#35 今の僕ら

ところで、しっかりと紙の輪が空中で燃えるのを見た人物がいた。目撃者がいたのだ。
入院している友人を見舞いに来ていたその女性がハンドバックから車のキーを取り出そうと、片足を車のタイヤにかけて腿の上にバックを置くという些かお行儀の悪い格好をしていた時に強い風が吹いた。

髪が乱れて、目に塵が入った。スカートがめくれて足に纏わり付いた。目をしばたたかせた彼女は何かの気配を感じて顔をあげた。強風に煽られて紙の束が舞い上がろうとしていた。

誰かが書類を落としたのかしら?

気のいい女性が紙を拾う助太刀に入ろうとした時に辺りには誰もいないことに気が付いた。

紙の束は空中三メートルか四メートルの高さに浮き、一枚ずつが風に吹かれて流れていき輪をつくっていった。

何かしら? 竜巻の発生…?
紙は巨大なフラフープのような丸い円を空中に形づくると空から降りてきた雲のようにそこに漂っていた。

そして、いきなり輪をなめるように火が走った。まるで、壮大なマジックを見ているようだった。女性はスカートが風に煽られてめくれるのも気にせず、片足をタイヤにかけたままその光景に見とれていた。思わずヒューっと口笛を吹いた。

火が紙を燃やし尽くすと残された灰は暫くそこに留まってから風の中に溶けるように消えていった。

後には何も残らなかった。

今のは何? 
格好良かった。
その場に立ち尽くした彼女は、暫くしてこの興奮を誰かに話したいと、再び、辺りを見渡した。けれど、誰も居なかった。

そこで、もう一度、友人のところへ行こうかと病院の入り口に向かったところで、病院の入り口前のロータリーから少し離れたところにあるベンチに二人の女性が腰掛けているのを発見した。

(あの人たちも見たかしら?)見えない位置ではなかった。

彼女は話しかけようと心を決めて、足早にベンチに腰掛けている女性たちに近づいて行った。近付くうちに、二人のうちの一人に見覚えがあるような気がして足を止めた。ハンドバックをまさぐるようなふりをして時間を稼ぎ、その人物を然り気無く観察した。仕事先の人じゃないわね。タレント…さんではない。女優さん…? でもないわ。

ああ、と彼女は思い当たった。
あのH家の次女だ。
なぜ、こんな所に。あの事件から何年たったろう? 一時、マスコミがこぞってアレを取り上げていたが、ある時から不自然な程、ぴたりと報道はとまっていた。

でも、人違いかもしれないわ。あんなお金持ちがこんな所にいる筈がない。

彼女は気を取り直して、今見たものを見たかしら? とベンチに座る二人の女性に話しかけた。

「自然現象のひとつなのかしら? 静電気とか雷とかの? 私、びっくりして見とれちゃったのよ。でも、なんだか、怖くなっちゃって」女性はいった。

三十歳前後と思われる品の良い美人が戸惑ったような顔をして、隣に座るH家の次女似の女性の顔を見た。

二十代後半と思われる少し若い女性は「さあ、なんなのかしらね。なんにせよ、燃やされて当然の物だったんじゃない?」と小さく吐き捨てるように言った。それを隣の年上の女性が小さく諫めてから、気のいい女性に身体を向けて話相手を引き受けると、会話を続けた。

「さあ、どうなんでしょう。自然発火かなにかなのかしら。今日は少し乾燥しているし。私達は『見ていない』わ。ここで、話し込んでいたから。でも、火事の危険性はないのかしら。私達も行って、その『現場』を見てきた方がよいかしら?」と年上の美人さんは腰を浮かせた。

気のいい女性は、それを止めた。「いいえ、もう全て綺麗さっぱり消えちゃったの。大丈夫よ。私、燃えかすまで消えるのもしっかり見ていたから」と答えた。

年下の女性が笑って言った。
「多分、そのうちにもう一度見れるわよ」
やめなさい、というように年上の美人さんが眉をしかめた。

本当に、そのうちにもう一度、ショウは開催されるだろう。

なぜならば、僕の書いたメモの後半を妹はまだ読んでいなかったが、しっかりと父の病室から、それを持ち出していた。僕の書いた文章の前半。それは、本当に彼女を失望させた。思わず、燃やし尽くしてしまうほどに。

