第三十八話 風神にて

渡部はワインバー風神の前に着いた。
署からゆっくりと歩いてきた。時刻は6時50分だった。
丁度いいな。渡部はドアを開け店内に入った。店内には相変わらず控えめな音量で洋楽がかかっている。ロストインザリズムだ。この店は流れる曲まで実に良い。
こういう静かに酒を飲む店ではどんな曲を流すかというのは非常に大事だ。特に気ならず、時に酒が美味くなる曲を流せばいい。酒を不味くする日本や韓国のくだらん歌謡曲を一切流さないというのはとても大事なことだ。もちろん選んでいるのはラジオのDJだがそのラジオを選んでいるのはこの店のマスターなのだ。
チリンとドアベルが鳴りカウンターの中のマスターがすぐにこちらを見止め小さく頭を下げ、渡部を促すように店の奥に目をやった。渡部はそれに軽く手を向け返事をする。
店の一番奥の席、渡部の特等席だ。この店に来るときは必ずあの奥の席を予約する。もちろん今日もそうした。そこには当然田中のヤツが座っている。
誘ったほうが先にいる。それが酒飲みとしての二人のマナーだからだ。

俺は若い頃からワインが好きだったわけではない。昔は当然ビールと焼酎が好きだった。だがそこらの居酒屋で飲んでいると当たり前のことだが同僚と、つまり隅田川署管轄の警察官と一緒になる。もちろん俺と同じノンキャリ連中だ。
準キャリアの連中はもっとオシャレな店に行く。
キャリアの連中がどんな店で飲んでいるのかは知る由もない。

「八つ目の!」などと声をかけられ、許可を与えてもいないのに隣に座ってくる。もちろん下っ端の若造がそんな風にやってくることはないが、はっきり言って何も知らない新米と飲んでいたほうがまだマシだ。
警官って職業はそれなりに激務だ。東京一の観光地である浅草では特にそうだ。否応なしにストレスは溜まりまくりだ。
外国人観光客の質も実に落ちた。
昔の外国人観光客ってもんは日本に来たがる理由があった。それは寺社仏閣でもいいし、本場の和食でもいいし、何ならアニメでもいい。そういった奴らは日本が好きだから高い金を払ってでも日本に来ていたわけだ。だから日本の文化を尊重し十分すぎるほどに礼儀もわきまえていた。高い金を払って来ている以上、少しでも多くの日本文化を吸収し、知ろうとしていた。誰だって自分が知ろうとするものは尊重し、敬意を示す事だろう。
だから俺も尊重には尊重で、敬意には敬意で答えようと英語を学んだ。
だがいま日本に来ている外人連中は違う、安いから来ているからだ。こういう連中は敬意の欠片も持たない。
日本がバブルだったころに東南アジアに女を買いに行った男が現地の文化を知ろうとしたか?
日本が世界の誰よりも金を持っていた時代にヨーロッパのブランドショップに押し寄せた女どもがその土地の歴史を学ぼうとしたか?
いま日本に来ている外人はそれと同じ、トラブルを起こすばっかりだ。
違いと言えば当時の日本人は無視できないほどに金を落としたが、いま日本に来ている外人は貧乏人ばっかりだという事だ。

誰だって貧乏人の相手はしたくない。貧乏人の相手をするものはそれよりもさらに貧乏人だからだ。
それくらい、俺にも分かる。

だがストレスを溜め込んだ奴と飲む酒は少しも美味くはないし、何よりこちらのストレスが溢れそうになる。

浅草みたいな繁華街の警察官は普段から質の悪い酔虎を相手にしているだけに自分がその酔虎になることは少ない。飲み屋で暴れてお仲間に手錠をかけられるなんてみっともないことこの上ないだろう。だがこれは、隅田川署に限らないだろうが警察官が酒の席で問題を起こすのはご法度だと常日頃から上から厳しく言われているからだ。
もし酒に酔って問題を起こし自分の両手首を繋ぐステンレス製の腕輪を付けられニュースにでもなったら昇進と言う階段へ続くドアは一生閉ざされることになるだろう。だがそれならまだましな方だ、大概は依願退職と書かれた用紙に名前を書く様に強要されるだろう。もちろん書かないという選択肢はない。それは「穏便に依願退職で済ませてやる」と言う脅迫だからだ。依願退職ならわずかではあるが退職金が出るし、その後の仕事も世話してもらえるかもしれない。今なら薄緑の制服を着て駐車違反のシールを貼る仕事に就けるかもしれん。
だが懲戒免職なら何もない。明日から綺麗な無職ならまだマシだ。比較的楽で元警察官なら引く手あまたの警備員という職業に就くことすら警察機構からの一本の電話がそれを堅牢に妨害するだろう。
キャリアは?ニュースにならない。そういうもんだ。

