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夏の鉄道乗りまわしの旅 最終部

前回に続き、中学2年のころに執筆した旅行記のデータを発掘したので、ひっそりと公開します。
最後となる今回は、当時の同級生に書いてもらった解説、および現在の自分による所感を末尾に掲載しています。

第三日

東京─富士─富士宮─身延─身延山─身延─甲府─立川─西国分寺─武蔵浦和─大宮─東大宮

ふと目を開ける。列車は停車しているようだ。駅名表が、ここは既に東の管内であることを語っている。
何となくうつらうつらしつつ、横浜到着の放送で起こされる。しかしまだ眠いので目を閉じてしまう。
ようやく一同目を覚まし、五時五分東京着。日は昇っていないが既に薄明るい。
早々とコンコースに降りる。人通りは疎らで、これでも天下の大東京かと疑いたくなる。それもそのはず、大宮から始発で急いでも到着することのできない時刻である。表示類が見慣れたものに変わり、東京に帰ってきたことは紛れもない事実となった。だが、まだ旅は終わっていない。まだ関東なんかには帰ってくる気などない。

各自トイレへ行き、予定通り朝食を調達しようと思う。いくら人が少なくてもここは東京。コンビニが全て閉まっているわけはなかった。
と、思っていたが、東京は私たちを裏切った。駅構内をいくら歩いても明かりを灯す売店はなし。時間は迫っている。私たちは断腸の思いでホームへと上がった。
事前調べ通り、車両はJR東海の汎用特急形車両である373系である。ステンレスに東海のイメージカラーであるオレンジの帯が入った姿は、この東京駅において異彩を放っている。
乗り込むと、客室への扉の手前に四人用の簡易コンパートメント席があったので、そこを陣取る。通路とはガラスでそれとなく仕切られていて、普段は完全指定制で運用されている。大きなテーブルが便利そうだ。
せっかくだから一般席を見学しに行く。何人かのビジネスマンが新聞を読みながら寛いでいる。雰囲気からして常連のようだ。狙って乗っているのかもしれぬ。座席は茶色いモケット張りで、新しいだけあって重厚な作りだ。ムーンライトながらが定期列車だった頃はこの373系で運転されていたのだから、臨時列車化はすなわちグレードダウンでもあったということになる。

五時二十分、東京発。スピーカーが頭上にあるから、妙な姿勢になって録音する。放送では、この列車は特急形であるが、普通乗車券だけで乗れる普通列車だという旨を伝えている。確かに、見慣れぬ豪華な列車がホームに滑り込んできたら、事情を知らない人は怯んで見送ってしまうかもしれない。「プレハブ付きモーター」などと揶揄される簡易車両に乗せられている関東の人間はなおさらだ。
列車は公約を実行して各駅に停車し、それぞれの駅で何人かを拾っていく。横浜辺りになると時間も幾分生活時間帯に近づき、座席も埋まってきたと見える。既にベイロ君は眠そうだ。私は眠気など何処吹く風である。
熱海で乗務員交替を兼ねて少々停車する。車内は行楽客を中心に立ち客も出るくらいの混雑具合を呈している。我々のコンパートメントにも、
「ここ、いいかしら」
と声を掛けて六十代くらいの女性が座った。リュックサックを背負っているところからしてハイキングにでも行くのだろうか。どこへ行くの、というおきまりの文句から会話が始まる。K君が、
「身延山です」
と簡潔に答えると、
「ああ、あの石段の」
と返ってきた。久遠寺の石段は年配者にはそこそこ有名なようだ。
しかしまあ、K君のやりとりは何とも自然体で感心してしまう。だのにちっとも楽しそうじゃないところが苦笑を誘う。私ではこうはいかない。どうしても身構えてしまうからだ。

私たちの座る進行方向右手に相模湾が見えてきた。ようやく夜も明けてきたという時間帯だから、海が曙光に照らされて輝いている風景を目にすることができた。逆側はすぐに崖がそそり立っている。写真を何枚か撮ったところでついにベイロ君は寝てしまった。

