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檻の奥から「自分より強い人は悩まないでほしい」ってさけぶ声が聞こえてくる

桜の樹は毎日見ている。見ているはずなのに、帰り路ではいつの間にか満開になっていた。ここで「まだ咲くな、まだ咲くな」って思ってたことに初めて気付いた。桜に嫌な思い出なんかないし、よく聞く「美しすぎて恐ろしい」みたいに感じることもない。ただ、きれいだ、って思うだけ。
……でも。その場ではきれいだな〜って見とれるくせに、帰ってからひどい焦燥感に駆られてしまう。なんでだろう。
あじさいは大好き。いつでも開花時期が待ち遠しくて、そわそわが高じるあまり自分で育て始めたりするくらい。品種だって桜なんかよりたくさんあって、彩りもゆたかだ。
どんな花だって、だいたい一年に一度しか咲かないのが普通。それなのに桜だけ強烈に特別感を抱いてしまう。


春は希望の季節。と同時に、その希望をうらやむ憂鬱の季節でもある。インターネットを泳いでいると、光と闇が浮き彫りになっていることが瞭然に見えてくる。入園式、入学式、入社式。そういったみんな笑顔のポストがズラッと並んでいるのを見ると、今まさに絶望のふちにいる人はますます追い詰められることは想像に難くない。だけどありふれた怨嗟えんさなんて水を差すだけだしバズらないから、ますます光が強くなって、影もいっしょに濃度を増していく。


桜、見に行かなきゃなぁ。インスタにあげるためとかじゃなくて、今年も桜を見たことを覚えておくために。もはや強迫観念に近いんだ。桜を見た思い出より、桜の名所に行けなかった思い出の方がじつは容量が多くて、それが積み重なると後悔だけで脳のディスクが圧迫される。
数年前は桜なんて気にもかけなかったのにな。それだけ自分のことで手一杯だった。休学中のことは季節が移ろうことすら記憶にない。当時の日記を見返すことはないけど、消してしまうこともない。インターネットの鬱投稿を引用したりしてたっけ。自分のことで手一杯というより、自分というお酒に酔って吐瀉物をはきだすみたいに文字を落としていたのかな。


自分と似たような苦しみを吐露してる人を見かけたとき、うんうん分かるよと共感する自分が確かにいて、そちらの方に自我を預けなきゃ私は化け物になってしまう。

「でもあなたにはフォロワーが1000人もいるよね?」
「あなたの投稿はいいねが100もついてるよね?」

これの行きつく果ては「あなたは私じゃないよね?」なので手に負えない。あまりにも不毛な不幸自慢。
どんな人だって悩みはある。それは私にだって分かってる。分かってるんだけど、それにいいねを付けるとき、自分の悩みを軽んじてしまうような気がして。私だって
「私の苦しみは私だけのものだ!誰にも理解はさせないぞ!」
って大音声で叫びたくなることくらいある。だけど、街中で大声を出してる人がいたらみんな見て見ぬふりをするよね。いくら春先で変な人が増えてるとはいえ私も私もと同調していっしょに叫び出す人なんかいない。だから黙っていいねを押す。病みツイに赤いハートマークがポップに踊って、クールだな、って思った。


電車を待ちながらタイムラインをスクロールすると、有名人が「開花したよ〜」と桜の写真をのっけていた。この人は6月にあじさいの写真をあげてくれるのだろうか。みなさんは知ってますか?花って実は桜以外にもあるんです!桜だけが花じゃないんですね!いかがでしたか?
花って、基本的に見下ろすものだ。桜は人間様より高い位置に咲く。だからみんなの目にとまりやすいんだろうな。だからといって年がら年中うつむいてるような暗い人が足元の花に気付くか?と言われればあやしいところだ。今の私だってうつむいて画面を見ているし。いちおう足元を確認してみたけどコンクリートに花は咲かない。その代わりタバコの吸い殻を見つけたので、ティッシュで拾い上げてゴミ箱に捨てた。


