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遊び感覚 26~30話

第26話 情動的価値

 かつて大英博物館の図書室の一隅で思索と読書に耽っていたユダヤ人がいて、ものには使用価値とか交換価値とか、さまざまな価値のあることを説いたそうだ。大学紛争後の世代とはいえ、私の学生時代には、この著名な哲学者の書物を読みあさる遺風がまだあった。喫茶店で「資本論」の読書会をしているころ、ものには何をもってしても換えることのできない情動的価値があると言い張ったことがある。今にしてみれば、知識も判断力も碌に備わっていない、ただ若いがゆえの自恃の心から発したものであったように思われるのだが、齢を重ねるにつれて、純粋無比の感動を味わうことのできた青年時代のこの主張への確信をますます強めている。

 倉本聰のテレビドラマ「北の国から」の中で、純がトラックに乗って上京するくだりがある。古尾谷雅人扮するトラック運転手が助手席の純に一万円札を押しつける。それは純の父親が運賃がわりに渡したものなのだが、彼は父親の野良仕事の代価である土にまみれたその札を「とても受け取れない」といって純の手に握らせる。純は父親の汗のしみこんだその紙幣に日付を書き込み、お守りがわりに財布の奥にしまいこむ、という筋立てだ。

 私にも少し似た体験がある。大阪の伯母から昔もらった五百円札のこと。正確に言えば母の従兄の妻にあたる人だから、伯母というのも変なのだが、実際そう呼んでいた。当時伯父は棟割り長屋の向いの風呂場を改造して、煎餅焼きの商売をしていたのだが、暮らし向きは芳しいものではなく、伯母は家事のかたわら割り箸を袋に入れる内職をしていた。子供らしい無邪気さから、その仕事がいかほどの収入をもたらすものか私は伯母に尋ねた。「一本二円」という返事が忙(せわ)しく手を動かしている伯母から返ってきた。

 その数年後のことである。上京した伯母が久しぶりに会った私に「父ちゃんに見つかると怒られるから」と言いながら、手元を隠すようにして五百円の小遣いをくれた。二十年前のことながら鮮やかに記憶している。その時から今日にいたるまで、とうとう私はその五百円札を使うことができずにいる。二百五十本の割り箸に相当する一枚の古ぼけた札は、あらゆるものとの交換を拒みながら、今なおありし日の伯母の姿を偲ばせてくれるからである。

 とまあ、気恥ずかしい私事を書きつらねてしまったが、本来ならばその恵み深き意図を汲みとって大事に使って然るべき奨学金の方は、私は湯水のように浪費した。当時自宅生には六千円支給されたが、半分学費に当て、残りは大抵、渋谷の柳小路というシェークスピア学者が出没することで有名なパチンコ屋の露と消えた。たまに打ち止めにすることもあって、交換所のカウンターにドル箱を抱えてもって行くと、いつも空虚な気持ちにとらわれた。

本当を言うと、玉の方が欲しいのだ。苦労して溜めたのだし、毎日手で触っては勝利の日の感激を呼び戻すことができるではないか。若い頃口にした、ものの情動的価値とは、その程度の意味だったらしい。 

[33年後の注釈]

1)       マルクスの座席の話は昔コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を読んだときに知った。ウィルソンはマルクスの指定席で万巻の書物を閲覧して最初の著書を書いたらしい。1974年に大学に入ると、喫茶店や学生アパートで頻繁に読書会が開かれていて、マルクス、サルトルに人気があった。まだ野田秀樹が駒場寮で「夢の遊眠社」の芝居を木戸銭五百円で興行していた時代に、寮の生協側の一室が「桑の実」と書かれた民青の事務所だった。読書会でオルグされ知らない間に、主(ぬし)のようなおっさん学生と握手を交わし代議員になってしまった。ウブだった頃。それでもノンポリの読書会があって、ほぼ毎週カフェZiZiや渋谷のランブルに集まった。

