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夏の鉄道乗りまわしの旅 第3部

前回に続き、中学2年のころに執筆した旅行記のデータを発掘したので、ひっそりと公開します。
約9年ぶりに見返すと修正したい点だらけですが、中学生の自分に敬意を表し、友人の名前を匿名に差し替えること以外は手をつけずに掲載しました。

第二日 前半

東大宮─大宮─新宿─新潟─長岡─直江津─富山─猪谷─高山─下呂─美濃太田─岐阜─尾張一宮─岐阜─大垣

入浴を済ませ、食事をした私は、鉄道旅行地図帳を入れ替える。K君が気に入ってくれたようで嬉しい。
文庫本も沢山追加する。何しろずっと鉄道に乗っているのだから、沢山あるに越したことはない。それにあたって小振りのリュックサックも背負っていくことにした。
夜行に備えて仮眠をとろうとするが眠れぬ。遠くで花火の音がする。
やっとまどろんできたところで、時間を知らせるアラームが鳴る。私はのそのそと動き出した。今晩の宿は列車である。
およそ予定通りの時刻にベイロ君が自宅に来た。ここから東大宮までは車で行く。昼間通ったばかりの人気のない街を、今度は車が行く。私はベイロ君に仮眠をとったか、などと尋ねる。
東大宮に着くと、今朝と同じようにK君が立っていた。今まで何をしていたかと尋ねれば、なんと「電車でGO!」で遊んでいたと飄々と言うので舌を巻く。
再び18きっぷを見せ、ホームへ。夜の空気が火照った心をほどよく撫でる。
二十二時一分、私たちの旅行が再開された。

大宮駅で埼京線に乗り換える。りんかい線の車両である。
もちろん車内は空いていた。私は相変わらず軽井沢の作家の本を読む。ベイロ君が呆れ顔で見てきたので、リュックサックの中身を見せる。ますます呆れられた。車両のシートの柄が印象的である。

二十二時五十二分、新宿に着く。
急いで前面を撮り、電光掲示板の指示に従って国鉄色の列車へと向かう。

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ホームには、今晩の宿をカメラに納めようという人が群がっていた。そこに混ぜてもらって撮影していると、私は異変に気付いた。
この「ムーンライトえちご」に使われる幕張の車は、「ムーンライト」の愛称幕を装備しているはずだった。しかし目の前の列車は「臨時」と表示している。
どうもおかしいと思って車両の妻面を覗くと、案の定「宮オオ」の表記があるではないか。これつまり、この車両が大宮の車であることを表している。私は車内チャイムを期待していただけに、心底がっかりした。
車内に足を踏み入れると、かび臭いようなにおいが鼻につく。そのにおいは客室内に入ると落ち着いたが、今度は頭上からブーンという異音がしてきた。エアコンからしているらしいが、大いに耳障りだ。K君も顔をしかめて何か言っているが、音のお陰で聞き取れない。
今回は、進行方向左側の窓際にベイロ君、その隣にK君、通路を挟んで私という配置だ。
私たちが乗り込んだときには、まだ私の隣の窓際席は空いていた。そのまま空席であることに越したことはないが、もし乗ってくるのであれば息の臭くない人がよい、などと思っていた。
そして発車直前、「すいません」と三十代くらいの男の人が乗ってきた。気が弱そうな印象だ。乗り込んですぐに、イヤホンを耳に突っ込んで寝てしまった。

二十三時十分、新宿発。発車しても耳障りな音は続く。
しょうがないから車内チャイムを期待して録音を始めるが、チャイムなど鳴らず車掌の声さえもよく聞こえない。
再び大宮に着く。K君は家族に大宮から乗るよう言われたようだが、私のこだわりを通した形となった。もっともチャイムは鳴らなかったから、目的の半分は撃沈した。
列車は高崎線を北上する。ベイロ君はもう寝に入っているが、眠れないようで時折目を開ける。ちなみに私はこの区間を急行「能登」でも通過したことがある。
なんてことを考えていたら、私はぴんと来た。この列車は高崎で「能登」に抜かれるはずなのだ。
早速K君に小型の「コンパス時刻表」を借りる。やはり、本日は「能登」の運転日であった。K君にそれを小声で報告する。
高崎までに少し眠っておこうと思ったが、車内は煌々と電気が点いている。しかも冷房が効きすぎていて肌寒い。私は帽子にハンカチを挟んでアイマスクとしたが、上着がないので寒さの方はどうにもならない。これで一晩を過ごさねばならぬ。見るとK君は上着を羽織っている。
熊谷を通過する。列車は六十キロそこらで闇の中を走っている。既に今日は八月十六日だ。
高崎が近づいてくると、降りてみよう、とK君が通路に身を乗り出して言ってきた。音がうるさいし大きな声を出せないから、こうして会話するほか無いのだ。
K君は待ちきれないようで、到着五分前くらいにデッキへと移動する。ベイロ君は既に半分寝ていて、行かないというので置いていく。

