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近況報告

高緯度の昼は短い。17時にして夜の帳が下りきっているのを目にするたび、自分はそこに雪に閉ざされた冬の足音を聞く。

10月の半ばに愁活を終えてから、自分は降って湧いてくる予定に振り回されることも、日ごとパソコンと向き合って将来を模索する必要もなくなった。卒論という次なる仕事を抱えつつも、再び目の前の時間を生きることへの回帰を果たした。

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10月21日からの6日間、自分はかねてより決めていた、未踏である北海道の鉄路に乗る旅に出た。

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2日目の早暁、根室へと向かう列車は枯れ葉を巻き上げながら最東端へと走った。その荒涼とした大地に、自分は来る冬の気配を感じずにはいられなかった。

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6日間の旅の途中、自分は2度札幌に戻ってきた。普段なら旅の終わりをことさらに自覚する札幌着であるが、このときに限ってはそうした感傷を催す必要はなかった。そのかわり、札幌に「戻る」ことのできるのはあと何度であろうと、また別の感傷を患っていた。

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10月26日、旭川を朝6時に出た自分は普通列車に揺られること6時間、稚内に到着し、JR北海道のすべての路線に足跡を残した。それは同時に、北海道の燃えるような秋との決別をも意味していた。

それからというもの、自分は卒論を横目で見やりつつ、自らの愁活の記憶を書き留める作業に勤しんだ。思考の過程を文字化せずにはいられない自分にとって、愁活記の完成は喫緊の課題であった。

間髪入れずに、今度は友人や後輩と出かける機会が相次いで降ってきた。なにを隠そう自分の大学生活、そして北海道での暮らしの終焉が迫っていた。それとは別に自分を訪れる人も多く、またこちらから訪れることもしばしばであった。

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11月1-2日、サークルの仲間と函館に行く。

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11月3日、これが最後と訪れてきた両親を美瑛に案内する。

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11月8日、中学校来の友人を夜の大学を歩いた。秋と呼ぶにはあまりに冷たい風が頬を刺した。

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11月15日、泊まりに来た高校同期と豊平峡温泉を訪れる。

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翌16日、大学を案内して高校同期と別れる。落葉が最後の色香を放っていた。木の葉はやがて積もる雪の下に閉じこめられ、再び大気に触れるには春を待たねばならない。そのときに自分はすでに札幌にいない。知己を案内する足取りの一歩一歩が、この大地との離別を噛みしめる作業のように思われた。

この日、自分にしては少々おもしろいできごとがあった。小学校から一緒で、中学生の時に同じ塾に通っていた知人(といっても、小学生のときを含めてもしっかり会話をした記憶はない)が、自分の「夜逃げ」に同行し、その模様を観察したいとの申し出を突如送ってきたのだった。しかも雪が降る前にということで、一週間後の週末に来道するという。

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11月17日は、学部の友人に付き合ってもらって空知の炭鉱跡を巡った。

11月22日、午前3時の狸小路にレンタカーを転がしていくと、それとわかる知己の姿があった。高校(、浪人)、そして大学の数年間を超越しての再会としてはかなり自然に、彼女は突如現れた自分の車の助手席へと滑り込んできた。

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6か月ぶりに訪れた積丹の岬は、やはりというべきか荒涼としていた。氷雨が吹き付けてきて、我々は持っていたビニール袋を頭に被りながら道を往復した。

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朝日を拝むことはかなわず、それどころか海辺で語らうことすら許さない気候を前に、我々は早々と車に引き上げざるを得なかった。浜で飲むつもりだったインスタントコーヒを車中で飲みながら、濡れそぼった髪が乾くのを待った。それから自分は車を出して、積丹の漁村を尻目に札幌へと針路を取った。昼過ぎに札幌に戻るまで、車中に会話が途切れることはなかった。それは過去の思い出を共に確認する作業でなく、それぞれの「その後」と現在について語らう場であり時間であった。過ぎ去った年月の長さを嘆きつつも、自分はここに至って話せる過去というべきものが生じたことを悪くないと思った。友人は再び日常へと帰って行った。

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その後も自分は、何人かの人と久しぶりの会話をする機会を得た。なかにはこの期に及んで初めて対面する方も含まれていた。たが一つ共通していたのは、それらは卒業とそれに続く離別という「終焉」を念頭に置いた会談であったということである。だからかは知らないけれども、そういった機会の大体において、自分のほうから話を切り上げようと口にすることは稀なのであった。決まって自分は切り上げることを提案される側であった。
単なる偶然なのかもしれない。しかし自分はどこかで、自分が人一倍失われるものへの未練の強い、センチメンタルな人間であることを思い出しつつあった。

元々写真を好きになったのも、失われゆくものを失うまいとひたすら記録に残そうとした、その執念の果てのことであった。何事も文章に残そうとするのも理由は同じに違いあるまい。そう、自分は昔から何においても人一倍未練がましい人間であったのだ。秋を惜しんで全道へと繰り出し、雪が降る前にと駆け足で空知を巡ったバイタリティも、感傷の産物に他ならなかった。

人生を即興の連続であるとし、曲線的な生き方を望む自分にとって、そうした季節との語らいや人との出会いに至上の価値が置かれることは間違いない。理屈を抜きにしても、人と会う時間は自分にとって楽しいものだった。でも感傷は、今を見据えひたすら前を向いて生きて行くことを難しくする。現に、理想を愛でているうちに就活に出遅れ、終わったと思いきや秋を繋ぎ止めることに奔走した結果として、自分の卒論は致命的に進行が遅れている。それが卒業という、未来にかかわる目下の目標と直結しているにもかかわらずである。

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11月26日、自分は4か月ぶりにウポポイを訪れた。訪問を終えてゲートをくぐり出た14時過ぎ、早くも1日を終えようとしているかのような斜陽を自分は腹立たしく思った。なにか急かされているような気がした。

でも自分が今にしがみつこうとしている傍らで、自分のまわりの人々はあらゆるものを「確定」しにかかっている。自分も今年になって就職先を確定させた。だが札幌に訪れた知人の数々は1年も前にその決断を経ているし、今年は同期の結婚式にだって呼ばれた。思えば小学校の図工の時間から今に至るまで、自分は人より一歩か半歩後れを取って生きてきた。それは西日ごときをわざわざ恨めしく思うような、自分の「過去」そして「現在」に対する執着と無関係ではないだろう。

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ウポポイから帰る道は、自分の未練を断ち切るかのような冬に覆われていた。自分も後ろ向きな人間ではないから、この先も雪を踏みしめて生きていくことはできる。それでも事ある度、自分は札幌の雪の下に閉ざされた記憶を掘り起こそうとしては傷を負ったり、あるいは拒絶に悶えたりしながら生きていくのだろうと想像している。


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