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トポスとしての京都~「伏見」という2つの家~

 先日、アンドレア・バイヤーニの『家の本』(栗原俊秀訳)を読んだ。本書は自伝的要素を持った小説であるが、「家」それ自体に焦点を当てた一風変わった小説でもある。全78章からなる本書は、例えば「第1章 地下の家、1976年」といったタイトルが付され、その時代のその家が詳述される。本書の家には、「私」の住処としての家だけでなく、親戚の家や、観念的な意味での家、例えば、亀の甲羅、結婚指輪なども含まれ、多義的に用いられる。

 あなたは「家」という言葉から何を想起するだろう。私はまず、木曾三川と田んぼに囲まれた生家、一人暮らしを始めた三条京阪のアパート、下鴨神社の隣で友人7人と始めたシェアハウス、鳩がベランダに巣を作り辛酸をなめた西院のマンションなど住処としての家を思い浮かべる。

 しかし、それらの住処を上回る強度で思い起こされる「家」がある。それは、飲食店、例えば、大学生のときに週4日以上通った「丸二食堂」、大学院生のときに、通い詰めたうどん屋の「めん処譽紫」、ネルドリップの世界に私を引き入れた「さんさか」、京都のムーン・パレス「龍門本店」、朱雀第一小でのバドミントン終わりに友人とよく飲んだ「ふる里」などだ。

 社交的とは言い難い私は、店員さんやお客さんと頻繁に会話を交わしていたわけではない。ただ、胃袋を満たしてくれ、一時、居場所を提供してくれる「そこ」に言いようのない安心感を抱いていたものと思われる。そして、そんな私の「家」には、三条京阪の「伏見」と山科の「伏見」も含まれている。

 1955年に開店した三条京阪の伏見は都市開発の一環で、2016年に閉店を余儀なくされる(なお、都市開発は中断され、店舗は今もそのまま残っている)。私は、60年以上続いた店の最後の5年ほど通ったこととなる。界隈では有名な店だったが、学生が好んで行くような店では決してなかった。しかし、私の友人のほとんどは、なぜかこの店を知っており、私のアパートが近かったこともあり、よく一緒に飲んだ。

 非常に狭い店内は、コの字型のカウンターが中央に陣取り、客が肩をぶつけ合いながら、肴をつまみ、酒をあおる。この店の名物は、口の悪い女将であり、女将にどやされながら、女将に勧められるがままに注文をする。財布が膨らむことが嫌いな私は会計時に、7千円を求められ、1万2千円を手渡したところ、「ややこしいことをするな」とどやされ、赤面したことがある。今となっては懐かしい思い出だ。

 大学生・大学院生であった私と友人は、サラリーマンの中に混じりながら、お酒を飲むことで、大人になった気分を味わっていた。帰りを待つ家族もいないのに鯖寿司を持ち帰ったものだ。また、口悪いが、愛情溢れる女将に、私を含めたほとんどの客は、(理念としての)母親を重ねていたものと思われる。だからだろう閉店前の1ヵ月間は、寂寥、憂愁、郷愁そういった感情を抱えた者たちによる長蛇の列ができていた。

 伏見ロスを経験した私は、それによってできた「がらんどう」に目を瞑り生きてきた。それから月日は流れ、縁あって、山科で働くこととなる。その折、女将の親戚が、山科駅近辺で、同じ店名で営業していることを知り、さっそく暖簾をくぐった。

 京都市内にも関わらず、美味しい魚を安価で食べることができる点は同じだ。ただ、店内は広く、口の悪い女将もいない。代わりに、気さくな大将と女将、その娘さんが、切り盛りしており、細巻き片手に気持ちよくお酒を飲むことができる。そこには、「家」に不可欠なもの、それがなくては、「家」とは呼べないもの、私の「がらんどう」を埋めてくれるもの、そう、「愛」が確かにあった。(それと私の好物であるイカと鱧も)

 京都には重力があるように思う。それは私が20代をそこで過ごした場所だからかもしれないし、そういった個人的な体験を抜きにして、歴史ある街だからかもしれない。私はその重力を便宜的にトポスと呼んできた。ただ、最近は、外国人観光客が溢れ、「京都」が商品として消費される中で、その重力は減衰しつつあるように私の目には映る。京都はどうなっていくのだろうか。気が気でならないが、千年続く都である、悲観することなく、行く末を見守りたい。

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