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私と他人を隔てるもの

森田真生さんの著書「数学する身体」の中で、思いがけず目が留まった話があった。それはラマチャンドランという脳科学者の行ったミラーニューロンに関する実験の内容で、それによると「人は他人の行動や痛みであっても、見ているだけで同じ現象を自ら受けているような状態の、脳の反応になっている」らしい。

この実験結果からラマチャンドランは、「ならば、なぜ。見ている側は痛くならないのだろうか?」と疑問に思い、恐らく「皮膚が触られていない」という信号を出して、脳の反応を打ち消しているのではないか?という仮説と検証実験を行った。そして仮説は見事に証明された。(検証内容は本書で確認してほしい)

ラマチャンドランはその実験の報告で「あなたの意識と別の誰かの意識を隔てている唯一のものは、あなたの皮膚かもしれない。」という言葉で締めくくっているらしい。

ここまで読んで、思い当たるふしがある。それは夜見る夢の話だ。私自身の夢の記録だけに限らず、別の人の夢の記録をあさっていても、時たまその人自身の夢では無いのではないか?と思われるものに出くわすし、同時にユング研究の第一人者だった河合隼雄も「他人の夢を見る」という話しや、ユング自身も「赤の書」の中で多くの個人としては不可思議な夢を記述している。

もしこのラマチャンドランの内容をそのまま受け入れるなら、上記のようなものに対し、私なりの理解が進むのだ。それは先ほどのラマチャンドランの言葉を夢の話として読み替えれば「あなたの夢と、別の誰かの夢を隔てている唯一のものは、『私の』という意識かもしれない。」となり、皮膚の役目に「私の」という意識がなっているのかも知れないと思うと、なかなかワクワクする。

何故他人の夢を見られるのかを、スピリチュアルな理由でなんとなく「浮かせ」ておく事も出来なくはないが(実際にこれまでは「そういう事もある」という風に伝えるしかできなかった。)、今回の話のように「私」という身体や言語的認識が、ここで言う「皮膚」にあたるように個人を意識的・物理的に隔離していると考えるのは、先の実験内容と比較すると「相手の夢を直接認識していない」という差こそあれ、値しないほど飛躍した解釈ではないだろう。

そして、その「私」を取り除けば、世界の痛みも、夢も、知恵もひとくくりになるのだという事になる。同時に、これはまさしくブッダが菩提樹の下で達した「悟り」の話ともつながる。

そんな想像は、私に適度な興奮と、これまでと同様に他人の話を聴きながらなぜか理解が深まる現象を、もう少したぐり寄せられそうな気にさせてくれた。

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