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早春倦怠記(下)

「小学校で一緒だったあの○○ちゃんは、この前ママになったんだって」と、祖母は自分の小学校時代の同級生でかつ又従兄弟(で正しかったか忘れたけれど)の現在について自分に報告した。父親が運転する車で祖父の墓参りに向かう道中のことだった。自分はなんと答えるべきかよくわからなかった。「生き急いでるな」という感想が生じたのも束の間、ぼうっと流れゆく車窓を眺めていると、たしかに街には数多の家族が行き交っていた。そして自分もまた紛れもない「家族の一員」として街に存在していた。

* * *

「じゃあヨウスケは、結婚したいとか子供がほしいとか、そういった将来の願望はないの?」と、書家の友人は彼のアトリエで自分に尋ねた。

「そうだね、特に今の段階ではこれといってないな。だいいち、自分は結婚というのは行為というよりも結果だと思っていて、『結婚しよう』と思ってできるものとも思っていないし……選択肢として否定するつもりはないけど、すべては成り行き次第だと思う」。自分は偽らざる本音でもって応えた。もっともこの背後には、過去一度もまともに交際と呼べるものを経たことがない自分が、一足飛びに結婚について語ることをおこがましく思う気持ちもまた潜んでいた。

「子供についても似たようなものだけど……それとは別に、自分が親としての務めを果たせるとは全く思えないな。基本的に確固たるものなど何もないと思って生きているから、子供に『なんでこれをしちゃだめなの』とか訊かれても『よくわからない』とか、ひたすらそんな答えを連発すると思う」

友人は大いに笑いながら「よくわからない」と復唱した。

「じゃあ仮に自分が子に何かを命じたとして、その根拠はどこから来ているのかを考えると、結局パターナリズムに行き着いちゃう気がするんだよね。自分が普段忌み嫌うところの、権力の行使になっちゃう気がする。でもそんなこと言ってたら子育てなんてできないでしょ」と言って、自分はこの話題を締めた。でも同時に、自分がいまごねた理屈とは所詮、自分一人の頭の中から捻出された空論に過ぎないということを自分は自覚していた。他者を目の前にしたとき、整然とした理屈はいとも簡単に骨抜きにされる。それくらいのことは自分にも分かる。そしてそのほうがはるかに「正しい」あり方であるような気がしてならなかった。

書家の友人が祖母から引き継いだアトリエは、ごく自然な心地よさを備えていた。自分も部屋を借りていたときは明かりを変えてみたり、アロマディフューザーやキャンドルを買って居心地をよくしようと努めたが、そのアトリエにはそうした作為的な「がんばり」の痕跡は認められなかった。柄物の絨毯に西洋人形、観葉植物と、部屋は雑多と言っていいほど多くの物々で占められていたが、それらすべてが背後に物語を感じさせる姿勢でしっくりと、結果的に肩肘張らぬ居心地のよさを醸し出しているのだった。それは年季と、長年に渡る地に足のついた生活の産物なのだろうと自分は思った。

正直なところ世間的な尺度に照らせば、自分という人間は子を持つ資格を有していると思う。両親から十二分に無償の愛を得て育った自分であれば、愛情の再生産に参画することができる。だが結局のところ、いかなる親の愛情も人を最後まで幸福に導くことはできない。自分の幸福は自分の手によってしか達成されない。内なる孤独が埋められることはない。そして子は苦渋のうちに、自分の生について問い直すことになる。「どうして生んでくれたのか」と。自分はその問いへの答えを持ち得ない。

* * *

3月某日、自分は実家で春を持て余す自分に嫌気が差し、思い立って九州に向かうことにした。正直国内旅行、それも一人旅であれば就職前に急いで行くこともないと思ったが、かといってこの時世にあっては、ほかに優先してすべきことも思いつかなかった。その代わり、行きも帰りもフェリーや鈍行列車を多用した、ある意味贅沢な行程を採用した。

