第三十七話 八つ面の渡部

「コーヒー買って来ていいか?」
岸のヤツが言った。
二日酔いもだいぶ収まってきたようだが、まだ本を読むほどではないらしい。
今日はもう配達は終わった。あとは帰るだけなんだがコーヒーなら帰ってから淹れてくれればいいんだが今すぐに飲みたい何かがあるんだろう。
「ああ、ドトールでいいか?」
「ああ」岸は指で目頭を押さえながら答えた。

オレたちは間違っても缶コーヒーなんか飲まない。
岸に言わせれば缶コーヒーはコーヒーじゃない何か。らしい。
アレを飲むくらいなら森永かグリコのカフェオレでも飲んでいたほうがマシだという。
岸のいう事は分からないでもないが、オレに言わせればアレはカフェオレと言うよりコーヒー牛乳だし飲気はさらさらない。でもグリコのカフェオレアイスは別だな。同じグリコのパピコも美味いんだが少しカキ氷っぽいアレと違ってグリコのカフェオレアイスは口当たりがとても滑らかだ。出来れば一本200円くらいでコンビニにでも売り出してほしい所だが、グリコのカフェオレアイスは6本入りでスーパーにしか売っていない。
まあ缶コーヒーに関して言えばオレは前はよく飲んでいた。タバコを吸う奴で缶コーヒーが嫌いな奴はいないだろうからな。オレもそうだった、まあブラックだけだが。コーヒーに砂糖を入れるとか正気じゃないだろ?コーヒーに入れていいのはウォッカ、ギリで牛乳ってところだな
でもそんなオレも岸の淹れるコーヒーを飲む様になってからは缶コーヒーはコーヒーじゃないという岸の意見に全面的に賛成するようになった。最近は信じられないことに人工甘味料を入れたコーヒーまであるらしい。イカれてるよな。
コンビニコーヒーも論外だ。アレを始めて飲んだ時、豆を燃やした消し炭なのかってくらいに苦かった。コンビニ最大手が気合を入れて売りだしたって品物だったからオレも少しは期待して飲んでみたんだが苦いだけの泥水と言ったところだった。最近はだいぶマシになったらしいがそれならドトールに行った方がいい。ドトールなら美味いホットドッグも食えるからな。

オレはドトールの前にトラックを止めた。
もちろんパーキングエリア、白い枠内にだ。
岸がトラックを降り、オレも降りる。
「ブラックのホット、Lサイズで頼む」
「こっちは?」
岸が口を開け右手を添えた。
「レタスドッグを頼む」
岸が右手を上げてドトールへと向かい、オレはパーキングチケットの発券機へと向かった。
発券機で駐車チケットを発券しトラックのワイパーに挟みトラック乗った。
ほどなくして岸がトラックに戻った。岸からコーヒーとレタスドッグを受け取り、トラックを止めたまま二人でコーヒーを堪能した。
岸はアイスコーヒーを片手にジャーマンドッグにかじりついている。
トラックを動かしても良いんだが、AFNがブリトニースピアーズのウープス!を流し始めちまったからこのままトラックを止めたまま少しばかり休憩することにした。

ウープス!はブリトニースピアーズの最高の一曲だからな。もちろん他にもいい曲はあるがウープス!はブリトニーの全盛期の一曲と言っていいからな。
なんて言ってもミュージックビデオが最高だった。もちろん正式な方じゃなくてオルタナティブバージョンの方だけどな。真っ赤なラバースーツを着たブリトニーの上半身しか映っていないからダンスと言うほどではないのかもしれないがその振り付けはキレッキレで最高にイカしているんだ。
一番キュートだった時のブリトニー、そしてその動きが最高だった。
ブリトニーの3も曲は好きだが、ミュージックビデオがなんでそんなにダサいんだ?ってがっかりしたからな。ブリトニーの最高はウープス!だ。間違いない。