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幾つかのトンネルが続き、宅地を抜けて七時五十九分、富士に着いた。降りたホームの正面に、青い有蓋貨車「ワム80000」とコンテナ車が連なって留置されている。紛れもなく、吉原で接続している岳南鉄道から連れて来られた、紙輸送列車であろう。
身延線の発車まで二十八分ある。私たちはとりあえずコンビニで朝食のおにぎりを調達し、身延線のホームに降りた。ホームには特急「ふじかわ」が停車中であるが、車両は先ほど乗ってきたものと同じ373系だから、全く惹かれるものがない。
この先の接続の関係で、富士では昼食も調達せねばならない。ホームに駅弁屋があって、初老の女性が佇んでいる。選択の余地はないのでそこへ行くと、朝とあってか弁当まで選択の余地がない。一番量の少なげな寿司状のものをK君が確保し、残りの小型ちらし寿司をベイロ君と買う。これで弁当は完売だ。
そのあとはベンチに腰を落ち着け、交替で車いす対応の大型トイレへと行く。三日目ともなれば、私の通事の悪さも改善されたようだ。

身延まで行く列車はしばらく来ないが、ここにいても仕方がないので先へと進む。八時二十六分、身延線の普通富士宮行きで富士発。ここ富士から富士宮までは富士の市街地の中を走るため、同区間のみ本数が格段に多い。車両はJR東海の313系で、地方線区向けの3000番台は、同系式唯一の固定式ボックスシートが採られているが、モケットは新型車らしく水色と明るい。
列車は基本的に市街地を走るから、時折築堤を走る以外は平凡な車窓が続く。高校生なども乗っており、いささか場違いな感じだが、おにぎりで朝食とする。静岡県らしく「うなぎおにぎり」などというものもあり、ご当地ものに弱い私は迷いなく買った。茶色い飯にうなぎの断片が入っていて、それなりの気分は味わえる。頭上を真新しい高架橋が過ぎたので、私は第二東名高速かなと推理する。
二十分ほどの乗車で八時四十五分、富士宮着。小さくまとまった橋上駅である。私たちはまず「青春18きっぷ」付属のアンケートを提出し、デッキ部分に出た。周辺は典型的な近郊都市の様相で、交通量の豊富な道路が通っている。しかし正面に山が連なっているところが、関東とは違う。

特段見るものもないので、早々とホームへ引き上げる。特急ふじかわを見送って、九時十一分富士宮発。この先は身延まで、富士川に沿いながら五十分ほどの乗車になる。私たちは富士川側のボックスを確保する。富士宮で明るくなった空は、再び曇天に転じた。
富士川の河原は広い。前日に飛騨路を下ってきた旅人の目には、尚更そう映る。高山の土産物を持って、身延山へ向かう物好きが何人いるであろうか。
しばらくして、列車は勾配を駆け上がり始めた。軽快に走り続け、ついには富士川と市街地を見下ろす位置まで高度を稼いで停車した。ここが件の芝川駅であるようだ。少々奥まった雰囲気ではあるが、傍まで民家が迫っている。

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富士川やK君の写真を撮りつつ、十時五分身延着。私たちはドアが開くなりすぐに駅前広場へと出た。バスの発車まではわずか五分である。日差しが強くなってきたが、生憎バスの姿は見えなかった。振り返って駅舎を見ると、「ワイドビューふじかわ 甲府駅⇄静岡駅 一日七往復運転」と書かれた看板が掲げられている。この特急は並行して走る高速バスに対して、なかなか健闘しているとの噂だ。飯田線の「ワイドビュー伊那路」とは対照的な、希有な例である。

