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拉致
僕には恋人がいる。彼女が好きなのは歯磨きだ。完璧な口内環境を作るためにいつも彼女は最善を尽くしている。そんな彼女が僕は大好きだ。
彼女と出会ったのは2年前。少しデザイン料をケチったような看板の歯科医院で僕は働いていた。それなりに健康な身体と、日本国民の上位1%の収入をもつ両親の元に生まれ、大した熱情を得なかった僕は自然と歯科医になった。
「どうして歯科医になりたいのですか?」一応小論と面接があると聞いて、なんとなく自問自答してみたが、結局めんどくさくなってGoogleを漁った。変な事だけ口走らないように注意したけど、問題なかった。
「地域の人に愛される」といったスローガンの歯科医院で働いていた僕は、常日頃子供か老人、大人らしい人もスーパーに行くような格好しか治療していなかったから、日に日に歯科医院内の美意識は落ちていた。
そんなある日、彼女が現れた。長い黒髪に、関節の目立つ細い腕。多分デパートでしか買えないような化粧品の香りを身に纏った彼女は、一言で言えば浮いていた。
絶対、銀座かどっかのデンタルクリニックに行くべきような人だった。
「浮いてるなあ」と思いはしたけれど、正直普段の仕事の中のことだから、2秒後には日常に戻った。何となくイタリアンを食べたい気分になって、ぐるなびを後で見ようと思った。
椅子を倒して、彼女の口を見た。恐ろしく美しい口腔だった。まるで、作り物みたいだった。
診察が終わり、少しの休憩を得た。僕はいい感じのレストランを隣駅に発見し、さっそく予約をした。歯科衛生士達に「俺はいい飯を食うぞ」と自慢した。「いいなあ」と2、3人が社交辞令を言ってくれた。
仕事を終えると、僕は軽い足取りで駅を向かった。すると、途中で彼女を発見した。
「あ、あの患者さんだ」
コンマ3秒、僕と彼女は目があった。それからスタスタと彼女は僕に近づいてきた。
「私の口、美しいでしょう?」
彼女は少しだけマスクを外した。怖い、やばい奴に絡まれた。彼女は乱暴に僕のマスクを外してキスをした。下の上には錠剤のようなものがあった。口腔内で僕は投薬されてしまった。それから、どうやら僕の意識は失われてしまったようだった。
気がつけば、僕はイタリアンを食べていた。対面で食事をしているのは、彼女だった。何故だか彼女がとても大切な存在のような気がした。
「まさか、田中先生とお付き合いすることになるだなんて、夢にも思いませんでした。」
頬を紅潮させて彼女は話す。
「僕もです、こんな素敵な女性には初めて出会いました。りか子さん。」
舌が勝手に動き出す。どうやら僕の意識は深層に閉じ込められてしまったようだった。
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