2)       情動的価値 emotional value は余り良い造語とは思わない。クランストンの自由論に出てくる言葉の「情意的意味」と「記述的意味」と絡めたのか。何かと交換しなくとも存在する価値は「かけがえのない価値」と言うのだから、他にも言いようはあったろうに。でも、いまこうして考えてみても浮かんでこない。他には衒示的価値はあるだろう。「どうだ!」って見せびらかす場合の。私の場合は子供の頃の牛乳の蓋のコレクションがそれだった。よくよく考えてみると虚しい価値だ。

3)       ドラマ「北の国」には印象的なシーンがたくさんある。純の初恋のひと大里れいと雪の無人小屋で過ごす、尾崎豊の I Love Youが流れるシーンとか。純が受け取った一万円札はまだ聖徳太子のお札の時代。伯母からもらった五百円札は岩倉具視で、まだ流通していた百円札は板垣退助だった。どこか探せばとってあると思う。それよりも私の中学生時代までは百円玉(鳳凰の柄の)は銀貨だった。

4)       天王寺の伯父の家に万博の年の家族で泊まった。六畳に六人寝て窮屈だったことと、向いの風呂場兼仕事場で煎餅を焼かせてもらったことが良い思い出。

5)       奨学金は九年間ずっと自宅生の額を支給された。学部で六千円、修士課程で四万三千円、博士課程で五万六千円。記憶は定かでない。これと家庭教師と塾のバイトで学費・食費はすべて親から独立できた。大学院に通ってからは世田谷区用賀の都営アパートに独居していた母方の祖母の同居し四年暮らした。

6)       パチンコに費やした時間とお金は今からするともったいないことをしたと後悔する。途中から電動式が普及してからは興味を失った。柳小路でよく見かけたシェークスピア学者は小田島雄志先生。禿げちゃびんのおっさんで、いつも負けていた。 

第27話 マッチ売りの少女を探す

  マッチ売りの少女を探しに旅に出たことがある。夢を語らせると途轍もなく能弁になる、バシュラールという哲学者の研究会をしていたときの話。ちょうど「火の精神分析」を読んでいる最中だった。唐突に、私は、どこかにマッチ売りの少女がいるんじゃないか、と切り出した。荒唐無稽だなどと味気のないことをいう奴は、もとよりその会合にいるはずはない。誰もが、その存在を微塵も疑わずに、寒い季節に出るんじゃないかとか、ダフ屋のように背後から忍び寄ってくるのではないかとか、東北地方にいるに違いないなどと、あらんかぎりの空想を通わせては、架空のカンバスにめいめい彩りを加えていった。

 その晩、私は一人、別役実の戯曲をオーバーのポケットにねじこみ、上野駅に駆け込んだ。他の連中は、現実生活のしがらみに阻まれ「俺たちの分も頼む」と言って、都会の夕暮れ時の雑踏の中に消えていた。深夜、米沢の駅で下車し、ハンチングハットを目深にかぶって、降りしきる雪の中をさまよった。こんな時間に牛丼が食べられるはずはない。満腹になって一服というときに、「マッチ一本要りませんか」と氷のように透き通った眼をした少女が、こわごわ近寄ってくるという筋書きだったのだが、当てが外れてしまった。それに、米沢は町の中心と駅とが離れていて、サウナに泊まる予定が狂ってしまった。駅に戻って始発を待つ。

 翌日、天童駅に着いたときは、アザラシの牙のような氷柱が垂れ下がる町並みの上空には、二月の東北には珍しいあっけらかんとした蒼穹が広がっていた。天童は将棋の駒の産地。火は禁物の土地だ。あっさり諦めて湯に浸かり、次の特急で秋田へ出る。ここには野鳥の会のメンバーでありながらも、林野庁の仕事で木を伐っているという矛盾に満ちた友人Tがいる。比内鶏の出汁で煮たキリタンポを馳走になりながら、私は旅の目的を告げた。そうね、と彼は銘酒飛良泉(ひらいずみ)の冷酒を啜って答える。俺が来たての頃、川端界隈に出没した形跡がある、そう、路地裏に謎の燃えさしが落ちているのをこの眼で見たんだ。だが最近は聞かないな。もっと、北にいるのかもしれない。