だから警察官は酒を飲んでもあまり騒ぎを起こさない。だが行儀よく酒を飲むというわけでもない。
「八つ目の」と声をかけてきてたと思ったら許可も得ずに隣に座った馬鹿が「逃がしの」と言葉を変えるまでにはそう時間はかからない。ビールでもホッピーでも、透明なアルコールが入ったチューハイか、茶色いアルコールが入ったハイボールのどれでもいいが二杯も空けていたら遅い方だ。
「お前は死ぬまで巡査部長だな」と言うふざけた笑みを湛え自分の境遇はまだマシだと自己満足するような奴らと飲む酒は実に不味いものだ。
だから渡部はそういった連中が寄り付くことのないワインバー風神に憩いを求めた。
そこに来たのが田中だった。俺より一回り若いが俺と同じノンキャリのくせにやたらと頭の回転の良い男。アイツは店の奥に座る俺に気が付いても軽い会釈をするだけで一人カウンターに座りワインを楽しんでいた。それが三度か四度続いたがさすがにここは俺の縄張りだと言うわけにもいかない、ついに折れたのは俺の方だった。

この店の中では俺と田中は孫を出汁に息子にたかられる定年間近のオッサンと四十半ばの独身男と言う間柄ではないし、警部補と万年巡査部長と言う間柄でもない。ただの酒飲み仲間だ。
だが無礼講と言うわけではない。
俺は田中を特等席の向かいに招待した。田中は実に酒の飲み方ってもんを知っている男だった。最近試したお薦めワインの話はしてきても間違っても職務上の話はしない。どうしてもという時は別だがそれでさえ実に慎重に話を切り出す奴だった。酔いつぶれ無礼を働くことなど決してない田中と飲む酒は美味いものだった。
それも俺の昇進と捜査一課への異動で疎遠にはなったが。
もうすぐ田中も捜査一課へと来るだろう、そして俺の下へ据えられる。そうなればまたここでワイン談議に話を咲かせることになるだろう。
だがそれにはまだ早いし、昇進試験前の今は特によくない。それは田中にも分かっているはずだ。
渡部はカウンターに着いていた客と目が合うとこちらにも軽く手を向け挨拶を交わし田中の向かいに座った。
今、この大事な時に席を同じにしているところを見られたくはないだろう?それくらいわかるはずだと厳しい視線で訴えつつ書類封筒を一杯のお冷しか置かれていないテーブルに放った。
「進展はありましたか?」と田中が聞いた。
「特にないようだな」渡部はその封筒の薄さを見ろとばかりに答えた。
早速封筒の中身を改めようとする田中に渡部が言った。
「匿名と言うか電話があったそうだ」
「目撃者ですか?」
「ああ、女だったらしい。その女は四人組の男に絡まれ襲われそうになったんだが、それを止めに入った女がいたらしい」
「それが?」
「ああ、間違いないだろうな。年齢とまあ服装もそれなりに一致しているようだ。で、その勇敢な女は男に棒でぶん殴られて自分の代わりに車に押し込められて連れ去られたと」
「その、通報してきた女と言うのは?」
「さあな、男どもに通報したらどうなるかどうなるか分かるだろ?って脅されたらしい。自分が目撃して覚えていたことをいくつか言うだけ言って電話を切ったらしい。ご丁寧に公衆電話からな」
「それはいつですか?」田中の問いに渡部が答える。
「昨日だ」
「じゃあ、もう・・」田中は意気消沈した。
「ああ、女が連れ去られたという近辺の監視カメラのデータは既になかった。多少の聞き込みも行ったようだが何も出てこなかった。期待薄だろうな」
「なぜ今頃?もっと早く通報してくれれば!」田中の声が少し大きくなった。
渡部が抑えろと右手を上下させた。
「男たちにカバンごと財布を奪われたらしい。自宅がバレていると恐れたんだろうな」
「しかし、今になって・・・もっと、早く通報してくれれば」田中の声につい悔しさが混じる。
「男四人に襲われ自宅も知られているんだ。恐怖して助けたくれた相手より自分を優先しても仕方が無いだろう。それでも通報してきてくれたんだ」
田中はそれには答えずに書類封筒をカバンにしまい込んだ。
「部下の友人か。気持ちは分かるが・・」
「いや、もう部下ではないです」
渡部は田中がやりきれない思いをかみ砕いて反芻し飲み込むまで待った。店内ラジオがサヴェージガーデンのアイウォンチューを流し渡部が口を開いた。
「で、今日は何だ?俺の言ったことを忘れたわけじゃないだろう?」
「ええ、もちろんです。しかし今日のあの件で少し伝えておきたいことがありまして」
「今日の?佐河か、あれは自殺だ」
「いえ、それが砂場を見たんです」
「お前が?どこで」渡部が眉をひそめ怪訝そうな表情で田中を見た。
「それが・・・昨日、実は私もあの店のパーティーにいたんです。もちろん客としてですが」
「お前が?お前もいたのか。いや、それはまあいい。砂場は佐河と一緒に来たんだろう?それはあの酒屋からも板前からももう聞いた。砂場はそのままタクシーで帰宅したし、タクシー会社の裏も取れている」
「いえ、私は店を閉める寸前までいたんですが・・」
「店を閉める寸前だって?あの板前は深夜二時くらいだったと言っていたぞ」
「ええ、私は少し酔い覚ましに歩いて帰っていたんですが、ジッポライターが無いことに気が付いて慌てて店に戻ったんです」
「時間は?」
「店に戻ったのは深夜二時半といったところでした。そこでビルのエレベータールームに入る砂場を見ました」
「確かか?顔を見たのか?」
「いえ、曲がり角からでしたので顔までは。しかし服装は佐河と店を訪れた時と同じ服装の老人でした」
「ふむ」
渡部は腕を組んで椅子に反り返ると田中を見た。田中は下唇を噛んで見返していた。
「あれは自殺だ」
「しかしっ・・」