零時五十九分、高崎着。ホームは静かだが、ほかにも何人かの人がホームに出ている。ここで「ムーンライト」は能登を待つ。
能登が入線してくる。あちらも国鉄色だから、国鉄色の特急形が二本頭を並べた。もっともあちらはリニューアル済みの新潟の485系で、車内の設備は大きく差がある。座席も新型である。

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十四分の停車時間中に存分撮影をしていると、なんとベイロ君が降りてきた。眠くてたまらない顔をしているので思わず写真を撮る。何かを問題視しているかのようなしかめっ面をしているが、かろうじて目は開いている。ベイロ君は
「眠っておかないと疲れるよ」
と忠告だけして戻っていった。
能登の発車を見送り、また自分の席へ戻る。

一時十三分、高崎発。私も本格的に寝る体制に入った。
ところで、先ほどからK君が照明を気にしている。以前読んだ雑誌に、幕張車は減光設備を備えていると書いてあったが、大宮車はどうだかわからぬ。
ついにお休み放送が入った。本来ならばここで減光の旨も伝えられるのだが、何もなかった。それにしても冴えない車掌である。
少し待った末、私は諦めて寝ることにした。

目を開けると、列車が止まっている。外を見ると長岡駅であった。ベイロ君とK君が話している。ここで列車は二十分ほど運転停車をする。
運転停車とは、列車は駅に止まるもののドア扱いはしないことを言う。今回の場合は時間調整のためだと思われる。外を大阪行き寝台特急「日本海」が通過して行く。
私は気になり、K君に寝たのか尋ねてみた。するとやはり、ほとんど寝られていないと言うことであった。
再びうとうととし始める。夢の中で列車は何度も発車し、そのたびに目を開けて外を見る。まだ長岡である。
しばらくして、ガクンという音と軽い衝撃とともに、三時三十五分に発車した。

次に私が目を覚ましたのは、四時二十分頃であっただろうか。ベイロ君とK君はまだ寝ている。まだ到着までは時間があるが、もう一度寝られる距離でもない。私は本を読み始めた。
新津の車両基地に様々な車両が止まっているのを見る。二人はまだ寝ているから、見たのは私だけだ。少し申し訳ない気もする。
二人は新潟到着の放送が入っても起きる兆しを見せない。私はK君をつついて起こした。眠そうに降りる支度を始める。
四時五十一分、新潟着。まだ辺りは薄暗い。

一旦改札を出て、駅前のセブンイレブンへ向かう。全くと言っていいほど人通りはないが、信号は遵守する。
朝ということで、一同揃ってパンと行く。私はカレーパンがあったのでご満悦だ。
レジに並ぶ間際、私は思い立って野菜ジュースをかごに入れた。旅行中の貴重なビタミン源だ。
駅舎の写真を撮って再び駅へ。薄暗い青色の世界だ。

私たちは油断していた。既に車内は人が多く、私たちは通路を挟んで二手に分かれた。
車両は白地に濃淡緑の線が入った「旧新潟色」である。車内はリニューアルされていて、ボックスシートの布地は鮮やかな水色だ。
五時十七分、新潟駅を発車して旅行二日目が始まった。
しばらくは新幹線の高架と併走する。長岡までは今来た道を引き返すから、再び新津車両基地が見る。K君とベイロ君は興奮しているが、私は二度目だからそうでもない。ひとまずこれで罪悪感は感じずに済む。
ところで、K君は荷物を網棚に上げたがらない。高崎線でも尋ねたが、依然置き忘れたことがあったそうだ。それにかまわず私はリュックを棚に上げた。
新津を出ると、列車は田園の中を突っ走る。新潟平野はどこまでも平らで、遠くを見ても山陰は無い。115系の加速は力強く、まだまだ第一線で活躍できそうな錯覚にとらわれる。
新潟地区にはE127系という新型車両があるが、これは実質白新線専用である。だから信越線や上越線ではまだ115系が主力だが、いよいよ新車の計画が出てきたそうだ。少し震災の影響で遅れが出ているそうだが、房総の同僚113系が廃車されている以上油断ならない。
元々鉄道車両というのは、足回りと車体の寿命が大きく異なるものだ。この115系にしてもまだまだ健脚ではあるが車体の老朽化は隠せそうもなく、一般の乗客からすれば新車が待ち遠しいのであろう。
田は農道が縦横無尽に張り巡らされ、線路と交わるところを通過するたび踏切の音が過ぎ去っていく。時折警笛が鳴る。
列車は駅に止まるたびに乗客を減らしていく。私が座っていたボックスの客も降り、皆でそこを陣取った。