一呼吸置いて、中型の路線バスがやってきた。身延山行きの貴重なバスである。私たちは迷わず、一番後ろの席を陣取った。
バスはすぐに山へと分け入る。この夏、東京の日原鍾乳洞へ行った際は、峠道をバスが超高難度の技を使って登っていったが、この大きさのバスならばそんなこともあるまい。
十分ほどで、身延山久遠寺へと向かう道へ入る。すると何気ない顔でバスが最初の門を通過したので、おやと思う。額縁が掲げられている、紛れもない総門である。もっとも端から物見遊山のつもりできているから、おやで済むのであって、少しばかりでも信仰心のある人はあらら、という顔をしたり、どうにか撮影を試みようとしたりと何か動きがある。
参道と思われる、両側に商店の建ち並ぶ道を上っていき、バスはちょっとした広場で停車した。終点の身延山バス停に着く。ここからさらに登っていけば、日蓮宗総本山、身延山久遠寺はすぐそこだ。

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まず見えてきたのが、荘厳な佇まいの三門である。身延山久遠寺は、鎌倉時代に日蓮宗を立ち上げ、法華経で世を救おうとした日蓮聖人が晩年を過ごし、今も眠っているとされる地だ。日蓮という人は眉唾な類のものを含めて、数々の逸話を残している。例えば、斬首刑の刑場で日蓮が念仏を唱えたところ、偶然にも振り上げた刀に雷が落ちて恐れられただとか、杖を突いたところから水が湧いて感謝されただとか、まあ要は信じる心である。生憎ここに立つ三人はそんな上等なものなど持ち合わせていないから、ただ建築美を楽しんでいる。正面には「祈 東日本大震災」と書かれた白い横断幕が掲げられている。

若干の土産物が売られている門を抜ければ、整然と植えられた檜並木と石畳の道が、微かな上り坂となって続いている。そしてその道の行く手を阻むのが、やってまいりましたとばかりの、身延山名物の石段だ。
この壁のような石段は菩提梯と呼ばれ、「若いのだからとっとと登らんかい」とばかりに立ちはだかっている。年配の方等のために、自動車や牛車で上れる坂があるようだが、挑発された以上登ってやらなければならぬ。
先陣を切って私が勢いよくスタートした。すっかり闘志を燃やしてしまった私は、全貌を明らかにしようと段数まで数えている。ベイロ君は元野球部、K君は現役水泳部だが、旅の疲れからか遅れ始めている。

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私は途中何度も二人を待ちながら、意気揚々と頂上へたどり着いた。それと対照的に、K・ベイロ両氏はすっかり疲れて、「何でそんな元気あんの」などと意気地がない。数えた結果石段は286段で、パンフレットで答え合わせをしたところ、287段とあった。誤差一段と知った私は一人誇らしくなった。それはさておき、私たちは記念撮影などして息を整え、本堂へと参拝することにした。
本堂は広く、私たちはN君の祟りをどうにかして欲しいと、日蓮聖人に願った。

本堂の中も見学できるらしく、私たちはもっともらしく正座をした。軒下から見える万緑が美しいが、残念ながら撮影禁止である。
境内には新旧様々な建造物が建ち並んでいる。朱色の五重塔や白壁の蔵が同居している光景はそう見られるものではないが、景観上よろしいとは思えない。直射日光に照らされ、砂利の地面に足を取られて疲れた私たちは、それらを一通り写真に収めると、「甘露門」と掲げられた門から撤退することにした。
森はよく手入れされており、総門へ下る道は明るかった。途中湧き水を飲んで疲労回復した私たちだったが、その中でも特にベイロ君が元気である。
まもなく総門という所に、小さな社があったので寄ってみる。私は賽銭箱に五円投げ入れると、今度は義援金箱に六円入れた。多くの信者から金を集めているであろう日蓮宗総本山よりも、日本赤十字社のほうが金が入り用だと思ったからだ。するとK君が十円を投げ入れたものだから、対抗してさらに十円投げ入れた。するとK君はまた十円投げ入れた。私はもちろん十円投げ入れた。またK君が入れた。もちろん私も入れた。K君は財布をしまった。私はとてもいいことをした気分になった。

再び坂を下りるが、先ほどから元気なベイロ君がK君にちょっかいを出し始めた。例によって自爆するぞ、と言っていたら、全くその通りに一人ですっころんだのでそれを撮影する。
入山してから約一時間、私たちは総門を出てバス停へと向かう。K君は山梨銘菓「信玄餅」を買ってくるように言われているらしいが、所持金と相談している。