 私は弘前に向かった。雪灯籠のあえかな光にねぷたの絵柄がぼんやりと浮かび上がる、美しい祭りの日であった。折しも頬を紅に染めた女学生たちが嬌声を上げて甘酒売りめざし駆け寄って行く。うん、あの娘はもしかして? 私は立ちすくんだ。どこかしら「罪と罰」のソーニャを思わせる翳りと祈りのまじり合う細面(ほそおもて)の少女が、ポケットからマッチを取り出したではないか!弘前のソーニャは、あの夢想のひとときを淡い赤燐の光で満たしてくれるだろうか。

 少女は指にはさんだハイライトに火をつけ、笑いさざめく周囲に紫煙を吹きかけ、自分も笑った。二十歳まで待てないのは分かるが、せめて露西亜煙草 SOBRANIEを吸って欲しかった。 

[33年後の注釈]

1)       事実と虚構をまぜこぜにして遊んでいる。バシュラール研究会のメンバーは、故金森修、岸田俊子、河本英夫と私の四人で金森、岸田さんは、比較文化の博士課程、河本英夫さんは科学史科学基礎論専攻の私と同じ博士課程の二年先輩だった。マッチ売りの少女実在説は金森氏のもの。ここまでは事実で、その日のうちに旅に出たのは虚構。だいぶ先に一人旅に出たときの話とミックス。新聞掲載時には色々と文句を言われた。真面目な読者が真に受けて「マッチ売りの少女探し」に行くかもしれないだろ、と。まあそれでもいいじゃないか、と思ってはいたけれど。

2)       米沢からは秋田へ出て林野庁の役人の田中康久の家に宿泊。田中は教養部一年に同クラス。麻雀友達。甲武信岳を一緒に登った。農学部時代に大学院の試験勉強で御代田の山荘に居候していた。後に農水省の役人になって結婚した相手が佐久市岩村田出身の同僚で、夏休みはよく遊びに来た。野鳥の愛好家で飛翔の恰好を見て識別できた。当時は営林署勤務で秋田に居たので、旧交を温めることになった。弘前でも大学の語学クラスの友人山下智彦を訪れた。犬と狸を飼っていて、迎えてくれた車の助手席は犬の指定席だった。この時は弘前大学医学部の学生。山下の経歴は十分に小説になる逸品だ。寿司屋でバイトして職人なみの腕前(自宅で握ってくれたこともある)、東大理科二類(この時一緒だった)から理科三類を何度か受け直し(父親が医師)、結果的には弘前大医学部に進学するが、卒業間際に人文学部に移籍、教会で知り合った女性と結婚、チベットに修業に行き、一時家族で東京の私の(新潟に移って空いた)アパートで暮らしていた。初めて彼の桜上水の実家に招かれたときに、シューベルトの交響曲九番グレートを聞かせてくれた。その間(当然ながら)一言もしゃべらず瞑目していた。読書会を主宰していて、武者小路実篤やボーボワールが今でも記憶に残っている。

3)       旅行でかぶったハンチングハットはこの旅行の帰路で網棚に置き忘れた。アイルランドの劇作家ブレンダン・ビーハンの「人質」という芝居に、女優の久保まづるかさんに誘われて、ハンチングハットにアイルランド国旗の柄のマフラーで売春宿のピアノ弾きの役を演じた時以来ずっとかぶっていたもの。

4)       立川談志が「粗忽長屋」で「熊公はかわいそうな奴なんだ、安寿と厨子王、マッチ売りの少女のつぎにかわいそうな奴なんだ」と語っていたのを思い出す。私はむしろ別役実の「マッチ売りの少女」の妖しく艶然と照らしだすマッチの灯火の方が印象的だ。こちらは実際にあっただろう、という暗いリアリティーがある。