「ちょっと一服していいか?」岸が言った。もう食い終わったのか?まだ曲の半分も行ってないぞ。
「ああ、オレもそうするかな」
オレはトラックのエンジンを切ってラジオのボリュームを上げ外に出た。
岸はガードレールに腰かけコーヒーを片手にタバコを吸い始めた。
ウープス!が漏れ出すトラックの横で二人の男がガードレールに腰を落ち着けてタバコを吸っていると通行人はオレたちを視線の隅でとらえ怪訝そうな表情をして歩き去っていく。別にいいだろ?これくらい。
オレもレタスドッグを口に押し込み包み紙を丸めてポケットに押し込みクールブーストを一本取りだした。
オレはレタスドッグをコーヒーで流し込み指に挟んだタバコを眺め思い出した。そうだ岸のヤツは電子タバコだ。ライターを持っているわけがない。和さんなら黙ってライターを出してくれるがさすがに電子タバコを嗜む岸にライターを借りるっての無理な話だな。まさかオレの為にライターを持っていろと言うわけにもいかないしな。仕方なくトラックへ戻りシガーソケットを押し込みしばし待った。カチリと言う音がしてオレはタバコに火を点け岸の隣へ戻る。家の中では禁煙だがそれはトラックの中でも同じだ。
オレたち二人は黙って煙草を吸っていた。
そう言えばオレたちはあまり会話をしないな。
でもまあそう言うもんだろう。二人で同じ家に住んで、同じ仕事して、そして二人で人を殺しまくっているんだ。
今更「最近どうだ?」とか「仕事の調子は?」なんて聞く必要はない。だが今日は珍しく岸のヤツが口を開いた。
「あれ、飲んじゃマズかったか?」
おいおい、いまさらそんなことを言うのか。
「飲んじまったモンはしょうがないだろ」
「高かったんだよな?」
「さあな、オレが買ってきたわけじゃないしな」
オレは値段なんか気にするなって言ったつもりだったんだが岸はそうは取らなかったみたいだ。
「プレゼント・・・か?」岸のヤツが更に(マズいな・・・)って顔になった。
「プレゼント?うん、まあそんなもんだよ、あの・・」あの女の・・と言いかけてオレは口を閉じた。
「悪かった・・」岸のヤツが頭を下げた。
オレは慌ててフォローした。
「気にすんなよ、オレはウィスキーは飲まないしな。あんなもん買う客はいないだろ。それにオレだって知っているぜ」
「何を?」
「ウィスキーって樽から出したらそれ以上美味くはならないんだろ?」オレは得意げに言ったつもりだったんだが岸は少し驚いたようだった。
「そ、そうだな」
「ならいつ飲んだって一緒だろ、いいさ。それに和さんの機嫌取れたんだろ?どうだった?」
「いや、まあ和さんも喜んでたぜ。田中さんもだけど」
「あの二人が喜んでくれたなら一番良かっただろ」
「ああ、田中さんは本当に美味そうに飲んでいたな。でも和さんはどこか懐かしそうな感じだったな」
懐かしそう、か。なるほどな。
「そうか、やっぱり和さんが銀座で店もっていたってのは本当なんだろうな」
岸は少し怪訝そうな表情をしたがすぐにその意味が分かったらしい。
「そうか、銀座で出すような酒と比べていたのか」
「だろうな、あのビルも和さんのモンだなんてビックリしたぜ。銀座で店を持つとビルが買えるくらい儲かるんだろうな」
「それどころか、あの爺さん、和さんに借金押し付けたとか言ってたよな?」
そういえば言っていた。
「八千万とか言ってたか?」
「和さん、腕一本で八千万の借金を返してあのビルも買ったってことか?」岸は、とんでもないな・・と首を振って言った。
「まあ、そうなるよな」
「どうやって家賃を払っているのか不思議だったもんな」

