ティールブルージャケット無印 【砦の大決戦】

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こちらは無数の銃弾 vol.3に掲載される作品です。
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6/9 17:00から四日間、期間限定でVol.2が無料になります!
ーーーー【以下本文】ーーーー

 その南の島の、島嶼部基礎の奥には巨大な発電所があり、島嶼部基礎には多くの巨大な船が接続されている。
 巨大な船の中身はざっくりいって表面層が街、中身が重要施設と環境調整機構になっている。
 それら船のひとつ、日本船籍船「☆あぐらいあ☆」の南の隅っこに、その昔海賊の砲撃の的にされて立ち退いた病院の跡地があった。
 現在そこには、小さな花壇スペースを耕された、広い荒れ地に見えるソイルパネルの平面と、砲撃避け・環境調整で作られた小さな丘陵似の防壁にへばりつくように建つ、地味な暗色をした、ガレージ付き平屋の家がある。そこが薬師ルリコの今の住まいだ。
 午前中早く。たった今確定申告を終えて天井を仰ぎ見、眼鏡を外してでかい溜息をついた薬師は、天井を仰ぎ過ぎて椅子に座ったままひっくり返り、怒られないから勝手に私用で使っている会社の書類タブレットと共に床に倒れた。
 耐衝撃板の直撃を顔面に受けて、痛覚カットも間に合わず痛みに悶えていたが、ひとり住まいの常で誰も助けてくれない。苦しむ脇を、きらきらスタッズを貼ったさそりがてくてく歩いて過ぎ去っていく。苦しんでいるが大したことはないと判断したらしく、敷地内警備用に放っている小型偵察機・目々連も各機一切反応しない。
 警備用の大型犬ボットは充電シートの上で寝ている。
 ひとしきり痛がって起き上がり、タブレットに画面の割れが無いか確認する。画面の最前面に出た、不動産屋とやりとった請求書/領収書のひとまとめの表示に変な亀裂やゆがみは無い。
 「なごやか不動産、今年分」――薬師の陸地時代から長いつきあいのある不動産会社で、社長の名を名越(なごや)ミナという。永遠に死ぬつもりのないばあさんが社長をやっており、大きく問題のある物件には最悪の場合戦闘狂の孫息子、名越有(なごやあり)が派遣されてくるという物騒な不動産屋だ。彼女はこのおっかない会社に、陸地の物件をひとつ、「☆あぐらいあ☆」上の物件をひとつ、管理してもらっている。
 「☆あぐらいあ☆」上のマンションの賃料で、管理費が二件分まるごと賄えているので心配はない。かつて仕事中に爆発事故に遭って以来、積極的に関わるには状況と気力が足りずに殆ど任せっきりになっていた。
 いつかどちらかが手に負えなくなったときに、ばあさんに相談くらいはしなければならない。
 薬師は、タブレットの当たった鼻梁の脇を指で擦りながら、椅子を直して眼鏡をかけ直した。と、眼鏡の端に着信が表示される。目々連の製作者、教授からだ。 
 >体内回線に切り替えて内緒話をしますか?
  このままお話しますか? 
 家の中だ。でかい声で話してもよかろう。彼女は、「このままお話」を選択して、反応を待った。
『こんばんは。何してるの、すぐに出なさい。何かあったと思うでしょう』
「何か? ありましたよ、椅子でひっくり返って顔ぶつけた。何かあった?」
『なごや不動産の社長から言伝預かってるんだけど』
「教授、なごやか不動産だよ。言伝ってまた面倒臭いことするってこた、急ぎじゃないね?」
『そう急ぎはしないわね。押さえとけ位の話よ。世間話で出た話題だから、そのうち連絡するつもりだったのでは』
 教授が言うには、マンションそのものを借り上げて事業を運営していた寺の住職が跡目を譲って引退するので、その後をどうするか連絡を取りたいという事だった。
「困ったなそれ、あそこ係留池近くて確かに眺めはいいし、そもそも元がヤクザマンションで狙撃できるポイントが部屋側に無くて隠れて暮らすの超便利だけど、……普通の賃貸にすんのは無理だと思うから処分考えていい?」
『名越社長に直接言いなさいな。別の用途に使いたいか、事業引き継ぐかまではまだ聞いてないけど、あなたに手放させる気はないような都合の良い事言ってたから、一度連絡取ったらよいのでは』
 薬師は、冷蔵庫の引出をあけて、つまみ食いできるものが何も無いのを確認し、しょんぼり顔で引出を閉めた。
「了解。若干面倒だけどしょうがないですね。で、教授、ヒマ?」
『ヒマはないわ。おつかいもしません。では失礼します』
 薬師は、食器棚の下に備蓄で入れてあったひとり用ボトルコーヒーの日付を確認し、一番古いやつのキャップを開けて、中にスティックシュガーを流し込み、キャップを閉め二、三度ぐるぐるとひっくり返した。
 蓋を開けてちびちびと飲みながら、眼鏡の視界にメールの下書きを作る。宛先は名越社長。いつもお世話になっております、から始まる文面は苦手だ。

