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死んだあじさいを見に行こう
お題「あじさい」
あじさいが好きだ。
高校生のとき、あじさいを苗から育てたことがある。だけど植物にまったく詳しくないから、結局花すら咲かずに枯らしてしまった。あじさいの気配もない葉っぱをインスタにあげたら流産ってDMが来た。それ以来、罪を重ねたくないのでホームセンターの園芸コーナーには近付いていない。
植物には詳しくないし、これからも知ることは少ないのだろう。それでも私は植物園に通うし、なんとなくで草花を愛でる。話の種にする。通い慣れた植物園で名前を覚えた花はあじさいの品種くらいだ。私は今日もなんとなく今を生きる。
八月がすぐそこまで迫る頃にまた植物園を訪れた。あじさい園の解放期間は六月〜七月上旬頃とあるけど、全然まだ開いている。七月いっぱいを目安にしてるんだと思う。
ほんとは誰かと行きたかったけど、「死んでるあじさいを見たいから冷やかしにいこう」って誘い文句で来てくれるような人とか逆に距離置きたくなるし、結局ひとりで来た。
そもそも花言葉がいいんだ、あじさいって。どれもカタチは似たようなものだけど、それぞれ色が違うから『移り気』だとか『浮気』だとか、ヤな感じの言葉を付けられてる。種ごとに詳しく見ていくと、ピンクは『強い愛』青は『辛抱強い愛』、白は『ひたむきな愛』なんだからおもしろい。人によって違う面をころころ変えるのが私みたいで、なんだかすごく共感してしまう。
入場ゲートをくぐると、外界とは明らかに質の違う暑さがあった。自然に囲まれてるから視覚的涼しさがあると思いきや、むしろ日差しが見えやすくなって、より酷暑の感がある。案の定、人の姿は見えない。唯一の人影である私の影はいびつに丸っこい。
日傘、さしてる側は気休め程度に感じるところあるけど、あるのとないのとじゃそれはもう天国と地獄なんだろうな。それはそれとして、暑い。今夏、あと何回暑いって言えばいいんだ。
暑さの表現に「茹だるよう」ってあるけど、正直かなりイカしてると思う。これを聞くたびにアツアツの風呂に沈められたカニが頭に浮かぶ。高音で真っ赤になったカニは血色良さそうな顔とは裏腹に二度と動くことはない。湯の中で赤くなるのはタコも人間も同じだし、生き物みんなお湯の中では鮮やかな赤色になるのかもしれない。死色としての赤。
太陽がこんなに近いとここの池も温泉になっているのでは?もしかすると茹で上がって真っ赤になった鯉が助けを求めてるんじゃないか。おそるおそる蓮池を覗いてみたけど、一面に蓮の葉が生い茂って水面は全く見えなかった。巨大な葉が広がっているのは未開の惑星みたいで、鯉が死んでるよりもよっぽどグロテスクに思えた。熱湯に苦しむ哀れな鯉を見ずに済んだことに若干胸を撫で下ろしたものの、実際は蓮の葉が日よけの役割をして地上よりよっぽど快適な環境なんだろうとは思う。
鯉たちが天然の日傘の下で気持ちよく回遊してる中、私はダサい日傘の下で汗をぬぐっている。小さき頃、日よけの傘を差そうもんならばばあ扱いされることは必定だった。
夏はどうして暑いのかって、太陽が悪さをしてるんだ。その諸悪の根源を屋根のないところでも防いでくれる日傘はあまりにも合理的なツールなのに、当時の子どもたちは「ダサい」の一点で日傘をさすことはなかった。雨も降ってないのに傘なんてバカじゃん、という謗りをたしかに聞いた。
私が高校を出る頃には夏は30℃超えがデフォルトになり、紫外線の理解度も浸透してきて、今や日傘をしていない方が危険とまで言われる時代だ。
夏の地球は過酷な環境になってしまった。傘をさしていたおかげで私は20年もの間生き延びることができたけど、あの時日傘を馬鹿にした人たちは環境に適応できず太陽に焼かれて絶滅してしまったのかもしれない。そう考えるとちょっと可哀想だ。あじさいのついでに鎮魂を祈ってあげることにしよう。
どれだけ歩いても人っ子ひとり、園内スタッフにすら出会わず、ただ蝉の鳴く聲だけが轟いている。丁寧に手入れされた草花たちが不気味に映るくらいだった。自販機で買ったアイスも手に取ったその瞬間からベタついている。経口で冷感を摂取するのは非効率だとは思いながらどうして私たちは自販機のしょぼいアイスを求めてしまうのだろう。
さて、肝心のあじさい園では、あじさいたちがめいめい萎れており、思い描いていた通りの光景に胸がギュッとなった。
シーズン中は植物園のスーパーアイドル、雨の中カラフルな傘たちが一斉にあじさい園に流れて行き、駐車場は連日満車御礼、休日にはあじさいのための行列すらできるほど。それくらいみんなの心を釘付けにしていたスターも今は過去。
決して荒れ果てた雰囲気ではないのに、花が萎れているというだけで墓地にいるみたいな感覚になる。太陽に焼かれて死んでしまった哀れなあじさいたち。ここまで無惨だと小菊でも供えてやりたくなった。私は傘の柄越しに合掌して歩きながら、迷えるあじさいの魂が救われるよう、祈った。
通路に首のもげたあじさいが転がっている。カラカラに乾いて枯れ果てたあじさいの抜け殻に、かつての華やかで儚げな姿は見出せない。私はそれを足で道端に押しやった。
お前らは死んだんだ。だけど私はこうして生きてる。
色のないあじさいは本当に見る価値が薄くて、飽きも早い。あと暑いし、10分も見て回らず私は踵を返した。
そうして来た道を少し戻ったところで、思わず立ち止まった。
園の外、小さな川を挟んだところに、綺麗な青のあじさいが咲いていた。
山の麓で大きな木々が庇になっていかにも涼しげで、でも地味で、ちょうど私の立っているところからしか見えない。そして、ちょうどあじさい園を見下ろす位置に咲いている。
誰にも見つからずひっそりと咲き、開花時期の喧騒からはきっと蚊帳の外だったのだろう。今は死んだ彼らをただじっと眺めている。
私と目が合ったのはきっと偶然でしかないのだろう。気付きたくなかった。だけど、結局私もこっち側なんだと自覚してしまった。川を隔てた死の境界は、私の目にあまりにもくっきりと映った。
夏の日差しは私たちを不平等に焼き払う。
光と影は善と悪ではない。生と死ではない。
作りものの日よけの下で、私は今日もかりそめの生を享受する。
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