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ペソアの伝記が出版された喜び

 即決だった。

 先日、所用で一乗寺まで足を運んだ。時間に余裕もあり、せっかくだからと恵文社を覗くことにした。本屋に行くと、海外文学のコーナーをゆっくり物色し、それから哲学、思想、文庫本、新書、文芸誌、学校教育(あれば)の順に経巡る。これが私の基本コースである。しかし、今回は、海外文学のコーナーで早々にコースアウトし、1分以内には店を出て、10分以内には、喫茶店で、読み始めていた。

 購入した本は「フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路」、その著者は澤田直氏だ。フェルナンド・ペソア(1888-1935)は、多数の異名者を生み出し、その異名者が詩を書くという離れ業を披露した奇人である。要するに、謎多き人物ということだ。ペソアは、ポルトガルの紙幣にも載るような国民的詩人であるが、日本ではあまり知られておらず、ペソア自身について知ることのできるまとまった文献を、私はこれまで目にしたことがなかった。これが即決で購入した一つ目の理由である。

 二つ目の理由は、伝記の執筆者が、澤田直氏だったということである。私は、多くの人の例にもれず、ペソアのことを、アントニオ・タブッキの小説で知った。タブッキを虜にしたペソアとは何者だろうと興味を惹かれ、はじめに手に取ったのが、平凡社ライブラリーの『不穏の書、断章』であり、その訳者が、澤田直氏であった。その訳が非常にはまり、めでたく私もペソアフリークになってしまった。(その後、『不安の書【増補版】』高橋都彦訳も読んだが、澤田訳に身体が慣れ過ぎてしまい上手く入り込むことができなかった。)

 だから、ポール・オースターの訳者と言えば「柴田元幸」、スピノザと言えば「畠中尚志」、アリストテレスと言えば「高田三郎」・・・と同様、私の中ではペソアの訳者と言えば「澤田直」であった。そんな澤田氏が書いたペソア伝である。読まないなんてことが可能だろうか(いや、不可能に決まっている。)

 今回は、ペソアの伝記を日本語で読めるようになったことへの喜びを書きたかっただけなので、本書の中身にがっつり触れることは控える。しかし、せっかくなので、本書で一番興味深かった箇所を引用しよう。

 単なる偶然か、それとも運命と言うべきか、ペソア(pessoa)というポルトガル語は、仮面を意味するラテン語personaを語源とし、人、人称、個人、人格、ペルソナを意味する言葉だ。また、不定冠詞をつけてuma pessoa「誰か」「私たち」という意味でも用いられる。一方、フランス語ではpersonneは「ひと」を表すほか、代名詞として「誰でもない」という意味がある。

澤田直(2023).フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路、集英社、148頁

 「異名者」を多数生み出し、「作者の死」を先取りしていたペソアが、「誰でもない」という名前を持って生まれたという事実。あまりに、出来過ぎだ。

 ペソア研究者でもあったタブッキは、死体置場の番人「スピーノ」が、身元不明の他殺死体、「カルロ・ノーボディ」と名乗っていた男の正体を探す『遠い水平線』(白水社)という小説を書いている。タブッキは「余白につけた註」でスピーノとは、スピノザからとったと明言している。訳者の須賀敦子は、その解説で、カルロ・ノーボディ=Nobodyを、『海底二万里』のネモ船長(ラテン語で「誰でもない」を意味する nemo)と関連付けている。

 しかし、上記引用を踏まえると、おそらく、タブッキは、カルロ・ノーボディを、「誰でもない人」ペソアとも関連付けてこの小説を書いたように思われる。イベリア系ユダヤ人であったスピノザが、同じくイベリア系ユダヤ人を祖先に持つペソアを探す物語。2人は、確かに「目のなかに、遠い水平線をもっていた」、つまり、常人とは異なる方法で物を見ていた、と思う。圧倒的な偉人≒異人の著作とその伝記を読むことができることに感謝。

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