 教授経由で来た住職の進退の件、寺はさておき各種事業誰も引き継がないんであれば、こちらも扱いに迷います。前に事故したとき住職の連絡先無くしたので、来月月初位までにどうなってるか連絡欲しいと向こうに伝えてください。もし手を引くようなら私のほうのその後の事を相談させてください。

 嫌いな奴に出す馬鹿丁寧な文面じゃなし、これで大した問題はないだろう。面倒になった薬師は、メールをそのまま送ってしまった。あっちの都合がついたら返信がある。何か齟齬があったとしたら、伝言ゲームをした奴が悪い。
 薬師はしばらく、なんとも言えないものを食べたときの表情をしていたが、やがて気を取り直して出かける支度を始めた。
 
 
 話題の、「元・狙撃できるポイントが無いのでミサイルかなんかで爆破するしかないような立地をしているヤクザマンション」。
 昔の話で恐縮だ。当時そのマンションは幽霊が出るともっぱらの噂で、本当に幽霊が出て、猛獣が飼われ、時折不法占拠者とチンピラが建物に侵入しては抗争をし、当時まだ係留池への船舶通過ゲートがメチャクチャうるさい音をたてる旧型だった。
 環境も治安も最悪で借り手も買い手もなく、激安で売られていたのを、教授をこき使ってあぶく銭を作ってしまった薬師が購入した。
 その頃彼女は丁度自分の身体の修理代を稼いでおきたい欲にかられ、どうやら元はそういうひとらしい教授を、ゴリ押しで拝み倒してこき使ってデイトレードに手を出していた。ただ人使いが荒いだけだと怒られるのでだいぶ勉強したしさせられたが、悪くなかった。
 トレードから手を引き手間賃から税金まで精算したところ、三回瀕死の全身改修をしても生存し、かつそのヤクザマンションを買って改築を入れ得るだけの額が手元に残ってしまい、じゃあ三回くらい死ねるし家賃払わないで住む部屋がほしいと言って購入してしまった、市井の厄介物件だった。
 この建物内で行われていた抗争は、ボロボロの外壁を崩す目的もあって、なごやか不動産や工務店との相談後、薬師が全部吹き飛ばした。
 彼女は後で、その抗争が一因で発足したばかりのあけぼの会警備部と、「☆あぐらいあ☆」出航時から存在する設備部に、罠にかけられ捕獲されてしこたま怒られたが、あまりに発破が上手かったせいか怒られただけで解放されたという。設備部へのヘッドハンティングはなかった。建造物がらみの作業は破壊しかできないんだから当然である。だが警備部からの仕事が入るようになった。その頃からの縁で今警備部に居る。
 彼女の人生は当時が多分二番目くらいに楽しかった。今は、そもそも環境と状況が違いすぎるので、すぐさま楽しいかと問われると、静かすぎてやる事も決まってるし平和で楽だが若干困ると答えることにしている。それで今は自由でも不自由でもない。だいたいふつうである。
 
 ところで当時の薬師は、ほぼ全身が戦闘外殻体で、かなりピーキーな動作性能と、荒れた生活の原因にもなっていた身体機能保持(二十代後半)と装備にとにかくカネ突っ込んで暮らしているという、一種のゴロツキであった。
 他に、酒好き、固定の恋人なし、配偶者なし、性的指向はどノーマル。実際年齢はかなりあるが、健康上の年齢は二十代後半と書類に書かれる。信教は無いとしているが、普段(お勘定の列に並んでいる程度のとき)は割と行儀の良い日本人的な発想をする。性質は若干人間不信気味で法より結果を優先する。情と責任感は突出してあるが、あっても苦労が多いだけだった。
 前述の理由で住む家には困ってはいない。
 買い物の大半を、通販や配送ではなく街区で行う習慣がある。
 他に、監視システム屋だのトレーダーだのを自称していたがどうやら本当にどこかの教員らしい“教授”から、目々連と名付けられた各種補助システムを買ったり借りたりして使っていた。
 あけぼの会警備部に目々連の製作者が若干の危険人物とされ、製作者をなんとかして法人付属大学ないし会社にスカウトするか取引先として正体を確保しておかないと(斃してもいいのだが同じ金額掛けて探索しておいてそれは惜しい)、設備部が形無しになると本体の探索を急がれているのに気づかないふりをして、非常時の対応だけ決めて後は後のことで暮らしていた。
 彼女の元には時折、本国の予算不足で法治に事欠く「☆あぐらいあ☆」上の機能大部分を管理している医療法人あけぼの会と投資会社により、治安維持目的で組織されたあけぼの会警備部から仕事の依頼があった。
 彼女自身は、別にそこまで自分が有能なわけではないと思っていた。「☆あぐらいあ☆」自体の法治が予算不足で行き渡らず、人治すなわちカネと太鼓でどうにかしてくれと役所から遠回しに言ってくる状況では、警備部は常に人手不足で、少しでも使える業務経験者なら、多少のゴロツキでも引っ張ってきて治安維持に投入する必要があったのだ。
 身元保証人が必要な時は、本国にある「なごやか不動産」の名越社長が出てきた。数少ない昔からのツテだった。
 ある時薬師の元に、このばあさん社長から極めて個人的なお願いがあった。仕事かと言われると、仕事ではないようで、だが継続した手間賃で依頼をしてきた。
 三人いる孫息子達のうちひとりを、購入したマンションの管理人として置いて欲しいというのだ。管理会社として給料は社長で出すし、入居者も探す。
 薬師は、そんなクリティカルな身内の話に継続した手間賃はいらないので、防音の工事をいくらか援助してほしいと申し出たところ、係留池の船舶出入ゲートの新設に合わせて、なかなか良い具合の工事をしてくれた。しかも会社持ちだ。何かあるなと思ってはいた。
 それでも若干うるさいので、訳あり入居者しか募集できないだろうと考えていたところ、名越社長自身がその「訳あり入居者」を集団で入れたい人物を斡旋してきた。どこぞの社員寮かなと思って話を聞くと、DV駆け込み寺等を運営する宗教法人、要するに寺の副業だという。「等ってなんだ」と軽く問い詰めると住職自身は答えを渋る。シェルター的なものだとは回答があった。
 調べを入れるとこの寺、たいへん人道的かつ金銭的にも問題無く、だが事業の性質上、反社やよく正体のわからない武装勢力と揉める事が若干多いようで、薬師は困った。
 断るのは簡単だが、そうそう訳あり入居者の行ける物件はこの船の上には無い。断れば向こうも困ってしまうだろう。だが店子の身の安全を保証するのに彼女の本業側で不定期実働かつ持ち出しが考えられるでは、いかなご縁といえど二束三文の手間賃で請けるわけにもいかず、あまりふっかけると今度は気の毒だ。薬師は判断に困って、名越社長に相談した。
 そこでその管理人の話が再び出てきた。彼の名前は名越有(なごやあり)、名越社長の末の孫息子で、えらく繊細なところがあって、事故による負傷もあって家から一切出たがらないのを、何とか「自社物件から出たがらない」まで行動範囲が拡大できた。寺と組ませて当該事業に当たっており、治安の良くない地域での物件管理をしている。戦闘行為に関しては全く問題がなく、やりすぎだけが心配だ――経験者どころか専任であった。
 それを聞いて薬師は即決した。大家さんをやってよい。条件はひとつ。自分の居ないところで、お上に言い訳の利かないもの(近隣への延焼、額の膨大な損害、処分に困る量の非戦闘員の死体等)を出すな。どうしたらいいかの肚も括れないのでは堪ったものではない。
 
