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昭和40年の暮らし

1910年生まれの祖父は100歳まで生きた。
その祖父の日々の営み、暮らしぶりを思い出し綴っておこうと思う。
昭和40年代、祖父が60歳の頃である。

祖父の家は平屋で、南側の縁側奥に洋間と和室が2部屋あった。
北側には四畳半の部屋と台所、風呂、便所があった。
九州のアパートは既に水洗トイレだったのに、東京のど真ん中の祖父の家はまだ汲み取り便所だった。
台所にお勝手口があり、近所の酒屋が御用聞きに来ていた。

祖父の朝は特別早いことはなかった。たぶん6時頃に起床していたと思う。
布団を畳んで押し入れに片付け着替える。
家ではいつも着物を着ていた。冬は着物の上に羽織を重ね足袋も履いていた。
まず玄関先を掃き掃除し新聞を取り、続いて庭の掃き掃除。
庭には金魚鉢があったが餌はたまにしかやらない。
餌をやる時だけ金魚が上がってくるので、そこに金魚が生きていることに気づく、そんな水草に覆われた陶器の火鉢が置いてあった。

外の掃除から戻ると、中の掃除だ。
部屋の側面(壁の写真の額縁、箪笥の上、障子の桟)にはたきをかけた後、畳の掃き掃除。集めた塵は縁側から庭に掃き捨てる。
掃除のあと、朝食。
平日は台所のテーブルで済ませていたように記憶している。
休日や娘家族が帰省した時は、ちゃぶ台を出して全員で朝食をいただいた。

8時頃、背広に着替え、歩いて出勤。
家から職場まで30分くらいの道のりだが、祖父はよく歩く人だった。
行きは結構な坂道を上る。
夕刻には帰宅し、家族みんなで夕食。
夜は玄関の常夜灯を灯し、靴を磨く。
その後は書斎で仕事をしたり、来客の接待をしたり、家族で軽くブランデーやウイスキーを傾けながら談笑(書斎だけが洋室で、当時珍しいクーラーがあった)したりしていた。

床の間には季節や来客に合わせた掛け軸を選んで愉しんでいた。
押し入れの中も何があるか一目で分かるように分類され片付いていた。
おしゃべりの途中に「見せてあげよう」と、取りに行くことがよくあったが、
すぐに戻ってくる。
祖父が探し物をしているところを見たことがない。
物も時間も気持ちも仕事も、生活全般よく管理している人だった。

晩年はテレビの前でうとうとすることがあったが、95歳までは自分のペースで日々営んでいた。
時間があれば英語や国語の辞書を読んでいた。
「辞書は引くものではなく読むもの。新しいことばに出逢うのは愉しいよ」
と言っていた。

慌ただしいとか忙しいという姿を見たことがない。
いつも落ち着いて暮らしていた。
しかしその100年は、多くの仕事を成し、戦争を乗り越え、心の奥にたくさんの悲しみを抱え歩んだ道だった。


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