「砂場って老人が何者か知っているか?」
「はい、佐河組の元構成員です」当然だとばかりに田中が答える。
「調べていたのか」
少し呆れた様子で言う渡部に田中は頷く。
「なら問題は無いだろう。元とはいえ親殺しをするわけないだろう。それに砂場は組が解散してもずっと佐河にベッタリだったんだ。もう何十年とな」
「捜査は?」
「しない」
「なぜです!?砂場は佐河の死亡時刻に部屋を訪れていたんですよ!?」
つい声が大きくなる田中に渡部は顔を寄せ叱責の目を向ける。
「部屋に入ったかどうかは分からんだろう?佐河は応対しなかったかもしれないし、すでに死んでいたかもしれない。いずれにせよ砂場はそのまま帰ったのかもしれない。お前は見張っていたのか?」
「いえ、店はもう閉まっていたのでそのまま帰りました」
「ならどうしようもないだろ」渡部は再び椅子に反り返った。
「しかし砂場は再び佐河のところを訪れたことは言っていましたか?言っていないでしょう」
「ああ、確かにな。まあ、佐河は死んでいたわけだから無駄に怪しまれたくはないだろうしな」
田中は納得できずに下を向いた。
「実際、砂場のヤツの仕業だとしてどうやって調べる?争った跡はなかったし、もちろん佐河に防御創の類もなしだ」
「指紋とか、毛髪とかは?」
「調べちゃいないが砂場はいつも佐河の部屋に出入りしていたんだ。そんなもんいくらでも出てくるだろうな」
田中は今にも「しかし」とでも言いそうな表情を浮かべている。
「手柄が欲しいのか?今の大事なこの時にか?」
「いえ、違います」ようやく田中の顔に諦めの表情が灯る。
ラジオのDJがバグルスのレディオスターをコールした。どこか切ない感じのメロディーが店内を静かに包んだ。
「まったく、先に来たら何か頼んでおけよ」渡部は振り返りカウンターのマスターを見た。まるでテレパシーで通じているかのようにマスターは直ぐに渡部に気が付いて席に来てメニューを手渡した。
渡部はゆっくりとメニューに指を這わせるとすぐに一本のワインを決めて指で指し示し、さらにタイのカルパッチョにイカの炙りを注文した。
マスターがメニューと共に下がると渡部は言った。
「今日はお前の奢りだ」
「ええ」
風神での二人は対等な立場だ。もちろん長幼の序と言う物はわきまえている。
それでもこの店での二人の暗黙の了解となっているのは、誘ったほうが先に来ている事。
先に来た者はある程度のオーダーを済ませておくこと。
そして、支払いは誘った方という事だ。
誘うのは圧倒的に渡部の方が多いので当然この店での支払いはほとんど渡部だった。だが今日は誘ったのは田中なので支払いは田中だ。言われるまでもなく支払うつもりだった。
曲がアップビートに変わり「Video Killed The Radio Star. Video Killed The Radio Star... 」と繰り返し徐々にフェードアウトしていった。
二人の間に少しの沈黙が横たわる。
ラジオから次の曲が流れ始めた。ザ・ナックのマイシャローナだ。
それと同時に渡部が口を開いた。
「もうすぐだな。何もないといいが」
それが昇進試験のことだと言うのは分かっている。
田中はそれに対して言葉で答えたくはなく、控えめに頷いた。これは二人の手柄ではないからだ。田中はただ手を掴まれ導かれるだけで何もしていない。田中の気持ちを見て取ったのか渡部は口角をあげフッと笑った。
「俺がお前を選んだのは切れる頭とその青臭い正義感だ」
「どうも」田中は小さく頭を下げた。
「お前のその正義感は刑事には必要だが、その青臭さじゃ一課じゃ通用しないぞ。先に言っておく、一から百までやる必要はない。悪党をとっ捕まえるために小悪党を見逃したり時に鼻薬を嗅がせることだってある」
「分かっています」田中だってそれくらいは覚悟しているつもりだ。
「いいや、分かっていないな。時にはお前が嗅がされるんだ。大悪党を縛り上げるために小悪党を見逃しその結果、市民が傷つくことだってある。百人を助けるために一人を見殺しにするようなことが出来ないと一課では通用しないからな。覚悟しておけ」
田中は「はい」とは言わずに「努力します」と答えた。
渡部はその答えに満足したようだった。
そこへマスターが料理を持ってきた。一切れずつに一粒ずつケーパーを乗せたタイ刺のカルパッチョ、レモンソースのかかったイカの炙り。
そしてワインはシャブリだった。
「ええ!?」思わず驚きの声を漏らす田中にマスターが「間違えましたか?」とでも言うように軽く首を傾げた。渡部がすかさず大丈夫ですと手を上げ、マスターを下がらせた。
「シャブリですか?」田中は驚いたがさすがに「支払いはこっちなのに?」とまでは言わなかった。
渡部がテーブルに両肘をつき田中に顔を寄せて言う。
「理由は三つある」
田中はそんな渡部とシャブリを交互に見ていた。
「一つ、お前は何も頼んではいなかった。だから俺が頼んだ」
「一つ、今、俺とお前が店を同じくするのは不味いのが分かっていてお前は俺を呼んだ」
二つの理由を並べて渡部は溜めるように言葉を止めた。
「もう一つは?」たまらず田中が聞いた。
「お前、昨日あの店にいたんだよな?」
「は、はい」
「客としてだよな」
「そうです」
「ずいぶん良い酒を飲んだみたいじゃないか。たまには俺にも飲ませろ」
「良い酒って、ええ!?」
「あの酒屋が取りに来ていた空きビン、山崎だったな。取りに来る気持ちも分かるな、あれは空きビンでも価値がありそうだ。お前も飲んだんじゃないか?なんせ結婚パーティーだったんだろ?」
「ええ・・」田中は力なく答えた。
「どうだった?」
「まあ・・最高でしたよ」