 管理人着任の日、薬師は何も用がなかったので各部屋の掃除をしていたのだが、昼過ぎのこと。
 小さな棒付き飴ちゃんを咥えながら三階角部屋ベランダの側溝を掃除していると、外に停まったなごやか不動産の社用車から旅装の男がひとり降りてきた。裏の川沿いの道はこの先行き止まりで、車はバックで出て行かざるを得ない。
 道を知っているはずの営業が裏道を指定され、自動運転を切って入ってきたのだろう。ちょっと気の毒だった。
 それにしても裏から来る奴があるかと若干警戒した彼女が見ていると、男はどうやら本当に正面と裏を間違えたらしく、二階程ある高いフェンスの前で途方に暮れた顔をした。と、普通ならフェンスにとりついて上がってくるところを、ひと蹴り・ひと踏み、すなわちほぼひとっ飛びで乗り越えてきたのだ。これには薬師も驚いた。しかも着地も綺麗なものだった。
 唇の端から棒付き飴ちゃんを落としそうになってあたふたする彼女を見上げて、彼は随分いい声で挨拶をしてきた。
「どぉも! ぼく今日からここの管理人の、なごやありです! 薬師さんですか、祖母がお世話になってます」
 棒付き飴ちゃんをキャッチした薬師は、有に軽く会釈した。
「こんにちは。有(あり)君ですか、お祖母さんにはいつもお世話になってます。薬師です。よろしく。入れる裏口なくてごめんね、正面回ってや」
「やあすみません、入る道間違えちゃって」
 随分にこやかな、目鼻立ちの濃い若い男。これはばあさん社長の直接の血縁者ではないかもしれないが、それはよその話だ。薬師は正面をちょっと示して、自分も掃除を止めて部屋を出た。
 その日、建物内設備の説明から始まって、生活必需品を運んできた宅配業者の相手をし、雑事を大体終え、有の飼っている機械猫ちゃんのキャットタワーを組み立てて、大体の事は済んだ。晩飯の調達で外に出るのが怖いというので、薬師宅の、ほとんど中食か冷食の冷蔵庫の中身を融通して、後は大の大人だから放っておいても平気だというので放っておいた。
 夕方、昼に中断していた三階角部屋掃除の続きを済ませ、続きは明後日、といって出かけた薬師は、夜も遅くに帰ってきた。特に何かあるわけではなく、晩飯目的で外出し、街をぶらつき最終のトラム(貨物人員輸送コンテナ)で帰ってきただけだ。多少の武装はしているが、目立つほどではなかった。
 帰ってくると、管理人室の奥に人の気配がした。建物自体はしんとして人の気配はない。まだ大家さんと管理人しか住んでないもの当たり前である。
 建物は六階まであるので、エレベーターがある。自室は六階の隅っこ、五階の上がルーフバルコニーになっており、そのバルコニーと直結した部屋だ。元の建物の造りがそうなっていたのと、広いスペースが欲しかったのもあって、私欲でそこを大家さん宅にしている。
 薬師は普段点検も兼ねて六階まで階段で上がるが、その日は何となくエレベーターで上がった。
 六階でエレベーターを降りたとき、何となく何かの気配がした気がして、彼女はハコから降りる足を止めた。しかし何かいるでなし、それが何の気配だかは判らなかった。
 建造物内にはいくつか目々連を放ってある。製作者の趣味で不快害虫の外見が多いマシンだが、屋内監視時にそのような外見をしていると、不快害虫が大嫌いな薬師が片っ端から壊すので、冷蔵庫に貼るマグネットにでも見えるようなちょっと小洒落た外見にし、マグネット代わりに壁にも貼りつくようになった。それが視界の端、壁に張り付いている。動作に問題は無く、不審者や設備の異状を察知すれば即警告通報がある。
 不審者無し。異状無し。薬師は首を傾げて通路に出、自分の部屋の前に立った。