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ついにバス停に到着し、いざ時刻表を確認した私は凍り付いた。事前に調べたバスの時刻が記載されていないのである。私が事前調べで見間違えてしまったかもしれぬ。往路の所要時間から計算すれば、十分間に合う時間ではある。待ち時間を利用して、意を決したK君が「信玄餅」を買い込んできた。

長く感じた待ち時間も過ぎ、やっとバスがやって来たので直ちに乗り込む。私は列車に遅れないかどうか気が気でない。信号で停車する度、これで運命が変わってしまうのでは、などと考えてしまう。
幸いにも私の心配は杞憂に終わり、無事列車に乗り込むことができた。十二時九分、身延発。いよいよ帰路に着く。
車両はもちろん313系であるが、「業務室」と書かれた白い布が、車内前寄りを仕切っている。私たちはドア付近のロングシートを陣取り、各々富士で買った駅弁を食べることにする。私の「駿河ちらし寿司」はすっかり中身が偏っていたが、桜田麩も入っていてそこそこだった。
一度も富士山を拝むことができぬまま、十三時二十六分、甲府着。ついに再びJR東日本管内へと戻って来てしまった。隣のホームから、瀟洒な特急「かいじ」が発車していった。

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私たちが乗るのは、今回の旅お馴染みの115系である。塗色は中央本線や信越線などでお目に掛かることができる「長野色」で、白地に淡い水色と緑の組み合わせが爽やかで好印象だ。十三時四十分、甲府発。座席が全て埋まるほどの乗車率だ。
ここから大月まではトンネルが多く、まさに「ヤマ線」と呼ばれる箇所である。しかしトンネルの間に見える景色はなかなかのもので、特に勝沼ぶどう郷付近で市街地を見下ろすように走る区間は、何度乗っても見入ってしまう美しさを誇る。
ここでも私の癖が発動し、せっせと窓を開けようと試みた。ベイロ君の消極的協力もあり、どうにか外の空気に触れることができた。するとその瞬間、列車は突然トンネルに進入し、 窓下のテーブルにある本のしおり等が派手に吹き飛んだ。
この列車は鈍行であるが、梁川─四方津間は十分、相模湖─高尾間は九分を要している。といっても、中央東線は電化、複線だから決して鈍足ではなく、むしろ数多あるローカル線とは一線を画する豪快な走りを披露している。ということは駅間が長いわけで、実際相模湖─高尾間は9キロある。私は若干の眠気を感じて目を閉じたが、結局寝たか寝ていないかという内に起きてしまった。

私たちはこのあと中央線を乗り通して新宿まで行く予定だが、より早いであろう武蔵野線経由で帰ることにする。十五時十九分、八王子着。中央線の始発快速で西国分寺まで向かう。時間が時間だからがら空きだ。
少々してから列車は発車した。すると、身の回りをごそごそとしていたベイロ君が、
「18きっぷが見つからないんだけど。忘れちゃったかもしれない」
と発言したことによって、のどかな雰囲気がたちまち吹き飛ぶ。私とK君は荷物をひっくり返して捜索したが、結局見つからず。これは紛れもなくN君の祟りではないか。日蓮聖人に説法された腹いせか。それはともかく、身延で改札を通って以来ベイロ君は鞄から出していないということだがら、ここにないということは中央東線で落としたのだろうか。
心配するベイロ君を励ましつつ、西国分寺で武蔵野線に乗り換える。ホスト風の妙な男二人連れの正面にしばらく立っているうちに、隙を見て座ることができた。

武蔵浦和で埼京線に乗り換え、大宮へ。残る行程は宇都宮線のみとなった。
宇都宮線のホームへ降りると、既に乗車位置には列がで出来ていた。どうも列車の間隔が開いているようだ。
そしてそんな中アルピコ交通は、三つドア十両の列車を送り込んできた。ちなみに「アルピコ交通」とはK君語で、JR東日本のことをいう。案の定列車は人で溢れ、人一人入る空間もない。グリーン車のドアから乗れば、それだけでグリーン料金を取られかねない。私たちは積み残された。
西日本や東海の世界から帰ってきた私たちを待っていたのは、アルピコ交通の不適切な車両運用による冷たい仕打ちであった。