起きてからまだ何も食べておらず、空腹である。朝食は空いている列車に乗り換えてからということになっていたが、ついにK君が
「先に食べていい」
と尋ねてきたので、私たちも食べてしまうことにした。
大小幾つかの駅に止まり、六時三十一分に長岡着。ここで乗り換えて、引き続き信越本線で西へ向かう。
一度上に上がって、今度は白地に濃淡青色の入った「新・新潟色」の115系に乗り換える。車内はリニューアルされていて、さっきのものと変わらない。
ボックス席を確保してから気付いた。私のリュックサックがない。二日目から新たに持ってきたものだったので、危ないなと思っていたところだった。
心臓が止まりそうになったが、幸い乗ってきた列車はまだホームにいる。
私は時間を確認し、走って先ほど乗ってきた列車へと向かった。

既にドアは閉まっており、私は窓から網棚を窺う。しかしリュックは見当たらなかった。
怪訝そうな顔をしていると、この後の常務と思われる運転手と車掌の男女二人組が、
「忘れ物したの。もしかしてかばんかい」
と尋ねてきたので、
「リュックサックです」
と返した。すると
「ああ、それなら木村さんが持って行ったから……」
とつぶやいてから、
「上の窓口で聞いてごらん」
と教えてくれた。
大層不安だった私は礼を言い、再び窓口へ駆け上がった。
窓口では親切そうな男性駅員が対応しており、私はもう一人の冴えない男性駅員に事情を伝えた。
すると冴えないめがねの窓口氏は
「忘れ物センターにあるので、ここに住所を書いて下さい」
と紙を差し出した。すぐにリュックが出てくると思っていた私は驚き、
「今出してもらえませんか」
と尋ねてみた。すると、
「お忘れ物センターは八時半からなので、今は無理です。」
と返ってきた。
焦る気持ちが高まってくる。私はなぜ取りに行けないところに忘れ物を放り込んだのかと思って、もう一人の窓口氏が事情を知っているのではないかとも思った。
しかし発車時刻が迫っている。私は時間を確認した上で、
「四十二分発に乗りたいのですけど」
と言った。すると窓口氏は苦笑いをして、
「それは間に合わないよ」
と言い捨てた。
その瞬間私は決断した。階段を駆け下り、列車に飛び込んだ。
ベイロ君とK君はドア付近で待っており、私の姿を見て、
「良かった」
とほっとしたようだった。しかし私の顔が晴れないのを見て、
「あれ、リュックは」
と尋ねてきた。それに対して私が、
「無かった」
と一言答えると、場が一瞬凍り付いた。
K君があわててドアの方を向くと、ドアが閉まって列車が動き出した。