 部屋のドアは自動鍵で、部屋の住人を認識してドアを開ける。これはどこの部屋もそうで、住人以外が手動で動かすのは壊れた時と緊急時だけだという建前になっている。
 出入時に、通過人数が勘定される。通過人数が出入口許容数以上いると、それは機械が壊れたか、幽霊がいるということになる。これが一時期、勝手にドアが開いて数十人という訳のわからない数を叩き出した部屋があり、そこは本当に幽霊部屋になっていた。一階の隅っこで、今は侵入者対策として屋内自動哨戒機待機スペースになっている。設置した哨戒機が使われたことはまだない。
 自室のドアが開いた。普通に入室したその時、壁際のモニタに通過人数がふたりと表示される。前後横どこにも人間は影も形もない。頭上。頭上……?
 薬師はとっさに身をかがめた。さっきまで頭があったところを、何かが風を切って通過する。
 廊下の真ん中、洗面所のドア前に放り出されていた洗濯かごが、ひと跳ねして廊下を吹っ飛び室内に入っていった。出がけに脚をひっかけて蹴飛ばしてしまったやつで、自分で跳ねる機能は無い。
 視界に、飛んでいったかごの拡大表示。何か刺さっている。背後、天井に何か居る。
 振り向いた薬師の視界いっぱいにえんじ色のパーカーと、突っ込んできた重量物(多分人間)が飛び込んできた。彼女はそれを床に飛び込み倒立気味、こめかみから頬と腕で身体を支えてかわし、両脚から全身を縮めて体重を乗せ勢いで飛び出し蹴りつけた。重量物が蹴飛ばされ玄関ドアにぶつかるギリギリで自動ドアが再度開ききり、それは廊下に蹴り出され、立てかけてあったごつい金属板にぶつかって止まった。
 着地と共に玄関横の洗濯機の隙間から熊撃ちハンドガンを抜いて、三発狙いを外して撃った弾丸が壁際の板にめり込み止まったところで、侵入者から悲鳴とともにギブアップが宣言される。声は今日の昼間に聞いた男のそれ。正体は名越有だ。
 薬師は相手に目もくれず、銃から弾丸を抜いて元あった隙間に差し込んだ。
「……そこに立てかかってる、あんたがぶつかった板。防弾の盾だから。それ外見物騒だし、そこに置いとくの嫌だったら一階の隅っこの駐機部屋の奥に置いといてくれる? 問題無いなら重いからそこに置いといて」
 安堵の息を吐いた有は、全身の埃をぱたぱたとはたく仕草をしながら立ち上がり、ばつが悪そうに笑ったが、彼女はそちらを見なかった。
「……これ、昼間訊こうと思ってたんですよ。なんでこんなとこに」
「それぶん回すコツがいまいちわかんなくてね。練習用のジャンク。部屋に置いとくと床が傷するんで。今度付き合ってくれると助かるわ」
「あ、……はあ……はい」
 薬師は手持ち無沙汰気味の有を漸く見上げ、疲れた表情を浮かべて溜息をついた。
「有君。あんたが寺と組んで厄介物件の管理人できてる理由がなんか判った気がするよ。一応確認しとくけど、店子には手ぇ出さないな? 私の調子か機嫌が悪かったら外さないから、その時は覚悟しといてや」
「すみません、気をつけます」
「あと言っとくけど、今後無闇にこういう事すんなら管理人室で切ってる六階の監視は切ったままにしとけ、駐機部屋から機械出てくるから。あの機械は許してって言っても止めてくれないからな?」
 それは、と言いかけた男を薄笑いを浮かべて見上げ、薬師は立ち上がり、おやすみとだけ言ってドアを閉めた。
 自らこういうことをしてくる物騒な管理人なら、殴られたら殴り返す位はできるだろう。彼女の手間も少し減る。
 靴を脱いで部屋に上がった薬師は、ひとつでかい欠伸をすると、上着を脱いでそこら辺に放り出し、その日はもう全てが面倒臭くなって服を脱ぎ脱ぎベッドにすっ転がって寝た。割と平和な夜だった。
 