渡部さんは結婚パーティーならタダ酒とでも思っているんだろうか。確かにあの店は入りと帰りで二千円などと言うわけのわからない店だ。ただ昨日は数十年ぶりに口にした寿司にあの焼き鳥。さすがに二千円では申し訳ないと思い多めに松さんに渡そうと思い一万円札を差し出した。しかし松と言う男は受け取らなかった。分からないでもない。あの男はあのビルのオーナーなのだ、今更二千円と一万円に対した違いはないのかもしれない。松は「それならあの子らにご祝儀でも」と言い微笑みを浮かべて新郎新婦を見た。
まあそれもそうか。今日ここに来れたのはあの女性のパーティーだからだ。今日(あの女性にではないが)招待されたからこそ、あの美味い寿司と焼き鳥を味わえたのだ。
田中は結婚パーティという事で念のために用意していた少し奮発した熨斗袋を新郎新婦に渡した。
赤と白の水引が結ばれた熨斗袋を見て「きれーい!」と新婦は喜んで受け取ってくれ、新郎も笑顔を見せてくれた。
だが二人ともそれが何なのか分かっていないようだった。
「これは何に使う封筒ですか?」新郎は聞いた。もちろん新婦も分かっていないようだった。二人で興味津々にこちらを見ていた。
「あーあ田中さん、そんなのいいのに。オレらはあげてないですよ」後藤くんが口をはさんできた。
「キミたちはお酒を負担しているでしょう?」
正直なところ(しまった!)と思った。だがもう遅い。
「誓いの言葉を入れておく袋?」新婦が言う。
「子供の名前を入れておくとか?」そう言う新郎を新婦が肘で突いた。
この様子だと一生答えは出ないだろう。
「これには私からお二人へのお祝いのお金が入っています。日本の風習です」
新婦はその場で開封した。
田中は思わずクリスマスプレゼントを貰った子供がNINTENDOのゲーム機を期待して包み紙をビリビリと破くアメリカの子供を思い浮かべた。
裕福だったころの田中家は中元歳暮の時期になると山の様に贈り物が届いたものだった。田中の母はそれらを一つ一つ丁寧にテープを剥がし、もう一度使えそうなほどに丁寧に畳んでいた。あの大量の包み紙はどうなったのだろうか。
田中がそんなことに思いふけっていると新婦は中身を取り出し、その金額に驚いて新郎に見せた。
二人は受け取れないと言って田中に返そうとした。
「いえ、お祝いですから。日本式です」
田中の堅持した様子を見ると二人はじゃあ、一枚だけ。と言って残りを返そうとした。
「一枚は一人という意味です。結婚式にはふさわしくありません」
じゃあ、二枚。
「二枚は二つに分かれるという意味です、やはり結婚式にはふさわしくありません」
では三枚・・。
「三枚は散。散るという意味です。結婚式には・・ね」
さすがにここまでくると二人は諦めかけていたが、残りも聞いてみたかったのかもしれない。四枚では?と聞いた。
「四は死です。最も不吉な数字です。日本では、ですが」
田中は一度それらを受け取りもう一度熨斗袋に納め直し改めて二人に渡そうとしたが、二人はまだバツの悪そうな顔をしていた。
「サキタン、ベト・・あ〜グウェン。日本じゃそういうお祝いを遠慮しすぎるのは失礼な事なんだぜ。しつこいと相手を侮辱する行為になる。笑顔で受け取るもんなんだよ」後藤が上手いこと促したので新郎新婦は田中へ深く頭を下げて四つの手で受け取ってくれた。二人はまだ少し申し訳なさそうなところがあったが感謝の言葉を述べながら笑顔を受け取ってくれた。
「末永くお幸せに」田中が軽く会釈をすると二人は「はい!」と今度は満面の笑顔で声を揃えもう一度深く頭を下げた。

