「価値観の壁」、コアにある「存在」、そして人生選択という「自由の刑」
はじめに
私のエッセイ/随筆は、世界/私/社会/を理解するという私のライフワークの一環である。あくまで構造理解(WHY/WHATの考察)を通して「理解することを楽しむ」ため(または私の中の負の感情が結晶化した毒素をデトックスするため)に執筆している。
短期的なライフハック(HOWの考察や実行)のように役立てる目的ではないし、文学的な心象風景の美しい表現を楽しむための文章でもなく、学術的に人類を前進させようとする燃えるようなガチさもない、ということをご承知おき頂きたい。
例えると、おもちゃを分解して構造や設計意図を理解することを楽しみ、また組み立てて動かしたとき、今度は中の動きがイメージできるので、また楽しい、(または私の吐しゃ物が汚い、または滑稽だ)といった類の文章である。
私はやっかいな人生選択を早く、正しく決断したい
私は年齢的に結婚や子作りといった大きな人生選択を迫られている時期にある。いつまでも子供のままでいられれば良かったのにと持病のピーターパンシンドロームを憂いながら元気に過ごしている。
私は、自分の人生にパートナーや子供といった他の人生を巻き込むことの重さ(責任)に強い抵抗感があり、一方で社会的には結婚や子作りは推奨され、望まれ、祝福されるものでもある。
私はそのような自分の消極性と周りの積極性の板挟みにあい、一体どう選択するのが正しいのか分からず迷い続け、こんらんしている。わけもわからずじぶんをこうげきしかねない。
色々と話を聞いたり調べたりするのだが、多くは「流れ・なりゆき」「幸福追求的」「常識的」な賛成論ばかりで、その上「深く考えていたらできない」という暴論も多く見られ、「皆ちゃんと考えろよ…」と独身ピーターパンは画面に向かって呆れてしまっていた。
そしてある日、際立った反対論として「反出生主義」という思想をネット上で見つけたのだった。
強い興味を抱き、反出生主義について調べはじめると、哲学という普段はあまり踏み入れない領域に突入した。その未知の領域で色々と調べると、とても論理的に「生んではいけない理由」を説明しており、かなり納得感があった。(人生は苦痛の方が多い上に、子供本人の同意が無い、など)私はこの思想に強い衝撃を受けるとともに深い共感があり、ネット、SNS、本、論文などを貪る日々が続いた。
しかし、最強の理論に思えた「反出生主義」であったが、なかなか「生んでも良いor悪い」という一つの結論に収束しないことにずっとモヤモヤさせられた。twitterで繰り広げられる雑多な議論を見ても、片方が論理的な主張をしても、もう一方が感情的な反発をするだけで、ずっと平行線のままである。
私はこのやっかいな人生選択を早く、正しく決断したかった。
人生選択と論理、価値観
ずっと結論が出ない理由について長い間考えていると、最近3つの理由が浮かんできた。
①論理の未完成:どこまで論理を突き詰めても、「反論が無い」ことを証明できない(いわゆる「悪魔の証明」)ので、常に反論がありえて、論理が完成しないという点
②論理の不採用:論理的な正しさを突き詰めて、仮にその思想は「正しい」と認められたとしても、その思想を「採用しない」という選択ができてしまう点(採用しなければいけない、という強制力がない)
③価値観的正しさ:人生選択の判断は、「論理的正しさ」ではなく、個人の「価値観的正しさ」(自身の価値観に合うか)により判定される。
つまり、人生選択を論理的に突き詰めても、その論理は「①ずっと未完成」でかつ「②採用しなくてよい」ので、結局、論理によって結論も出せなければ人生選択もできず、ゆえに(判断において)無力である、という大きな発見に至った。
そして不幸なことに、私がこの消極的で非生産的な大発見に至るまでに恐らく3年は費やしてしまっている。(本当に時間は残酷で、人生はままならない)
なぜこの認識に至るまで時間がかかったかというと、この資本主義社会で仕事をしていると、合理的な判断による売り上げ予想、商品設計、上司への説明に至るまで、論理的であることが求められ、一方で感情的に仕事をすることが(少なくとも私の職場では)求められなかった。論理/ロジックは正しさの最重要の判断指標として手垢が付くほど使い倒してきたため、すでに身心と一体化し、あたかも全ての判断は論理で行えると錯覚してしまっていたのだ。
ゆえに人生選択において、論理が判断指標にならない、という逆転発想はまさにコペルニクス的転回が(私にとっては)必要であり、時間がかかってしまったのだと思われる。