 
 事業開始後は、店子の入れ替わりは激しく、特に素姓も知らされず、入居してはいつの間にか居なくなっていく。そこの管理は管理人がして、薬師には特に知らされる事はない。
 六階の他の部屋が使われるほどの盛況ではないので、多少会釈の回数が増えた以外は何が変わるという事もなかった。
 時折ゴロツキ、時には暗殺者まで店子の処理に派遣されて騒ぎになるが、管理側もとにかく知らぬ存ぜぬで押し通さなければならない。管理側が動じることはない。名越有の手に大体負えるが、負えなければ薬師ルリコが出る。そして薬師の顔を見て諦めて帰る者もいれば、改めて暴れる者も出てくる。
 相手の数が多すぎて一度だけ駐機部屋の哨戒機を使ったが、あまりの無慈悲っぷりに薬師も有も開いた口が塞がらなかった。軽々しく使えない程の無慈悲で、事後処理に来た支店長以下全員が仰天した。
 しょっちゅう店子絡みの騒ぎになるので、ひとの口に戸は立たないし、いずれ自宅がバレるかなと薬師は思っていたが、市中では、どうも訳あり幽霊マンションの管理人兼用心棒をし始めたという話になっており、あながち間違ってはいないし大家さんだと訂正するのも面倒なので、放っておいた。
 何か聞きつけたあけぼの会警備部だけが、スケジュール絡みもあり委細を聞きに連絡を取ってきて、そこには正直に答えた。
 割と長いこと治安の悪さは想定内を出ず、この上更に問題が発生するとしたら暴動が突っ込んでくるか、自爆兵が爆発するか、お化けが出るかまあどれかだと思われるサイクルの中、問題の人物が現れた。
 人数はふたり。外国人の姉弟で、故郷から遠く職場に着任したため頼れる者もほとんどなく、故郷から刺客を送り込まれる出自か経歴をしており、ちょっと本人達に扱えるレベルを超えたとかいう面倒臭そうな店子だった。
 姉の職場はあけぼの会の法人付属大学の留学生事務局で、弟の職場は街区にある小さな宝石店。土井中宝飾という冗談のような店名だが、土井中さんが経営しているれっきとした宝石店である。
 ふたりの職場はどちらも査証の申請はちゃんとやっているのだが、なんとそこから所在がバレて故郷から刺客を送り込まれたというのだ。
 土井中氏の妻が姉弟の同郷者で、この夫妻が、持ち雑居ビルの建物管理をしていたなごやか不動産の営業や盆に精霊棚に来た住職に異状と窮状を愚痴ったのが発端で、そこからふたりがマンションにやってきた。幸い部屋数が空いており、有はひとつずつ用意していたがふたりで居たいという。問題は無かった。
 他人の出自や経歴を根掘り葉掘り聞く気力は薬師には無かったが、今回だけは「刺客と言われても何が来るかよくわからない」ため、有がひとりで話を聞くのを諦めたせいで、彼女は入居支度の手伝い後管理人室に呼び出されふたりの話を聞くことになった。ふたりとも物凄く名前が長いため公文書以外では姓名を略記されており、姉の方がRED(レッド)、弟の方がADD(アッドないしエィディディ)、変な呼称を要求されたが本人達がそうだと言うので、聞く側は従った。
 先に話を聞いていた有と同様、薬師も頭を抱えた。彼女は、他人の面倒な生い立ちは些末な枝葉だと思っていたが、この事業はそこが肝であった。
 人類の共同体開闢からだいぶ年月が経ち、近親婚は(遺伝的に)良くないというので法で制限されるようになった筈だ。少なくとも薬師の認識ではそうだ。慣習や信教もあろうけども、仮に厳しい世間だとてふたりとも独身を装って一緒に暮らす位は誰も文句のつけようがない。この姉弟もそうしていたし、故郷から遠く離れて静かに暮らしていたが、遠く離れた時に起こした揉め事が諦めずに追ってきたのだ。いつまでも独身者だからと姉を襲った村の男の首を、ADDは素手でねじ切って捨ててきたという。相手は実家の太い男だった。
 村如きの実家の太さ……と有が途中まで口にした脚を薬師は蹴飛ばした。首の吹っ飛んだ男は、いくつかの宝石の鉱山主の跡取り息子だった。若干の金があり同業者に近いのでは追えれば追ってくる。有は黙った。
 追ってくるのは人間だが、クリーチャーの様な戦闘外殻体をよく操りとにかく強い。ADDも腕を一本やられたという。見せて貰うと、右腕が肘の先から生活外殻体になっていた。戦闘仕様にするか、腕を再生するにしても金と時間がかかる。例えばあけぼの会病院の予約の詰まり具合的に言うと三ヶ月先から来年の頭頃の診察から開始。これでは次はなさそうだ。
 クリーチャーの様な外見。戦闘外殻体なら、多少の外付けオプションで、生身の人間から遠い姿になり強烈な戦闘を行うことも不可能ではない。必要なのは金銭と思い切りと医者のやる気と本人の鍛錬だけだ。脳が覚えるまでに若干時間がかかるがやれなくはない。
 そういうものだというのは、REDが描いた下手くそな絵が決定打になった。腕が四本、顔がふたつ、脚は二本。
 有が喉の奥で、えー……と呻く息がする。
「ぼくこういうの相手にした事ないんだけど、これどういう動作してくるの?」