全4日間の旅程のうち、九州を旅したのは正味2日間だけであった。いずれも休日にかかっていたことから、春を待ちわびた観光客で各地は賑わっていた。2日目、自分は三角という有明海に面した港町を歩いていたが、一大観光地とは表しがたいそこも例外ではなかった。自家用車の車列に混じって徒党を組んだ暴走族もまた、凄まじい排気音で以て春の訪れを祝福していた。

一通り見て回った後、自分は近代的な港に造られた螺旋状の塔に登った。眼下では、観光客の2人連れ、あるいは複数人から成る団体がそれぞれに小宇宙を作って歩いていた。自分だけが剥き出しの生身のまま、徐々に夕暮れの冷たさを帯びつつある海風に曝されていた。その剥き出しの深淵が世界と交わるとき、何かが弾けるかもしれないし、あるいはただ風になでられ摩耗するだけかもしれない。少なくともそのときの自分の身には何も起こらなかった。
自分は可能性の問題として、自分が塔から落下したときのことを考えてみた。眼下の小宇宙は支障をきたすだろうか。いや、それはそれ自体で自分と関係なしに恒常性を保ち続けるだろう。自分はいらぬ想定を始めた寝不足の頭を戒めた。

* * *

3月26日、自分は札幌の友人宅より出でた。これが自分が札幌で経験する「最後の別れ」のはずであった。19日に札幌に再上陸してから数々の別れを経てきたが、だいたいにおいて自分はしおらしく口上を述べたりする代わりに、「また」だの何だのと言って別れそのものをぼかす道を選んでいた。決別の方法としてはかなり不適当な部類であり、それ故の曖昧な未練はまた前を向くことをも難しくしていた。そうでなくても、札幌を出たこの先にあるのは学生生活の終焉、実家暮らしへの回帰、そして賃金労働の始まりと、前向きになれる材料は一つもなかった。心なしか心拍数が高止まりしているのは、一週間分の着替えを詰めたキャリーケースを牽いていることだけが原因とは思えなかった。地下鉄に乗りながら、自分は胸につかえた鈍色の固形物を飲み下そうと躍起になっていた。

おそらく自分はこの先、苦心の末に得た職場で居場所と処世の術を確立しようと努めるだろう。だが自分は、そうすることがなにか自分に無限の可能性を与えるとは思っていない。仕事というものは自分に生活を与えこそすれ、幸福をもたらしてくれるとは思っていなかった。

生まれたての僕らの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じてれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
信じたくなくて 目を閉じて過ごしている
(Mr.Children「未来」より/ 作詞: 桜井和寿)

JR札幌駅に通ずるコンコースを急ぎながら、自分はキッカー誌が自分に下した採点のことを思い出していた。この4年間で自分は果たして「成長」したのだろうか。それとも「伸び悩んだ」のだろうか。そしてその先に「未来」はあるのだろうか。

若さとは可能性である。だが同時に、いくつかのことを自分は若いうちに成し遂げなくてはならない。若さは有限である。ある意味、自分は若さに脅迫されている。

* * *

実家に戻ってからというもの、時間はあたかも4月1日に向けて収束するかのように流れ始めた。何もしなくても、時間は自分が曲がりなりにも前を向くように設計されていた。気候はいよいよ春らしくなり、暖かさと涼しさの間で揺らめいていた。思えば中学も高校も、新たな船出と不安はいつもこの揺らぎの中にあった。季節という横糸が自分の人生を束ねていることを、自分は久しぶりに肌で感じることができた。それと同時に、あらゆる意味で来るところまで来てしまったのだという不可逆的な時間の流れを、自分は一人噛みしめていた。

不様な塗り絵のような街でさえ
花びらに染まるというのに
今はただ春をやり過ごすだけ
浅い夢酔えないあなたのように
行き先も理由も持たない孤独を友として
(キリンジ「愛のCoda」より/ 作詞: 堀込高樹)

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