話数単位で選ぶ、2019年TVアニメ10選

▼【作品一覧(放映日順)】

●『かぐや様は告らせたい ~天才たちの恋愛頭脳戦~』#3「白銀御行はまだしてない/かぐや様は当てられたい/かぐや様は歩きたい」(1/26)
●『モブサイコ 100 II』#5「005 不和 ~選択~」(2/4)
●『ゲゲゲの鬼太郎[第6作]』#54「第五十四話 泥田坊と命と大地」(5/5)
●『異世界 かるてっと』#9「9話 満喫! りんかいがっこう」(6/5)
●『炎炎ノ消防隊』#8「第八話 焔*の蟲」(8/31)
●『ブラッククローバー』#100「ページ100 オマエには負けない」(9/10)
●『Dr.STONE』#17「百の夜と千の空」(10/25)
●『ポチっと発明 ピカちんキット』#96「未来のピカちんキット/ポチロー、ネコになる」(11/9)
●『カードファイト!! ヴァンガード[新右衛門編]』#16「リマインド16 神々の実験」(12/7)
●『BEASTARS』#10「綿毛、地の果てまで追うならば」(12/12)

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★(番外)『バジャのスタジオ』(11/4)
(※初出はOVA作品につき、ランギングには含まれない)

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▼【コメント】

 2019年もたくさんの、素敵なタイトルアニメーションとの出会いがあった。……と書き出して、2年前のこの投票のときもそんな出だしで始めているのに気がついて、結局そういう「好き」の根っこはまるで変わっていないことを実感する。
 ともかく、これまでも今も、アニメのOP、EDを見ているのが本編と同じくらい、あるいはもしかするとそれ以上に好きなので、スタッフクレジットとともに流れるはずのそれらまだ見ぬ映像に期待をもつことは、TVアニメを見続ける理由の、かなり大きな部分を占めている。

『かぐや様は告らせたい』#3

のEDは、そんな映像のひとつだ。カメラ目線で踊る生徒会書記:藤原千花の、ちょっと能天気な性格までが手足の隅々に行き届いているような、膨大な情報量のダンスを捉えたアニメーション。放映後何度も繰り返して再生した、フェティッシュで中毒性にみちた映像だった。アニメを「卒業」(なんて嫌な言い方だろう)しない理由、見続けている理由、こういう出会いの数だけ、その理由はある。

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 魅力的なキャラクターとの出会いを期待することは、アニメに限らずフィクションに接するときの大きな理由なのは言うまでもない。その点では今年8月以降、土曜の朝は

『ポチっと発明 ピカちんキット』#96
『カードファイト!! ヴァンガード[新右衛門編]』#16

の2本が放映される充実のひとときだった。
 『ピカちん』の主人公は、クラスメートである正統的なヒロインの子を引くことに目下余念がない。それにしばしば茶々や横やりを入れてくるいつも眠そうな目をしたもうひとりのクラスメートの女の子が実は……という展開を、これが世にいう「俺得」というやつかと思いながら見ていた。昔『タルるートくん』にこういう、主人公に対していつも意地の悪いことをする伊知川累という女の子がいて、あの子も好きだったなあ、自分のキャラクターの好みはほんとに変わらないなあ、みたいなことを連想しつつ。
 『ヴァンガード』でも、主人公の傍らにいる女の子よりも、強気で高飛車な、主人公の前に立ちはだかる元アイドルの大型カードショップ経営者のほうが、だんぜん自分としては肩入れをしたい。その立ちはだかる彼女・エスカと主人公・新右衛門の間で火蓋を切ったカードバトル。合間に、さらにその「カードの世界観の中の物語」を挿入しながら語られるエスカの過去……。一癖ある構造の語り口でありつつ、結果的に浮び上がるのはごくシンプルで強い、キャラクターの抱えた切実さだった。

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 切実さということで、今年見たアニメで忘れられない印象を残したのが

