#34 今の僕ら

父は起きていた。病院の廊下の壁紙よりも青白い顔をしていたが、僕たち三人が病室に入ると、僅かに上半身を起こそうとしてくれた。僕と妻とでベッドを上げると、「よく来たね」と掠れてはいるが、父らしい良い声で言った。そして、僕らの後ろにいたレモン色のチューリップの花束を抱えたショーを見て「チビ!!」と大きな声を上げた。そして、腕を広げ、こっちへ来い、と顔を輝かせた。ショーがやや太めの大きな身体を屈めて父に近づき、父を抱きしめると父は泣きだした。「大きくなって…」父はそう言って、ショーを力強く抱きしめた。「何処に行ってたんだ」といって、かさかさの大きな手でショーの丸い顔を包み、その顔を覗き込んだ。それから、両頬を優しくつねった。しわの寄った父の目尻に涙が伝わって川をつくった。父の目は明るかった。ショーは父を再び抱き寄せると、ここにいない我が家のチビである弟の代わりに父の痩せてしまった背中を大きなふっくらとした手で優しくさすった。

結局、僕は父に頼まれた文章を父に見せることはなかった。父はそのことに触れなかった。父は僕にそれを頼んだことも忘れているのかも知れない。 

僕らは、外出許可を得て車椅子を借りると、病院の敷地内にある庭園へ出掛けた。広い病院内の敷地には、散歩コースがぐるりと整備されていて、大周りするコースと短めのコースのそれぞれにリハビリにいそしむ人や見舞いにきた家族や友人と過ごす人々の姿が点々とあった。風のない穏やかな明るい日であったけれど、僕らは父の身体が冷えないように用意してきた柔らかい上着を父に羽織ってもらい、さらにブランケットで脚を覆った。ショーが父の車椅子を押す係を引き受けた。僕たち夫婦は、父とショーの一歩後ろを歩いて、父とショーが話すのを聞いていた。病院の敷地内の遊歩道を半周した先に控えめにつくられた入り口がある。そこから、僕らは手入れの行き届いた雑木林の中に入り、そこをしばらく歩いた先にある小さなくぼみのような広場を目指した。僕らは、その広場に留まってとりとめのない話をした。広場には手摺りで囲まれたウッドデッキがあり、そこには深緑の丸い四脚のテーブルが置かれていた。妻は身体が冷えたのか、移動による疲れが出たのか、そのテーブル席に座り、青ざめた顔をしていた。「具合が悪そうだけど、先に部屋に戻るかい? いいんだよ、無理して付き合わなくても」僕が小声で妻に訊くと、妻は首を振った。僕が上着を妻に貸すと、彼女は大人しくそれを羽織った。

ショーはそこで家族写真を撮ってくれた。父は終始ご機嫌であった。「チビ、あっという間に、お姉ちゃんより大きくなったな」と、父は右手でショーと手をつなぎ、左手で妻の手を握りながら、二人の顔を交互に見つめながら満足そうに笑っていた。

ショーも妻も父の勘違いを特に訂正するでもなく、只、にこにこと笑って父の手を握り返していた。

父は、病院の敷地を眺めながら、「俺ならここに小川をつくる」とショーに話し、ショーは「釣りをしてもいいなら、僕も川をつくるのを手伝うよ」と答えていた。父はその水を引いて大きな美しい池をつくりたいと話し、ショーは蛍が飛び回るような素敵な池になると請け負った。池には睡蓮を仕込み、水辺には大きな柳の木を植える。小さな橋を渡して、シンプルな噴水をひとつ、、、。父の話は尽きなかった。父の青白い顔にすこし色が差したように見えた。

「水鳥もいいね」僕は言った。けれど、父は想像上の池のことを話すのに夢中で、僕の話しかけた言葉には反応しなかった。


僕も池のことを考えた。池というより小さな湖がいい。僕は美しい湖を思い浮かべた。湖には睡蓮の葉がいくつも浮いている。鴨が泳いでいくと葉が揺れた。さざ波がいくつも立って美しい。けれど、睡蓮の葉はいつだったか自宅のプールに投げ出されたレコードに姿を変えて縮れていった。鴨が水を吸って膨れたレコードと共に湖に沈んで行くのが見えた。湖の底には母が横たわっている。沢山の黒い虫が…

僕は自分の手を握りしめて、それをやめた。鴨は泳ぎ続けるし、岸へ上がっていくのだ。それで、いいだろう?

レコードは水を吸って膨れたりしないだろう? 湖で睡蓮は育つのか? 

