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第二十二話 照間瑠衣はゲロ以下の匂いがプンプンする女

父の顔を最後に見たのはいつだっただろうか。
思い出せなかった。

だが田中は何一つ不自由なく育てられた。母は団地へと移り住むと直ぐに仕事に就いた。近所の街工場の経理だった。大した給料は貰えてなかっただろうが、田中は何一つ不自由な思いをしたことはなかった。
クリスマスや誕生日に豪華なプレゼント渡されることは無くなったが、子供の時分から読書が好きだった田中は読む本に事欠くことはなかった。田中は読書は好きだったのは母にそう導かれたからだ。田中も他の子供と同じようにドラゴンボールやジョジョが好きだったし、子供の割にはオフィス北極星や龍ーRONーといったやや大人向けの漫画も好きだった。
休みの日には母と買い物に行くのが当時の田中の一番の楽しみだった。そこは幼少の頃によく連れていかれたお城の様なデパートではなく、子供が走り回っているような騒がしい所だったが田中にしてみればこっちの方が楽しかった。母は必ず本屋に連れて行ってくれる。今日こそはドラゴンボールを買ってもらうんだ!いや、ジョジョの続きの方が気になるけど・・などと悩んでいるのだが家に帰ってみると母と一緒に運んできた一週間分の食料品の詰まった買い物袋を降ろすとそこからカバーのかけられた一冊の本を手にテーブルにつくのが常だった。それはスティーブンキングであったり、シドニーシェルダンであったり、ダニエルキイスにルイスサッカーであったりした。それらの本は様々な「アメリカ」への入り口であった。
スティーブンキングの「死のロングウォーク」や「ゴールデンボーイ」は恐ろしかったが「スタンドバイミー」と「刑務所のリタヘイワース」はあまりに引き込まれたすぎたためにラストに納得がいかずに作者に抗議の手紙をしたためようと思い小学生ながらに英語を学ぼうと思ったほどだった。
シドニーシェルダンならやはり「ゲームの達人」だが「血族」も捨てがたい。ダニエルキイスはもちろん「アルジャーノンに花束を」だろう。そんな中でも田中が一番好きで何度も読んだ本はルイスサッカーの「ホール」だろう。トムソーヤの冒険とグーニーズを掛け合わせたようなストーリーで痛快極まりないラストは子供であった田中の心を歓喜させたものだった。もうそこにはゴクウもポルナレフもいなかった。
なにも母に強要されてこれらの本を嫌々ながらに選び仕方なく読んでいたわけではなかった。間違いなく本屋に行くまではジョジョとドラゴンボールで頭は一杯だったはずなのに、母と話しているといつの間にかにルイスサッカーか、それともシドニーシェルダンかにするか。いや、まだ読んだことのないこの作家も気になる・・・と悩んでいるのが常だった。誰か一冊なんて決められない、あれもこれも読みたいと思っている田中に母は「どれか選べないのなら、まず二冊か三冊選んでみなさい」と言う。
田中は悩みに悩んで二冊を手にすると母は「どちらか選べる?」と聞く。
ここまでくると田中も分かっているから「選べないよ」と答える。
母は「仕方ないわね」と言って2冊とも買ってくれるのだ。
父親はいなくなっていたが、田中は母の手で一つ不自由なく育てられた。

小学6年生の時だった。授業参観の日、母が教室に現れるのが待ち遠しかった。母があの、南の海のような美しいドレスを着て登場するのを心待ちにしていた。教室の中心に輝く様に美しい母を想像していた。
しかし母は青は青でもブルーのジーンズを履いて現れた。タイトな白のカッターシャツを着ていた母はやはり美しかった。その教室の中で中心にいた。隣の席の女子が、あれ誰のお母さん?芸能人じゃない?と言うと教室はざわめいた。椅子についていた全ての生徒が振り返った。皆が母さんを見ていた。
だが田中は不満だった。母さんはあんなもんじゃない、あの青いドレスを着た母さんを見て欲しかった。
その夜、田中はなぜあのドレスを着てこなかったの?と母を問い詰めた。
母は困り顔でパーティーでもないのにドレスなんて着ていくわけにはいかないでしょ?と言ったが田中は不満だった。
子供時代の田中が母に対して持った不満はその一つだけだった。