それから、私たちのボックスは青い空気に包まれていた。
私が一部始終を話すと、まず窓口氏や車掌の「木村さん」への批判が相次いだ。
しかしそれが一段落すると、私は大変なものを失ったという喪失感に押しつぶされそうになった。
幸いカメラや録音機は手元のバックに入っていた。しかし本の供給は絶たれ、活字中毒の私にとってかなりの痛手であった。中部地区の旅行地図帳も失い、高山本線と身延線のルートが確認できなくなった。
優しいK君とベイロ君は何度も戻ろうかと提案してくれたが、それは私が頑なに断った。ここで八時半まで待ったら、その後の行程が崩壊する。高山本線は本数が少ない。私の失敗で行程を壊すなんて考えられなかった。
そんなことを言っている間も、列車は無慈悲に止まっては走る。一通り議論し尽くしたところで、私たちはシートへと倒れ込んだ。なぜ、網棚になんて載せたのだろう、という後悔の念に襲われた。
この辺りになると周りに木々が目立ち始める。そんな中でも私は、今からリュックを送ってもらえば高山の観光時間中に追いつけるのではないか、などと考えていた。
しばしの間は一同黙りしていたが、やがて海が間近に見えてきたことで自然と気が晴れてきた。今日の日本海は明るく、そして青い。
青森から奥羽、羽越、信越、北陸各線を経て大阪まで行く経路を「日本海縦貫線」というが、全ての区間で日本海を望めるのかというと、そうではない。特に信越本線は新潟周辺で大きく内陸にめり込む形だが、この柏崎から再び海に接近するようになっている。そして高岡の手前、北陸本線の泊あたりでまた海から離れる。
例によって私は窓を開けたが、K君やベイロ君の手によってすぐ閉められてしまった。なぜだろうか。
ここでK君がそわそわし始めた。「柏崎」という駅名から、東京電力の柏崎刈羽原発が見えないかと探しているのであった。
地図帳で見た限りは見えそうもないので笑っていると、ふいにK君が騒いだ。言われるがままに窓から見ると、遙か遠くにそれらしき煙突が見えるではないか。執念さえあれば、見えないものも見えるのであろうか。
柏崎を出ると、鯨波、青海川、笠島といかにも海を感じさせる駅名が続く。
日本一海に近い駅と言えば鶴見線の海芝浦であるが、厳密に言えばあれは京浜運河であって海ではない。だから私は青海川が一番海に近い駅だと思っている。
この駅はほとんど砂浜と同じ高さに駅がある印象だ。逆側には崖が反り立つ。故に新潟県中越地震では土砂崩れによって駅が押し流される事故が起きた。
中越地震では前述の柏刈羽湖原発も被害を受け、長らく復旧作業を行う羽目になったことが記憶に新しい。もっとも、あの時点では原発がこんなに深刻な事故を引き起こすなんて、思いも寄らなかった。
柏崎刈羽原発は新しいから、福島第一原発に比べて津波対策も強化されている。例えばタービン建屋が原子炉建屋の屋上に設置されているから、簡単に今回のような冷却不能状態に陥ることもないと考えられる。ただし、これは「想定外」のことが起こらなければの話である。
この辺りになると日も高くなっており、海の青と空の青が目に映える。車窓からは小さな島々が数多く見え、中には鳥居が立っている島もあった。
K君とベイロ君が、
「隣に単線のトンネルがあった」
と口を揃える。なんでも今走っているトンネルの隣に、もう一つ古びたトンネルがあったというのだ。
地図帳で見た限りでは、この区間は線路の付け替えをした歴史があったそうだが、今通った区間については記載がない。
私も注意してみていると、出てきたトンネルの隣にもう一つ出口があるのを確認できた。
その後も幾つか見つけることができたが、結局正体は明らかにならなかった。
犀潟で北越急行、通称「ほくほく線」が合流して、八時七分、直江津着。

すぐに富山行き普通列車に乗り換える。ここからはJR西日本の区間だから、車両は475系である。元急行形の四十年選手だ。窓の下には懐かしい栓抜きが残っている。
北陸本線は海風と豪雪に晒される過酷な路線であるが、475系や急行形の足回りを流用した413系など、かなり年季が入った車両ばかりである。これは路線内に交流区間と直流区間が混在している北陸本線に新車を入れるとなると、必然的に高価な交直流車となってしまうからである。そんな理由から、昭和四十年代に寝台電車として製造され、昭和六十年に近郊形に改造されたという異色の経歴を持つ419系が、今年の三月まで運用されていたことも有名だ。そしてこの419系を置き換えたのが、他ならぬ475系というのだから笑ってしまう。金沢以西に新車が入ったことで、玉突きでやってきたようだ。
まず席を確保し、隣にEF81の貨物列車が来たので撮影する。関東ではまずお目にかかれない、更新車を表す白帯付きのローズピンク色である。