岸の言う通り、マジで不思議だったんだ。
そう、オレたち二人の間で話題に上るネタっての実に少ないが、その一つが和さんの店の収入だった。
和さんの店は客がドッと押し寄せるような店ではないし、その値段は「入りに千円、帰りに千円」などと言う信じられない物だ。酒はオレたちエビス屋がほぼ仕入れ値で卸しているとはいえ、家賃を考えたらそんな値段ではやっていけないはずだ。もちろん和さんの店にはメニューは無いから食材のロスはほとんどないだろうし、一々注文をメモる必要もないし、会計も客任せだから和さん一人でやっていけてる。それに和さんの店に来る外人客も皆わきまえていて、ここぞとばかりに腹いっぱい食おうとしたり明日の朝の心配をしないほどに酒を飲もうとするやつもいない。中国人は別だがな。それでもさすがに東京浅草雷門の目の前で飲み食いして2千円はムチャだろう。
和さんは焼き鳥一つとってもブラジル産の鶏肉なんか絶対に使わないし、店の冷凍庫にはシーフードミックスどころかミックスベジタブルすら入っていない。
鶏肉は国産鶏。イカは生のスルメイカ。アサリは和さんが時間をかけて砂抜きした千葉県産だ。海老はさすがにタイ産の冷凍バナメイエビのようだが、和さんの店でエビが出てくることはまず無い。肉は卸の精肉業者に頼んでいるようだが野菜と魚は自分の目で見て買って来ているらしい。
そんな和さんの店に来る外人連中に人気なのは一番はもちろんサキタンも大好きな焼き鳥だ。これは一年中食えるが他はそうはいかない。
夏の間だけ出される枝豆。一番いいのは新潟県産か山形県産らしいが、和さんの店で枝豆と言ったら知り合いが持ってきてくれるという千葉県産だ、意外だが枝豆ってのは鮮度が何より大事らしい。
それを始めて見た外人は全員「豆?茹でた大豆?」「俺はいいや、お前食えよ」って感じだ。ビールケースの上に置かれたボールに盛られた茹でた枝豆を四、五人で譲り合っている。
そんな連中が5分もすると「これ豆?本当に茹でただけ?」「おい!殻はこっちだろ!混ぜるなよ分からなくなるだろ!」ってなるんだよな。
最近じゃ外国でも枝豆をニンニクとチリフレークとセサミオイルで炒めたりするらしいが和さんの枝豆はもちろんタダの塩ゆでだ。
10分もすると外人連中は空になったボールをそっと和さんに返す。
それはもちろん「ごちそうさま」じゃあなくて「もう少しありませんか?」だ。
今じゃ「おい、そっちで何喰ってるんだ?」「いや、ただの豆だ。茹でた大豆だよ」なんて言ってこそこそ食う奴もいない。「ただの豆だよ」なんてもう誰にも通用しないからな。「ただの豆ならさっさとこっちによこせ」って言われるだけだ。
他にもあるぜ。東京産のトウモロコシ。それも練馬区のトウモロコシがいいらしい。これも勿論茹でただけだ。これが一番好きなのはよりによって「コーンなんて家畜のエサだろ?まったく、オレは映画を見に来たわけじゃないんだぜ?ホント日本人ってコーン好きだよな、ピザにまで乗せるんだぜ!?信じられるか?ピザにコーンだぜ!?」なんて言っていたアメリカ人のスミスだ。確かにピザにコーンとマヨネーズはオレもどうかと思うけどな。
他には和さんの店は居酒屋のくせによく果物を出す。春には千葉県の匝瑳市のイチゴを出すし、初夏には山梨県のサクランボ、秋には同じく千葉県の白井市の梨。葡萄と桃は山梨県だ。
これらは和さんがわざわざ買い付けに行くわけじゃあない、全部知り合いが安く送ってくれるらしい。
安く送ってくれるとは言え和さんの店、二千円だぜ。やっていけるわけがないだろ。
その謎がようやく解けた。
あのビルが和さんの物だったとはな。

「ビルっていくらくらいするんだろうな?」つい、思いついた疑問をそのまま口にしちまったが我ながらバカみたいな質問だな。
「裏通りとはいえ、浅草寺の目の前だしなぁ。だいぶ古いビルだけど」岸のヤツも見当もつかないと言った様子だ。
「しかも八千万の借金を返した上でだろ」
二人とも見当すらつかない。
オレは黙って熱いコーヒーをすすり、岸は黙ってストローを咥えていた。
岸が二本目のタバコを取り出し、オレももう一本クールを取り出し吸いさしから火を移した。
また二人で静かにタバコを吸っていた。

「山崎、悪かったな」
岸のヤツはまだ申し訳なさそうに言った。
何だよそれ・・・割っちまったってならそう言うのも分かるぜ。でもお前は自分で封を開けて飲んだんだろう?いつまでそんな顔をするつもりだよ。オレはそれには答えなかった。
「ドトールのホットドッグさ、チリドッグとかあっても良いと思わないか?」
「チリドッグ?」
「そうそう、辛ーいやつ。こうハラペーニョを乗せてさ」
「モスみたいなやつか?」
「そう!モスのスパイシーチリドッグみたいなやつでさ。ドトールのあのパンに乗せたらウケると思うんだけどな」
「コーラには合うだろうな」岸が言った。
んん?
「そうか、コーヒーには合わないか」
「ああ、ドトールはバーガーショップじゃなくてあくまでコーヒーショップだからな」
なるほど、さすがジャンクフードに関しては岸のヤツの方が一枚も二枚も上手だ。
岸の顔から申し訳なさがやっと消えてくれた。
「じゃあ、行こうぜ」オレはコーヒーを飲み干し空になった容器にタバコの吸い殻を入れ、二人でトラックに乗り込んだ。