田中が中学二年になった夏だった。母は夏休みに石垣島に連れて行ってくれた。
田中にとって初めての飛行機だった。あいにく富士山は見えなかったが田中は数時間のフライトでも興奮しっぱなしで眠ることもなかった。
石垣島は夢のような所だった。生まれて初めての南国だった。母は嫌がっていたが田中には唐突なスコールすら驚きを覚えそして楽しかった。
母とダイビングを楽しみ、マングローブを散策し、レンタカーを借り母の運転で島を見て回り灯台に昇って海に沈みゆく夕陽を眺めた。
それは本当に美しかった。母さんと同じくらい。

そんな母は今一人ヨーロッパにいる。ガイドと言うより執事と言った方が良い高級ガイドを引き連れて。安くはなかった。その総費用は二百万を超えた。格安ツアーだよとは伝えてはいたがそんな嘘を信じる母ではないことは分かってはいる。母もそれを分かっていて受け取ってくれたのだ。
しかし田中は母と別居している。一人暮らしをしろと母に言われたからだ。母は小さな中古住宅をローンで購入していたが田中が30に近くなると「一人で暮らしなさい」と言った。
言われるがままに田中は賃貸マンションを借り一人暮らしをするようになった。もちろん母の住む家の近くだが。

彩を後にした田中はマンションへと帰る。
今日は彩に行ってよかった。それが本心だった。次の昇進試験への憂いがなくなったのはもちろんだが、それ以上に彩と言う店の松、そしてエビス屋酒店の岸と後藤という二人と知り合えたのが本当に良かった。安居酒屋の店主とは思えないほどにこちらの気持ちを全て汲み取るような松と言う大将が出す料理、そして酒。
年齢は一回りも下だが爽やかという言葉がこれほど合う男はそうはいないだろうと思える岸と言う男性。
そして、さすがに「ナオキ」と呼ぶのはまだ無理があるし「ナオキくん」と呼ぶのもまだ難しいがそう呼べる仲になってみたいと思いたくなる男、後藤。
今日は本当に美味い酒が飲めた。渡部さんには隠しておきたい店だった。

田中が思い出し笑いをしたところでマンションの自室の前に一人の女性が座り込んでいた。
「瑠衣さん?」田中が驚いて声をかけると女性は田中を見上げた。

「瑠衣さん、どうしたんですか?」

田中が声をかけるとドアの前に座り込んでいた女性は田中を見上げた。

「ああ田中さん。急に、ごめんなさい」

女性は立ち上がろうとしたがフラフラとよろめき思わず田中は手を差し伸べた。

田中が瑠衣さんと呼んだ女性はおずおずと手を伸ばし田中の伸ばした手を掴んだ。

その手はまるで石のように冷たかった。田中は包み込む様に両手でその手を握り立ち上がらせた。

瑠衣がここに来た理由の大体の予想は付いている。だが念のためにその口から聞いておいた方が良いだろう。

「瑠衣さん、こんな時間にどうしたんですか?」

時間は深夜12時近い。32歳の女性が寒さに震え独り身の男の自宅の前で座り込んでいるなどただことではない。

「ごめんなさい・・・」瑠衣は顔を伏せたままただ謝った。

田中は唇を噛んで瑠衣が言いにくいであろうことを代わりに口にした。

「鈴木くんですか?」

瑠衣は小さく頷いた。

「彼が私のマンションの前にいて、私を待ち構えているみたいでした・・。私、怖くなって・・」

「あいつは・・・」田中はそう吐き捨てるように言って瑠衣から右手を離しポケットからスマホを取り出し鈴木巡査に電話をかけた。

鈴木巡査は中々電話には出なかったが、田中もあきらめたりはしなかった。

「はい、なんスか?」やっと、というより無視しきれないだろうという諦めの上で鈴木巡査は田中からの電話に出た。

「照間さんがお前が家の前にいるって連絡してきた。何をしているんだ?」

嘘はついていない。目の前で、そして口頭で連絡を受けた。

「え!?だって!!」

「だってじゃないだろう?何をしているんだお前は」

「でも!」

「だって。でも。なんだ?何を言うつもりだ?付きまとってどうするつもりだ」

「付きまとってなんかないですよ!ただ、その・・」

「ただ、何だ?付きまとっていないのなら彼女の家の前で何をしているつもりなんだ。もう終わりだって話し合ったんだろう?私の目の前で、別れますって言われていただろう?」