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八時十三分、直江津発。放送の冒頭が「本日も、JR西日本を」に変化する。依然列車は海沿いを西に向かう。
日本海沿岸の地形は厳しい。だから日本海の鉄道は、崖と海に挟まれたわずかな空間を走る。どうにもいかなくなると、トンネルで山を貫く。そんな厳しい線形は多くの曲線を生み、列車は徐行を余儀なくされた。
それらの区間は特急列車の高速化を阻み、後になって技術が進むと、そんな海沿いを大胆にトンネルで貫く新ルートの開通が相次いだ。
このような線路の付け替えが生んだ奇妙な産物が、筒石駅だ。
これは新線の開通時に駅をトンネルの中に移動させて出来た駅で、ファンからは「モグラ駅」として知られている。私は久しぶりの再会となる。
列車は、我々が陣取っている窓からちょうど駅名板が見える位置に止まった。すかさず写真を撮る。

糸魚川に到着。ここで六分ほど停車する。その時間を利用して、私とK君はホームへ出た。電話をかけるためである。
私とK君は家への連絡用に携帯電話を持たされていた。しかし私が電話したのは、長岡駅であった。
窓口で渡された紙を見て、電話をかける。するとお忘れ物センターにつながり、リュックサックは預かっているとのことだった。
発車時間が迫っているとK君が急かしてきたのでデッキへ移る。475系は元急行形であるが故に、車端部にはデッキがある。
私は、
「どのようにして荷物を回収すればよいのですか」
と尋ねた。長岡へ戻るようではたまらない。
すると幸いにも、
「最寄りの駅で手続きをすれば、着払いで発送します」
ということだった。
私は安心し、座席へと戻った。糸魚川で少し乗車率が上がり、座席はほとんどふさがっていた。
ひたすら西へ富山を目指す。この区間は特急と鈍行の所要時間の差が激しい。土讃線ほどではないが、少しの区間でも時間差が大きく開く。
ここでまたカメラ戦争が勃発した。ここでは私とK君、向かい側にベイロ君という配置だったから、ベイロ君の集中砲火に遭わないよう気をつければならぬ。
親不知から再び海に接近する。糸魚川駅も十分海に近いのだが、この区間はまさに断崖絶壁といえる場所である。ここは鉄道開通以前にも、旅人が波にのまれて多くの命を落とした場所である。
列車は崖の縁に沿って進む。しかし、本来ならば海しか存在してはならないはずの右手に、無機質な高速道路の高架が密着している。非常に気になり目障りであるが、道路を海上に通さねばならないほど、この海岸の地形が厳しいということがわかる。
まもなく車窓に田園が広がってきた。田の中に結構な数の民家も混ざっているのが特徴的である。
石川県と富山県は共にかつての加賀百万石だが、現在の富山県にあたる地域は加賀藩において米所的な役割を果たし、城下町金沢を支えていたそうだ。そんな歴史的背景から今でも石川県民は、富山県民に対して優越感を抱いているらしい。
黒部から富山地方鉄道が合流してくる。列車はいないかと待ち構えていると、前方に緑と黄色の車両が見えてきた。元京阪電鉄の3000系である。
こちらの列車が徐々に二両編成の列車を抜いていく。私は無類の京阪好きであるから、窓にかぶりついてタイミングを見計らい、先頭をカメラに収めた。K君に、
「また見えたら言って」
と言われる。どうやら撮り損ねたらしい。

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こちらの北陸本線が駅に止まって発車すると、すぐに富山地鉄が追いついてきた。足回りは営団地下鉄のものだから加速はお手の物だ。
しかし並走したのはわずかで、再びこちらが追い抜いた後、線路は分岐していった。一度線路こそは離れるが、滑川、富山と要所要所で合流する。
他にこのような並走区間はえちぜん鉄道も有しているが、どちらも運賃、時間面で北陸本線が優位だという。私鉄にも頑張って欲しいと私は思う。
ここでも私は反対を押し切って窓を開けようと思ったが、残念ながら硬くてわずかしか開かなかった。
富山に近づいてくるに連れて乗車率は上がり、ついには立つ人も出てきた。

リュックサック事件を引きずりつつ、十時三分、富山着。この頃にはリュックサック事件と昨日の高崎線遅延を含めて、旅行に参加できなかったN君の祟りだという意見が主流となっていた。
北陸とは滅多に来られる場所ではない。K君が今乗ってきた475系と記念撮影がしたいというのでシャッターを押す。
私には記念撮影をする習慣はないのだが、良いことだと思って今度はK君にシャッターを押してもらう。良い記録になった。
しばらく特急「サンダーバード」等を撮影し、一度改札へと向かう。
富山駅は現在工事中である。もちろん北陸新幹線乗り入れに備えたもので、たくさんの建設車両で賑わっている。北陸新幹線は二〇一四年には金沢まで開業するが、その暁には今乗ってきた北陸本線の直江津から金沢までは並行在来線として第三セクターへと売り飛ばされる。この先新幹線が伸びるに連れて次々と切り売りされて、やがて一時代を築いた北陸本線の名前は過去のものになるであろう。