3パターンの対立と、「価値観の壁」
ここで先に述べたSNS上での「論理vs感情論(価値観)」の構図を振り返ってみよう。そもそも「判断指標が異なっている」という「指標対立」だったと推測され、よく男女間、夫婦喧嘩、討論番組などにもよく見られる。端的に「話が相互に嚙み合わない」状態である。私自身が人生選択ができなかった理由もここにあり、価値観で考えるべきところを、論理で考えようとして、自分の中でずっと平行線の葛藤(内的対立)が続き、いつまでも結論が出なかった。
このような対立のパターンを整理すると、あと2つ考えられる。
まずは、ビジネスや研究の現場で採用される「論理vs論理」という構図であり、反論に対応していくことで、全体としてより穴のない一つの論理に昇華していこうとする「生産的対立」、いわゆる議論や討論である。
残りの一つは、「価値観vs価値観」という構図であり、これは、例えばジェネレーションギャップ、マイノリティ、政策、宗教、倫理、差別、そして内戦や国家間戦争の原因など、「社会問題」として取り沙汰されるような、大きな「思想的対立」を生んでいるように思える。
私が人生選択する上で、まず内的に「指標対立」で時間を浪費したが、次なる障害として「思想的対立」が立ちはだかっている。つまり結婚や子作りに対する、親世代や社会多数派の積極思想側と、私自身の消極思想側の対立と葛藤である。この壁の高さを日々感じており、「越えようがない」とすら思わされるほどだ。
私はこの高い壁を「価値観の壁」と名付けた。このように名付けた理由は、一つ目は思想の根底にある「価値観」が対立の本質にあるように思えたのと、二つ目はかつて養老孟司氏が「バカの壁」で指摘したような、越えられない壁構造に似ていると感じたからだ。
さて、本記事のメインテーマはこの「価値観の壁」である。この価値観がなぜここまで高く越えられない壁構造となっているのかがかなり興味深いのである。価値観というものは捉えどころのない雲のようなあいまいさがある一方で、先に戦争の原因となっていると述べた通り、人生や生死を左右するような激しい対立をもたらすような強い重要性も含んでいるのである。そんな価値観の正体/本質は何なのか?その中心部には何が在るのか?そのあたりを探索しながら、あわよくば私は結婚や子作りに対して迷わず人生選択できる理由を拾えたら嬉しい。
価値観とは何か
ここからは「価値観とは何か」という沼に突入していく。かなり長い。
価値観の研究による定義
「私の価値観は何か?」という問いには簡単には答えられない。
価値観という概念を考え始めると、その定義が雲のようにあいまいで、様々な色を帯びていることに気が付く。
生来的で無意識なアイデンティティなどの精神的骨格形成に影響しつつ、現在の性格や思考パターン、人生選択や日々の行動に至るまで全てに貫通しているようで、かつ真っすぐな1本ではなく、絡まった蔦が伸びるようにして縦横に広がっているようにも感じる。価値観を内的に観察すると、そのような捉えどころのない複雑性と同時に、ベース支えている重要性を同時に感じるのである。
そこで一旦調べてみると、価値観に対する研究は古くから行われているようで、私個人が0から全体観を把握しようとすることは、内的観察の沼に突入してしまいそうなことが分かった。
そこで下記文献による真鍋氏の価値観研究の肩に乗せて頂き、価値観研究の”森”の全体観を見渡そうと思う。
【真鍋一史「価値観の研究の視座:経緯・課題・展望」2013】
https://core.ac.uk/download/pdf/145771401.pdf
こちらの研究によって抽出された1940~60年代の「価値観の定義」を要約すると以下5つの要素を得られた。(本当にありがたい…)
価値観とは…
①欲求、動機に根差し、態度を方向付け、意見、行為に出力される、という一連の心的プロセス。
②外から直接観測できない/見えない、内的な傾向/性向という特徴がある。
③態度も②に近い特徴があるが、態度と価値観の違いは、態度<価値観であり、態度は価値観の中に含まれる下位概念。
信念も同様だが、態度はより動機的であるのに対し、信念はより認知的な志向性をもつものである。
④内から感じる望ましいもの、であり、外から望まれるもの、ではない。
⑤一つの型や体系であり、バラバラな心構えではない。
この真鍋氏の研究の視座をお借りして、私が考えたことは
価値観の根源的な要素は①と④なのではないか、という直観だ。
つまり
・内的な欲求や動機というエネルギーの発生
・態度というベースの設置(性格や気質も含まれる?)