5)       天童のアザラシの牙のような氷柱は写真が残っている。その氷柱の下の小さな店で当時としては高額の二万円の将棋の駒を購入した。

6)       秋田の飛良泉、山形の出羽桜、花娘、岩手の一の蔵、宮城の浦霞がお気に入りの日本酒。

7)       弘前の雪灯籠祭りは二月だったか。ソーニャと思い込んだ女学生はこの後、津軽三味線のライブの飲み屋でもう一度目撃した。SOBRANIE は大学時代のお気に入りで新宿サブナードの煙草専門店で入手した。柄が黒く吸い口が金色のデザインが好きだった。もちろんソーニャが吸うわけない。 

第 28話 鍵をかけない理由

 どうして鍵をかけないの、とよく言われる。私にしてみれば、かける方が不思議なのだが、普通の人はきちんと錠を下ろしてから外出するそうだ。こうした違いが現れるのは、どうやら鍵を失くした時の被害と泥棒に入られた時の被害の大きさの見積もりの仕方が、私と他人とで大幅に異なっているかららしい。並の人間ならそう鍵を失くしたりしないし、家の中に盗難を恐れる大事なものが必ずあるから、迷わず鍵をかけることになる。ところが、私の場合、季節が変わるたびに鍵を一つは失くす習慣があるらしく、かなり苦労した経験がある。

 とにかく中に入らないと、と考え、かすかに開いている風呂場の窓を思い出すところまではいいが、土足で窓から入るその行為を通りすがりの人に見とがめられた時、「いえ、ここはぼくの家なんです」などと弁解するとかえって怪しまれることになり、困ってしまう。でも、盗人に侵入されることを考えたら、やはり、と誰でも言うのだが、わが家の場合はそんなことは決してない。泥棒を恋い焦がれるほど待ち望んでいるからだ。

 がらっと玄関のガラス戸を開けると、左手に黒ビニールの袋が三つほど積まれていて、こいつは早起きできずに溜まってしまった二週間分のゴミなのだが、エドガー・アラン・ポーを愛読するような推理力のある泥棒ならば「ここの主人は意外性を好むから、もしかするとこの中には貴重品を隠しているかもしれない」と訝しんで、ゴミ収集日でなくとも持っていってくれるかもしれない。

 階段を昇ると寝室があって、置き場所に苦しむ衣類がうず高く積もっているのだが、大部分は、私の近年の水平方向の成長に追いていけずに用なしとなったものばかりで、もしサイズが合うならぜひ持っていって頂きたいと思っている。「でも、泥棒ってお金になるものを選んで持っていくんでしょう?」。うむ。その通り。内証の話だけれど、靴箱の上に実は現金があるんだ。骸骨マークの袋に約二千円分の一円玉が入っている。でもね、盗むのはいいが、使い道に苦しむよ、彼は。レジかどこかで、どばっと一円玉の山を作ったとしよう。周囲の注目を浴びることになるだろ?すると「最近某氏宅で約二千円分の一円玉が盗まれた事件があったけれど、こいつが犯人なのか」とバレてしまうわけなんだ。

 電気製品はどうかというと、これも「遠慮なくどうぞ」ということになる。まずは冷蔵庫。冬にならないと効かないし、四六時中鼻がつまったような声を出してうるさい。他のものも似たりよったりだが、特に、炬燵を持っていってもらいたい。人の怠惰を誘うこの悪魔の暖房器具は、周囲を散らかし、鍋は黒こげにするからだ。

 とまあ、いつものことがら、くだくだ書いてきたけれど、先週になって私は、とうとう出がけに鍵をかけること決意した。手塚治虫全集を買うことになったからである。こればかりは全国の泥棒が狙っているような気がしてならない。 

[33年後の注釈]

1)       余りおおっぴらには言えないが、鍵をかけない習慣は33年後のいまも変わりはない。立川談志が泥棒に書いた手紙のことはいつも念頭にある。この家には金目のものはないけれど、あなたには価値はないが自分にとっては大事なものがあるので、どうか引っかき回すようなことをしないで、机の上のお詫びの金一封(二万円)をもって帰ってくれ、という内容。このアイディアは暫く実行してみたが、成果はなかった。