だがオレがトラックを走らせ五分もすると岸が何かおかしいってことに気が付いたようだ。
「どこに行くんだ?」
まあそう思うだろうな。エビス屋とは逆方向に走っているからな。
「あのビンだけは返してもらう」オレがそう言うと岸は小さく「ああ・・」と言って本を開いた。
読んでいないのはバレバレだったが。

和さんの店に行くためにいつものように駒形堂を左に見て回るが裏道の先にはパトカーに警察の白黒のミニバンまで止まっていた。真っ白のクラウンも警察車両だろう。
近寄らない方がいいのは分かってはいるがあのビンは返してもらう必要がある。岸は心配そうな顔をしていたがオレはトラックを止めて歩いて行った。
直ぐに警察官が歩いてきた。若い警察官だった。歳は30弱と言ったところか「ダメダメは入れないよ」とばかりに手を振ってきた。
「お兄さん何?今日はダメだよぉ」
「ダメって言われても、仕事なんですけど」
「なに?何屋さん?どこにぃ?」
「酒屋ですよ、そこの飲み屋に」オレは顎で先にある和さんの店への細道を顎で示した。
「酒屋さん?」警察官は訝し気にオレを見た。
「ええ、空き瓶の回収に来たんですよ」
若い警察官の表情が更に曇った。
さすがに手ぶらで酒屋ですは通用しないか?しかもオレの格好はブーツカットのジーンズにロングブーツ、それに濃紺の革ジャンだ。「酒屋です」は難しいか?でも実際そうだしな。オレはトラックに振り向き指で指し示した。若い警官がと覗き見るようにトラックの荷台を見た。そこに書かれている「エビス屋酒店」を見て少しは納得したようだったが「では、こちらへどうぞ」とは言わなかった。
あの空き瓶を和さんに捨てられるはマズい。そんな可能性が低いことは分かっているがさっさと回収したんだ。
「飲み屋さんって、あそこのぉ?」若い警察官がまさに和さんの店への細道を指さした。
何かあったのか?オレは少し心配になりつつも頷いた。
「んー、ちょっとねえ、明日にできないかなぁ?」若い警察官が言う。
「ちょっと空き瓶回収するだけなんですど」オレはもちろん引きさがらない。
そこに裏道の反対側を警備していたらしい別の警察官が走ってきた。
田中さんだ!
田中さんはオレの顔をハッキリと見つめながら若い警察官に声をかけた。
「西川くん、どうした?」
「いやあ、酒屋さんらしいんですけどぉ」西川と呼ばれた若い警察官が返事をするその間も田中さんはオレの顔をハッキリと見つめていた。
さすがに田中さんが何を言いたいのか、何を言われたくないのか。その意図は分かる。オレは間違っても「田中さんじゃないですか!」なんて言ったりしない。田中さんはハッキリとオレの顔を見てその上で知らないふりをしている。だからオレはそれに合わせて「そこの飲み屋さんでちょっと空き瓶を回収したいだけなんですけど」とだけ言った。
田中さんは西川とか言う警察官に「ここは任せるぞ」と言って「来て」とオレに向かって手招きした。
オレは何もわかっていない酒屋とばかりに田中さんに導かれるままにその後をついて行った。

