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均質化する記事

「写す写真と、写った写真は違う。そこに撮った人の感動があるのかが大事なのに、それがおろそかにされている」。16日朝日新聞夕刊に、6月に亡くなった写真家の田沼武能さんの言葉が記されていた。いまやスマホで高画質な写真撮影が可能になり、誰でも即席写真家になれる。それでも、田沼さんは写真の中に撮った人の感動が込められているかどうかが大事だと記者に話していたという。
 曲がりなりにも20年間、文章を書くことで糊口をしのいできた。心がこもっていない文章も少なくないが、半数以上は自分なりに手を抜かずかいてきたつもりだ。だが、自分が思いを込めた文章を否定されたときの悔しさ、ショックはいつになっても変わらない。
 先日、「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」という映画を見た。出版エージェントに就職した若い女性が仕事に慣れていくという話。出版エージェントは作家と出版社の間を取り持ち、作家の本を世に送り出すのが仕事だ。そこで印象に残った場面がある。主人公の女性が少女時代に愛読した児童作家が最新作を出版してほしいとエージェントの社長に依頼してきた。社長から作品を読んだ感想を聞かれた主人公は「私は好きです」と答える。それに対して社長は「でもどう料理する?」「大人が読むと思う?」「売れると思うか?」と矢継ぎ早にたたみかける。結局、作品は出版されず、社長のもとを訪れた作家は怒りながら会社を後にする。主人公は社長に言う。おそらく、作家は「あの作品をどう売るかではなく、あなた(※筆者注:社長)があの作品を読んでどう感じたか、そのことを聞きたかったんだと思う」
 やなせたかしが純文学を書いたようなものだろうか。確かにやなせたかしには、それよりもアンパンマンシリーズを書いてもらった方が受けるし、売れるだろう。ただ、それはやなせたかしが書きたかったことではないかもしれない・・・
 なぜこの場面が印象に残っているのか。それは、往々にして紙面のバランスとか、当たり障りのなさを重視する余り、筆者の思いがかき消されるような文章の修正が行われることが少なくないからだ。特に最近のマスコミ業界は部数減、売り上げ減もあって「安全運転」を意識する傾向が強いように思う。
 ただ、修正によって筆者がそこに込めた魂が失われることは少なくない。冒頭の田沼さんの言葉を借りれば「書いた人の感動があるのに、おろそかにされている」ということになろうか。もちろん独りよがりで破綻している文章は売り物にはできない。だが、無難へ、安全に・・・。そうした配慮が結果的に文章から熱量を奪うことになっていないか。私たちは、公平性という名の下に何を守ろうとしているのか。


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