2)       それよりも一時期は十数本の鍵を持ち歩いたので、どの鍵が必要なのか分からないことが多かった。そのためすべて試してみることになり結構時間がかかった。風呂場から入ったことは数回ある。最近では二年前に鍵が壊れて裏のこっそり開けてある窓から侵入。泥棒のスリルを十分に味わった。

3)       ごみ袋が黒ビニールだった時代。いつからか透明になった。三鷹の井の頭公演に黒ビニール袋にばらばら死体が入っていた事件があって、その陰惨なイメージを払拭するため...ではないだろうけれど、弘兼憲史が廃棄した原稿を盗られるから嫌だと反論したのを覚えている。

4)       骸骨マークの革袋はディズニーランドで買った。最初で(おそらく最後の)ディズニーランドは学生三人を連れて町田の自宅に一泊してから訪れた。アトラクションの衝撃度とスポンサー企業の資本規模の相関が面白かった。そごうデパートのアトラクションは田舎の遊園地のようなのどかなものだったが、コカコーラボトリング主催のスペースマウンテンは並ぶ時間が長くなければもう一度乗ってみたかった。(現在の協賛企業は変わっているかもしれない)。今は大量の一円玉を使おうとすると手数料をとられると聞いた。

5)       冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ等々、どれも貰いものだった、ということもある。壊れた冷蔵庫はドアを外して表を部屋に向けて窓枠に固定して研究室のクーラーがわりに使ったりしたし、洗濯機の脱水槽は海浜のテトラポットでつかまえた海鼠の脱色に(たわしと一緒にして)利用し脱色した。炬燵が生活を怠惰にする、という話は「のだめカンタービレ」の、のだめのアパートの一件で見事に描かれている。千秋が捨ててしまう。

6)       手塚治虫全集は今でも宝物だ。現在、御代田の山荘の書庫に保管している。大学生協のツケで購入して、何年も支払いをしぶっていたが、結局分割払いで3年くらいかけて支払った。踏み倒したわけではない。 

第29話 出会いさまざま

 ともに露西亜文学を専攻する同僚の夫婦の家に最近招待された。ホストの粋な計らいで昭和三十年代生まれの独身者が六人ほど集まり、いつもの侘しい食卓とはわけが違う奥様手製の露西亜料理に舌鼓を打っていたのだが、私はふだんと打って変わって寡黙であった。どうやら一人がひどく人見知りしているらしく、防弾チョッキで身を固めたごとく打ち解けようとしない。初対面だから仕方ないのかもしれないし、この私の方こそ人見知りしているのかもしれない。けれども、ふさぎこんでしまったのは、これまで私の方から仕掛けて、初対面の人間を集めてしまうことが多かったことを思い出し、ちょっぴり反省していたからである。

 四年前に立山に行ったときほど、ややこしい人間を集めたことはなかった。新潟からは私と愛媛出身の学生山之内君、糸魚川の駅で寝て始発で室堂に向い、翌日、他の連中と合流したのだが、そのメンバーはアルバイト先の予備校で私と同じように机に腰かけて授業していたことで知り合った遠藤彰氏とその愛人、彼女と同じ声楽の先生に付く女生徒と、マレーシアで知り合った山口さんに、その山口さんと親しい韓国の尼さんと、その尼さんが日本で出会った台湾の尼僧という構成であった。通りすがりの登山客のほとんどが、われわれ一行を振り返ってはしげしげと見ていた。

 三年前の秋にも、やはり山行きのときだ。ラテン音楽を聴くために(スペイン語ではなく)ラテン語を勉強したという不思議な経歴をもつ坂井健君が、廊下で会う学生を無差別に誘って二人を参加させ、先に登場した山之内君がクラブの後輩を連れてきて、この私も音楽会で知遇を得た小瀧恵子女史を引っ張ってきて、新潟からは総勢七人。車で松本に向かい、民宿はにしな荘で、京都で編集の仕事をしている快男児平祐幸氏と、私が通いつめた世田谷区経堂の歯医者の助手をしている稲葉京子嬢の到着を待つ。翌朝、常念岳登山を果たし、表銀座を逆にたどって燕(つばくろ)岳経由で中房温泉に下山した。初日の快晴が嘘のような吹雪の中の縦走だった。

