第三十話 パーティー
念のため和さんに連絡をしたが足りない物は特にないとのことだった。
そう、和さんは大事な結婚パーティーの直前になってから「すまん!アレが足りないんだ!」なんてことを言う人じゃないからな。あんなに小さくて貧乏外人どもを相手にしているような店なのに和さんは本当にしっかりしているし、抜けてるところなんて一つもないしいつも正しいし、なによりメシが美味い。
夕方になり陽が落ちて外が暗くなる頃にオレたちは和さんの店へと向かった。岸のヤツが何か大事そうに何か包みを抱えていたがオレたちはタクシーで向かった。
今日は倉庫を使うからバイクで来るのは控えてくれって言われていたしな。
吾妻橋の袂でタクシーから降りたオレと岸はタバコを吸いながら和さんの店へと歩いた。
「倉庫を使うって何だろうな?」オレが聞くと岸がとんでもないことを言った。
「サキさんのお色直しとか?」
「マジかよ!!!」思わず大きな声が出ちまう。
岸はうるせえなぁとばかりに顔をそむけた。
「いや、知らないけどな」
「そうだったうれっしいなあ!サキタンはウェディングドレスとか着るのかな?」
「着ないだろ、どこから持ってくるんだ」
「それもそうかあ」
「それか、誰かが何か出し物でも披露するとか?」
それは、あまり楽しみではないな・・。
おそらく和さんの店でこれから行われるのは結婚パーティーって言うよりお披露目パーティーと言うか、日本で言う披露宴の後の二次会的な物だろうな。
それでも久しぶりにサキタンが見れるのは楽しみだな。その隣に立つのは誰なんだって言うのは気になるけどな、まあそれも楽しみってことにしておくか。
和さんお店へと続く細道の前にはプラスティック製の三角コーンが建てられその間には黄色と黒の虎縞模様のバーがかけてあり、傍らに【私有地につき立ち入り厳禁】と書かれた張り紙がしてあった。
二人は店に続く細道の前で秘密の灰皿で煙草を消すとそれを乗り越え和さんの店へと歩を進めた。
そこはいつもの彩とは少し違っていた。
いるのはいつも通りの貧乏外人たちだったし、もちろんスーツなんて着ている奴はいなかったが、道路にはいつもよりまともなテーブルと椅子が置かれていた。キャンプ用に使うような簡素な奴だがビールケースよりは遥かにまともな家具だった。
オレと岸はまず和さんに挨拶をした。和さんは調理に忙しそうでオレたち二人に「今日は悪いんだがそっちで頼むな」と言って道路に顎を向けた。
勿論だ。今日の彩のカウンターは新郎新婦の為に和さんがスペシャルメニューを提供する特等席になるんだろう。新婦はもちろんサキタンだがその隣に座るのは誰なんだよ!誰にも座って欲しくはないのが半分、早く教えてくれってのがもう半分ってところだな。
ポールがオレ達に椅子を勧めたが遠慮して店とは逆側の壁に背を付けて立った。
カウンターには道路に向けたデカいディスプレイが置かれ、店の入り口とでも言えばいいのか、その両脇にはそこそこ大きめのスピーカーが設置されていた。いや、一つはギターアンプのようでその上にギターが二つ置かれていた。
コンサートでもやるつもりか?なんか楽しくなってきたぜ。
店にいたメンツはだいたいいつものメンツだ。インディアンのアパッチにフランス人のポール、サンバとアマゾンのラティーナコンビ。タイ人のバーツにインド人のシャカ、飲んだくれのロシア人コンビ、ナイキとアディダスのコンビは・・いや、アディダスとプーマだったか?まあどうでもいいか。二人はいつものようにビールケースの前でスラブスクワットだ。アレが一番落ち着くんだろうな。
アイルランド人のレッドもいるし、アメリカ人のスミスにイギリス人のギャレスもいた。ひときわ大きい身長2メートルのオランダ人はタイマだ。
サキタンと同じスウェーデン人のマイクネンもいた。あいつが隣に立つ男か?あいつがサキタンの隣に立つ男って言うなら仕方がない。サキタンと同じスウェーデン人だしニケの横に何を添えるかって言ったらそりゃあダビデ像だろうからな。悔しいがあの男は今ここにいる男たちの中で最もダビデ像に近い。しかもここに来る客の中で最も、と言うより唯一って言ったほうがいいか、とにかくリッチな男だ。貴族の出だか何だかでオレと大差ない年齢に見えるがサーブの重役らしくて貧乏バックパッカーとは真逆の男だ。だがアイツはそんな素振りは一切見せなかった。高そうなスーツを着てくることもなく、偉そうにふるまうわけでもない。貧乏バックパッカーの中に実に上手く溶け込んでいた。まあオレは直ぐに感づいたけどな(こいつ、なんか違うな)ってさ。よく見ていればすぐにわかる。こういうリッチな男が色あせたジーンズに着古したレザージャケットを着てそろそろ買い替えろよってくらいのスニーカーを履いていたってすぐにわかる。それはヒゲだ。アイツは顎髭と口ひげをうっすらと貯えてはいるがいつ来てもそのヒゲは綺麗に整えられている。貧乏バックパッカーの無精ひげとは全く違うんだ。でもおそらくオレ以外は気が付いてはいなかっただろう。リッチを鼻にかけて彩の木箱に札束をぶち込むようなことも無かったようだしな。