西川と言う警察官から十分に距離が離れた所でオレが口を開こうと思ったが田中さんから言ってきた。
「今日は何を?」昨日充分に酒を持ってきていたはずなのに?と言ったと所だろう。
「山崎の空き瓶をどうしても持って帰る必要があるんで」オレは端的に答えた。
「あ、あの?」
「ええ。あの、瓶です」田中さんも楽しんだんだろ?今はその感想はいらないけどな。オレが答えると田中さんは少し思い込んだようだ。そして言った。
「昨日、あのあと佐河と言う老人が自殺していたんです」
オレは驚いたが警察官に連れられて歩く一般市民と言う態度を崩さずに前を向いたまま言った。
「あのジジイが自殺?したんですか?」田中さんも会話などしていないという風に前を向いたまま答えた。
「ええ、あの後、上の自室の浴室で未明に亡くなっていたそうです」
ヤクザがあんな情けない姿を見せたからか。オレは少しの同情も出さずに鼻で笑った。それにあのジジイはサキタンの胸を掴みやがったんだ。闘犬をけしかけるようにベトコンのヤツを押さえていた手を放しても良かったくらいだ。倉庫で桐さんの涙を見たオレに言わせれば自業自得と言ったところだ。
田中さんはそれ以上は何言わずに和さんの店への細道へと入っていった。
そこに後ろから声がかかった。
「おい、何してる?」
後藤が振り返るとそこヨレたスーツに身を包む小太りのオッサンがいた。
八つ面の渡部だ。

渡部が佐河の死体を残しビルから出て、もう一度板前に挨拶をしておこうと細道を覗くと二人の男がいた。
一人は田中だ。隣のデカい若造は誰だ?なんで連れて来た?
「おい、何してる?」渡部は二人の後ろから声をかけた。

二人が同時に振り返った。
「ホトケさんを出すところだ、もう少し待てなかったのか」
「いえ警部補、彼は出入りの酒屋さんで昨晩は客として来ていたそうなんです」
若造はチラリと田中を見てから俺に会釈をした。
「そうか、分かった。あとはいいぞ」渡部はそう言って仕事へ戻れとばかりに手で払い除ける様に田中を下がらせた。
酒屋?この若造がか。ジーンズにブーツ、濃紺の革ジャンを着てレザーの腰袋を付けている。腰袋はワークショップで売っているようなビニールや合皮の安物じゃないな、ツヤが出るほど使い古されていて実に渋い色合いを光らせている。見た目だけで判断すれば酒屋と言うよりバイカーだ。
「こんにちは」若造は控えめに頭を下げた。見かけによらず最低限の礼儀は兼ね備えているみたいだな。いや、バイカーってもんは意外としっかりしているもんだな。若造ってもんは警察には反抗的な態度をとるのがカッコいいとでも勘違いしているようなことが多いが。
そういった奴に警官二人で相対するのはあまりうまくはない。少なくとも話を聞かせて欲しいと言う時には。だから田中を下がらせた。しかも敢えて横柄に。
渡部は若造に笑顔を向けた。
「酒屋さんかな?ちょっと話を聞きたいんだけど、少し時間いいかな?」出来るだけ申し訳なさそうに声をかけた。横柄さを見せてからこう下手に出てギャップを見せるってのはちょっとしたテクニックだ。
「ええ、いいですよ。奥でいいですか?」そう言う若造に渡部は笑顔で大きく頷いて答えた。
「仕事中に申し訳ないね」

何だこの警官。田中さんに随分偉そうな物言いだったな。そうかと思えば田中さんより年下のオレには卑屈にすら見える態度を見せてくる。一言で言えばくせ者だ。話すときには気を付ける必要があるな。

渡部は細道を行く後藤の後ろについて行った。
この若造、歩くときにだらしなく踵を擦るようなこともないんだが、それにしてはブーツを履いている割に足音を出さないな。それは高そうなブーツを大事に履いているってことだけじゃあなさそうだ、妙な男だな。渡部は頭の隅に田中よりは少し小さい若造を留め置いた。しかし田中も余計な仕事を増やしてくれたな。佐河は自殺なんだが、こう連れてこられては話を聞くほかないだろう。
細道を通り抜けるとカウンターの板前が酒屋に声をかけた。
「おう、ナオキ」
だが渡部の姿を見ると、またか・・とあからさまに首を傾けた。
渡部は慌てて弁明する。
「いえ、こちらの彼に話を聞くだけです。昨日のお客さんですよね?」
「ええ」「はい」二人が同時に返事をよこした。
そして板前がカウンターに灰皿を置いた。

酒屋の若造は置かれた灰皿を見てから、俺の顔を見た。
「どうぞ」と言って灰皿に手を向けると若造はタバコを取り出し椅子に座った。すぐさま板前がライターをカウンターに置くと若造は差し出されたライターを手にし、タバコに火を点けた。
ずいぶん気が利く板前だな。
「名前を、いいかな?」渡部が質問を始めると若造は黙って腰袋から財布を取り出し、そこから免許証を出し渡部に差しだした。
「後藤、直樹くんか。昨晩ここにいたんだよね?」渡部は免許証を返しながら質問を続ける。
「ええ、ウチの酒屋のもう一人もいましたよ、トラックにいますけど呼びましょうか?」
「そうなの?いいかな?申し訳ないけど」