・意見や行為というアウトプット
この内的な3ステップ全体を、
・私自身が望ましいと感じている(=「正しい」と感じる)
このような心的なプロセス全体を価値観と呼んでいるのだと私は捉えた。
価値観が深くなる「深化現象」
価値観に関連して、私が会社員時代に耳にしたものとして「宗教、政治、野球の話題はあまり触れない方が良い」という先輩のアドバイスがあった。
これはまさに「価値観の壁」を意識した助言であり、同僚や取引先との価値観の壁を明確に照らして対立構造となってしまうのを避けようとする無難な心構えだったのだ、ということが今になると理解できる。
しかし当時から疑問だったのが、「野球もそんなにデリケートな話題なのか?」という点である。宗教や政治は、価値観の根っこや幹に近いような話なので納得できるが、野球チームの話は根や幹から少し離れた枝葉部分の「好み」といった”ライトな”価値観に分類されるように思えたのだ。ライトな価値観についての壁は低いか、全く存在しないようにも思える。ここについて少し考えていきたい。
私の周囲には野球好きが常にいて、毎日推しのチームの勝敗や選手の調子に一喜一憂している人間を繰り返し観察してきた。また、私自身はプロ野球にそこまで入れ込んだことはないが、先のWBCのJAPANチームに関しては私も”にわか”ながら応援し、大谷が最後の投球を終えた頃には明らかに私は熱狂していた経験がある。その頃のニュースはWBC一色だったし、満員のスタジアムの様子が中継されたのを見ると、世界的な「コロナ明け」と重なり、歴史的なターニングポイントなのではないかと思わせるほどだった。
このような野球の実体験を通して考えてみると、最初はライトな価値であっても、好みや環境要因によって繰り返し触れるうちに、日々のちょっとした楽しみとなり、仕事終わりのオアシスとなり、人によっては日々の苦痛を忘れさせてくれる一種の「救い」にまで昇華してしまっているのではないか、という仮説が立ち上がってくる。
つまり「価値観には表層~深層~コアまでの深さがあり、それを構成する対象は、関わりが強いほど深層へ移動する」ように思えるのだ。だから、日々野球チームを応援している人の価値観には、宗教と同等もしくはそれ以上の深さで、根源的価値観に食い込んでおり、それなしでは人生がつまらない、救いが無くなってしまうような、そのようなライトからヘビィへの価値観の移動(まるで地球の地殻移動、地殻構造のように)が起こっているのだと思われる。だから野球の話題は、人によっては宗教に近い重要性を帯びてくるので、避けた方が無難、ということだろう。
この「価値観の深化」ともいうべき現象はとても興味深い。
価値観の5層地殻構造
「価値観の深化」が起きるということは、「深さ」があるということであり、そこから層状な地殻構造が自然とイメージされてくる。ここからいよいよ価値観の全体像、そしてコア、中心部に迫っていこうと思う。
以上の真鍋氏の研究と、私の検討を元に、先に浮かんでくる私の直観的な結論を述べると、
・最深部第1層はコア:「存在」そのもの。
ハードとしての「遺伝子(生成子)」的存在、
ソフトとしての「意識/無意識」的存在
・第2層は動機の層:「生存」「複製」「理由(アイデンティティ)」
・第3層は欲求の層:「闘争と逃走」「生活と探索」「生殖と育児」「精神的支柱、救い」
・第4層は表出の層:「態度」、「気質」、「性格」
・第5層は出力の層:「言動」、「行動」
以上が私の頭の中に浮かんできた価値観の地殻構造である。
2~5層の命名は真鍋氏の研究を参考にしており、最深部の「存在」と、各層の要素は私が付け加えた要素である。
「生存」「複製」といった動物的価値観ともいうべき部分はダーウィン思想、ドーキンスの「利己的な遺伝子」思想、見田宗介(真木悠介)の「自我の起源」にある生成子の視座からである。
また、それら動物的価値観とは独立した人間独自の価値観「理由(アイデンティティ)」「精神的支柱、救い」といった部分は、同じく見田宗介「自我の起源」にあった「テレオノミー的主体化」、それら価値観が性格や行動に影響してくる考え方は、先の真鍋一史の研究と、MBTIによる16タイプ性格診断、といった視座から着想を得ている。
