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問い直す星たち

占星術を通して何を受け取れるのか?と聞かれれば、私は「もうすこし明確な質問を受け取れる」と答えるのが適当かなと思います。

というのも、人は悩んだとき、本当に悩むべき相手や内容をちゃんと見えていない事が多いようです。相手が見えないからこそ、簡単に目を背けることも、別の問題に置き換える事も可能なのですが、ちゃんと問題の輪郭が見えてしまえば、なかなか無かったことには出来ないものです。とはいえ、直視することも決定することにも勇気がいるので、大抵は「もうこれ以上どうしようもない」という状況になって、やっと「占星術からの質問」が有効になるのだと思えます。

といっても、「占星術って、なんか答えをくれるんじゃないの?」と思っている人には、なかなか意味が分からないと思いますので例として、旧約聖書のアブラハムの話をさせてください。

話は旧約聖書で主(神様)がブラハムに対し「イサクを燔祭に捧げよ」と伝えるシーンの事。内田樹は「レヴィナスと愛の現象学」の中で、この部分の事をこう話しています。

『「イサクを燔祭に捧げよ」という主の言葉は何を意味しているのか。字義通り「イサク(息子)を殺して焼け」ということなのか。それとも何らかの隠喩なのか。父に子殺しの罪を犯させることによって主は何を得るのか。この難問にそもそも「正解」はあるのか。このような厄介事に巻き込むことで神はアブラハムの何を査定しようとしているのか。』と、

この部分は、内田さんが「難問」と言っているように、まさか主がそんなことを熱心な信者に要求するなんて論理的に考えるとオカシイ。と思える内容だからこそ「難問」なのです。でも、この主の言葉をあなたが人生の時折感じる「どうしたのいいの?」と思える時の状況や、他人の言葉と置き換えると、それほど特別ことを聖書の中で伝えているわけではないことが分かります。

そして、ここではそもそも主の言葉は何を意味しているのかを理解する事が「難問」だと言っているように、人生の中で自分に起こっていることは、このアブラハムに与えられた言葉のように、やはり「難問」なのです。

人生の選択には、当然答えはありません。その為、アブラハムの話なら、この後に「どんな行為を決定し実行するかは、主の言葉をそう解釈したアブラハムに”全責任”がある」とされます。結果として息子を殺そうと、それはアブラハムがそう判断したために起こった、アブラハムの責任なのです。

不条理と思いますか?では同じように難問を問われ続ける人生の決断は、誰の責任になるのでしょうか?当然、あなたです。

でも確かにそうだけれど、ストレートにこう言われるとなかなかキツイ。というか、その難問に対する答えは本当に自分自身で捕えたものしかないのか?という思いは当然起こると思います。
そして、そういった難問に対する問を、別の質問や問に変換できる多角的なツールが占星術だと、私は考えています。

まあでも、この主からの言葉のように難問自体がちゃんと言葉で理解できているなら、それほど占星術は必要ないかもしれません。しかし、その”難問自体”が体感的な悩みやモヤモヤだった場合、もう少し具体的な言葉が必要になる訳です。そんな時、占星術は一段階霧を晴らしたような言葉に変換し、あなたの難問を少しだけ明確にしてくれます。

そして、場合によっては占星術師も依頼者も双方ともに意図せずに、その変換がこれ以上ない「回答」になることもあるのが占星術の魅力でもあると思います。

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