いいや。

そうだ。その通り。
現実でないことが、また差し込まれただけだ。

僕らは父の話に耳を傾け続け、きりの良いところで院内に戻った。

広場にいる間、僕は無意識のうちに、広場を囲う手摺りに、両手の親指の爪を食い込ませて何か模様を刻んでいたようだった。それは、僕の想像上の湖の水面にあらわれていた美しい波紋に似ていた。そこには、確かにリズムがあり、パターンがあり、原因があった。はじめは、小さくはじまって、ゆっくりと拡がって行き、目では追えなくなるほど増えていき、消えていき、何も残さないし、変わらない。けれど確かにあった、、、。何がだ? 変化が? 僕は夢中になっていて、妻に、腕をひかれるまで、自分のしていることに気がついていなかった。「どうしたの、大丈夫?」妻もまた小声で訊いてきた。
「大丈夫だよ、ごめん」と僕は答えて、ぱっと手摺りから手を離した。「何でも無い」僕はそう付け加えた。多分、大丈夫ではなかったけれど、長い間、大丈夫でない状態が僕には通常であったから。野外にある風さらしの手摺りの木目を少し増やしただけだ。これは大丈夫だろう? 元々、傷だらけの木材に少し模様を付け加えるくらい問題ないはずだった。何でも無かった。僕の爪痕は水面に生じる波紋程、人の目をひかなかった。大丈夫だ。それでも、僕は手摺りをザリザリと掌で擦って、付けてしまった跡を消そうとした。

親指の爪の間から少し血が滲んでいた。大したことのない傷とも呼べない傷だった。けれど、父も妻もショーも、僕を心配して、病室へ戻ろうと言ってくれた。これが、キリのよいことに当てはまるのか僕にはわからなかったけれど、とにかく彼らは、キリが良いから病室へ戻ろうと言ってくれた。

まともで優しい人たち。
帰りも父の車椅子はショーが押した。
雑木林の出口で、僕は妻に再び腕をひかれた。
僕が立ち止まると、妻は出入り口に立てられた看板に描かれた熊の絵を指差して「可愛い絵ね?」と僕にきいた。

「そうだね。すごくいいね」僕はそう答えた。本当にそう思ったから。すごくいいデザインの絵だった。不自然な一拍があって、妻は「そうよね」と答えると、父とショーの後を追って足早に僕から離れて行った。

病室に戻ると意外な人物がいた。妹はベッドの脇に置かれた椅子に腰を掛けて脚を組み僕の書いたメモを読んでいた。僕らが部屋に戻っても眉を少し上げて見せただけで挨拶もなかった。彼女は今日もまた凄まじい怒りを抱えているようだ。それは、僕の抱えている悲しみや怒りと同じであるはずなのに、僕らはそれを分かち合うことが出来ない。

なぜだかはわからない。

妹は苦虫をかみ潰したような顔で僕の書いた文章を読み続けていた。

妻が妹に声をかけて、妹の側へ寄りその肩に手を回した。妹は立ち上がり、父にそっけない挨拶をすると、当たり前のように妻と連れだって外へ出ていった。ショーと僕は居ないも同然の扱いだった。ショーは(いつものことだろう?)と肩をすくめただけで、特に気にもせず、ここから離れていく彼女たちの背中に声を掛けることもなく、父がベッドに横になるのを手伝うと、バックパックを開き、父に持参したお土産を見せに取り掛かろうとしていた。

僕は病室にある洗面台を借りて、手を洗って、手を拭いた。
もう一度、手を洗って、手を拭いた。
さらに、もう一度、手を洗って、手を拭いた。

ショーは何も言わなかった。そして、僕も咎められるような雰囲気を感じた訳じゃない。けれど、僕は礼儀として「棘が刺さったみたいだな」と、聞こえるような独り言を言った。それで、僕は安心した。トイレットペーパーの替えがちゃんとあることくらい気持ちが落ちついた。こういう無意味な礼儀を僕はどこで身に付けたのだろう。そもそも、これが、礼儀であるのか、何かに効いているのかは謎だった。

僕はもう一度、手を洗って、手を拭いた。
なぜ、僕は手を洗うんだろう。それに、いつから? 千回は考えた謎だった。

そして、ここで、さらに、もうひとつの謎。僕の妹と妻は僕やショーにはわからない何かで結ばれている。ショーにさえ彼女たちの間には、特別な結びつきがあるのがわかっている。けれど、それが何であるのか僕にはわからない。

彼女たちが寄り添うとき、僕は強烈な疎外感を感じる。何かが隠されている。そんな気がする。彼女たちは何も隠してなどいないのかもしれない。よくわからない。そこには、間違った知恵の輪同士が何種類も一緒くたになって絡まっているような不自然さがあった。僕はそれを解きたかった。彼女たちを仲違いさせたい訳じゃない。彼女たちは何か間違ったもので繫がれている。その輪の中に、解りづらい形で僕もショーも組み込まれている。それを、解くことが僕の役割であるような気がするけれど、妹は、その場所にけして僕を近寄らせないのだ。妻はそれが何処にあるのかを隠している。ショーは忘れたがっている。それが、僕の感じていることだった。

(場所?)僕は思った。
(隠している?)
(忘れたがっている?)
何を?
そんな気がするだけのことを、僕はまた難しく考えすぎているだけなのだろうか。


知恵の輪は置いておいて。僕はまた手を洗いながら考えた。そもそも、僕には単純に彼女たちの相性のよさが理解できない。そう表現するのはおかしいことだろうか。妻と妹は、違うのだ。僕は形式的な家族になったとはいえ、彼女たちが「気の合う」ような間柄になるとは思ってもいなかった。