 やたらと人を寄せ集めたがる私の悪癖は、かなり昔から始まっていたように思う。義理の弟で俳優の矢野勇生さんが出演している「十七匹目のラクダ」という劇団民藝の芝居を、現在筑波大学でフランス語の教官をしている友人金森修氏と見たときの話。芝居がはねた後、酒杯を交わす予定であったのが、義弟が役者仲間とそれに加わり、観劇に来た私の教え子もくっついてきて、あろうことか私と同じ性癖の持主である父が加わった。結局、金森氏を実家に引っ張ってきて泊まらせる仕儀となったのだが、前夜の約束不履行をわびた私に対して、彼は同情するかのようにぼやいていた。俺は構わないよ。井山君のことを知っているから。でも、これでよく分かった。なにが分かったかって?君が女の子に嫌われるわけ。

 そう言われると、いつだったか二人だけで湘南海岸に行く予定が、いつのまにやら酔漢まじりの団体遠足になってしまったときのことを思い出す。犠牲者となった女友達がうつむいた顔から押し殺した声で「最低ね」と言った理由が分かるような気がするのだ。 

[33年後の注釈]

1)       露西亜文学専攻の同僚の夫婦。連載時は「おしどり夫婦」と書いたのだけれど、その後別れてしまい、どちらにも別々に会う機会があり、しかもどうやら二人とも私の tweet を読んでいる形跡があるため、ここでは名前を伏せることにした。夫君は東大の駒場時代に一年だけ同じキャンパスにいた。二人で演劇の授業を受け持ち、実際に劇場公演にまでこぎつける楽しい時代を過ごした。私の好きなJ.Cristian Bach のヴィオラ協奏曲をつきあってくれたこともある(彼はヴィオラ奏者)。

2)       独身六人の名前が思い出せない。これまでに登場した山内志朗さんもいた可能性が高い。奥様の手料理でカニを甲羅ごとすりこぎで潰して出汁をとったスープが忘れられない。

3)       立山登山に同行した山之内君は独身時代の旅行にほとんどつきあってくれた。彼が広島県庁に就職が決まったときは、トラックを借りて引っ越しの手伝いをした。なぜか今は歌人となった料理名人の大井学君が乗っていた。広島からの帰路は日本海沿いの一般道を進み、城崎温泉では温泉に浸かり、松本清張似のおばさんの焼鳥屋で一杯やってトラックの荷台で一泊、更に金沢では赤玉というおでん屋で夕食をとり、やはりトラックのなかで泊まった。あっ、立山登山の話だった。六年上の遠藤彰さんは三鷹の志学塾(塾長のスキャンダルが全国ニュースになったけど、刺激的で楽しい仲間のいるバイト先で四年間お世話になった)の講師仲間だが、丹沢の水無川の沢登りとか一緒に登山したり、演劇集団円や文学座の芝居を見て、新宿伊勢丹向かいの「どん底」で酒杯を傾けた良き先輩。当時は東工大の博士課程に在籍して後に物性研究所でレーザーの研究をした物理学者でもある。専門の話は一度もしたことがない。愛人を連れて御代田の山荘に来たこともある。声楽の女生徒は柳川の人で後の結婚式の日程が私の平成四年の結婚式と奇跡的にかぶったために遠藤さんに来てもらえなかった。尼さんたちは菜食主義のために下山後の富山での昼食では山菜料理屋に行ってもらい、残りは総曲輪の「すし栄」で富山湾の名物白海老などを堪能した。