気のいい女性は、僕の妹が吐き捨てるように放った言葉の刺には全く気がつかずに、(ああ!! ほんとうにもう一度、見れるものなら見てみたいわ)とだけ思って、お礼を言って、その場を離れ、売店で友人と自分用に飲み物と軽食を買うと、友人の元へ戻り、今、見たことを一から話して聞かせた。その話には、ロータリー前のベンチで僕の妹らしき人物がいた、ということも含まれていた。彼女の友人はベッドに横になって点滴を受けていた。話し好きなその友人は、入院中に病院友達が何人も出来ていた。それで、色々なことを聞きかじっていた。それで、彼女は言った。「ああ、多分、その人はほんとにH家の娘さん本人よ。だって、ここH家の系列らしいもの。それに、特別な個室があってね、一般人じゃ入れないような。そこにH家に『嫁いだ』あの旦那が入院してるのよ」

「ああ、それで」気のいい女性は自分の観察眼の正確さに満足して気持ち良くなった。有名なだけの自分にとって何の益にもならない人物に会うことが、人を喜ばせるのはなぜなのだろう。この女性も妹を実際に見たことに満足していた。けれど、この頭の回転がそんなに鈍くない、気のいい女性は興奮しながらもわかっていた。彼女の感じたある種の昂揚感は珍しい人に偶然出会った興奮だけではなかった。あのような事件に巻き込まれた「女の子」が無事で、かなり生意気そうに成長して女性になっていた。独りでなく、知り合いが隣にいて、父親の見舞いにも来ている、それが、嬉しかった。それに、今日は小さなサーカスのショウのような不思議なものを見たし。気のいい女性はそれがどう起きたのかを事細かく、友人に話した。

多分、僕が思うに、これは、本当に何か祝福された偶然の連鎖なのだと思う。気のいい女性の友人は日記を付けるのが好きな人だった。中毒のように日にあったことを事細かく書き記すのが彼女の趣味であった。入院中にそれは加速していた。彼女は、友人が駐車場で見た紙の輪が空中で燃える話を一語違わず書き残した。その後に、友人がH家の娘に会ったことも、交わされた会話も、妻の着ていた素敵なワンピースのことも、気のいい友人が買ってきてくれたソフトドリンクの商品名もプリンの固さが如何に彼女好みであったかも。その後、不幸なことに彼女の病室のあるフロアで盗難事件が連続して発生した。彼女の貴金属類は無事であったが、なぜだか、彼女の日記が持ち去られた。その犯人は、日記には興味が無く(彼は遺言的な財産に関する記録を求めていた)ノートを空の財布と一緒にある公園の片隅に捨てた。そのノートを拾ったのは絵を描くのが好きな人物だった。美大生であった彼は、彼女の日記の中にあったいくつかのエピソードにインスピレーションを受けて、それを元に何枚かの絵を描いた。公募へ送ると、病院の駐車場に突如あらわれた火の輪の絵が受賞した。そして、割と悪くない金額の賞金と都内にあるギャラリーにその絵がしばらく飾られる権利を彼は獲得することになった。そのギャラリーはH家の所有するビルに入っていた。

それで、ある日、僕は立ち寄ったギャラリーでその絵と対面することになった。

絵の前で、僕は雷に撃たれたような衝撃を受けた。雷は僕の脳を覆い尽くしていた分厚いもやを切り裂いた。僅かな切れ目から思い出されたがっていた本当のことが、飛び出すトランプのマジックのように、目の前に慌ただしく現れては畳まれていった。僕にはそれを全て見ることは出来なかった。あまりにも素早すぎて目では追えなかった。

けれども、網膜に流れ込んでくる断片が僕のもやのかかった脳内を刺激して揺さぶった。

グルトン
神山くん
店長さん
ショーの本当のお母さん

ショーの本当のお母さん?
ああ、僕は、そんな当たり前のことも忘れていたのか。

僕は目の前に現れる記憶の断片を必死に目で追っていた。目が乾いて脳が焼き切れそうになったところで、ふわっとあの優秀なカーテンが目の前に降りてきた。

カーテンは優しく僕の周りを取り囲んで、全てから遮断してくれた。多分、一度に見ていいボリュームではなかったのだ。僕は心からありがとう、とカーテンにお礼を言った。


そこで、僕は落ちついて、受け取れたものの分だけでも『話』を整理しようとした。

僕は汗をかいていて、明らかに興奮していた。けれど、クリーム色のカーテンの中で僕は落ち着きを取り戻していた。いつものようにパニックをやり過ごそうと歯を食いしばって数を数えた訳でも、拳を握りしめた訳でもない。落ち着きはすんなりとやってきた。優秀なカーテンが側にきてくれたからに違いなかった。