照間瑠衣という女性は沖縄の離島から上京して来た32歳の女性だった。

母が亡くなり島に誰一人身寄りが無くなったことで30と言う齢を超えてから初めて小さな沖縄の離島から東京に来たという女性だった。

渋谷の交差点を渡る人々がすでに島の総人口を越えていたと驚くような女性だった。

そんな時に照間瑠衣と言う女性は鈴木と出会った。

何も知らぬままに浅草の喧騒を歩いていた時に酔虎に絡まれ困っていたところに割り込んできたのが鈴木巡査だったという。

鈴木巡査の意図は手に取る様に分かる。酔虎に絡まれ困っている、日本人にしては掘りの深い目つきで薄い小麦色の肌を持つ美人を助けようと思ったわけでは無かっただろう。
単に女性に絡む酔虎との間に割り込みいつものようにオヤツを楽しもうと思っただけの話だ。警察官の制服を着た自分には手を出せない酔虎を相手にして誰にも見えないし感じられない権力をひそかに楽しみたかっただけの話だ。

だが、身寄りもなくたった一人で南の島から来た女性がその行為に尊敬の念を抱くには十分だったのだろう。

お世辞にも立派な体躯とは言えない鈴木のような貧相な男が自分の為に身を挺して必死に助けてくれている。

瑠衣の目にはそう写ったらしい。

実はそれが檻の中の虎をからかう一匹の鼠であったとしても見る人によっては違う見方もできるということだ。

「だいたいなんで田中さんに連絡が行くんですか」

「ただの別れ話に私まで引っ張り出されたからだろう?それとも別れたくないって駄々をこねて私以外にも証人を作ったのか?」

「駄々なんかこねてないですよ!」

「なら彼女を怯えさせるような真似はやめておけ」

田中は瑠衣を見て(大丈夫)と小さく頷いた。

しかし鈴木は何かを感じ取ったのだろう。

「そこにあの女がいるんですか!?」

「連絡してきたと言っただろう」

「そこにいるのか!?おい!!!」

スマホ越しでも鈴木の怒声は瑠衣の耳へ届いたようで瑠衣は反射的に田中を手を強く握った。

田中は安心させるように軽く笑みを浮かべゆっくりと大きくうなずいてみせ、優しく手を握り返した。

「今のは私に言ったのか?」
なるべく滲み出る怒りが感じられるように静かにゆっくりと岩を引きずるように言ってみたのだが鈴木には効果がないようだった。

「いや、そこにいるかと思ったんで」

「そこ、ってのはどこだ?お前、これ以上騒ぎを起こしたらストーカーとして捕まるぞ、そうなれば警察官ではいられなくなる。少し冷静になれ、女なんか他に作ればいいだろう?それともまだ彼女に未練があるのか?」

「未練なんかないですよ!」 

この男は自分を制御できていない。未練などないというのはおそらく本心だろう。そして家の前でを待ち伏せしているのも本気だろう。

鈴木は彼女ができたという事が降って湧いたような幸運であったことに気が付くことが出来ず、それを失ってからのその事実に気が付き我を失ってしまったのだろう。

「ならストーカーの真似事は止めて家に帰れ」

「………」

鈴木は何も言わずには電話を切った。

田中がスマホをしまい「大丈夫」と言ってくれたのを聞き瑠衣はそこでやっと安心することができた。

田中がドアの鍵を開けてもまだ瑠衣は田中の手を離さずに上目使いに視線を向けてきた。

田中がドアノブに手をかけると瑠衣は雨に濡れた子犬のように寂しそうな顔になった。

田中は意に介さずドアを開けてから、瑠衣に振り返ると彼女はようやく手を離し、代わりに両手を田中の首にかけた。

彼女が何を欲しているのかはもちろんわかる、それは田中も同じく欲しているものだからだ。

それを与え受けるために田中は身体をかがめた。

瑠衣と唇を重ねた。彼女の唇はひんやりとして少し冷たかった。田中はその冷たさを味わいながらドアをくぐり後ろ手に鍵を閉めると、瑠衣を抱きかかえ上げた。

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