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惡の華に見るエロスと人間讃歌

 皆さんは以前別冊少年マガジンにおいて連載されていた惡の華という作品は知っているだろうか。
 私はこの作品にひどくエロスと人間讃歌を感じたのである(まぁそもそもそういう話ではあるんだけど)。
 今更私が評するのもおこがましいほどの名作ではあるのだが、私の感動を何かしらの形にしたくなり今回の記事を書くに至った。
 以下あらすじであるが、これを読んでから本編を読んでも支障がない程度にネタバレを避けている。しかしこれはあくまで私自身の判断であるため読む前に多少のネタバレを含むことを知ったうえで読んでいただきたい。

あらすじ

一部

 この作品の舞台は山に囲まれた片田舎(作者の出身地である群馬県桐生市がモデル)が舞台となっている。主人公「春日」はこのような街の閉塞感に日々悶々としながら生きていた。
 この物語は、春日が恋慕の上を抱いている女子生徒の体育着を盗むところを、クラスで浮いている女子生徒「仲村」に見つかるところから始まる。
 この仲村は教師に対して「クソムシ」などの暴言を浴びせる粗雑な性格をしており、世界に対して辟易としていた。そんな彼女は春日の弱みを握ることにより、世界に対する反抗を共にするように指示する。
 その過程で春日の人生はめちゃくちゃにされていくのだが、だんだんと仲村に惹かれていく。
 しかしある日、春日は仲村とともに行った犯行が家族及び近隣に知られてしまうことにより引っ越しを余儀なくされることとなり仲村と別れて一部が終了する。

二部

 春日は高校生になり、引っ越し先で普通に友人を作り、不自由のない高校生活をしていたが、満たされない生活をしていた。
 そんな中、仲村さんの面影を感じる少女「常盤」と出会う。
 彼は彼女と過ごす中で、互いの弱さを共有し合い次第に惹かれ合っていく。
 そして常盤は春日に対して「仲村との関係を清算するべきである」と提案し二人で仲村に会いに行く。
 そして春日と仲村は、互いの胸の内を明かし、過去を清算することによって本編は終了する。

書評

ファムファタル

 この作品の作者である押見修造は、作品および画集などにおいて常々「ファムファタル」という言葉を用いる。このファムファタルというのは「運命の女性」という意味であるが、文学や芸術においてはしばしば「男を破滅させる女性」という意味で用いられる。本作では、両方の意味でのファムファタルが登場する。そのファムファタルとは仲村と常盤である。
 以下ではそれぞれのファムファタルを巡る本作の魅力を評していこうと思う。

仲村を巡る本作の魅力

 主人公である春日は仲村との生活を通して、純情をぐちゃぐちゃにかき乱され、彼女に対して歪んだ愛を感じていくことになる。
 本作の魅力の一つとして、破滅の意味でのファムファタルに蹂躙される際に感じる得も言われぬエロスが挙げられると思う。
 このエロスの中身は恐らくマゾヒズムであろう。男性というものは女性をエスコートするものであるというステレオタイプの価値観を、彼女は真っ向から否定してくるのだ。世には「ギャップ萌え」なんてものがあるが、今回の物もその一種かもしれない。
 しかしこの虐げられる中にも彼女の愛、そして弱さを理解し、恋人という言葉では言い表せない名状しがたい関係で結ばれるのだ。 
 本作内においては仲村さんとの性描写はない、しかしそれ以上に満たされた感覚を覚える。彼らが行う非行の数々が、性行為に似た感覚を覚えさせるのかもしれない。二人だけしか知らない行為であり、そして二人の共同作業であるのだから。その証拠と言えるかはわからないが、この非行は自傷行為というよりも、喜びに向かう行為であるように見えたのだ。
 仲村を通して、本作に対してはどこか清々しい闇の魅力を感じるのだ。

常盤を巡る本作の魅力

 先ほど仲村さんを破滅の意味合いでのファムファタルであると言ったが、春日は破滅していない。彼を破滅から救ったのは二人目のファムファタルである常盤である。
 彼女は仲村と離れ浮かない生活を過ごしていた春日の良き理解者となった。
 彼女は仲村の埋め合わせのように登場するのだが、結果としてはそれ以上の存在となる。彼女は春日を好いた上で仲村と再会し過去を清算することを提案するのだ。
 こんなにいい女性はいない。そんな彼女と日々コミュニケーションを取り、互いの弱さを理解し惹かれ合うのだからまさに彼女は「運命の人」であると言えるだろう。
  彼女との生活は実に人間らしい、前半ほど突飛な話ではない。非行を行わず、現実でも起こりうるトラブルの域を出ない。だからこそ現実味があり感情移入する。
 楽しいだけではないのだが、しかし春日は彼女との生活を通して成長し幸せかどうかはわからないが、前に進んでいくことになるのだ。
 常盤を通して本作には神々しくないまでもどこか力強い光を感じるのだ。

二人を巡る本作の魅力

 最後の場面で常盤の提案により、春日は仲村との再会を果たす。
 ここに劇的なラストがあるかと言えばそうではない。ただ心の内を吐露し、互いに別の道を歩んでいくのだ。
 しかしここの描写が素晴らしい。何か劇的な悲劇も幸福もなく、ただ未来に向かうだけという余白のようなものが返って美しいと感じるのだ。
 人生というものはそういうものであろう。何かに向かい、そして何かを諦めるがその先には必ずしも劇的な不幸がある訳ではなく、かといって幸せもある訳でもなく、手元にあるもので自分なりの落としどころを見つけ未来に向かう。この作品を読むと、そのような当たり前の人の姿に美しさを見出すことが出来るのだ。
 この美しさは坂口安吾の『堕落論』に似ているかもしれない。
 この流されるままに流されるが、しかし劇的ではないまでも過去と向き合い未来に向かう姿に私は人間讃歌の何たるかを感じたのだ。

まとめ

 本作は少し前の作品であるが現代においても色あせない名作である。どんな人間でも弱さを抱えており、その弱さと向き合うことを恐れ目を逸らす。しかしこの作品を読むとその弱さを見透かされ、否応にも向き合うことになるのだ。
 しかし彼らの葛藤などを通してカタルシスを感じ、そして名状しがたい希望を観測する。
 少しダークな内容である上、表紙も特殊であるためハードルが高いかもしれないがぜひ読んでいただきたい。そしてこの美しさを味わっていただきたい。
 この作品を生み出した押見修造氏に深い感謝をし、今回の書評を終わりにさせていただきたいと思う。

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