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ワーカーズ・ブルー

誰かがこう評した。「なんやかんや言いつつも、つつがなく会社勤めをしている彼が羨ましい」と。たしかに、真っ先に仕事を辞めると目されていた自分は、曲がりなりにも今日まで働き続けている。足下も覚束ない「愁活生」だった頃からすれば、精神の健やかさたるや比べようもないことはたしかである。だが、そのように評した彼ほど自分に近しい人であれば、自分が仕事に生き甲斐や幸福を付託する類の人間でないことを知っているはずである。自分は仕事に打ち込んだ先に、月並みなことばで言うと「幸福」が存在しているとは思っていない。仕事で名を上げることは、理想の自分を形成するためには役立たないし、職場で「豊かな」人間関係が生じるとも思わない。つまり自分は仕事に当座の賃金以外の何をも期待していない。

たが、その期待の低さとは裏腹に、労働は週5日・一日8時間もの時間を徴収していく。割合にすれば生活の主要な部分を占めていることは歴然としている。労働を差し引いた文字通り「余暇」の部分で、自分に何を成し遂げられるというのか。平日が「主」となり休日が「従」となった以上、週末は来る週明けからの逆算でしか認識されなくなる。気を抜けば休日は平日の糧へと貶められてしまうだろう。いくら自分が仕事を「従」として位置づけられたところで、時間の組成がそれと決定的に齟齬を来している事実を自分は否定できない。

自分は直接的に、自らが賃金労働に従事していることに嫌悪を覚えることはない。その気になれば、自分はさほど苦もなくスーツを着られる人間である。「社会人」であること自体が理想の自分の像を毀損することはない。だが実際の問題として、労働は自分からものを読み、考え、そして書くだけの時間と余力を奪ってしまった。読み、考え、書くこと。それを好むことは自分の数少ない美点であり、欠かせない構成要素であると自負してきた。その営みが労働に蝕まれつつある。結果として理想の自分は間接的に、労働に毀損されつつある。

いっそのこと「会社人」になってしまったらどうか。我を張らずに、仕事の充実を人生の充実に重ねてしまったらどうか。だいたい自分はこの歳になっても、自分にとっての「幸福」がなにを意味するのかさえ定義できずにいる。自分について考えることは、自分を幸福へと導いてくれるのかい? 仕事に打ち込んでいる間、自分は仕事のことだけを考えていればいい。自分の深部と向き合うことから免除されるのである。そうしているほうがよっぽど「楽」であることは君も気付いているのだろう? だいたい君は余暇を聖域のように守りたがるくせに、余暇を使って特に何をするでもないじゃないか。それだったら残業でもして、お金という普遍的な価値でも稼いでいたほうがいいんじゃないのかな。

実際のところ、自分は自分という子供に何を与えたらいいのか、満足させてやることができるのか、それすら判らなくなりつつある。あれを作りたい、あそこに行きたいという微かな欲望の糸を手繰り寄せるも、要する労力や費用を前に時刻表を繰る自分の手は止まってしまう。愁活のときに露呈した「理想の欠如」という問題が、いよいよ生活一般にまで浸潤してきたようである。確固たる理想や熱意のない自分は、どうしても功利主義的な考え方に陥ってしまう。すなわち、微かな欲望とその達成に必要な代償(主に費用)とを比較衡量してしまうのである。そうすると、元来の活力や資力に乏しい自分は分が悪い。「特に行きたいところはないけどドライブしたいなあ」「でも高速使わないと遠出できないなあ」「余計なお金を払って、好きでもない高速を走ってまで行きたいところはないな……」この繰り返しである。心のどこかでは金勘定抜きに自らを突き動かすような熱意を求めつつ、手に入れることのないままに自分は今日も家で燻っている。

「あの頃は休日に何をしていいかも分からず、基本的に自宅に引きこもっていましたね。あの出会いがなければ、今でも無為な日々を過ごしていたと思います」

なんて振り返りを後にされても不思議ではないような、確信に乏しい日々を送っているという自覚がある。いまの自分には何も見えていない。幸福の定義も、自らが欲しいものも、目指すべきところも何も分からない。その答えは職場にはない。とすれば、自分は仕事と関係のないところで模糊を拓くための答えを探すべきなのだろう。自分はそろそろ自律的であることの限界を認めなければならない。モチーヴというべきものは得てして他律的に、他者によってもたらされるものなのである。今や大学時代の友人は四散し、住み慣れた埼玉をも離れた自分は完全な独りである。閉塞を打破するために、そろそろ新たな人間探しをしていく必要があるというのが、ここ数日自分が燻りながら導き出した仮初めの結論である。



でもどうやって?

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