「……至近距離にふたり居るようなものです。それが全く障害無く動く」
「こういうのが沢山来るの、へえ……結社でも相手にしてるのかい」
「結社って言うんですか。村の住人ではありました。我々と信教が違うのでそこで絡むことはなかったのですが。彼らが複数で来ることはありませんでした。おそらくいちいち祈祷してから送り出す。小さい頃見たことがある」
「ふん……常識は通じる? 例えば、殴ったらへこむとか、痛がるとか、撃ったら当たって血が出るとか」
「何人かは胸部生命維持装置を破壊するか、海に投げ捨てましたが、予備装置がついている者も居るようで、それに腕をやられました……」
「どうやって壊した。あれ今私も入れてるけど、装置単体でも結構頑丈だぞ」
「ええ、殴って」
 薬師は、弟の方をまじまじと眺めた。確かに、元の腕っ節は大変強そうだ。姉の方はというと、少し羨ましくなるほどすんなりと細くて華奢に見えるかわいらしさだ。このふたりだけでこんなクリーチャー教団の改造戦士みたいな奴を撃退し続けたとは思えない。そういう話だからそうなのだが、ちょっと考えづらかった。
 この絵にある両面宿儺の如き外見をした者が、大なり小なり人間サイズなら暴れれば街区が騒ぎになるだろう。土井中宝飾店の側にこんなのばかり住んでいて誰も気にしないというのは、あの界隈に時々裸石(ルース)を見に行く薬師の認識範囲には無い。ということは協力者がいるか、何らかの理由で身を隠す事ができるのだ。
 彼女は、喉の奥で呻きながら考えを整理した。とにかく、こんなものがうろちょろすると邪魔でしょうがないし、何より怖い。他の店子に被害が出ては堪ったものではない。
「よし……わかった、鉄砲のタマ当たって死ぬんだったら別に何でもいい。問題はひとり斃しても続きが居るって事だな……」
「薬師さん、こっちから攻め込むの? ぼくらふたり、あの辺で戦争するような余力ないですよ」
「戦争の余力は無いけど、発生源掴んで時間かけてどうにかする事はできるから。何のために目々連買ってると思ってんだ」
「ああ……ぼくも会社と、ばあちゃんに当たってみるね」
 姉弟を部屋に戻して、薬師と有は管理人室でしばらく相談した。
 幸い、以前の幽霊騒ぎで一階には店子を入れる部屋は無くなっていた。管理人室と駐機部屋、倉庫、薬師が勝手に武器庫にしている倉庫、たまに子供の遊び部屋になる広い集会場、あってせいぜいこの位である。
 薬師はしばらく武器庫に寝泊まりすることにした。店子を一度に全員運べる大型車輌を置けないので、トラブルが起きたときはなごやか不動産の車輌担当者が車を出すよう依頼しておかなければならない。
 そして階段は防火扉を下ろし、六階の監視設備を通電し、目々連を増量し、駐機部屋から哨戒装置を引っ張り出してトラップを張るまでが準備。何かあれば支店を呼び避難器材で店子を逃がすまでが有の仕事、その間薬師はとにかく改造戦士が肉塊になるまで攻撃する……できれば。自分が死ぬようなら、この建物を吹っ飛ばしていいから、教授と社長に連絡を取って、残りの管理物件を良い感じにどうにかしてほしい。ここまで相談をまとめて、薬師と有は顔を見合わせた。
「何だ」
「薬師さん、無理しないでよ」
「あんたの職場が無くなる事はないでしょ」
「そうだけど、まあ、……うん」
 妙な空気になったので、薬師は席を立ち、六階の自室が多少破壊されても問題ない程度の支度をすることにし、管理人室を出た。
 階段を六階まで上がり、ひとの不在を目視で確認し、有に終了を伝えると防火扉がゆっくり降りてくる。それを背に自室に戻り、玄関脇の納戸に大量に突っ込んである折りたたみ蓋付きコンテナを引っ張り出して、そこら辺の家財を可能な限り手当たり次第(割れ物はできれば割れませんようにと祈りながら)突っ込み始めた。
 ルーフバルコニーの植木鉢類は、住人達が置いていったもので、あるだけでも検疫から怒られるのに、数が増えると尚更怒られるが、焼けたり壊れたりして数が減れば怒られることもないだろう。放っておいてよさそうだ。
 この部屋には、床下に収納を作った。作った当時、壁床の仕様自体がただでさえ他の部屋より頑丈なのに、床下に防爆防炎収納とか何を入れるのかと教授や社長に訊かれた。大事なものだと答えて、大してあるわけでもない家財をコンテナボックスに入れてしまっているのだから、教授あたりは多分呆れているだろう。大事なものなのだ。床すなわち五階の天井が落ちませんように。薬師はちょっと手を合わせてなむなむした。
 壁際の物入れを開けて、ケースに入った綺麗な石を詰めた箱をいくつかと、色あせた写真の入った安っぽい写真立てを取り出し、コンテナに入れて蓋を閉め、最後のひとつとして床下収納に収めた。
 毎回カツカツでやっているから変な話になるんだ。そんな声が記憶の向こうからした気がして、薬師は苦笑して呟いた。
「しょうがねえよ、カネも権力(ちから)もございませんでよ……」