なぜ「存在」というワードを最深部に据えたかというと、「精神的骨格/OS」をすげ替えられないという「価値観の壁」現象が、まさに自分の「存在」をすげ替えられないということに相当していると直観したからである。
また、デカルトの「我思うゆえに我あり」という思想からも、「思う我」という存在そのものが世界で最も確からしいものとして据えていることを考えると、この直観は妥当に思える。
私たちが様々な場面で戦う理由は「存在」を守ることである。これは本記事のメインテーマである「価値観の壁」が、この最重要の価値観「存在」を守る行為、つまり「自己存在の防衛」であるということを、これから述べていこうと思う。
価値観のコアたる自己存在とその拡張
まず、この「存在」とはどこまでを指すか、という点を考えたい。なぜなら、人によっては自分以外に宗教や野球といった外的な要素も含んでいるように思えるので、線引きを考える必要があるからだ。
この「どこまでの領域を自分の存在として扱うか」はその人の根源的価値観(コア)がどの領域まで及んでいるか、の相当するものであり、その領域を「自己存在の拡張領域」と名付け、この領域についてより具体的に考えていこうと思う。
価値観のコアにになりうる外的要素を挙げると、まずは宗教やイデオロギー(主義)、道徳といった部分がコアの中心部分を占めそうだ。そして、人によっては親や子供、または祖父母以前の親類、または友人などの他者までの存在領域に及ぶ者や、「私は役に立っている=社会に存在してよい」という実感を得られるような精神的支柱となっている日々の仕事や役割であったり、精神的な癒しや救いを与えてくれる野球チーム、芸能人、アイドル、映像や音楽などをはじめとした芸術作品なども、もはや「自分の存在の一部」としてコアに取り込んでしまっている者もいるだろう。
そのようにコアに取り込まれている存在を全てひっくるめて、「拡張された自己存在」と考える。そして、そのような複雑に拡張されたコアの輪郭を線引きするためには「それを喪失(ロス)した際、自分の一部が失われる感覚があるか(強い悲しみや怒りが生じうるか)」という問いを自身に問えばよい。
例えば私は先日猫を亡くしてしまったが、いわゆる「ロス」と呼ばれる強い喪失感を感じてしまい、ゆえに私にとって猫は精神的な救いとして既に私の存在の一部、根源的価値観の一部として存在していたことを強く認識した。
実際に喪失した場合の感情、もしくは喪失した場合をイメージして、月並みな言葉だがまさに「かけがえのないもの」かどうかという視座が、自分の根源的価値観/コアの領域、自己存在の拡張領域の輪郭を定義するための一つの方法であるように思える。
「価値観の壁」の正体
次に、先に述べた価値観研究による定義④の「外から望まれるもの、ではない」という点も重要であり、これについて考えたい。これは言い換えると、「外から直接干渉できない」という性質を帯びているように感じており、ここがまさに「価値観の壁」にリンクしているように思えるのだ。この性質ゆえに、2者間の価値観がぶつかり戦争となったり、様々な価値観が統合されずに偏在しているのだと思われる。自分の中の正しさは一種の意固地のような、「越えられない壁」のような性質があるのはなぜだろうか、という疑問をここで深堀っていきたい。
例えば「宗教」という価値観の壁はなぜ越えられないのか?を考えたい。この問いは、複数の宗教を同時に信じることは可能か?または複数の宗教を1つに統合することは可能だろうか?というある種ナンセンスな問いとも関連する。
これは私の宗教の捉え方だが、宗教とは「我々はどこから来て、どこに行くのか」という人類の過去~未来に続くルーツのモデルであり、主に上位者(創造神など)からのトップダウンモデル、循環型モデルの大きく2つに仮に分類できたとして(大変雑な分類であることは承知している…)、それらモデルがなぜ並存(キリスト教かつ仏教のような)したり、統合したりしないのかを考える。