「田中さんずいぶん奮発しましたね」
岸が言い後藤も続いた。
「三は散るなんて初めて聞きましたよ」
もちろんそれは即興だ。
「引っ込めるわけにもいかないでしょう」
「たしかに」二人は声を揃えて言った。
「しかし助かりましたよ」
「何がです?」と後藤。
「いえ、笑顔で受け取る様にって言ってくれたでしょう?本当に嬉しそうな笑顔で受け取ってくれました。無理やり渡す感じになりそうでしたから助かりました」
「五万も出してるのに助かりましたって言われてもね」

そう、昨日の出費は五万だ。正確に言えば五万と二千円。
そして今日はシャブリ。
田中は半ば呆然としながら渡部と杯を重ねた。渡部は一気に半分ほど飲み干し満足げに息を吐くと残りを飲み干し田中に杯を掲げた。
田中も口にした。
スッキリとして水を飲んでいるようだった。
「しっかし、山崎を出すなんてずいぶん良い店のようじゃないか」
渡部はまるで気にせずに二杯目のシャブリをグラスに注いだ。
渡部さんをあの店に誘うのはだいぶ難しいだろう、自分でさえよく受け入れられたものだと思う。あれは間違いなく、あの日の田中の立ち回りが上手かったというより、あの二人のおかげなんだろう。田中が岸と後藤と言う二人に、認められたからこそ、松も田中を認めて受け入れてくれたんだと思う。
極上の料理に・・・いやあの店の料理は確かに最高だが、その最高の料理をあの板前の洗練された立ち振る舞いと気遣いが極上の料理に仕上げているのだ。
渡部さんをあの店に連れて行っても、難しいな。なんとなく受け入れられないだろうと分かる。
「なんだその顔、心配しなくても連れて行けなんて言わないぞ。俺はあの板前に嫌われちまっているからな」
渡部はそう言って二杯目のシャブリを飲み干した。
今日の支払いはカードにしよう。レシートは、見ない。

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