渡部は岸孝之と後藤直樹と言う二人の若造から話しを聞き続けた。
気になる点は特にはなかった。松と言う板前がは話してくれた事と大差ない。が、四人目の日本人の事は板前の口からは聞いていなかった。
桐と言う女将。

「その桐さんて女将が、いやあなたの女房が佐河に石女と言われたと?」
渡部は松を見た。
「ええ、言われましたね」松はそっけなく答えた。
「怒ったりは、しませんでしたか?」
「しましたよ」
「怒りとか、恨みとかは思いませんでしたか?」渡部は少し意地悪げに聞いた。
「殺してやろうと思いましたね」松はあっさりと答えた。
佐河も死んでよかったな。いや、やっと死ねたってところか。バブル時代をこの世の春と謳歌し好き勝手に生きて楽しんできたのに、こんなシケた居酒屋の板前に頭を下げろなんて言われてそうするしかないなんてな。二郎兄弟と言えば警察でさえおいそれとは手を出せないヤクザだった。ハッキリと言えば警察の連中は皆、あの義理の兄弟を恐れていた。それを従える佐河組組長も落ちれば落ちるもんだな。落ちたというか死んじまったわけだが。
板前が素直に「殺してやると思った」と言うと咄嗟に酒屋の二人が割って入ろうとしたが渡部は拡げた手を向けそれを制した。
「佐河は未明に、そうですね深夜三時かそこらで、こうね」渡部はそう言って右手を自分の首に当てた。
「でもま、一応ですな、松さんはその時間どこにいましたか?」
ここにいなかったのは分かっている。しっかりとしたアリバイがあるのだろう。だからこそ松は怒りを憚らずに口にしたのだ。この板前は見かけによらず頭の回転が速いようだ。この板前は自分が佐河殺しの容疑者になることはないのが分かっていて殺意があったかのような事を言っているんだ。それはなぜかと言えば俺の仕事を増やしてやろうとしているんだ。理解が早いってのは助かるもんだが、早すぎるってのは面倒でしかないな。
「そうですね店は2時には閉めて、桐と二人で片付けてその後は二人で神楽坂の桐の店に行きましたよ。もう四時くらいでしたかね」
「神楽坂の店ですか。他に誰かいましたか?ほら、アリバイと言うか・・」
「いや、誰もいませんでしたよ、二人で飲んでいました」
「ほう。では神楽坂までは何で行きましたか?まさか歩きじゃないですよね?」
「ええ、タクシーを呼びました」板前はそう言ってスマホを取り出しカウンターに置いた。渡部はそれを手にすることはなく聞いた。
「帰りは?一人ですか?それとも二人?」
「一人ですよ。アレとは別居中なんで」
「それは・・。帰りも、タクシーで?」
「ええ、桐のヤツにタクシーを呼んでもらいました」
「そうですかぁ」
流しのタクシーではなかっただけマシか・・。
「タクシーを呼んだのは電話で、ですか?」
「ええ」板前は「どうぞ」とばかりにカウンターに置いたスマホに手を向けた。
「帰りもですかね?」
「いや、帰りは桐のヤツが配車アプリって言うんですか?会話もせずに呼んでましたよ」
なるほど。仕事は増えたがすぐに終わりそうだな。
「スマホの通話記録を見ても良いですかね?」
板前はそれには口で答えず「どうぞ」とカウンターに置いたスマホに手を向けた。
渡部は板前のスマホを手に取り通話記録を開き「浅草自工」と記された通話記録をメモした。
「その、申し訳ないのですが・・その桐さんと言う方に話を聞いても良いですかね?帰りのタクシーの記録を聞きたいのですが・・」
板前はスマホを手にし「彩」と記された電話番号を表示させて渡部に差しだした。
「私のからかけても大丈夫ですかね?」渡部は聞いたが板前は相変わらず「お好きにどうぞ」と言う態度だった。
「いや、出来ればあなたから繋いでくれませんかね?申し訳ない」渡部は深く頭を下げて板前に言った。
板前は素直にスマホを手に電話をかけた。相手はすぐに出たようだ。
「桐、俺だ。ああ・・・助かったよ、ありがとうな。それでな、あの後に佐河さんが亡くなった・・いや、自殺らしい・・・ああ、そう・・・それでな刑事さんここに来ていて少し話を聞きたいらしいんだ・・・ああ、すまないが代わるぞ・・・」
うん、実に話が早い。渡部は板前が差し出したスマホを手にした。
「お忙しい時分に申し訳ないですが、私は隅田川署の渡部と申します。桐さん・・・でしたね」
「ええそうです。佐河さんが自殺!?」
「はい、それでですね昨晩は松さんと一緒にいたんですよね?」
「はい、明け方まで」
「それで松さんが帰る時にタクシーを呼んだと?」
「はい、アプリで呼びました」
「その、アプリで呼んだタクシーのナンバーを教えていただきたいのですけど・・」
全く便利な世の中になったもんだ。いちいち調べなくてもタクシーを呼んだら全てスマホに記録されているんだからな。
渡部は板前が呼んだというタクシーの通話記録と、桐と言う女性が呼んだタクシーのナンバーをメモし、
さらに確認のために酒屋の二人と板前の三人に話を聞き、それぞれの間で矛盾がないことを確かめるとこれ以上ないほどに深く頭を下げて車へと戻った。

