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第十話 ちょっと社会派っぽい回

食事を終えた岸はエビス屋の二階にある自室の机にいた。
そこは年代物のウィスキーのような深い色合いの塗装がなされたケヤキ材のフローリングが貼られた15畳ほどの広さのある部屋で、入り口から見て右手にユニットバスとトイレがあり左側はロフトになっている。キッチンはない。
ロフトの下に机がありそこにはパソコンやディスプレイが置かれている。岸はそこに座っていた。
ロフトは寝室と言うには狭く、ロフトベッドというにはだいぶ大きかった。この部屋全体の天井高は約3.5メートルもあり、ロフト自体も立つことは難しいがだいぶ余裕のある設計になっている。
部屋の隅に置かれたテレビが点いていたが岸の頭には何も入ってこない。

この建物は今はエビス屋の店舗兼、後藤と岸の住まいとなっているが、元は後藤の叔父が営んでいた製材所兼叔父夫妻と従業員夫妻の住まいだった。
その頃はまさに昭和といった感じの建物でいずれかの老夫婦の居室だったこの部屋も畳敷きで四畳半と六畳間の二部屋があり風呂とトイレはなく、代わりに茶を淹れられる程度のコンロとシンクが備えてあり、寝室となる四畳半間には布団をしまう押入れがあり、居室の隣には物置部屋があった。
風呂やトイレは二家族共用で一階にしかなかった。
建物自体の作りも特殊で運河から丸太を引き上げる必要のある製材場(現後藤の作業場)の床は運河に合わせ低く作られており、材木を積んで搬出するための部屋の床は(現車庫)は道路と同じ高さにで製材場よりだいぶ高くなっている。
しかし建物全の屋上は平たんで外観からはそんな構造が見て取れない。
そのため、二階部分も製材場の上に位置する居室部分と、車庫の上に位置するキッチンでは天井高が大きく異なっている。
昭和。というより高度経済成長期の型にハマらない奔放さと戦前生まれのセンスが発揮された自由な設計の建物だ。

その奔放さと自由さは建物の設計だけでなく後藤の叔父の仕事内容にも大きく影響を及ぼしていた。
中年の男性二人だけでの商売だったが売り上げは右肩上がりだった。もちろん物価も同じく右肩上がりだったが仕事をしただけ金が入ってきた。売り先を探す必要などなく製材すればするだけ、作れば作っただけ、仕事をすればしただけの金を得ることが出来た。何をしたとしてもそれは金になり失敗という二文字のない世界だった。
景気が良いと言えば聞こえはいいが、しかしそれは立ち止まれないという事でもあった。
立ち止まろうものなら物価の上昇に追いつかれそして追い抜かれ途端に生活は困窮する。
高度経済成長。それは好むと好まざるに関わらずほぼ全ての日本人が物価の上昇に追われ死に物狂いで働いて物価を上昇させていた時代、常に進み続ることを強いられた時代だった。

後藤の叔父と従業員の男性二人はそう言った世情に特に合った気質を持っていたのだろう。大洋を数千キロ旅してきた丸太を買い付け、製材し、そして売る。仕事をし、金を儲けることに大きな喜びを感じることが出来る二人だった。
木材に違法も合法もなかった時代。防腐処理を請われれば二人はすぐに簡易的な防腐剤の浸漬槽を作り防腐処理まで行っていた。
まともな作業ではなかった。加圧処理もせず穿孔処理もなくただ薬剤に浸しただけ。防腐処理というより着色しただけだった。
もちろん、そう言った処理を許可を得ずにすることも、そういった不完全な処理しかされていない物を販売することも、それに伴い発生する廃薬剤を運河に垂れ流すことも、すべて違法だった。
だが高度経済成長という激流の中で人々が必死に進もうとしている中では法が追い付けないというのは当然であり必然であった。
そう言った世情でようやく法が追い付いた事例がイタイイタイ病や水俣病と言われるいわゆる公害病だ。

しかし二人の中年の長年にわたるそういった違法行為を咎めたのは法ではなく新たな世情だった。
木材商と言う職業はその製品を保管するために広い敷地を必要とし、それを運搬するためにトラックが走り回りもする。(新潟から上京した後藤の叔父が事業を立ち上げた当時はそれはトラックではなく馬だったらしいが)
それを咎めた世情は、バブル経済であった。

港区、中央区と言ったバブル経済の中心地を食いつくしたバブルは江東区の木場地区に目を付けた。
木場地区は港区や中央区と言った都心部からは東京湾や隅田川を隔てた「対岸」ではあったがバブルに適した土地でもあった。
木場地区というのは江戸時代から続くその名の通り木材商が多く集まる地区だ。
発祥は1657年の明暦の大火により江戸の町の多くが焼失したことで幕府により出された江戸の改善計画の一つで、隅田川の東岸であった深川に貯木場を作りそこに木材商を集中させたことによるものだ。
木場は江戸時代当時はまだ沿岸と言っていいほどに東京湾に近かったが明治の近代化に伴う埋め立て事業が加速度的に進むと木場地区は内陸となった。そして先の大戦で下町は明暦の大火をしのぐ焦土と化し木材商も壊滅したが木場と言う土地が持つ歴史は再び木材商を呼び集めた。そのため老舗というほどの木材商はいないと言っていいが。
そして戦後は木場と呼ばれる地域だけでなく深川全域に広く木材商が点在したがバブルはそれらを一気に潰していった。

港区や中央区と言った中心地からさらに広がり続けたバブルの泡は隅田川の対岸の江東区にも及び始めた。
江戸時代のいわゆる下町、江東区深川にもマンションが建ち始めるとバブルに目を付けられたのが木材商たちだった。
木材商と言うのは商う商品である木材を保管するための広い土地が必要だ。その広い土地はマンションを建てるのにとても都合がいいが、マンションに住む人々にとってはひっきりなしにトラックが出入りする木材商は目前にはいて欲しくない存在であった。
バブルは木材商に新天地を与え深川から追い出すことにした。その新天地と言うのは東京湾岸14号埋め立て地、新木場である。
深川の木材商は新天地である新木場へと移住するか、バブルという時代の流れに頑強に抵抗しそこに居続けるかの選択を迫られた。多くの木材商は新木場へと移転した。
新木場は住居建設が規制された地域で路上駐車するトラックに文句を言ってくる住人もいなければトラックが走り回る道路に飛び出してくる子供も、買い物に出かける子連れもいない場所だったからだ。

だが後藤の叔父が選んだ選択はそのどちらでもなく「廃業」という選択だった。
後藤の叔父は製材した木材を保管するために使用していた600平米を超える土地の大半を売り払う代わりに長年廃液を垂れ流してきた事実を黙認させた。
そして後藤の叔父は深川の木材商の中で数少ない成功者の一人となった。それは直後にバブル経済が停止したからだ。マンションとなっていった深川の土地と、住居としては何の役に立たない新木場の土地をほとんど等価交換に近い形で変えた木材商達はバブルの停止と共にその価値の下落に追い詰められていったからだ。
だが後藤の叔父はバブルの最高値と言っていい価格で土地を売り払い、その後下落の一途をたどる新木場の土地には見向きもしなかったことで晩年まで悠々自適に暮らすことが出来た。

その選択が間違いではなかったことは今現在、後藤が立派に相続していることが証明しているし、それが事実であるという事は半地下の作業所がいまだにクレオソートの刺激臭で満たされていることが証明している。

岸は今いる居室の階下から何か気配を感じた。


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