もっと落ち着け。僕は自分に言い聞かせた。今、見た分だけでいい。整理して記憶を留めるのだ。僕の中にあるはずの記憶と照らし合わせて、きちんと結びつけるのだ。焦れば、またこの感触は消えていく。

僕は話を整理するためにカーテンに話しかけた。声に出して聞いて貰ったほうがいい気がした。「ショーのお母さんはミカさんだ。今のショーの母親のスミレさんはミカさんが亡くなった後に母親になった人だよね?」僕はカーテンに話した。カーテンは何も答えなかったが、僕にはカーテンが聞いてくれている確信があった。「そんなことも忘れていたなんて、僕はかなりひどい友達だったね?」カーテンはやさしくふんわりそこにあるだけだった。「あの雑木林にあった看板はあの叔父さんが描いたものだろう? でも、駄目なんだ。本当に覚えていないんだ。嘘じゃない。なぜ、叔父さんの絵が『うち』の病院の敷地内に存在しているんだ? 僕らがあの夏を過ごした家は本当はどこにある?」

それから、浮かんできたイメージを口にした。そのイメージは僕が父の病室で考えたことに紐付いている。妻と妹の繋がりについて僕が「実際」に考えたことだ。疎外感、じゃない。知恵の輪、じゃない。

「警告をはらんだ違和感」そうだ。これだ。

「警告をはらんだ違和感」僕はもう一度、口に出してみた。それで、やっと、これは、妹が口にするような台詞だと気が付いた。でも、いつ、どこで、なんの為に? おぼろげに、知らない家のリビングのソファにあぐらをかいて生意気そうに話しをする妹の姿が浮かんできた。ショーもいる。僕らは子供だった。その家の本棚に箱があった。

カーテンは何も言わなかった。けれど、箱をよく見ようと僕が集中した時に、優しくのんびりした雰囲気のカーテンが一瞬で硬直して鉄の硬さに変わった。

「警告をはらんだ違和感?」僕が呟いて、振り返ると、青い箱が足元に置かれていた。その横には、顔の崩れた母が踞っていた。

半径一メートル、直系二メートルのカーテンのつくる円の中に母は居た。血の匂いが立ちこめて、踞った母の指がギャラリーに引かれた絨毯の上をジリジリと僕の方へ這ってきた。手は蜘蛛のように絨毯に爪を引っかけて前進してきていた。やめてよ、母さん。僕は思った。顔は上げないでくれ。潰れた後頭部を見ながら僕は祈った。カーテンはガタガタ震えて、母という異物をなんとかここから吐き出そうとしていた。

母の指は異様に伸びて、爪は黒く変色して捻れていた。腕の皮膚はもう腐りきっていて、裸足の足には指も踵もなかった。あと五センチで僕は母に足首を掴まれて、それから、、、? 僕が動けなくいると、僕の革靴の爪先を母の人差し指の爪が捉えてめり込んだ。それで、母が笑ったのを僕は感じた。母が笑って顔をあげようとしたのと同時に、母の腕が急に動き出して僕の脛から、腿、腰へと爪を立てて這い上がって来た。僕はその顔を見たくなかった。こういった悪夢にはもううんざりしていた。見たくない。消えてくれ。その願いをまたしても、カーテンは聞きいれてくれた。小さなカーテンが目の前に現れて僕の視界を遮断した。

それでも、血の匂いと腐った肉の腐臭が濃くなり、すぐ目の前に母の顔があるのがわかった。力の強い昆虫が指にしがみ付いた時のように母は僕の胸に爪を突き立て絡みついて歯を鳴らしていた。

僕は視界を失っていたから、よくわからない。カーテンが誰かを受け入れたのが、分かった。その人は母を僕から引き離して、もがいて絶叫する母に何かした。

「もういいよ、目を開けて大丈夫」僕の目の前に現れた新しい小さなカーテンを開けて、その人は顔を覗かせた。見たことがない人だった。その人こそ、僕の本当の叔母であるのに、僕はすっかり忘れていた。週末毎に一緒に過ごしていたというのに。それを、思い出したのは後のことだ。