 それから数日の間は、特に何も無く日々が過ぎた。動き回る哨戒機に腰掛けて移動する中学生や、壁際のくまちゃんクリップが動き回るのを子供が大喜びで掴んでなげて遊んでいる他は、物件の性質上積極的に外出する入居者もおらず、薬師と有は入居者にアラート伝達用通信機の所持協力をとりつけたり、外の侵入者用トラップを増やしたり、入居者の宅配荷物を管理人室で預かって該当室にそっと届けたり、危険行為が無いよういつもより目視巡回の回数を増やすくらいしかやる事はなかった。
 土井中宝飾や大学付近にも不審者は無し。市中にもクリーチャーじみた戦闘員の姿は噂程度もない。ただ見慣れない厚着の旅行者は目撃されており、その呪術じみた姿を気味悪がる占い師や拝み屋が数人居た位だった。
 ある日の早朝、早起きした薬師が寝過ごした夕方と間違えるほど暗いうち、正面ではなく裏の川沿いの道、フェンスの向こうに、誰かが立っていた。
 監視カメラの走査をしてからルーフバルコニーに出ようとして、薬師はその誰かに気づき、有を叩き起こした。裏の道はぎりぎり私有地だ。進入はできるが、知らない誰かが突っ立ってこっちを見てていい場所ではない。
 人物の姿は二足歩行、大きな笠の周囲に変わった模様の長い布が留められており、布に覆われて詳しい姿は全く判らない。フェンスとの大きさ対比で、とにかく縦にも横にも大きいことだけは判る。
 あれなら何を隠しても判らない。無反動砲とか重機関銃、ものすごくでかい鈍器や三尺刀がぬっと出てきても全くおかしくない。薬師は慌てて着替えし、外を伺いながら用意していた装備を調え、REDとADDを叩き起こした。有が起こしていたらしくふたりは起きており、外を伺って、例のクリーチャー戦士だと確認した。
 建物内に人の気配が動き出す。薬師は軽機関銃を背負い、姿勢を低くしそっとルーフバルコニーに出て、相手の出方を伺った。何か攻撃の端緒でもあれば、用意してある銃ですぐさま撃つ。その後六階から地面まで垂らしてあるワイヤーを滑って一気に降りる。屋外に居た目々連から起動された哨戒機群が反応して、駐機部屋から滑り出した。
 空を切る重い音がして、フェンスが鋭角に崩壊した。笠と布地も崩壊し、中の姿が露わになった。事前に聞いていた通り、両面宿儺の進化形のような姿だ。しかも身体がでかい。
 薬師はとっさにこれを銃で撃つのをやめて、一緒に置いていたリボルバー型グレネードランチャーを取り上げ、二発撃ち込み、自分は手すりに吊って放置していたワイヤーを掴んで飛び降りた。六階から三階まで放物線を描いて落ち、残りは掴んだ場所から滑り降りる。彼女が地上に降りたとほぼ同時に、二発命中した衝撃と爆炎で可燃物が焼けた状態から、大部分は無事な怪物じみた姿が現れた。この後は、軽機関銃程度かそれ以上の武装で躯体が停止するまで執拗に狙って撃つ必要がある。対物ライフルも考えたが、相手がよくわからないので長すぎる長物で狙うのはやめたのだ。
 敵の武装に飛び道具は無い。四本腕のうち二本の腕にそれぞれ握った重たそうな曲剣から、理屈の判らない衝撃が出る。時々それが建物にあたり、頑丈な筈の壁が音を立てて剥がれたり、防爆ガラスがどんと音を立てて一瞬歪む。判断を誤って剣に当たったらそれだけでぺしゃんこになりそうだ。
 地面の土台パネルやソイルパネルに穴が空いたら設備部が出てくる。その前にけりをつけなければならなかった。
 薬師はかなり必死で剣をかわし、なかなか狙いのつかない中、ごく小さくマーキングされた生命維持装置の外部接続端子を狙った。どんなに頑丈な戦闘外殻体でも、そこだけが弱点になり得る。根比べだ。
 こんなものと正面から組み合い素手で小さな端子を殴って破壊するなど、にわかに信じられる話ではなかった。
 図体のくせにとにかく動きが速いのだ。ただでさえ斬撃が重くて速いのに、この上謎の衝撃となると根比べも気弱になる。しかも哨戒機群も同じ場所を狙っているのに、頑丈でなかなか撃破できない。薬師は自身の動作に逡巡するようになっていた。
 軽機関銃の砲身が熱を帯びている。弾切れは入れればいいが、冷却をしなければならないのに、相手がまだ止まらない。まだか、まだか、――限界だ。
 彼女は軽機関銃を捨て、その場から飛びすさった。この上はADDと同じように、あの懐に飛び込んで、手持ちの残り全弾を当該位置に叩き込んでどうにかなるものなのかこれ。重機で踏んでも起き上がってくるのでは。断線を狙って殴って玉砕しようか。だめだ手が壊れる。
 ひしゃげ飛ぶ軽機関銃を見て半泣きに顔を歪め、だがそれでもまだやれた。薬師は、自分の背中に括り付けている熊撃ちのハンドガンに詰めた、戦闘外殻体専用の弾丸五発を信じた。貫通力だけ異常なやつ。
 相手が動いた。突っ込んでくる。誰かが彼女の名を呼んで、頭上から大きなものが飛来した。
 とっさにそれを掴んで身体の前にかざす。薬師の全身が隠れようかという大きな金属製の防弾盾。有が薬師の部屋の前から引っ張り出して、全力で投げてよこしたのだ。
 耳障りな金属音がして、盾に食い込んだ剣が両方止まった。受けた衝撃で彼女の両足が地面に埋まる。しかし、敵は剣を一瞬離した。力が緩む。
 薬師は盾ごと両の剣を毟り取り、後方にぶん投げ、返す刀で銃を抜き、あと一歩進んで至近距離で撃ち込んだ。同じ所に五発も食わせばどんなガワも穿つのが売りの専用弾だ。しね!
 五回響いた轟音の後、両者は少しの間立っていたが、そのまま立ち続けたのは、薬師のほうだった。
 
