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創作の独り言 創造物から距離を取ることも大事

 物語を作る時に、どのようにして捜索を行うのかというのは人によって全く異なっている。
 小説であれば、「タイトル」から着想を得て物語へと繋がっていくこともあるし、逆に一つの核となる部分をたたき台として物語が進行していくこともある。だからこそ、書いていることで横道に逸れてしまって全く別の物語に変わってしまうことすらある。
 そんな物語の中で、作り手はしばし「創造主」として表現されるが、私はこの表現についてあまり好ましく思っていない。

 私としては、作り手は創造主ではなく、「物語を最前線で感じることができる存在」である。これは私の物語の作り方に由来しているかもしれない。

 私の物語の作り方は、「何も考えない」ことを続けることで、ぼんやりと浮かぶ五感を少しずつ繋いで行って、特定の場所で臨界点に達した時点でそれを整理して作っていく。かなり感覚的なところが強いため、これを見た人は「どういう意味かわからない」という人も多いだろう。だが、正直この感覚を他者に伝達できるとは思えない。感覚的な部分が強すぎるし、どういうメカニズムで瞳を閉じているにもかかわらず、色々な映像や音が聞こえてくるのかというのはさっぱりわからない。
 だから私は、物語を作ろうとしていると、散歩やサウナ、真っ暗な中での入浴など、感覚の遮断を行うことが多く、実際今まで作った物語の多くはこのような時にメインが生まれ、そこから発展している。

 その場合、私は「創造主」ということができるだろうか。
 確かに物語は私の心、思想、感情プロセス、ライフヒストリーなどの情報からデタラメにつながっていると思われるが、それを意図的に私がしているわけではないため、どうにも「創造主」という表現が極めて居心地が良くないのはこのためだろう。

 勿論、明確な意識を持って物語を組み上げる人はこの限りではなく、文字通り物語や世界観、キャラクターたちを創造した絶対的「創造主」であると思えてくる。他に創作物に携わる人と話すことが少ないため、どの程度の比率でこれらが存在しているかはわからないが、人々が創造を行う上で、ここまで極端に変わるのは面白い事実である。

 これを読んでいる、創作をしている人はどのように創作活動をしているだろうか。前意識から無意識的に巻き上がる、攪拌された思考や知識、記憶や感情などが歪に混ざり合って、一つの物語、もしくは創造物となるという私の意見に対して「自分もそうだよ」と思う方がどれほどにいるだろうか。
 創造はまさに、余剰ばかりの産物である。ある意味では、論理的に整然としていれば絶対に起こり得ない羅列であり、絶対に起こらない二つの現象が組み合わさることもある。

 長ったらしい独白であるが、「創造によって作られる」というものはどういうことなのか。それにおいて絶対的な価値基準が存在しているのか。
 私の考えは何度も言う通り、「創作物の価値は状況次第で変わってしまう」ということであり、それぞれの本質的な価値は同じようなところで、「多くの人が求めているから」価値があるようにみえている。多くの人が求めているからこそ、その作品は面白いと判断され、素晴らしいと崇拝されることもあり、最終的には実益を生むことになる。著作は売れなければ利益を生むことができないため、全くもって「多くの人が求めている」というのは実益という利益となる。

 もはや、「創造」をどうやって行っているかすら意味のないことなのかもしれない。金銭という価値がなければ、それぞれの著作物は自己満足と表現されても全く違和感はなく、最終的に自分が作りたいように作り、それが素晴らしい価値になればラッキー。
 だが、問題はその「創造」の枯渇が存在していることはまた事実だ。私も全く何も浮かぶことがなく、苦しめられることも一度や二度じゃない。それどころか、それで精神的に苦しくなることも多い。

 問題は、「創造」に取り憑かれすぎると、苦しみと表裏一体になる。
 だからこそ「創造」することは巨大な苦しみとなり、大いなる創造という渇望に飲み込まれないように注意するべきだ。

 創造主として自らを置くのは全くもって問題ない。だが、苦しみに変わった時、その創造に引きずり込まれることが非常に大きくなるだろう。なぜなら「創造主」は創造されたものに対しての思い入れが強すぎる。作品に対して、表現されるものに対して、一定の距離を置くこともまた、巨大な狂気にもなりうる「創作物」から逃れる唯一の手段になるのかもしれない。

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