迷ったら、どっちもやる
初めまして、新2年生の則包安貴子です。
私は小学生から陸上をしていて色々な種目に取り組みました。でも1番好きなのはやっぱり今も続けている中長ですね。ということで小学生からの陸上人生を振り返っていきたいと思います。
簡単に自己紹介します
では、幼少期から振り返っていきます。
【陸上を始めるまで】
幼稚園入園前からピアノと体操をしていました。小学校入学直前に水泳を開始しましたが4泳法を習得してすぐ辞めました。
そして小4から週3でそろばんを始めたので体操も辞めました。運動しなくなることを危惧した母の意見で、母の友達の子どもが所属している陸上クラブに体験に行くことになりました。私の代の女子は1人でしたがコーチや先輩が良くしてくれ雰囲気も良く、続けることに。土日だけ陸上をする生活が始まりました。
【中長を始めるまで】
小学生の間は夏は短距離、冬は長距離という感じ。正直短距離はあんまりで途中から来た同級生にも抜かれていき…でも長距離は1番速く、この頃から長距離の方が向いてるな、とは感じていました。
中学でも陸上を続けることは決めていましたが短距離と長距離で悩みました。せっかく部活に入るのだから用具がないとできない種目をやりたい、という気持ちが勝って元々興味のあった走高跳を始めました。中2の終わり頃145cmを跳んで通信大会にも出場でき、楽しくやっていました。ただ周りを見ていて、私は160cmくらい跳べるほどのセンスは無いなとも感じていました。また中学時代は長距離の人数が少なく駅伝にも駆り出されていて、その時も短距離の同級生の中では速い方でした。そんなこんなで中長への興味が強まっていきました。
そして、満を持して高校入学とともに中長距離へ。経験者が多かったこともあって初めは同級生8人中6番目くらい。ま、自分のペースでPB更新していけばいいか、とゆるーい感じでのスタートでした。
【高校時代】
私はコロナ禍が始まった時に高校入学したので、部活動開始は6月半ばでした。上記の通り初めはゆるーく練習していたのですが、一部の人は朝に自主練していることを知り私も朝練することに。8時10分に1限開始だったので6時半前に家を出て7時から走るという毎日。あれ?いつの間にか結構打ち込んでる??始めたばかりは毎日走っていたらそれだけでどんどん伸びます。元々短距離やっていたこともあって800メインの練習をしていたのですが、10月の記録会で走った3000で同級生内で3番に。喜んだものの1番速い先輩とは1分以上の差が。
11月頭に大阪駅伝があるのですが、先輩4人・同級生8人なので5人のメンバー枠に入るのは大変。どうせ走ることはないだろうと思っていました。
駅伝前日、メンバー発表があり案の定補欠。その後中長女子ミーティングで各自ひとことずつ話したのですが、自分が話す瞬間にいきなり『悔しい、走りたかった』という感情が湧いてきて自分でもびっくりでした。緩くやるつもりがいつの間にか本気に。駅伝当日も少し複雑な気持ちでした。
それ以降一層頑張るようになり12月の記録会で30秒近く更新。そのおかげで1月の総体駅伝はメンバー入り。あまり緊張することも無く普段どおり走れ、同じ距離を走った同期にも1秒勝つことができました。その後も怪我や体調不良がなかったので順調にPB更新していました。
高2の秋の大阪駅伝で私の高校で女子初の6位入賞を果たし、近畿駅伝への出場を決めました。速い先輩、同期、後輩が1人ずついて私は完全に連れていってもらった側だったのですが、それでも本当に嬉しかったです。
けれど近畿駅伝本番のタイムはあまり納得できるものではなく悔しさが残り、来年もここに来たいと思ってしまいました。
しかし高3の秋まで部活を続けて第1志望の大学に合格できるのかと人生で初めて母に猛反対され両立させる自信を失い、残ることはできませんでした。自分が不甲斐なくて、この時に大学で絶対に中長を続けようと決めました。
大学でも陸上漬けの日々を送っているのは高3で駅伝を走らずやるせなさが残ったからです。結局大学受験でも第1志望は不合格で、自分は一体何がしたかったんだろうと辛い時期もありました。
大学生になった私は『迷ったら、どっちもやる』精神で、やりたいことは基本全部やってきました。この1年間は本当に楽しく、今では悔しいけれど後悔はありません。
現在の私の1番の目標は全日本大学女子駅伝に出ることです。今回は連れていってもらう側ではなく私が戦力として戦えるようにもっと速くなります。
新入生の皆さんも、迷ったらとりあえずやってみたらいいと思います。少しでも興味があれば陸上部の体験にも1回来てみてください!
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