「覚えてないわよね」その人は言った。「私だって、何がなにやら分からなくなってるところよ」

それから、僕に聞いた。「あの子は元気?」
「あの子って誰のことですか?」

「あの子といったら、あの子しか居ないわ」その人は言った。「マルメロよ。カササギでイソヒヨドリで、時々、虎の。時々、雷で放火魔で癇癪持ちのいい子のことよ」

妹のことだ。

「名前は口に出さないで。分かるでしょう?」
僕は全く分からなかったけれど、頷いた。

「あなた、私を忘れちゃってるのね」その人は言った。僕が頷くと、その人は泣いた。ギャラリーの支配人がやって来て、「H様、何か問題でも?」と聞いてきた。僕が何もないというと、支配人は僕の知らないその人に向かって「お久しぶりで御座います」と頭を深々と下げた。そして、入院している父の容態を案じ、労りの言葉をその人に述べた。その人は涙を拭って言った。「弟とは随分、会っていないの。本当に長い間。この子に会うのも久しぶり。何年ぶりかしら? 十年は経つわね。十年じゃきかないわ。でも、忘れるなんてあんまりよ。あなたのせいじゃないって分かっているんだけどね」

支配人が飲み物の用意をしてくるとその場から居なくなった隙に、その人は「また近いうちに会いましょう」と言って、颯爽と去って行ってしまった。

それで、また僕はひとりで駐車場にあらわれた火の輪の絵に向き合っていた。

見た人がいるのだ。実際に。あれは、僕の妄想の類じゃなかった。この作者は、病院の関係者だろうか? あの日、あの時間に病院の敷地にいた人? 

僕はシャンパンとアイスティを運んで来た支配人に、先程の女性は帰った旨を伝えた。飲み物が二つ用意されていたことで、今、見た人は現実に存在したんだ、と認識した。何かがおかしかった。悪夢と現実が入り混ざっている。でも、それは、いい。僕は、この絵を描いた作家と早急に連絡を取りたいのだが、支配人に訊いた。支配人は「ああ」と笑顔を浮かべた。「彼なら、今、此方に居ります。ほら、あの。彼方にいる学生さんです」支配人の顔を向けた先には、二人の若い男性が壁際に置かれた椅子にちんまりと座っていた。一人は背の高い体つきのしっかりした今時の若者で、もう一人は痩せていて、柔らかい雰囲気を漂わせていた。

僕はギャラリー内に人がいるとは思わなかったから驚いた。僕と支配人が二人に近付くと、二人は身体を強張らせた。擬態するイカやタコのように、彼らはギャラリーの壁に同化して、僕らが通り過ぎるのを息を止めて待っているように見えた。二人は明らかに僕から視線を外そうとしていた。けれど、支配人に声を掛けられて、彼らは観念したようだ。

二人は椅子から立ち上がると、会釈はしたが僕の差し出した手を握らなかった。支配人が僕を紹介すると、やっと彼らは僕の顔を見た。「二人にも何か飲み物を。それと、何かつまめる物をお願いします。それから、ちょっと二人と話したいから、裏の部屋を借りたい、、、」僕が言い終わらないうちに、背の高い男性が「いいえ、ここで結構ですっ!」と大きな声で返事をした。「なあ、あっちゃん? ここでいいよな?」その男性は隣にいる雰囲気の柔らかい男性に同意を求めた。あっちゃんと呼ばれたその男性は、こくこくと首を激しく振った。

支配人が飲み物を取りに場から離れると、二人は分かりやすく僕から一メートル遠ざかった。

「聞きたいことがあるんだけど」僕は言った。それだけで、二人はびくっとして、さらに後退った。それから、背の高い方の男性が「聞きたいことがあるのは、こっちっすよ」と言った。そして、また、同意を求めるように、隣のあっちゃんと呼ばれる男性を見た。あっちゃんは、またこくこくと首を縦に振った。彼は言葉を失ってしまったようだ。

「あれ、なんなんすか? あの化け物? で、なんで、おじさん、そんな普通にしてるんすか? まじで、あれ、なんなんすか? まさか、この部屋にやばい薬でも撒いてないっすよね?」背の高い男性が言った。

僕は驚いた。
「何が見えた?」僕は聞いた。
「何がって、女の…」背の高い男は言った。
「それに、それ」あっちゃんが僕の頭上を指差した。まだ、小さなクリーム色のカーテンが僕の頭上に浮いていた。




⇨続く






続く→




続く⇨



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