4)       常念岳登山のメンバーは凄い組み合わせだった。坂井健君は既出。家猫のロキを世話してくれたり、美味しい店の情報で世話になったりした。現在は仏教大学で近代文学の教授。小瀧女史はピアノの先生で松本彰先生の家で知り合った。ピアノを二台もっているので、コンツェルトとか私の遊びにつきあって貰っていた。「私が《女史》で稲葉さんが《嬢》とは何ごとですか!」と後で抗議された。後で分かったけど東京の歯科で知り合った稲葉さんの方が小瀧さんよりも五つ年上だった。常念岳山頂でタラコスパゲッティーを作ろうとして失敗。今ならしない失敗だが、山頂は気圧が低いために沸点も低く乾麺は柔らかくならない。

5)       義弟の故矢野勇生さんは妹の元亭主。劇団民藝の女優久保まづるかさんと懇意で、それがきっかけで知り合った。この時は金森修さんと激論を交わしていたことは覚えている。消費税は払わない!一円一揆だ!と息巻いていた。(実際は3%)。金森修さんは東大比較文化の院生時代の友人で、その後、筑波大学、東京海洋大学などを経て東大の教育学部に移籍した。とにかくやたらと本を書く人で「井山君も遊ばないでもっと勉強したら」と何度も言われた。大腸ガンで亡くなる。惜しい人を亡くした。今でも忘れられないのは家に泊まったときに、君の家は家族仲が良くて羨ましいとしみじみ語っていたことだ。

6)       最低ね、と語った女友達は昔の教え子で、高校の時に父親のクラスにいた五歳下のノンちゃん。この後でお詫びに神代植物園に薔薇を見に行ったけど、もっと賑やかな方が良かったと訳の分からないことを言っていた。歯医者の娘で白いエナメルの靴を履いた歯医者と結婚して、すぐに別れた。今は老女だけど無事に生きているか心配だ。

第30話 子供が欲しい

 チャップリンの映画はどれも好きなものばかりだが「キッド」にはことのほか愛着がある。血がつながっているわけでもない、自ら選んで引き取ったわけでもない、天与の偶然を素直に受け入れ、子供を育てる浮浪者チャーリーの話だ。圧巻は二人して商売をする場面。わが子に石を投げさせて人家の窓を割り、頃合いよろしくチャーリーがガラスを背負って入れ代わり登場する。親が非行を勧めているようなものだ、と眉をしかめるPTA会長もいるかもしれない。けれども、そこには親と子という不可解な対立のない、生きる者の嘘のない共生の真実が描かれているように思う。

 子供を矯正すべき不完全な存在とは考えず、「星の王子さま」のように、必要に迫られ仕方なくそうあることを辞めてゆく、失われた恵み多き時代と見る夢想は、シューマンの音楽の中にも語られている。組曲「子供の情景」は演奏技術の劣った幼児向けのピアノ作品ではなく、子供の飽くなき夢想と、尊いまでに清純な視線を描いたものだ。篠山紀信が撮った一枚の写真「カラーシュ族の少女」にも一脈通じるところがある。

 こうしてみると、どうやら私は子供好きらしい。顔をくしゃくしゃにして、あばば、などと言うことは恥ずかしくてできないけれど、子供の打算のない執着や、実現性を顧みない空想には、わがことのように愛情と共感の情を通わせてしまう。子供がいたらいいな、と思うことさえある。ふだんは仕事とのからみで、読むことには禁欲的な童話をふんだんに読めるし、それも声色を変えながら読んで聞かせることはこの上ない楽しみとなるだろう。

 蟻さんは働きもので、せっせと食べ物をたくわえ、キリギリスは怠けて歌ってばかりいました。冬になってお腹の減ったキリギリスは蟻さんを訪れて物乞いをしました。蟻さんは、それみたことかあざ笑い、何も恵んでくれませんでした。ところが、とぼとぼ自宅に帰ったキリギリスは歌謡大賞に選ばれたのでした。蟻さんたちはコレステロールを取り過ぎて、心臓病で死んでしまいました。いいかい、貧しくても好きなことをしている人間の方が、たらふく食っている連中よりずっと幸せなんだぞ。大きくなったら、あらためて、モームが書き直した「蟻とキリギリス」を教えよう。