空はすっかり曇ってしまっている。私たちは工事中の跨線橋を渡って駅舎へと向かった。
有人改札を抜け、一度外に出る。私はスタンプを押し、一同記念に入場券を買ってホームへと戻った。改札にいた駅員は非常に愛想がよく、
「またお越し下さい」
と口にして人々を歓迎している。長岡駅に関わった後の私は、会社が違えばこんなに違うのかと驚き呆れた。もちろんJR東に対してである。昨日の115系の件もそうで、首都圏在住の私は損をしていると日頃から思う。このことを、私たちは今回の旅行でいやなほど思い知らされることになる。

高山本線の乗り場へと向かうと、既に二両連結の気動車が車体を震わせていた。キハ120というステンレス製の軽量気動車で、東は大糸線から西は美祢線まで、JR西日本の閑散路線に広く導入されている。私とK君は以前芸備線でお世話になっており、また私は美祢線でも乗ったことがある。
各路線ごとに塗装は異なり、高山本線は車両の一方の前面が赤、もう一方が緑という奇抜な塗色である。私たちは撮影した後、少々混み合う車内に踏み込んだ。
セミクロスシートの車内は、七割程の座席が埋まっていた。ベイロ君とK君はロングシートに座ろうとしたが、そこは私が譲らず、三人分の空きを見つけてボックスを陣取った。相席は七十代前半ほどだろうか、山高帽をかぶった旅行者風の男性である。背筋が伸びていて品が良い印象を受ける。
十時二十七分、富山発。バスのようなワンマン仕様の放送が流れる。
列車はしばらく北陸本線と並走して、神通川を渡って西富山に着く。この辺りはまだ富山への通勤圏内だから、沿線は住宅街である。
次の婦中鵜坂は新しいホームだが、設備は必要最低限といった感じである。それもそのはず、この駅は富山市の社会実験のために設けられた臨時駅で、駅前に大きな駐輪場を持つ。
この社会実験では列車本数も若干増え、それに対応するため今年の三月までキハ58形が現役で使用されていた。これもまた四十年選手であり、私の大好きな車両でもある。北陸本線にしろ高山本線にしろ、私は惜しいところで国鉄形車両に逃げられている。
車窓が徐々に田園風景へと変化してきた。私は窓辺にカメラを置いて動画を撮影する。この車両は新しいから窓は開かないが、やはりボックスシートはいいぞ、と思う。
ところで、先ほどからベイロ君がうとうとしているのだが、徐々に隣の男性に寄りかかる形となって迷惑をかけている。いよいよ頭が接触すると、いかにも眠そうに薄目を開けて体勢を立て直すが、再び徐々に寄りかかってしまう。その繰り返しである。
K君も「少し眠る」と言って目を閉じた。しかし私だけは一向に眠くならずに景色を見ている。夜更かしに耐性が出来ているのか、寝不足などどこ吹く風だ。
越中八尾は風の盆祭りで有名である。シーズンには大阪から臨時列車も運転されるから、構内はやや広くなっている。
K君は結局眠れなかったらしく、終点を前にして席を立ち、前方を見ている。そのうち急かされて私も席を立つ。
車窓はさらに森林へと変化する。少々の丘は掘り割りで抜けているようで、景色は悪い。
列車の速度は上がらないまま、十一時十六分、猪谷着。一時間足らずの乗車時間であった。

