帯同生活【@上海】振り返り①:はじめに
はじめに
私は現在、妻の海外赴任に帯同して上海に住んでいる。そして来月に日本に帰国することになっている。
これまでこのnoteでは断片的なことしか書いてこなかったが、帰国するにあたって、上海にいる間に程度諸々のことをまとめておきたいとった。帰国してからでも書けるだろうけど、いる間しか書けない思い出せないこともあるだろうから。
上海にたどり着くまで
妻から海外赴任の話を聞いたのは3年前の2021年の春先だった。 妻の会社では数人の候補者を決め、本人の意向を聴取した後に赴任者を選考するらしく、その意向調査を受けたという。赴任先は中国上海。
妻の意向としては、単身赴任はNG、私が一緒に行くなら行くというものだった。
当時私達は東京に住んでいて、私は都心にあるIT系中小企業で事務職をやっていた。職場環境はともかくとして待遇自体は悪くない会社であり、人間関係も基本的にはよかった。仕事自体も面白かった。
一方で、中小企業にありがちな朝令暮改的体質やパワハラまがいの言動にやや疲弊していたという部分もあり、度々転職を考えたこともあった。
不安要素としては、帰国後の再就職があった。帰国したら私は30代後半で、専門的な資格は有しておらず、大学に長く行っていたこともあって職歴も同世代に比べると短い。
特に職歴の短さについては、以前の転職活動でもエージェントに指摘されており、大きな不安要素だった。
ただ、個人的に海外での生活をしてみたいという希望と、妻の実家が北京にあり、数年間妻も私も行く機会がなく、もう少し頻繁に行き来した方がいいのではないかという思いがあり、思い切って行ってみよう、ということにした。
まだ選考段階だし、もし本当に選ばれたとしたら、その時考えればいいやくらいの気持ちもあった。
そして数カ月後、妻の赴任が決まり、11月から赴任という具体的なスケジュールが出てきた。しかし、当時はコロナ禍であり、この辺の詳しい事情はわからないのだが、先に妻が赴任、その後状況を見て私が行く事になった。
10月の末、妻を見送りに成田に行った成田空港はがらんとしていた。当時成田から上海へ行く飛行機は日曜日の一便しかなかった(と思う)。前々日は浅草に泊まり、最後の日本の居酒屋を楽しんだことを覚えている。
妻が上海に行ってから、私は12月まで前述の会社で仕事を続けた。この間も人が辞めたり、冬季休暇中に最終出社をしなければならなかったりといろいろあったが、辞めると決めてからの数カ月は楽しかった。
一応のスケジュールでは22年の4月末ごろに上海に行くことにしていたので、1月から3月は別の会社で短期間、少し専門的な仕事に従事した。
しかし、予定通りに事は運ばなかった。相変わらずコロナは猛威を振るっており、上海は3月末からロックダウン。当然入国できるわけもなかった。4月になって家を引き払い、私は札幌の実家に帰った。
いつ行けるのかわからないのでバイトもできず、やっていたのはほそぼそとした中国語の勉強と、犬の散歩だけ。たまに旅行に行った。
ただ、不幸中の幸いだったのは、当時ちょうど父が大病を患い、介護とまではいかないまでも、生活の補助が必要になったので、それなりに手助けをすることができた。
そして7月ごろ、ようやく見通しがたった。最短で8月末ごろに行けることになった。ただ、父の病状のこともあり、9月末に行くことにした。
それからは、ビザの手続や健康診断、荷物の手配などで結構いそがしかった。
当時中国に入国するには入国前に指定された医療機関で2回のPCR検査が必要であり、出国の前にその結果を中国側に送信しなければならなかった。出発の前々日から2回にわたって病院に行き、PCR検査を受け、前日成田に向かう電車の中で諸々の書類をスマートフォンで撮影して送信した。
当日、空港は11ヶ月前と同じで相変わらず閑散としていた。人がいるのはカウンター周辺だけだった。
机上では、日本を離れるという感覚よりも、緊張と疲労が大きかった。妻の会社が用意してくれた席はビジネスクラスだったが、機内食は袋詰のパンやミネラルウォーターのペットボトルだった。
続く
実家に帰っていたときに行った旅行の記録