約十分後に来た列車に乗り込む。二駅で東大宮だ。しかし、ベイロ君の切符問題がある。アルピコ交通の対応が気懸かりである。
大丈夫だよ、何とかなるでしょ、とか言いつつ改札へ向かう。まず僕とK君がもう一枚の18きっぷで通過。そして、気難しそうな年配の窓口氏にベイロ君が言う。
「あの、18きっぷを落としたんですけど」
「落とした。どこから乗ってきたの」
「身延です」
「身延?」
私とK君が聞き得たのはここまでだった。窓口氏は難物と見たのか、後ろに続く人々を先に通す措置を採る。
だか、ベイロ君はあっさり無罪放免された。私たちを悪者ではないと判断したのか、面倒に思ったのかは定かでは無いが、(私は後者だと思うが)「気をつけなよ」の一言で済んだようだ。まったく、お騒がせのベイロ君である。

珍しく、私たちの町を通る国際興業バスが止まっていた。一度はアルピコの仕打ちに幻滅した私たちであったが、バスに乗り込んだ頃にはすっかり良い気分になり、終わってしまう旅行に未練を感じていた。私たちはこの先、一生鉄道と関わっていく身であろうが、仲間達と共に過ごした三日間は鮮烈な記憶となって、死ぬまで胸の奥深くで生き続けるであろう。
途中のバス停でK君とはお別れだ。私とベイロ君は、バスが発車するまで手を振っていた。ひとまず、今回の旅行トリオはこれでしばらく解散だ。
私の家の最寄り停留所へとバスが着いた。ベイロ君はさらに先まで行くようなので、お別れの言葉を言う。
ついに私はバスから降り立った。あとは家まで歩くのみ。楽しい旅行であった。


あとがき

様々な問題に遭遇した旅行だったが、アルピコの仕打ちにも負けず、最後はとても良い気分で旅行を終えることができた。だからこそ、この一夏の旅行譚を記しておこうという気持ちになったのだと思う。

旅行から帰ったあと、私は切実にこの記憶を後世に残しておきたいと感じた。しかし中学生という身である以上、旅行記を書く時間など到底取れそうにない。そんなように躊躇しているうちに、時はついに十月となった。
そしてとうとう私はあらゆる懸念を振り払い、旅行記を書き出してしまった。その気になれば時間とは生まれるもので、少しずつではあるが、確実に旅程は進んでいった。(出発までの事前談が長いのには閉口したが)

そしてついに五月五日、長い長い旅行は本当の意味で幕を閉ることになった。末期になると少しずつ記憶も薄れてきたが、写真などを頼りになんとか書き終えることができ、脱稿したときには我ながら、「よくまぁこんなに書いたものだ」と感じた。

とにかくまあ、私はこの旅行の全てを紙媒体に出力し尽くしたわけで、読者からすれば余計な描写がやたらと多かったかもしれない。しかしそれは冒頭でも述べたとおり、笑って読み流していただければ幸いだ。K君とベイロ君は苦笑いしてしまっただろうか。つたなく他愛ない旅行記ではあったが、最後までお読みいただき、ありがたく思う。

最後に、私に素晴らしい体験をさせてくれたK君、そしてベイロ君改めT君に、この場を借りてお礼申し上げる。
二〇一二年五月五日 著者


解説

A(中学校の同級生) 

紀行文というものは、読者へのやすらぎと旅への憧れを与えてくれるものだと私は思う。紀行文の魅力は、旅をすることの魅力を最大限に引き出すことにあると思う。旅の魅力を五感で表現し、一文字、一文字に旅の感動を書き綴る、これが紀行文の持つ魅力だと考えるからだ。そうして、旅への好奇心を持ち、列車に揺られ、憧れの地へと足を運ぶ。何とも趣のある一札だろうと私は感じた。