渡部は一課課長に電話をかける。自殺でしたが念のために神楽坂に行き聞き込みをしてくると告げた。
課長は、本当に必要なのか?神楽坂まで行くつもりか?どれだけ時間がかかるんだ?あれこれ文句を言ってきた。
まったく・・点数にもならなそうな仕事を投げてよこすクセに文句だけはきっちりつけてくるんだ。

普通は刑事と言う物は二人一組で行動する。
しかしクラウンに乗りハンドルを前にする渡部の隣に座るものはいない。
孤独な老人の自殺ならば刑事課が、あのポンコツどもが対応する。しかし今回は自殺したのが元武闘派ヤクザの組長だったわけだが、ヤクザへの対応ならば本来、組織犯罪対策課の仕事だ。
しかしだ、自殺した老人がヤクザの組長であってもそれが数十年前の話となれば一課のノンキャリロートル刑事の出番となるわけだ。
渡部は一人、神楽坂へとクラウンを走らせ桐と言う女将がいるであろう店の前を通り過ぎた。「のどか。ね」渡部は独り言ちて車をUターンさせ店が見える位置に止めた。運転席のシートを倒し遅めの昼寝としゃれこんだ。
交番勤務の方が気楽だったな。それが渡部の率直な感想だ。
キャリアや準キャリアの連中は交番勤務など警察機構での出世の一歩目にすぎない。いわばただの入り口だ。警部補、警部、警視に警視正とドンドン出世していく。交番勤務に就くのは警部補まで。そしてそれはほぼノンキャリの警部補だ。キャリアは準キャリは出世街道の入り口として形ばかりと交番勤務に就くだけだ。数十年交番勤務を続けてきた渡部の事をドンドン追い抜いて所轄署や警視庁へと進んで行く。
そうなれば交番勤務の渡部と顔を合わせることは二度とない。今思えばその方が気楽だった。
警部補となり隅田川署の捜査一課へと来てみたはいいものの、周りはキャリアに準キャリだらけだ。そしてそいつらの胸に付く縦線はドンドン増えていく。渡部は隅田川署の捜査一課でそれをいつまでも見続けて行かなくてはならない。交番勤務だったらそういった奴らが目の前からいなくなるだけで、増える縦線を見させられることもなかった。ま、給料は上がったがな・・・。
渡部はいつの間にか眠りについていた。

