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コラムとやらを書いてみた。

ここ近年の山田が気になる。
山田といえば、山田太一でも山田邦子でもなく、山田哲人である。
山田は山田なのだ。
昭和の小学生だった私は、スポーツ選手は原でも清原でもすべて苗字呼び。
ゆとり世代にとって、呼びつけはいいイメージがないのかも知れないけれど、私はスポーツ選手は苗字で呼ばれてなんぼだと思っている。
当然そこにリスペクトはある。
長嶋ときいて、長島スパーランドを思い出す人もいるかもしれないが、ほとんどの人はあの長嶋茂雄なのだ。落合といえば、落合陽一ではない。
私は、山田哲人が最後の呼びつけ世代ではないかと思っている。
三冠王を取ろうが、村上選手は、私にとってはまだ、宗ちゃんだから。

正直いってしまうと、私はあまり山田哲人という選手に思い入れはない。
才能があり、器用になんでもこなす選手。打ってよし、守ってよし、走ってよし、ルックスよし。
淡々とプレーしているように見える選手は、スポコン漫画で育った私からするとスマートすぎて面白味がないのである。
純朴な青年顔で、六本木で遊び、安い女に引っかかり写真を撮られる。なんとも言えない脇の甘さは好感度大ですけど。
そんな山田選手がチームキャプテンになり、2021年がやってくる。リーグ優勝、そして日本一。チームは、この上なく順調な船出をする。
山田のキャプテン像なるものが想像しにくい世代には意外に思える結果だったはずだ。翌年、何の因果かまたまたリーグ優勝、そして若き侍、村上選手の三冠王獲得と活気にあふれかえったチームスワローズ。
そして今でも皆さんの脳裏にある山田哲人の涙である。

感動の嵐の中、大変申し訳ないのだが、私には、違和感しかなかった。
なぜなら、私の中の山田は泣かないのだ。
どんな大きな国際試合でさえも、嬉しいのか悔しいのかわからない表情で、淡々と仕事をする。それが、山田なのだ。
技術的なことなのか、精神的なことなのか、体力的ことなのか、もしくはその全部なのか、素人にはわからないが、野球選手として、本人もファンも納得した年ではなかったと思う。安堵の涙と解釈するならば、それこそ、らしくない。
でも私は、断然2022年以降の山田が好きだ。
苦悩するスーパースターはなんと魅力的なんだろう。
それは成績が思うように残せなかったことを憐れんで、同情しているわけではない。表情に出さなくても、共感してしまうしぐさやたたずまいに、伝わるものがあるからだ。
私たちはプログラムされたゲームを見て喜んでいるわけではない。
人間がやるスポーツを楽しんでいる。

今年、スワローズのスーパースターが心無いヤジをとばされ、遠い目をし、顔を隠すように下を向く姿を何度みたことだろう。
スタメンに名前があることに疑問をもったファンもいたかもしれない。
未知数のどう転ぶかわからない若手選手と変えろなどと心ない声もきいた。
しかし我らの山田は、チームのトップリーダーとして踏ん張るしかないのだ。矢面に立つのは、本来村上でなく、山田でなくてはいけないのだ。
まだまだ、他の誰にも譲れない礎がある。多くのファンがあなたのことが大好きで仕方ないんだ。

ヒーローインタビューで、小さな声で、ありがとうございます。がんばります。と他人事のように言い、外野ファンからもっと声張れぇいと言われても、どこ吹く風。そんな山田はもう戻って来ないかもしれない。でも、経験を積んだ天才肌の青年はきっとより多くのものを、いま置かれた状況から吸収したに違いない。
神宮最終戦、犠牲フライの結果に本人が満足したかどうかはわからないけど、そんなもんに心から満足なんぞしてはいけないぞ。私の山田はふてぶてしいのだ。
劣化?隠居?そんな言葉使わないでやってほしい。日本語には円熟という言葉があるんだから。頑張れ!山田哲人、まだ夢の途中じゃないか。

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