私たちは疾風のごとく向かい側のホームに止まっていた気動車に乗り換え、確実にボックスを確保する。二両連結のキハ48形である。

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猪谷はJR西日本と東海の境界駅であるから、普通列車の運行系統はここで分断されている。特急はというと、東海が受け持つ一部の「ワイドビューひだ」が富山まで直通している。JR西日本は特急を所有していない。
荷物を置いて、交代で車両前面を撮りに行く。私とK君はここでも記念撮影をした。
十一時二十二分、猪谷発。人は疎らで、観光客風情の人が多い。
猪谷駅も少々奥まった山の中といった雰囲気だが、高山本線はここから一層山岳路線じみてくる。この車両は非力なことで有名な国鉄キハ47形だが、JR東海の車は全てエンジン換装済みだから加速は力強い。国鉄のDMH17型エンジン特有の「カラカラ」というアイドル音も聞こえない。ちなみにこのエンジンは「カミンズ社」という海外メーカーからわざわざ輸入したもので、後に誕生したキハ11形や特急「ワイドビューひだ」のキハ85形にも搭載されている。
列車はこの先宮川、飛騨川に沿って谷間を走る。何度も鉄橋で川を跨ぐから、車窓のあっちからこっちへと川が移動する。この区間はいわゆる中流で、川幅はそこそこあって美しい。九州の球磨川を彷彿とさせるが、水は少なめだから河原も見える。
それでも駅が近づくとわずかばかりの田も現れ、民家も少しばかり混ざっている。明らかにかつては茅葺き、または藁葺きだったと思われる、赤や青のトタン葺き屋根の家もある。
ここで私は万座・鹿沢口で買ったさきいかを食べる。ベイロ君にも大量に分ける。しかし魚介類全般が苦手なK君は、いかを鼻先に持って行っただけで顔をしかめている。こんなにおいしいものを食べないなんて、人生の半分ほど損していると思う。
しばらく山間を走った後、少し開けた盆地のような場所に出た。二本の川が合流するここは飛騨古川で、飛騨市の人口は二万八千人ほどである。もう高山は近い。
岐阜方面からの特急が遅れているそうだ。その影響でこの列車も交換待ちなどで遅れてきた。貴重な観光時間が惜しい。
いよいよ九万人都市高山の市街地となって、私たちは降りる支度をする。もうこのころにはリュックサックのことなど忘れて楽しんでいたが、本の残りが気になる私は目敏く大手古本屋を車窓から見つけた。ひょっとしたら観光中に行けるかと本気で考えたが、駅はそこからだいぶ進んだところであった。

十分ほど遅れて十二時三十六分、高山に着く。広い駅構内には特急「ひだ」のアイドル音が響き渡っており、熱気がむんむんとすごい。

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木の温もりが良い有人改札を出て、私たちはまず駅前の観光案内所へ向かった。おいしいラーメン屋の在処を教えて貰うためである。この計画は、地元のものは地元で聞くのが一番という私の考えに基づいたものだ。
案の定、駅前には観光都市高山にふさわしいきれいな案内所があった。勝手に「お昼の大将」に任命されたベイロ君が尋ねると、「高山ラーメンマップ」なるものを出してきてくれた。
ひとまず道路を渡って駅舎全体をカメラに収める。コンクリート造りだが、茶色系で塗装されており良い雰囲気だ。

次に私たちはラーメンマップを見て伝統建築区域へと向かった。伝統建築を見つつ、近くのラーメン屋に入ろうという算段である。私は天下一品の方向音痴であるから、この先はベイロ君とK君に任せることにする。
駅前からは商店街が出ていて、既に木造建築風の建物が建っている。しかしこれらの比較的大きな建物は、たいてい最近建てられたものであることが多かった。金沢、小浜などを巡っているうちに、本当の木造建築を見抜く目を手に入れたようである。さすが夏休み、観光客が多く歩く。
徐々にそれらしい建物が目に付いてきたが、ベイロ君はあるラーメン屋に目を付けたと見えて、屋根のある大通りから外れた。既に私は大層空腹である。

すぐに店は見つかった。さすがお昼の大将である。
それほど大きくもないが、立地が悪い割に繁盛している店である。中を覗くと、既に立って待っている人が見えたが、外に列はなかった。私たちはいすに腰掛けて待つことにした。K君が家に電話する。妹君が出たようで、列車の運行情報を調べて貰う。するとやはり中京圏は大雨で、名古屋まで乗り入れる「ひだ」が遅延し、高山本線も巻き込まれているということであった。これから先の道中が思いやられる。私たちは、これも大の高山本線好きであるN君の呪いだと断定した。天気が回復し、日差しが強くなったが湿度はそれほどでもない。
しばし待ったが呼ばれない。私の提案で店内を再び覗くと、すぐに桟敷席に案内された。
品書きを見るまでもなく、一同普通のラーメンと決める。もちろん「お昼の大将」ベイロ君が代表となって注文する。
私は高山ラーメンの知識については、某軽井沢の作家の本で読んだに留まる。つまり、どんなラーメンが出てくるのかわからないわけだ。
待っている間にベイロ君の差配で代金が集められる。今回の予算は皆一万円程度であるが、まだ土産を買っていないためか結構な額が残っているようあった。駅弁を食べるという贅沢もしていない。

