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とある手紙

拝啓

先日は素敵なお手紙をどうもありがとうございました。お返事が遅くなり申し訳ありません。「社会人」としての最初の2週間を過ごし、ようやく一息つきながら、この短期間に起こったことについて総括しているところです。

結論から申し上げますと、今の職場の環境はあながち悪くないように自分には思えます。飲酒を強要されることもなく、社訓を暗唱させられることもなく、大半のことが合理的に運ばれています。もちろんまだ勤め始めて2週間にも満たないので、さまざまなことを見極めるには時期尚早ですが、今のところはさしたるストレスもなく過ごせています。他方で自分は初出勤の日から今週の金曜に至るまで、帰路に就くたびに今日一日自分が仕事に捧げた時間の多さに軽い目眩を覚えています。そして、そうした日々の積み重ねの上に人生が消費されていくことを想像すると絶望すら禁じ得ません。右脳では自分の職場を一定程度評価しつつ、左脳では賃労働一般に対する苦悩が形成されるという奇妙な毎日を過ごしています。生きることとは何故こんなにも骨が折れるのでしょう。

見苦しいことを承知で現在思っていることを書き連ねてしまいましたが、今の自分のまわりには面と向かってこのような告白をできる相手がいません。職場の人々はもちろん、両親もまた立場が異なりすぎて話そうという気にはなれません。一笑に付されたり、現状肯定的な事実上の否定を返されたりするのが怖いのです。本音で語り合える人々に恵まれた、大学生活がいかに尊いものであったかを今になって痛感しています。

以上が、自分が通勤を始めて以来間書こうとしていた内容ですが、ここ数日職場に馴染むにつれて、自分が会社の論理に浸潤され、会社に包摂されつつあることを感じています。いつまでこの「青い」自分が存続しうるのか判らなくなってきました。けれども自分は、仕事が自分を幸福に導くとはどうしても思えません。そうである以上、自分はいま感じているやりきれない思いを大切にしながら、賃金労働生活を続けていこうと思います。


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就職すると、「最初の2年は」「3年の間はとりあえず」といった時間軸の話をよく耳にするようになります。自分は最初、2年や3年を仮初めのように扱うこうした言説が理解できませんでした。3年といえば、高校に入ってから卒業するまでの期間に相当します。それほどの期間を「ひとまず」「とりあえず」の境地で過ごすことができるでしょうか。

けれども就職してからひと月経ったいまなら、そうした言いぐさも理解することができます。5日間を無心で過ごし、ささやかな週末で口を注ぐうちに1週間はいとも簡単に過ぎ去ってしまうのです。そうした淡々とした時間の延長上にひと月があり1年があるとすれば、2年や3年など単なる一小節に過ぎないのかもしれません。毎日毎日を輝かせようと躍起になっていた学生の頃が懐かしく思えます。今や大学生活は此岸から見た彼岸のような(あるいは、彼岸から見た此岸のような)遠い存在になってしまいました。

職場で単調な作業に勤しんでいると、ときどき白昼夢を見ることがあります。日差し、暑熱、青い空と緑の大地、そしてスピッツ──
友人と好きな音楽をかけてドライブしていた学生時代のイメージが、自分における自由の象徴らしいです。けれども不思議と、その頃に帰りたいといった未練を抱くことはありません。今の自分からすると、そうした在りし日の時間を思うのは、かつてあったローマ帝国の繁栄に遠く心を馳せるのと同じような営みに過ぎないのです。

自分は人よりも環境に馴染むことを恐れる人間です。周囲に合わせて自分を作り替えるうちに、なにか「大切なもの」を失ってしまうのが怖いのでしょう。けれどもそんな自分も、一か月を過ごすうちに「社会人」の時間の流れに馴染みつつあることを自覚しています。それ自体は日々を生きていく上で必要なことであり、厭うつもりはありません。ただ、自分はやっぱり人よりも未練がましい人間なので、せめて我が身に生じつつある変化を手紙にしたためることで、以前の自分に立ち返るための道標を残そうとしているようです。そうすることが何の役に立つのか、いまの自分には分かる由もないことですが、どうかこの場を借りて述懐することをお許しください。

敬具


この文章は、4月12日に実際に投函したとある手紙の内容を抜粋し、加筆したものです。

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