右肘を骨折した話(サラリーマンの備忘録)
2002年5月3日のことである。
当時、日韓ワールドカップ開幕を直前に控え、故郷、新潟県の片田舎でもベッカムヘアーの学生が発生するほどにサッカー熱が高まっていた。ソフトモヒカンという髪型だったが、彼らは2021年現在、どんな髪型なのだろう。ちなみにインスタを覗いてみたが、ベッカムは2021年になっても信じられないくらいダンディーだった。
話が逸れたが、あの当時、私もサッカー部に所属し、その魅力に取り憑かれ、日夜、結構な熱量をサッカーに注いでいた。
一方、私の所属するJ中学校サッカー部は、かなりの弱小チームであった。スコアは正確ではないが、14-0くらいで負けたこともあった。25分ハーフの試合だったはずなので、3〜4分に1点を奪われる計算である。絶望的だ。皆サッカーは好きだけど、実力が圧倒的に不足しているチームであった。
そんな我がJ中学校サッカー部はGW真っ只中の5月3日に、とあるサッカー大会にエントリーしていた。1日3試合というハードスケジュールで試合が組まれていた。
1〜2試合目のことはあまり記憶にない。覚えているのは、2試合目に私のPA内での微妙なハンドによりPKを献上したことだ。すでに6点差くらいで負けているのに、PK取るなよアホ、空気読め、と思ったことを覚えている。
いずれにせよ、1〜2試合目は大敗し、3試合目は必勝の覚悟で臨んだ。正直な話、大会前から1〜2試合目の相手は地域でも結構有名なチームで、弱小チームの我々には勝ち目がない相手であることは、暗黙の了解として共有化されていた。1〜2試合目は体力を温存しつつ、恥ずかしくない程度の点差で負ける。その上で3試合目に全勢力を注ぎ、1勝2敗という成績を残すこと。これが我々に課せられた使命であった。恥ずかしくない点差で負けるという目標はすでに達成できていないが、 それだけに3試合目はまさに絶対に負けられない戦いであった。
さて、3試合目が始まってみると、戦前の予想通り、1〜2試合目と比べ、確実に手応えがあった。勝てる気はしないが、負ける気もしない。どちらも弱いので、そこそこチャンスは作れるが、大事なところでミスをする展開が続く。
塩試合が展開される中、突如事件は起きた。あるプレーで私と相手選手がもつれ合った後、私の右肘が明後日の方向に曲がっていたのである。
人間、あまりにショッキングなことは記憶から消すようにできていると聞いたことがある。まさに、そのプレーは私の記憶から抹消され、すでに右肘があらぬ方向に曲がった自分が硬い土のグラウンドでもがき苦しむところから、私の記憶は再開されている。
試合は中断し救急車が呼ばれ、チームメイトや相手選手、コーチや熱心に応援に駆けつけた親御さんたちが心配そうに私を見つめていた。間もなくやって来た救急車に運ばれ、病院に着くや麻酔により眠らされ、あっという間に闇の中に落ちて行った。
目を覚ました時、すでに私の腕はあるべき姿に戻っていた。後日手術やリハビリが必要ではあるが、取り急ぎ、今日のところは入院の必要もなし、とのことで自宅に返送された。
自宅に戻ると、かつて同じサッカー部に所属していた3つ年上の兄の姿があった。救急車で運ばれていった私の代わりに、グラウンドに置き去りの荷物を取りに行ってくれたようだ。優しい兄である。
兄曰く、私が救急車で運ばれた後、絶対に負けられなかったはずの我々の戦いは、大量失点を余儀なくされ、無念の敗北を喫したとのこと。私の折れ曲がった腕を見て、チームメイトのメンタルも同様に折れてしまったようである。
散々な1日だったが毎年5月3日が来ると、当時のサッカーへの気持ち、土のグラウンドの雰囲気やチームメイトのこと、兄の優しさなんかを思い出し、センチメンタルな気持ちになる。
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