いよいよラーメンの登場である。スープはしょうゆで、面は珍しく縮れ麺であった。もちろんチャーシュー付きである。
私は猫舌だから慎重にスタートするが、ベイロ君は序盤から豪快な食べっぷりを見せる。私がそれに続き、さらにK君が続くといった構図である。
私の感想を述べさせてもらうと、スープの味にコクがないのか、深みがない。おそらく出汁が不足しているのだと思うが、湯を飲んでいるようで少々味気ない。また、個人的に縮れ麺が残念であった。しかしこれはあくまでも個人の感想である。
私は先ほどから、出入り口付近にある水槽が気になってしょうがない。さほど大きくない水槽に、これでもかというほど大きな金魚が泳いでいる。
私がそのことを言うと、ベイロ君が、
「あんなに金魚は大きくならないでしょ」
と異を唱えた。しかし私が見る限り、あれは明らかに「ランチュウ」という種類の金魚である。
私は強気に出て、
「千円賭けてもいい」
などと言い出した。しかしベイロ君も引かずに賭けに応じる構えである。私は会計の時に店員に聞いてみようとまで言い出した。
その店員であるが、オープンカウンターのような厨房で調理を担当している、六十歳くらいの男性が目に付いた。おそらく店主だと思うのだが、頭に中国風の妙な緑色の帽子を載せている。しかしどう見ても日本人である。
さて、いよいよ会計の時であるが、いざ言おうとなると忙しく動き回る店員の間を突くことが出来ずに、結局真相は闇の中となってしまった。しかしどう見ても、あれは金魚である。

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腹ごしらえも済み、いよいよ私たちは伝建地区へと向かった。また大通りへと戻り、川を渡るとすぐそこである。
川はそれほど水量も幅もないが、岸まで建物が密集しているところが、京都の鴨川を彷彿とさせる。少し日が陰ってきてしまった。
橋を渡ってまず目に付いた土産屋に入る。かき入れ時とあって、大層繁盛している。
まず一通り店内を見て、家や地場産センター向けのものに見当をつける。ちなみに「地場産センター」というのはK君語で、日本語に訳すと「祖母・祖父」という意味になる。広義では高齢者全般のことも指すが、ここでの意味は前者の方である。
私はここで初めて「さるぼぼ」というものに出会った。そしてすっかり気に入ってしまった。
さるぼぼというのは、この辺りの地域に伝わる人形のようなもので、赤色をしていて顔がのっぺらぼうになっている。それらが非常に素朴な味を出していて、いかにも私好みの品である。
四百円と少々値が張ったが、小さなストラップ状のものを一つ購入することに決めた。すぐに鞄に付けようと思う。
家族向けの土産を決めた後、ベイロ君が例のN君やW君への土産を買うと言い出した。私は既に家族旅行の土産があるので要らぬと思ったが、同じく既に土産があるベイロ君が買うと言っているし、結局二人を置いてくる結果となってしまったことから少々申し訳ないという気持ちになり、再び物色を始めた。
もっとも、ベイロ君に関しては最初からまともな土産を買う気など皆無である。民芸品の区画を一通りさらった後、剣道部のW君には剣のおもちゃを、N君には木製のゴム鉄砲を見つけてにやけ顔である。剣のおもちゃと言っても、布の中に綿が詰まっていて、叩くと音が鳴るという完全に剣道とはかけ離れた品物である。
わたしも同じ区画に照準を絞り、ベイロ君のように遊び心のあるものを探しにかかった。
さるぼぼという出費がある以上あまり高価なものは選べない。ということで、私は色違いの「逆立ちごま」を選んだ。受け取ったN君とW君の反応が楽しみである。
連れだって会計へと進む。ここでベイロ君に悲劇が起きた。店員に向かって福沢諭吉を差し出したベイロ君の手に戻されたもの、それはなんとあの新渡戸稲造であったのだ。
新渡戸稲造とはすなわち、五千円札の旧札と言うことである。これはそうそうお目にかかれるものではない。
一度は喜んだベイロ君であったが、冷静に考えて愕然とした。
「もったいなくて使えないじゃないか……」
と。(第3部へ続く)

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