単純にモデルが異なるので並存や統合すると矛盾が生じるというのもあるが、何より並存や統合を「したくない」という価値観の根源たる「欲求・動機」が叫んでいるように思える。
そのような拒否感を生む強いエネルギーは何だろうか?それは、その人が強く宗教を信仰するほど「人生観、価値観、人格といった骨格部分の建材として使用」しており、そこをすげ替えたり切り貼りする行為は全体の人格の崩壊を招く可能性があり、ゆえに強い拒否反応が生じる、ということに思える。
その骨格をベースにして、人と関わり、仕事を積み上げ、何かを目指しながら道を進んできたのに、もし欠陥があると言われたら、誰もが強い怒りや喪失感を感じるだろう。私がここで思い出すのは、尾田栄一郎氏の「ワンピース」にあった海賊船メリー号との決別をめぐるルフィとウソップの船内対立である(一番泣いた)。ある骨格をベースとして進んできた時間が長いほど、そのベースを失う精神的損失は甚大であり、それを失うまいと私たちは強く抵抗・反発のエネルギーが働き、そして2者間の対立に至らしめる。また、既に述べた視点として、「外的なモノにすら、自分の存在が宿っている(拡張されている)」という捉え方も、再度確認できる。
以上より、「価値観の壁」の正体が見えてきた。そのような自身の外部にまで拡張され、モノにまで宿る精神的骨格、そして最重要の自分という存在の精神的聖域を守護するための”ATフィールド”、自己存在の絶対防衛ラインが「価値観の壁」の正体なのではないだろうか。私たちが存在を否定される行為(無視する、名前を忘れる/間違う、モノ扱いするなど)を禁忌とみなすのも、やはり我々のコアに「存在」が根差していることの証左なのだろう。
以上が「価値観とは何か」「価値観の壁の正体」という問いに対する、私の定義である。
まとめると
・価値観とは、欲求、動機に根差し、態度を方向付け、意見、行為に出力される、という一連の心的プロセスである。また、内から感じる望ましいもの、であり、外から望まれるもの、ではない。
・価値観は深さとして5層の地殻構造を成しており、中心部1層目コアには「存在」がある。
・このコアの「存在」は自己にとどまらず、外的な思想や身近な人、モノにまで拡張する。その線引きは「喪失した際に自己が失われる感覚があるか」いわゆる「ロス」が生じるか、で判別できる。
・「価値観の壁」の正体はコアたる「存在」(と拡張領域)を守ろうとする激しい反発の「存在防衛エネルギー」である。
私の価値観と人生選択
なぜ対立を防げないのか
人生選択や価値観の対立が防げない理由について、結論から述べると、以下3要素によって説明できると思われる。
①自己存在(の拡張)の領域が一人ひとり異なること
②利益/不利益の重みが一人ひとり異なること
③自己存在(の拡張領域)を脅かされることに対する強い反発エネルギー(怒り、悲しみ、プライド、嫉妬)が発生してしまうこと
①、②は「価値観の壁」として既に述べた通りだが、対立構造の本質的な要素は③にあると考えている。つまり「存在を脅かされることへの反発エネルギー」はすさまじい、ということである。
もしこの③のエネルギーが小さかった場合、多少価値観のギャップがあったところで無視したり受け流せばいいだけなのである。しかし、わざわざリスクを冒してまで対立して戦うのは、「自己存在が消滅してしまいかねない」という危機感や、その手前にある「自己存在(または拡張された自己)が傷つけられた」という状況に対して、逆鱗に触れるような強い怒りや自己喪失感を伴った強い悲しみが生じるからである。
SNSから政治、過去の歴史に至るまで、あらゆる対立、戦いはこの③の「存在防衛エネルギー」ともいうべき凄まじいパワーが根底にある。戦争では攻める側、守る側、双方に「存在防衛」の原理が働き、泥沼化する。SNS上で見られる少数派(マイノリティ)の叫びは、差別や未認知に対する「私たちの存在を認めよ!」という叫び、不平等や理不尽さに対する「私たちの存在を守れ!」という叫びに思える。そして、この記事自体も私自身の「社会は私の存在を認めよ!」という存在防衛エネルギー(と少しの好奇心)の叫びとして執筆されたものであることを認めざるを得ない。
