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東日本大震災があったということを自分が忘れないために

はじめての投稿です。読みにくい箇所も多々あるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

ここで記事を書き始めたのは、今から13年前の2011年3月11日に発生した東日本大震災のことに関して”忘れないために”という思いがあってのことです。

震災発生当時、私は東京の大学に通う大学2年生の学生でした。
その日、その時のことは今でも鮮明に記憶が残っていますし、それから現在に至るまで自分が生きてきた中でも、これほど衝撃の大きい社会的な出来事は未だかつてないものでもありました。

大学時代は学内のボランティア団体に所属していたこともあって、被災地の災害ボランティアなどにも2011年当時の頃は参加もする機会がありました。

しかし、それから大学を卒業し一応は社会人になり、だんだんと東日本大震災のことは日常の日々の中で薄れていくものになりました。思い出すことがあるとすれば、毎年3月11日にメディアで報道される情報に接している時くらいのことでした。

そんなこんなで月日は経ち、震災から約9年後の2020年3月14日に、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の影響で不通区間が残っていたJR常磐線が全線で運転を再開したという報道に触れて、ふと、長らく立ち入れなかった不通区間を含む現地を訪れてみようという気になりました。

実際に、2020年の7月に常磐線を利用して不通区間に該当する双葉駅(双葉町)、大野駅(大熊町)、夜ノ森駅(富岡町)の3駅の周辺などを訪れました。

今思うと、私が東日本大震災のことを心にとどめておきたいと思ったのはその時が一つの端緒だったのかなとも思いますが、もう一つ別のきっかけがあります。

それは、2021年から3年間勤めていた教育関係の職場において、そこで関わりのあった小中学生の子どもたちとある日話していた時、ひょんなことから東日本大震災のことに関して話題に上がった際のことです。

彼らは東日本大震災のことを聞いたことはあってもよく知らないといった様子でした。これに、私はちょっとした衝撃を受けました。

しかし、考えてみたら当然のことでもあります。なぜなら、2011年から10年以上が経過し、今の小学生や中学生は当時は幼かったため記憶にない、あるいは、そもそも生まれていなかったのですから。

しかし、一方で自分自身のことを振り返ってみた時に、震災当時のことを覚えていても、先述したとおり、被災された地域のことは関心領域としてだんだんと薄れていってしまったことから、東日本大震災のことをだんだんと忘れていってしまうのではないかというある種の危機感を同時に抱くようになりました。

それは、2011年から10年以上が経過し、被災された地域の街並みが震災前から変わっていく中で、東日本大震災がそこにあったという”よすが”も変わりゆく景色の中で失われていってしまうのではないかという意味も含めた危機感でもありました。

そういったことを考えるようになる中で、被害の特に大きかった東北沿岸3県(岩手県、宮城県、福島県)に今、自分の足で足を運んでおかなければと思うようになったのです。

それから何度かに分けて岩手県、宮城県、福島県を訪れました。その訪問の記録を中心にこれから何度か投稿をしていきたいと思います。

投稿の内容は、震災遺構(震災によって壊れたり損傷したりした建物など、災害の記憶や教訓を次世代に伝えるために保存した構造物)や伝承施設(災害から得られる教訓を伝える施設)を中心にしていく予定ですが、各地のまちの様子も交えつつお伝えできればとも思います。

#東日本大震災


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