『異世界 かるてっと』#9

だった。
 さまざまな理由で異世界へ転移、あるいは転生されるという題材をあつかった4つの作品の登場人物たちをひとつの教室に集めた学園もの……という設定も、等身を低くデフォルメしたキャラクターデザインも、(それぞれの)本編におけるシリアスな展開はひとまずおいてのんびりと見るのが本来なのかもしれない。見かけはゆるめで、実際内容的にもゆるめで……でもそれと同時に、この作品を成立させている諸条件はかなり込み入っていて、実際その込み入り具合をちゃんとキャラクターたちに実践させている。たんに人気作4つのキャラを集めてわちゃわちゃさせましょう、ということでは多分こうはならないだろうなあ、という箇所がそこかしこにあって、それが、のんびりと見ているこっちの感情の底のほうを、そのつどざわつかせる。
 だから9話のなかで、アインズがスバルのもつ異様な耐性に気がつき、「いったいどれだけの精神負荷の中で生きていたのだ?」と独りつぶやいたとき、胸が締めつけられるような気がした。スバルには同じ作品世界から来た仲間たちがいるが、彼の地獄については言うことができない。その地獄のことを、なぜか交錯したこの世界で初めて、たとえ詳らかにはできないとしても、「それ」を他人に感知してもらえたんだ……そう考えたら。

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 今年の春に見た『アベンジャーズ エンドゲーム』は、個人的にはひとつの大きな区切りになる映画だった。MCUといわれる一連のシリーズを自分が見続けてきた理由は、アイアンマンことトニー・スタークを見続けることと、自分にとっては同義だった。トニーがまるで息子のように気にかけていたピーター/スパイダーマンへと、バトンを渡してシリーズから退場していった姿。その光景を、

『Dr.STONE』#17

で、白夜から息子の千空へと、いまいちど反復された……そんな感覚がある。
 それはもちろん、両者がともに藤原啓治という声優によって演じられた、ということからくる錯覚には違いないけれど、それにしても、『クレヨンしんちゃん』のひろしは言うまでもなく、藤原啓治の演じる父親像の力強さ、大きさ、説得力、染み込んて消えることのない波みたいなもの、それに接しているあいだじゅう、涙が出てしょうがなかった。

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 2018年から放映されている『ゲゲゲの鬼太郎[第6作]』を見ながら、50年の長きにわたってなんどもアニメ化されてきたこのタイトルの、その歴史の厚みそのものをストーリーにとりこむような姿勢を感じてきた。昨年のこの企画で選んだ#23 「妖怪アパート秘話」はその最たるものだと思うけれど、今回挙げた

『ゲゲゲの鬼太郎[第6作]』#54

にもまた、30年前に鬼太郎が関係した苦い記憶が下敷きになっている。といっても、過去の別のアニメ化シリーズに言及しているということではないが、30年前に苦い幕切れとなったある事件と、その当時子供だった男の子が30年の時を経てふたたび、メガソーラー発電所建設の業者社長となって鬼太郎と対峙する光景には、その30年がそのまま視聴者の人生の30年でもあるような、時間の厚みがはっきりと感じられる。
 今や一児の父となったその男・黒須にも、田を奪われた泥田坊にも、30年前も今も自分はどうすべきか苦悩する鬼太郎にも、いずれにも理がある。結果もたらされる苦い後味を含んだ幕切れには、今期の『鬼太郎』が何にこだわっているかを、如実に示している。それは、『鬼太郎』というタイトルを2019年に作ることの意味を、作りてが繰り返し考え続けた結果なのだと思える。その意味でこの回は、今期『鬼太郎』を代表する1本と言っていいのではないか。