以上、全ての対立は、価値観のコアにある強烈な「存在防衛エネルギー」によって駆動している、という私の結論であり、これ一つで多くの対立を説明できると考えている。
死と生、存在をめぐる価値観的「正しさ」
価値観の構造を踏まえたうえで、「正しさ」とは何かについて考えてみる。
私たちは何を指標にして「正しさ」を判断しているのだろうか。このような問いに対しては様々な回答があるが、本質的な回答に絞り込んでいくと、やはり「価値観」を判断基準にしており、より詳細にはその価値観のコアたる「存在」その周辺の「自己存在の拡張領域」こそが、最も根源的な判断基準になっているように思える。
具体的な例について、まずは「人を殺してはいけない」というどの国でも存在するルールについて考えてみたい。(この問題を考えるまでも無いと思う方は、改めて日本が死刑制度を今も運用している問題を念頭において考えて頂きたい)
わざわざこのデリケートなテーマを扱う理由は、生と死が存在に直結するクリティカルな問題であり、本件に最適だと思ったからである。
※思考実験を始める前に、本記事はもちろん「殺人や自殺の実行を肯定するものではない」、ということを明確に述べておく。
この「人を殺してはいけない」という問いついて重要な視点は2つであり
①この”人”とは誰のことを指すか?
②”殺してはいけない”は対象となる①にとって望ましいか
という点である。
①は言い換えると、「その対象は自己存在に含まれるか」ということである。この問いは”人を殺す”という他へ働きかける能動的なニュアンスであるため、人によっては「自分が殺されないのならば別に…」と考える場合もあり得るのではないだろうか。より具体的に言えば「死刑囚」が対象の場合は「正しい」と肯定する人は多いのではないだろうか。
しかし、自分が他者を殺人することを肯定してしまうと、メタ認知的に考えたとき、他者視点では自分を殺すことを肯定することに繋がり、循環的に「殺人の対象は自己存在も含まれる」ということになる。それは自分を殺すことになるため「殺されたくない→誤り」という回答に至るだろう。(どの国の法律でも殺人が最も重い刑罰に位置づけられる理由も、この巡り巡って不特定多数の自己存在を破壊してしまいかねない罪の重さ、というあたりにあると私は考えている。)
一方で、もし自分=死刑囚だった場合はどうだろうか?(私は死にたくない)または死刑囚=最愛の伴侶/子供(自己存在の拡張領域)だった場合は?(死んでほしくない)そのような思考実験をしていくと見えてくるのは、やはり最初の「対象は自己存在に含まれるか」という定義に尽きるのだろうと思われる。
②は言い換えると「殺しそのものは不利益か」ということである。死刑囚を処刑することは社会的に安全をもたらすことにつながると信じているし、私たちは毎日多数のおいしい家畜を殺しているし、医者や家族の中には患者を救う目的で嘱託殺人を行う者もいる。自殺者は自らの苦痛から自らを救うために実行する。これを「殺しはいけない」という一言で否定できるだろうか。
①の対象にとって、②の視点で「利が上回る」という判断になれば、「正しい」と肯定されうるのだろうと思われる。(ここで言う「利」とは金というよりは、「存在が維持できるか」という意味である。)
※大切なことなのでもう一度繰り返すが本記事は「殺人や自殺の実行を肯定するものではない」。
次の具体例として「子を産んでもよい」という例について考えてみたい。ここも存在に直結するクリティカルな問題である。
同様にして、「子を産んでもよい」という問いに対して①対象、②望ましさ、という観点で考えてみる。
①:”子”は「自己(この場合は親)存在の拡張領域に含まれるか」という点について考えると、その子は現時点でまだ生まれていないので「含まれない」と考えることはできる。
一方で、生まれた後、子は親にとってほぼ間違いなく重要な存在になりえるため、生まれゆく子は既に「自分の存在の一部に含まれる」という考え方もありうるだろう。厳密には子作り前時点では前者しか成立しえないが、現実としてはどちらの立場もありうるように思える。