 
 勝った。
 
 
 車種もばらばらの大型車輌が数台乗り付けて来た頃には、避難の車輌が必要なくなっていた。
「すみません、車より、警察と、入管と、工務店の見積もりが要るわこれ」
 なごやか不動産の支店長は、建物裏の惨状と、疲労困憊した薬師を交互に見比べ、お疲れ様でしたとだけ呟き、本社に連絡を取り始めた。相手はおそらく名越社長だ。薬師はぼんやりとそれを見ていた。
「勝ったねえ」
「勝ったよお」
 横に有が立つ。暴動が突っ込んで来るのとどっちがいいだろう、という薬師の問いに、明らかに敵だし一体だからこっちの方がよくね、と返してきた。確かにそうだ。
「薬師さん、後始末済んだら焼肉しない? お家だけど」
「あーいいね、良い肉と酒奢って」
 遠巻きにこちらを見ている店子の中にいるREDとADDと目が合い、会釈するふたりに薬師は軽く手を挙げて応えた。撃破完了、ご安心ください。
 そうこうしているうちに、川向こうにある係留池の出入船ゲートが、定時の汽笛と共に凄まじい音を立てて開き始めた。新型に変わって少しはマシになったが、それでもこれはひどい。
 その場に居る全員が耳を押さえて顔をしかめた。聴覚カットができるはずの薬師も、それすら忘れて耳を押さえた。世間はそれなりに平和であった。 
 
 
 新型が旧型になる位の年月を経たゲートの音は、劣化もあり当時より凄まじくなっていた。聴覚カットが間に合わなかった薬師は、右の耳に小指を突っ込んで、開いた窓から聞こえるその音に顔を歪めた。
 管理人室の奥、キッチンのテーブルの向かいに座る有は気にも留めない表情で、マグカップのお茶を啜っていた。こればかりは慣れとタイミングだ。
「うん、ばあちゃんから住職がトシで引退間際ってのは聞いてます。ここも昔ほど物騒じゃないからのんびりやっていけると思ってたんだけどね……」
「……じゃあ特に何も聞いてないのか……どうするつもりかさっさと教えてくれって住職に聞こうにも、私、身体吹っ飛ばしたときに連絡先無くしてさ。しょうがないから社長に頼んだよ。そのうち連絡があると思うんだ……」
 有は機械猫を撫でながら言った。
「ぼくは、ほら。ここ以外も社用車と、舗装された道と、自社物件なら出入りできるから、心配ご無用です」
 薬師は少し冷めたお茶には手をつけなかった。若干人恋しかったが、長居する気もなかった。
「じゃああんまり心配しなくても大丈夫だ。継続なり処分なり決まったら、また来るよ」
「お疲れ様です。薬師さん、ここんちに戻ってくるつもりないの? 街が近いよ」
 匂わない猫を吸いながらそんなことを言う有に、戻る元気が出たらな、と返して、薬師は立ち上がった。
「元気が出たら検討してよ。薬師さん割と恨み買いやすいから、身の危険があったらでもいいし」
「そうだな、色々手に負えなくなったら店子顔で帰ってくるわ」
 少し寂しそうな有に、薬師は、またねと言って管理人室を後にした。
 
 
 トラムの駅まで歩いていると、体内回線に着信した。誰だかわからなくてほったらかしていると、何と寺の住職からで、跡目も事業も息子が引き継ぐから頼むからそのままにしてくれという内容で記録が残った。
 しますします、そのままにします。薬師はほっと息を吐いた。不調を理由に他人に丸投げにしていた事だが、かつてのあの一件以来そこまで変なトラブルも無かったらしく、収まるところに収まりそうで、正直安堵した。
 見上げた空は曇って今にも雨が降りそうで、ふっと冷たい風が頬を撫でる。ズドンと一発雷が落ちそうだ。
 あのマンションもまだ雨漏りするほどボロい建物ではないが、雨期までに大きな補修が必要ならしなければならない。
 置きっぱなしのものもある。今度様子見がてら泊まりに行ってもいいだろう。
 薬師は、傘を持っていない事を思い出し、トラムの駅の途中にあるコンビニへ向かった。

【了】
 


(軽い気持ちで投げ銭をお勧めします。おいしいコーヒーをありがとう)