僕が彼女たちが一緒にいるのを見る時に感じる疎外感(時に、警告をはらんだ違和感を)は、僕の「何か」が彼女たちの何かを刺激し、怒らせ、その怒りが失望となって、さらに彼女たちの結束をかためているようである、ということが手に取るように「わかる」ことがあるからだ。そういう時に、彼女たちを繫いでいる知恵の輪がかちゃりかちゃりと音を立てるのが僕には聞こえる。その知恵の輪は、時に不気味な程、黒く、太く、巨大で、その重みで、妹と妻が僕の見ている世界から沈んで行くのではないかと僕は不安になる。とはいえ、彼女たちは僕と同じ地面をすたすた歩いている。僕よりずっと上手く歩いている。

間違った知恵の輪なんて、ないのだ。僕は自分に言い聞かせて、手を拭いた。

今日、僕は妹が来るとは知らなかった。僕が連絡をしても当然のように無視されていた。それでも、僕は妹の姿を一目でも見ることが出来て、嬉しかった。嬉しかった、と伝えても、妹は喜びもしないだろうけど。

妹の座っていた椅子の足元には紙袋が残されていた。父さんへの土産だろうか。何かひと言でも言っていけばいいのに。カフェ・グルトン。眼鏡を掛けたふっくらした動物が印刷された店の紙袋の中には綺麗にラッピングされた小振りの箱が二つはいっていた。箱の上にメーセッジカードが差し込まれていた。妹の字で「ひとつはショーへ」と書かれている。

ひとつはショーへ。
たったそれだけ。


僕は病室の窓へ寄って、外を眺めた。ショーは父に話しかけ続けている。僕は何を見たかったのだろう。妹と妻が歩いている姿を見たかったのかも知れない。病室の窓からは木々の緑の向こうに広がる駐車場が見えた。

そして、それが起こったのを僕は見た。まばらに車のとまる広い駐車場の真ん中に僕の書いたメモ書きの紙が渦を巻いて正確な輪をつくり、燃え上がった。

火は舐めるように紙の輪を進み、燃え上がってから消えた。僕には紙に書いた自分の文字がはっきりと見えた。本当に。文字は火の熱さにくねり叫び、それから、紙から解放される喜びに気がついた後は、火の中で踊り狂って紙から身を引き剥がすと、紙を蹴り、空へと勢いよく脱出していった。残された紙のベッドは炭となり、暫くのあいだ空中に留まりった後、風に吹かれて青空へと舞い上がり、流されて消えていった。それは、ひとつのショウだった。火の輪の中をライオンがくぐってくれれば完璧だった。青いリボンをたなびかせた白い鳩の一群がその輪を通り抜けて雲の中に消えていくのもいい気がした。指揮をとっているのは、妹だ。手にしているのは、鞭でなく、バイオリンの弓だった。

それで、僕は吐き気がした。

僕は今、見たものを忘れようと目を閉じて首を振った。まさか。

頭の中で妹が「これは現実でないわよ」と言った。僕の書いた文章の束を膝に置いて、指でこつこつその束を叩いていた。椅子がないのに、妹は座っていた。

五秒数えて、目を開けると、僕は病室のクリーム色をした分厚いカーテンの前に立っていた。

まさか。とは、思わなかった。こうであるのだ。現実でいいのだ。燃え盛る紙の輪なんてなくていい。実用的なカーテンは分厚くて、外と室内を完璧に遮断していた。機能的で有能なカーテン。僕の頭にも君が必要だよ。

カーテンを開けると、欅の枝が風に揺れていた。ここから駐車場は見えなかった。窓を開けると澄んだ声の鳥が鳴いているのが聞こえた。



鳥は「忘れているなら仕方ないわ」と僕に歌った。ははは。その声は妹で、その声は続けた。「あなたが意気地なしな訳でないのは、あたし、よくわかっているのよ、兄さん」と歌った。

「でも、どうしようもなく我慢がならなくなることがあるのよ、私は」と続けた。

「わざとじゃないのはわかっているの」
「でもね、兄さん。どおおおおしても、我慢ならない時が、あたしにはあるのよ」妹は言った。

僕は頼りになる病室の有能なカーテンを掴んで身体を支えた。そして、お願いだから、助けてくれ、今、僕を。と頼んだ。

多分、父の病室に掛かっていたこのカーテンは本当に優秀なカーテンだったのだろう。

数秒後、鳥は鳥に戻り、素晴らしい鳴き声を披露してから仲間の元へと飛んでいった。妹の姿はなく、外は素晴らしい天気だった。意味も無く。

それで、僕はやっと、窓に近寄ろうとした理由を思い出した。本当に爪の間に棘が刺さっていないか、明るい日の光の下で確認したかったのだ。棘は刺さっていなかった。指先に残る痛みは、一晩もすれば無くなる痛みだった。手を洗ったおかげで優秀なカーテンを血で汚さなくて良かった。

外は晴れていて、意味もなく全員に開かれていた。生きている人には。それと、優秀なカーテンの為にも。死んでしまった人達には?それについては、考えたくなかった。 







⇨つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?