②:その対象にとって「生まれることは望ましいか」という点について。この問いは難しく、なぜなら
・本人が存在しておらず意思確認が不可能という点
・その対象の人生の未来を見通して望ましさを評価する点
つまり、どちらも「不明」という結論となり、解決不可能な問いなのである。
したがって、代替案として考えられるのが、①においてまず親が「子は自分の存在の一部に含まれる」という考え方を採用し、つぎに②において「親にとって生まれることは望ましいか」という視点で評価し、Yesならば「子を産むことは正しい」、Noならば「子を産むことは誤り」という、恐らく多くの親が採用してるであろう案である。
この「親にとって」という視点がまた難しく、「親自身」の過去の経験をベースとした視点か、「親が予想する子」の未来を見据えた視点か、またはその両方とその重みづけか、で大きく判断は変わってくる。
例えば「私自身がこれまで幸せだったから、子も幸せに違いない」として肯定するか、「私自身はこれまで幸せだったが、子はそうなる保障はない」として保留または否定するかは、結局のところ親視点の人生に対する、利益評価の重みづけ次第である。
この出生に関する倫理的問題については、もちろん子を産む権利は間接的に(直接的ではなく)「幸福追求権」として憲法上認められている一方で、「反出生主義」をめぐる様々な議論が行われており、恐らく未解決である。
以上を一般化すると、「正しさ」の指標は以下2点となりそうだ。
①:対象は自己存在、または自己存在の拡張領域を含むか
②:①が不利益を被らない/利益を得るまたは上回るか(※利とは「対象①という存在の継続しやすさ」である)
まとめると「正しいとは何か」に対する結論としては、「存在が在り続けられるか」という問いに対して、Yesならば「正しい」、Noならば「誤り」ということになるのではないだろうか。
以上が、価値観をベースとした「正しさとは何か」の私の回答である。
人生選択は「自由の刑」
この「正しいとは何か」の回答や、出生をめぐる根拠を見て、結局価値観による判断というものは、あいまいだな、と感じなかっただろうか?殺人の禁止と出産の権利というとても基本的な倫理においても、はっきりと「正しい」と言い切れない。言い換えれば、結局正しさは「人それぞれ」という話なのである。
まさに、この価値観をベースとした「価値観的正しさ」はあいまいなのである。個人によってどこまでが自己存在の領域なのかも異なるし、利益の重みも異なってくる、とてもあいまいなものなのであることに改めて気が付く。これは「論理的正しさ」とは一線を画す性質である。
ではこのあいまいで人それぞれな価値観的正しさによって、人生選択をするとはどういうことなのだろうか。生涯を通した価値観についてシミュレーションしてみたい。
私は青年期にさしかかると「何者かになりたい」という自己実現の欲求が生じた。言い換えると「何者でもない」という状態に焦りを感じたのだ。このモチベーションの正体こそが、まさに自身のコアである存在を拡大し、消えないようにマージンを設けようとする「存在防衛エネルギー」そのものだと思う。既にこのnoteが「私は何者かになりたい」という叫びなのかもしれない。
そして、次のステップにある結婚や出産というものは、このように青年期の自己存在を拡大していった先に「存在が最大化」した状態なのではないだろうか。さらに言えば、その最大化した状態を「形として結晶化」したものが結婚という相互保存の契約であり、子供という自己複製なのではないだろうか。人によってはここがライフワークや、マイホームの購入も含まれるかもしれない。いずれにしても、私たちは人生という時間軸で、自らの存在を「維持~拡大」「後世への保存」を目指すようにデザインされているように見えてしまう。
そしてその先の将来を考えると、ある中年~壮年のタイミングで「存在のピーク」を迎える。子の親離れ、管理職への昇進、退職、離婚、死別などをターニングポイントとして、急激に存在感がしぼんでくるだろう。そうなってもなお私は自分の存在に満足して生活できるだろうか?