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 例えば

『ブラッククローバー』#100

の後半、アスタとユノが力を合わせ敵の力の強大さに挑む、というきわめて少年漫画王道的な展開のなかで、その一連のアクションが目のさめるような、力の入ったアクション作画だったとき、
「ああTVアニメを見続けていてよかったなあ、こういう瞬間のためにTVアニメを見ているんだよなあ」
とつくづく思うことになる。それがタイトルアニメーションであれ、キャラクターであれ、演技であれ、筋立てであれ、作画であれ、「ああTVアニメを見続けていてよかったなあ、こういう瞬間のためにTVアニメを見ているんだよなあ」と思ったときの満足感を忘れられない、「あれ」をもう一度味わいたい、そういう欲求がその人に、アニメを「卒業」(繰り返すが、なんて嫌な言い方だろう)させない理由になるんだろうと思う。
 悪霊にとりつかれた女の子・浅桐を助けるために入り込んだ彼女の精神世界を舞台にした、悪霊とのすさまじいバトルを、すさまじい作画で描きとった

『モブサイコ 100 II』#5

もそうした1本だった。超能力者のもつ、ど外れたスケールのパワーがぶつかりあう、その力の描写手法に、考えてみるとアニメはずっと創意を注力してきたんだよなあ……みたいなことを、例えば『幻魔大戦』のような作品を思い浮かべながら考える。
 それにしても、『モブサイコ100』というタイトルは1期2期ともに、その「ど外れたスケールのパワーがぶつかりあう、その力」を、逃げずに線と色で描いてみせよう、という姿勢においてひるまずにやり切ったシリーズだった。いや、アクションばかりではない。精神世界でモブに対し陰惨な虐めを繰り返していた浅桐が、泣きながら謝罪の言葉を繰り返す場面の、真正面から作画された彼女の涙、表情においても、その感謝と安堵と罪悪感のないまぜになった行き場のない彼女の感情を、逃げずに線と色で描いてみせよう、という姿勢においてそれは通底しているし、そしてその仕事は最短距離で画面のこちらがわへ届くものだ。

 浅桐に対するモブがそうだったように、苦しんでいる女の子、助けを求めている女の子のもとへ迷わず駆けつけること。そういう主人公たちを、フィクションのジャンルを問わず、もう何人見たかわからないけれど、いまだにどこかの彼はそういうどこかの彼女のために駆けつけ続けているし、これからも、何度も、繰り返し、駆けつけ続けるんだろうと思う。それは正しいことだ、と考える暇もなにもなしに、場合によっては自分でもうまく消化しきれない感情を抱えたまま、例えば

『BEASTARS』#10

のハイイロオオカミ・レゴシのように、ヤクザのライオンに今まさに食べられようとしているそのとき、愛するウサギ・ハルを守るため駆けつけて、「理由はありすぎて……ちょっと言えない」と答えたりするのかもしれないし、あるいは

『炎炎ノ消防隊』#8

のシンラのように、憧れていた上司の男に裏切られ、殴られ、足蹴にされ、殺されようとしているタマキの前に「飛んできて」男の横っ面を全力で蹴り飛ばし、

「大丈夫か? タマキ」

と、いささか凶悪そうな笑みで声をかけたりするのかもしれない。

 「ああTVアニメを見続けていてよかったなあ、こういう瞬間のためにTVアニメを見ているんだよなあ」。心の底から、そう思う瞬間だ。


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 日付が2019年の7月19日になった深夜、ぼくは前の日に報じられた事件のことがまるで受け入れられないまま、職場で『バジャのスタジオ』を見ていた。資料集の特典映像として、ついで単発のOVAソフトとして発売された作品だが、11月にはNHKで放送される機会があったので、そのさいにご覧になられた人も多いのではないだろうか。
 20分というけして長くはない尺のなかいっぱいに充ちた、キャラクターに命を吹き込むことに対する、ほとんど祈りのようにさえ感じる情熱。ちいさなビルに集うスタッフたちを、ちいさな目で見守り続けるバジャ。真夜中に起きる奇跡と、その後も続いていくはずの、アニメーションを作っていく日々。そうした、筋立てや、作画の線や、ねばり強い語り口や、その他画面から出てくるもの全てに、《京都アニメーション》が行き渡っている。


 命が生み出されていく表現の素晴しさを、命が理不尽に奪われた喪失感とともに思い知らされること――この夜に見た『バジャのスタジオ』は、そんなアニメだった。

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