住んでいて、卒業するまでソルとモンの面倒をみて、後に実家に連れていった。ときおり近況報告をしてくれた。今なら画像とか送ってくれただろうけれど。モグとムクをもらってくれた山田さんは明治生命の保険勧誘で訪問を受けて知り合いになった。ずっと大事に育ててくれた。考えてみたら、同僚の(朝日連峰を一緒に縦走した)児玉憲明さんは猫好きでこの頃数匹飼っていたのだから、今思えば相談すべき相手であった。
4)最後のポンとの別れの場面は、今読んでみると「セロ弾きのゴーシュ」の最終場面でカッコウに詫びる台詞がよみがえってくる。宮澤賢治は弟の清六さんの回顧によると「兄は猫が嫌い」だったようで、ゴーシュも猫にはひどい仕打ちをしている。猫の舌でマッチを擦ったり、さんざん悪態をついていた。

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