定年退職した親や、亡くなった祖父母を思い返すと、毎日どこか満たされないようなオーラを出して生活しており、隙あらば自慢話をし始めたり、他人の噂・悪口・陰口を言ったり、必要以上にお節介を働いたりするようになっていた。その様子は、死に近づくにつれて自己存在がしぼんでいるのを自覚し、自己存在を回復しようとする必死な運動に思えてしまうのだ。また、そのような抵抗を諦めると、自己存在の低迷を嘆き続ける段階に移行するようだ。
さて、以上が簡単な生涯のシミュレーションだったが、ではその「存在のしぼみ」にどう向き合えばいいのだろうか。恐らく身体的/社会的老化によって、しぼみは回避できないだろう。ここで考えたいのは5層地殻構造の時に述べた見田宗介の「自我の起源」で唱えた「反逆的主体性」「テレオノミー的主体化」という視座である。簡単に説明すると上記のような動物が存在を維持、拡大、保存しようとする本能的で生物的でデフォルトな目的に従うのではなく、目的を自らが決定し行動することである。例えば第一欲求が真理探究であって、第二欲求が生殖といった、本来生物的に優先すべき生殖よりも知的探求が上位の優先度/重要度をもつような主体性である。この概念を使えば、コアの中心に存在以外の知的探求や笑い/ユーモアなどの別要素を独立して設けることで、存在がしぼんでも別要素が支えることで骨格が崩壊しない状態を作ることができるだろう。そうすることで、「私は老いさらばえるだろう、しかしそんなことより世界はこんなにも面白い」といった頑強な精神性を死の床まで持ち続けることができる可能性がある。
別の言い方をすれば、このように価値観のコアに何を据えるかすら自由なのである。サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と語った真意は、まさにこの人間/人生を形作る価値観のコアの自由度のことを指しているのだはないだろうか。つまり「真の正しさなどない」のである。選んだ道だけがある。結婚して子を設けるという道は先人が多く通ってきた太い道ではあるが、別にその道に正しさは保障されていない。ただただ自由な道の一つなのであり、他者からその道を行けと指図されても従う必要はないし、人通りの多いその道を安心して進んだ先で多くの人が「存在のしぼみ」に苦しんでいる。かといって別の道は整備されていない。自由な選択は難しく、苦痛が伴い、先が見えない上、時間が立つほど選択肢は狭まる。だから「自由の刑」なのである。先に述べた「テレオノミー的主体化」はあくまで自由な選択肢の内の一つに過ぎないし、その人生選択が自分に合うかどうかも分からない。それが人生という自由の刑、リターン不明なギャンブルに既に何十年も参加させられているである。
さあ、私はどう生きるか。君たちはどう生きるか。
終わりに
本文の至る所で、まとまりがなく読みづらい文章、結論ありきの暴論、先行研究への浅い理解、車輪の再開発を振り回しているような、脳内をそのまま吐き出したような雑文をお許しいただきたい。しかし、私の思考の軌跡を痕跡として残していきたいという一心で執筆したのであり、ゆえにエッセイという形式を選択したという言い訳をここに残しておきたい。不適切な表現があれば、ツイッターDMなどでご指摘頂けると幸いである。
今回は「価値観」という興味深い精神性をテーマにしてみたが、他に書きたいテーマは「主観」「客観/世界観」「人生観」、そしてそれら「観」という概念についても書きたいが、私のリソース(金、時間、減衰する気力と好奇心)次第である。もしよければ、感想など頂ければ嬉しい。