コンコン。
車の窓がノックされた音で渡部は目を覚ました。
二人の制服警官が車を覗き込んでいた。渡部は倒したシートを元に戻し鍵を回し窓を下げた。
「何か用か?」
「ああ、苦情の電話が来たんでね。ここで何してるの」
30そこそこの警官とこれぞ新米と言った感じの若い警官だった。20半ばといったところの新米警官は睨む様な視線を渡部に向けていた。
「仕事だ、ほっとけ」
「寝るのが仕事かジイサン」新米警官がふざけたことを言ったが新米の指導教官であるはずの30そこそこの警官はそれを咎めもしなかった。
「そうだ」渡部は窓を上げようとしたが30そこそこの警官は乱暴に窓に手を掛け「閉めるな」と言う。
渡部は舌打ちして再び窓開けた。こいつらはノンキャリ警官だ。警察官の制服を着ることに楽しみを持つ連中だ。おおかた、俺の事を営業の傍ら昼寝をしているドンくさいダメサラリーマンとでも思っているのだろう。
ノンキャリとそれ以外の制服警察官の区別は簡単につく。
キャリアや準キャリにとって交番勤務などほんの一時の腰掛でしかないし、なにより頭が良い。だから何者かも分からない相手にこんな横柄な態度を取ることは無い。勝手知ったる警察機構内部での話になれば別だが。あいつらはそこら中に貼ってある指名手配犯の顔や名前は覚えないが、誰がキャリアなのかはキチンと把握しているし、準キャリ同士の階級はもちろんそれを得た時期、そしてそれぞれの出身大学まで全て頭に入ってる。一生交番勤務のノンキャリとそれ以外では見ている方向が違うのだ。

ノンキャリの交番勤務にとってはドンくさそうなサラリーマンは憂さ晴らしをするには丁度良い獲物だし、酒の匂いでもさせていれば極上の獲物だ。ノンキャリの交番勤務が日々交通違反に目を光らせたり職務質問をするのは市民の安全のためではない。ハッキリと言えば金のためだ。手柄を上げれば金になり、サボれば金が手に入らないどころか査定に響くし時にはつまらない説教を食らうからだ。だから制服警官は交差点の陰に隠れ(一時停止するな)(スマホゲームに夢中になっていろ)と願い、時に職務質問と言って人の時間を奪い取るのだ。ごくまれに田中のような変わり者もいるにはいるが。
テレビ「警察24時!」なんて番組をよくやっているようだがあんなのは嘘っぱちだ。何か怪しいと思って止めてみたら薬物が出てきたなんてそんな旨い話があってたまるか。薬物所持なんて特別ボーナスも良い所だ。
怪しいと思ったのがそんな簡単に結果に繋がるほど日本に犯罪者はいない。怪しいな?と思って止めても99%は何もない。ただの一般市民だ、ガラは悪いかもしれないがな。1%の違いを見抜けるものはいない。だが警邏中に1%にかけて職務質問をするのは一発逆転を狙えるからだ。交差点に隠れて停止線を越えて横断歩道を踏んだからと言って呼び止めて切る切符の数十枚分の価値があるかもしれないからだ。
家の前に迷惑な車が止まっていると通報してもそう簡単には警察が来ることはないが「酒を飲んでいるようだ」と一言足せばすぐにパトカーが三台は来るだろう。
職務質問を受けてみたいのなら旧型のノートかアクアあたりのコンパクトカーの左後部を蹴ってへこまして目立つところに枯葉マーク(正確には高齢運転者標識だな)を張って都内を走っていればすぐに警邏中の白黒パトカーに声をかけてもらえるだろう。車内に薬物などなくとも百均ショップで買ったカッターナイフでも置いておけばノルマに脅える警察官が執拗に食らいついてくれるだろう。「バールのような物」ならさらに確実だ。
だがこの二人の警官は面倒な通報で仕方なく駆け付けただけだ。ノルマもこなせないのならせめてドンくさいサラリーマンを相手に憂さ晴らしをと言うところだろう。
「免許証だして」と30そこそこの警官がぶっきらぼうに言う。
渡部は免許証の代わりに警察手帳を取り出し「張り込みだ。邪魔をするな」と告げる。
「あ、すいません!」二人の制服警官は足早に立ち去った。
車を見れば分かりそうなもんだが、ノンキャリの交番勤務の制服警官にそこまで求めるのは酷ってことなのかもしれないな。
渡部はため息をつき、また昼寝に付いた。

陽が落ちる頃に目覚めた渡部は、今日は一杯行くかと思いながら車を走らせ署に戻った。面倒な書類を書き終え課長へ報告を済ませた。
佐河のヤツが死んだ。ポンコツ刑事の相手をした。口の利き方すら知らないノンキャリの相手もした。実に面倒な一日だった。
ワインバー風神へ行くかと思い、席を予約するべくスマホを取り出すと田中からメールが来ていた。
「今日、時間取れますか?いつものところで」
渡部は舌打ちしながら返事を打った。
「b」と。

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