この紀行文は私の友人I君が友人達と青春18きっぷを利用し、吾妻線の大前、また上越線、北陸線、高山本線、東海道本線などを経由して旅をするという話である。記述されていたとおりこの紀行文の筆を下ろすまでには長い物語があったのである。
この旅の背景はT君が親戚から青春18きっぷをもらったことから始まる。このことを知ったI君には既に壮大な鉄道乗り回し計画が念頭にあったに違いない。「今回の鉄道旅は単に乗って楽しむだけのものにはしたくない。遠くの地方へと足を運び、いろいろなものにふれる旅にしよう。」と。事実に、I君の行程は恐ろしいほど魅力的である。二日目の行程を見ると新宿から「ムーンライトえちご」に乗り、新潟へ、そこから北陸本線などを経由して富山に、そこから二日目の目玉とも言える高山本線で飛騨を散策と私には考えられないほどの乗りこなしである。やはり鉄道を熟知した人間にしかできない鉄道旅と言うべきだろう。

私が特に興味を持った読んだのは「ムーンライトえちご」に乗車するシーンである。現在は国鉄形車両を使っていて特急「あやめ」に使用されていたころよく乗ったことがある。最近は定期運用が減少しあまりお目にかかれない。たが、埼玉に住む私にとって「ムーンライトえちご」として走っているのはとても貴重な存在であり、とても嬉しく思っている。それはともかく、私は夜行列車に乗ったことがない。この列車で夜を過ごすということは考えたことがなかったからI君の描写はとても参考になった。夜行列車で過ごすひとときを表した重要な一描写になったと思う。

もう一つ鉄道旅の魅力を感じたのは飛騨巡り、久遠寺巡りである。この辺りはI君のこだわりが深く読み取れる場面だ。飛騨高山で食した「高山ラーメン」。味はI君にとって納得がいかなかったようだが、食にふれる旅というのは定番だが、その土地の食を発見して満喫するというのは格別であると思う。ただ駅弁についてはあまり出てこなかったので少々残念だった。そして名湯や古刹巡り。これは何物にも代え難いだろう。旅をしているのだから満足のいくものにしなければならない。こんなことをI君達は思ったと思う。中学生だからこそ感じられる感動を体験したことと思う。そのことは作品の中でよく見受けられる。きっとこの旅行を成功できたI君達はよい思い出になったと思う。何はともあれ鉄道旅は乗る、食べる、見る、楽しむこれに限ると思う。この書は旅情をかき立てる唯一の書になったに違いない。作者I君の更なる旅を期待したいと思う。

(友人)


web掲載にあたって

旅行から9年後となる今夏、実家の古パソコンからデータを救出し、数年ぶりに旅の記録に目を通した。

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『夏の鉄道乗りまわしの旅』は、自分が初めて経験した大がかりな鉄道旅行を、これまた初めて「紀行文」という形で記録に残すことを試みた作品である。その試みは本文を書き上げるだけでなく、体裁を整え、友人に解説まで依頼してもっともらしく製本するというところまで及んでいる。
当時の自分も言っているように、4万7000文字を数える本文の描写は厚くて冗長であった。ただしそのおかげで、22歳の自分は数多くの「再発見」をすることができた。

宿題に追われる夏休み。未知の大旅行にかける期待の表れである、旅行に至るまでの入念な打ち合わせ。とりあえず乗った車両の前面を写すという儀式。その年の春にあった東日本大震災の存在。中学生らしい「カメラ戦争」という他愛もない遊び。過剰なまでに宮脇俊三氏に影響を受けつつも、随所に幼さを隠しきれない文体……(他方で、語彙の面では現在とそう変わりないようにも思え、いまの我が身を省みて少し危機感を覚えた)

ともあれ、自分があとがきで記した「記憶を後世に残す」という目的に関しては、十二分に達成していると評せるかもしれない。これだけの熱量がいまの自分にあるのかは疑問であるが、そのときに見たこと・考えたことを文章で残すという営みの価値を教えられた、22歳の夏であった。(終)

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