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河童忌

7月24日夜、今日が河童忌であることに気づいた。

芥川というと、晩年に書かれた『侏儒の言葉』に収められた一節を読んだとき、どきりとしたことを思い出す。その内容が彼の自死を連想させたからであろう。


あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺のできないことである。

自分にとって「死」とは遠く遠くにある存在であり、それはいまでも変わらない。けれどもこのコロナ禍において、死は今までになく身近な存在と化していた。「もやい綱」であった交友関係がことごとく絶たれ、自分をこの世に縛り付けていた力は限りなく弱々しいものとなった。そのくせ、オンライン上で進行する就職活動は悪い方にばかり転がり落ち、それは思うように動かない自らへのいらだちとなって自分を苛んだ。先行きの見えない不安から、布団に寝転びながら「いっそ殺してくれ」と口にする日々が続いた。

けれども、ついぞ自分が「死のう」と思うことはなかった。

眠れない日々を経て、自分は自らを苛んでいた「うまく就職しなくては」という強迫観念を退けることに成功した。そのロジックは至って簡単で、「死ななければいいや」というものだった。いざとなったら死ねばいいのであって、必ずしもうまく生きる必要はない。けれども当面死ぬつもりはない以上、少しはましに生きてみようと思う。いわば死とは使うつもりのない切り札のようなものである。切り札は確実に存在する。存在する以上、それを使うか使わないかという選択がそこに生じる。たいていの場合、自分は「使わない」ほうを選択する。するとその選択自体が、自ずと自分が生きる理由となる。死なないから生きる。生きる理由なんてそれでいい。

河童忌の今日この期に及んで職探しなどをやっていると、正直一体何が楽しくて自分が生きているのかわからなくなるけれども、死のうとまで思うことは相変わらずない。当座は生きていくつもりである以上、うまくやる必要はないが、少しはましな職を探してみようという気にはなる。つくづく死というのは生を生たらしめる動力であると思う。してみると、死という切り札を取り上げられた存在が神であるとすれば、さぞかし生きづらいのではないかと思う。そういう意味で、芥川は神に憐憫の視線を向けたのだろうか。

もっとも、実際に死という名の切り札を行使した先人の考えることなど、自分風情には到底わかりそうもない。

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