 ふと、重大なことに思いいたった。子供を得るには女房を探すという、やたらと複雑な過程と手続き、それに幸運が必要だということを思い出した。電話して待ち合わせをしたり、香水のふりかかった擬古趣味の手紙を書かねばならないし、好きだ、と告白することも必要だろう。ありがとう、なんて返事がきたらどうしよう。どういたしまして、というのも変だし。ああ、なんとも面倒くさい。女なしで子供を生めないものか。ゼウスのように、自分の頭から知恵の女神アテナが生まれてくることは望めないし、私のお腹は妊婦のように膨らんではいても、哺乳類の単為生殖なんて聞いたこともない。私は貝になりたい、ではなくて、私はウニになりたい、とつくづく思うのである。 

[33年後の注釈]

1)       チャップリンを語るといつも涙が出てくる。自伝の中にこんな話がある。浮浪者チャーリーが無銭宿泊してとがめられたときに、パントマイムで自分にはこんなに子供がいて生活が大変だと弁解するシーンで、見ていた観客が泣いていた。チャップリンは自分のギャグで笑いがとれなかったことに憤慨して、なぜここで泣くんだと問い詰めると「おかしいのよ、おかいけれど、泣けてくる」という返事を得る。ペーソスある笑いの誕生秘話とされている。父は「ライムライト」が好きで、お前が年をとったら分かると言い残してくれたが、分かり過ぎるほどだ。残念だが、今はチャップリンを語る場面ではないので、これくらいにする。「キッド」の子役ジャッキー・クーガンの天使のような可愛さは誰もが忘れないだろう。

2)       星の王子さまは難解な作品。象を呑み込んだウワバミって想像できる子供がいるとは思えないけど、この冒頭の部分を化学科の卒論のエピグラフに使ったら「落とすぞ!」と叱られた。篠山紀信の「カラーシュ族の少女」は写真集「シルクロード」に収録されている。シューマンの子供の情景は第七曲のトロイメライが有名。この曲は習っていた頃散々な目にあった。アルペジオを上がっていく時に「夢に思いを馳せるように」って変な知恵をつけられたり、「どうして君は歌わないんだ」とか言われた。第一曲「異国から」は指ならしにほぼ毎日弾いている。高校から大学時代まではショパン一辺倒だったけれど、大学院時代はシューマンに執着した。(その後バッハが私の神様になった)。もっとも当時芸大の課題曲だったトッカータを弾こうとして腱鞘炎になったこともある。

3)       この記事の五年後に幸運にも子供を授かった。ここに書いているように小学校にあがるまでは毎日寝床で物語を聞かせた。何しろ毎日だから大抵のものは読みつくし、本筋を改作したり、挙げ句の果ては即興で物語をつくった。「トランプおじさん」シリーズだ。なじみの風景や人間模様を織りまぜた、息子にしか分からない童話世界で、出版社の友達から絵本にしないかと言われたこともあった。でも断った。この物語は息子と私の二人の秘めたる物語だから。子煩悩はまだ続いている。過保護にならないように、と言い聞かせながら、もう子供でなくなった息子に食事をつくり、旅に連れていったりしている。今は独学でピアノを始めおそらく父親よりも上手になっていて、それが嬉しくもある。

4)       蟻とキリギリスの変形譚はモーム以外にも、星新一、田辺聖子、倉橋由美子など色々ある。小堀桂一郎の「イソップ寓話」によれば世界中に類話がある。残念なことに小堀先生の授業は院生時代に聴講していたのに、ほとんど出席しなかった。

5)       息子の母親とはコンサートで知り合い、シューベルトのヘ短調幻想曲の連弾を一緒にしようと誘ったことから意気投合し1992年に結婚した。大体において私が好む女性は私よりもピアノが上手だ。(と言うことは、ピアノを弾く女性の大半)。この法則は小学校以来ずっとである。

6)       映画「私は貝になりたい」はフランキー堺が主演したもので、後にリメイクされている戦犯の悲話。

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