“こどもだま詩宣言” by 鬼りんご

詩になりそびれた言葉に陽の目を

讃えるべきはnote、この自由の言葉のざわめきには「乾杯!」の声を上げる前から酔い痴れます。

 そのnoteに足を踏み入れて、とりわけ目を惹かれたのは「詩」と銘打たれた作品群でした。仮に名付けて「note詩壇」と呼べば、そこには多種多彩な詩人たちによる、ありとあらゆる「詩」が咲き競っていました。
 それらの「詩」を一篇ずつ辿るうちに、ひとりの偽詩人(仮に名乗って「鬼りんご」)の胸中に次第に膨れ上がるギモンがありました。それは「かくもさまざまな言葉が、詩なるが故を以て披露されるとき、私の醜い言葉が今なお鬼っ子として、人々の目から隠され続けなくてはならない理由は何か」という問です。

 それら、鬼っ子たちがひた隠しに隠されて来たのは、ひとえにそれらが「詩」たりえていないからです。
 書き直されても書き直されても「詩」になれない言葉の組織体。いや、それどころか、書かれる前から詩になれない宿命を背負って生まれた言葉の組織体。詩になりたくて懸命に背伸びして見せ、足をばたつかせ、または地団駄踏んで口惜しがるこれらの組織体は、しばしばいっちょまえに行分けの媚態を見せ、時にはいわくありげに飛躍を展開して、それはそれはいじらしい変態ぶりです。
 が、それらをどうしても自らの筆名の下に公表できない裏には、自らの愚かさ・偽詩人ぶりを知られたくない、という臆病な心性がはたらいていなかった、と言えば嘘になるでしょう。

 ここ20年ほどで言えば、自ら「詩」と認定して発表できたものは僅々十数篇を数えるに過ぎません。
 我がひねこびた鬼っ子どもは、日陰のパソコンの窮屈なファイルに閉じ込められて人知れず枯れてゆくさだめと思われました、note詩壇を垣間見るまでは。
 しかし、noteの百花繚乱の原野を彷徨ううちに、偽詩人・鬼りんごの胸中に込み上げて抑えきれなくなったのは、あれら、詩になりたがっている言葉どもを、この咲き乱れる原野の中に解き放って、咲き匂う詩の花々の中に紛れ込ませてやりたい、というものでした。

非詩と抱き合い欺詩擬詩未詩魅詩いわせて駄詩て堕詩まくれ


 それらは、作者自ら詩失格の烙印を煙が上がるほどに黒々と捺したもので、「詩」と名乗るなど断じて許されない言葉です。どんなに「詩」そっくりに装っていようとも、紛い物であることは読む人に一目瞭然です。偽りの詩であり、詩擬きであり、詩騙しであり、似而非詩であり、さらにタチの悪い事に、しばしばその意図からして不健全な戯れの詩ごっこに過ぎません。戯詩、これは通常の日本語感覚からは「げし」とよみたいかも知れませんが、ここではあえて「ぎし」と読んでおきます。非詩、戯詩、偽詩、擬詩、欺詩、駄詩、堕詩、騙(だま)詩。

 もう一度言います。「詩」を掲載する意志も能力もこれっぽっちもありません。それが詩でないシルシとして、必ず作者名「鬼りんご」を付記明記します。「鬼りんご」じるしは、非詩であり戯詩であり欺詩であり擬詩であり偽詩であり堕詩であり駄詩であり騙詩です。ご理解の上、可能であれば愛読頂けると、鬼りんごも、そしてとりわけこれらの非詩らもさぞかし身を引き攣らせ身悶えして喜ぶことでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?