私はたわむれに檻を開け、化け物と対話をこころみることがある。曰く、「私より強い人が私みたいな暗いこと言ってると、より弱い私がみじめになるだけじゃないか」とのことだ。うんうん分かるよと共感しながら、みじめなのは今に始まったことじゃないだろうとゆっくり檻に鍵をかけなおす。こんな卑屈な遊びを繰り返してると、いずれこの獰猛どうもうな化け物に頭からかじられてしまうのだろう。だけど私はこいつに絶えず餌を与えてしまう。ひとりでいることのつらさは身に染みて理解しているから、こいつを一人にすることはできないのだ。この時点で私も哀れなモンスターなのかもしれない。怪物同士で仲良く花見しような。おまえは檻の中だけど。


内なるけものを放っておけば、桜には良い思い出も悪い思い出もそこまでないのだった。いや、しょぼい桜の下だと花よりも人間が騒いでる印象が強いからギリ悪い方に傾いてるかもしれない。だって花見で花を見たことない。
徒歩5分圏内に皇居とか琵琶湖びわこ疏水そすいがある人は桜コンプレックスを抱くこともないんだろうな。彼らは毎年美しい桜を見てるから、桜に対する感性が自然と磨かれている。そうしていつか地方のしょうもない桜を見て「あぁやっぱり自分とこのがいちばんだな」って再確認して帰っていく。しょうもない桜の下には私が立っていて、その背中を恨みがましく見つめている。
人は神の前ではみな平等だけど、桜の前では不要に不平等だ。幼いころから健康的に桜を摂取していれば、鈴鹿峠の山賊みたいに狂ってしまうこともない。私はよくない方向に桜を捉えすぎたせいでこの時期は不健康そのものだ。山賊のように大事な人を絞め殺してしまうのはイヤだから、今年も私は桜を見に出かける。それはまるで一種のリハビリみたいで。


掃除をしないとほこりがつもるように、自分のご機嫌がとれないと心の底に溜まっていくものがある。
洗濯をしないと着る服がないとか、食器を洗わないとごはんが食べられないとか、どれだけ自堕落に生きていたとしても最低限目に見えるきっかけがあるはずだ。心にはそのきっかけが目視できない。掃除のしかたは全部経験即でしかないのだ。
そうして粘度の高い埃が積もり続けて、いつのまにか人間大の大きさになってるの。その頃には目に見えるようになってるんだけど手遅れだよね。悪魔みたいな顔して自我持っちゃってんだから。もう掃除どころじゃないから檻に閉じ込めるしかなかった。
それが当動物園名物、「嫉妬」ちゃんです。カワイイでしょ?名前だけ。


道の駅の桜並木は五分咲きになるかならないかくらいだったけど、集客にはじゅうぶんだった。駐車場では車の列がのろのろと這いずって、私たち歩行者に恨みがましい視線を向けている。広い芝の広場には小学生くらいの子たちが群れをなして遊んでいる。広場の端っこはピクニックシートで埋まっていた。そこに腰を降ろす大人たちは桜じゃなくて、子どもたちの方を向いて談笑している。晴天下。緑の匂い。ひと月前のこの時間帯はもう暗くなり始める頃だったけど、ずいぶん陽が長くなった。過ごしやすい日柄も相まってますます焦燥感がつのってしまう。春も桜もすぐに去ってしまう。だから写真に残したがるのかな?撮ったところで私が置いていかれることに代わりはないのにね。
それにしたって人が多い。満開にはまだ早いし、春休み期間とはいえ平日だ。おだやかな春の陽気が人をお外へといざなうなんらかの魔力を発しているに違いない。見よ、行き交う人々の希望に満ちた表情を!なんだか私までうれしくなってくる。空はこんなにも晴れてるのにすごく死にたい。広場を吹き抜ける風が子どもたちの笑い声をさらっていった。


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