だがアイツの素性もついにバレる時が来た。自ら墓穴を掘った感じだったが。ある日、アイツはどうしてもと言って一人の女をつれて来た。故郷の友人だという背の高い金髪美女で、折り目の付いたままのジーンズにシャツ、全く汚れのないワークブーツを履いていた。今さっき買いそろえてきましたって感じのな。妙な女をつれて来たなって言うのはその場の全員が感じ取っていた。女はそこで、みんなが椅子に、時にはテーブルに使っていたビールケースを見て「それはゴミだ」と言い放った。カウンターに座ろうとするがアイツは必死に止めた。和さんは少しばかり何かを察して「ここでいいぞ」と言ってやったがアイツは必死に女を道路に留めビールを注ぎ女に渡した。女はビールを口にしその間は口を利かなかったがその代わりに見下すような視線を振りまき始めた。
貧乏バックパッカーっての言うのはこういう視線に敏感だ。反応はしないが鋭く察知はする。それは様々な文化の元を渡り歩いていく中で危険を察知するためにも必須な能力だからだ。女の視線で途端に彩の空気が澱んでいく。和さんの元から大皿に乗った料理が出てきてそれをみんなが取り分け始めると女のあからさまに嫌悪を示し顔をゆがめて言った「犬みたいね」
それはスウェーデン語だったようだがノルウェー人のトロールにはその意味が分かったらしい。トロールは身長2メートルを超すまさに妖精トロールの様な大男だがいつも控えめな様子でおとなしくサマーズビーとか飲んでいる奴だ(こいつのおかげでエビス屋はわざわざノルウェー産のシードルを手配する羽目になっている)そんな奴がいきなり顔をゆがめて立ち上がったもんで周りの奴はビックリしていた。もちろんアイツと女はその意味が分かってはいただろう。しかし女は巨漢の男に睨まれても少しも悪びれる風もなく平然としていた。おそらくそれはアイツに守ってもらえるなんてことじゃなく、自分はなにも間違っていないって言う金持ち欧米人にありがちな態度だったんだろう。だがアイツは慌てて女を引きずるように店から立ち去った。みんながトロールにあの女はなんて言ったんだ?って聞いてもトロールはそれを口にはせずにまた静かに自分専用のシードルを飲んでいた。一時間後くらいだっただろうか、アイツが一人で戻ってきた。そして女がなんて言ったのかを伝え、そして皆に深く謝罪した。だけど、犬っころ呼ばわりされても怒る奴は誰一人いなかった。そして皆こう言った。
「あんな女は止めておけ」と。
そう、その場にいたみんなはまだだれ一人アイツがスウェーデンの3分の1を手にする財閥の一人だなんて思ってもいなかったからだ。貧乏バックパッカーが奇跡的にセレブ女を連れ歩く機会に恵まれて知る人ぞ知る日本の隠れ家的名店に招待して上手い事モノにしようと企んでいたんだろうと思ったからだ。
怒りをぶつけられるどころかそう慰められてはアイツも本当の事を言わざるをなかったんだろう。
まあ、そんなことがあった。アイツはセレブ中のセレブだったが、実にいい男だった。だからまだ彩に来れるし、今もここにいる。
ベトコンのヤツもいた。スーツを着ているのはこいつだけだった。どこから借りてきたのかは知らないが筋肉が張りすぎていていかにもハリウッド映画に出てくるCIAか何かの戦闘工作員って感じだった。無理してそんなもん着てくるなよ。
しかし肝心のサキタンの姿がない。まだ来ていないのか?主役なのに。
そう思っていると細道から一人またやってきた。
田中さんだった。遠慮がちに入ってきた田中さんは道路にいた数人から怪訝そうな視線を向けられたがオレたちが手をあげて田中さんを呼ぶと周りの怪訝な視線は消えて、田中さんは安心したようにまず和さんに会釈をし、それを返されてからオレたちのところにやってきた。
「お疲れさま!」オレが言うと田中さんは「どうも」と会釈を返しオレたちの隣に立った。分かっている、田中さんはこんな状況で間違ってもカウンターに座りたいとか、椅子は無いのかって言う人じゃあない。
「ビールでいいっすよね?」オレが聞くと田中さんは遠慮がちに「いいんですか?乾杯とかは?」と言ったが周りは既に飲み始めている。
オレがカウンターのサーバーから三つのジョッキにビールを注いで岸と田中さんに渡しオレたち三人だけで小さく乾杯をした。
田中さんが「あの、主役は?」と言いながら周囲を見渡しラティーナコンビに目を止めた。
「いや、あれは違いますよ」と岸が言いオレが「アレはレズだし」と足すと田中さんはちょっとだけ咎めるような目をオレにぶつけた。
いや違うぜ?オレは確かにレズは大嫌いだが別に差別しているわけじゃあないぜ。ただな、もしサキタンがレズだったらオレは絶対に隣には立てないってことになるだろ?だからレズは大嫌いだ。
いやまあ、サキタンの隣に立ちたいって言っているわけじゃなくてな、その可能性って言うか・・なんて言えばいいか・・・。
オレはとりあえず田中さんに謝った。
「スイマセン」
「しかしそうなると、主役はまだ来ていないんですかね?」
「うーん・・・ギャレス!サキタンは?」と聞くとイギリス人のギャレスは彩の奥の倉庫のドアを指さした。
マジかよ、マジでウェディングドレスで登場するのか!?
「相手は誰なんだよ」と聞くとギャレスは両手を拡げて上に向けるだけだった。
それは誰に聞いても同じだった。サキタンの相手が誰なのか誰も教えてはくれなかった。
あのドアの奥にサキタンがいて、それでサキタンと一緒に出てくるわけだろ?ならそれを見ていたわけだろ?なんで隠すんだよ。
腑に落ちないままコンクリートの壁を背にして三人でビールを飲んでいるとついにドアが開いた。
思わず道路にいた全員の目がドアに集中した。
しかし出てきたのは割烹着を着た日本人の女性だった。
それがまたなんていうか、年齢は四十を超えていそうだが美人だった。
細身の体につるんとした額で篠原ともえみたいな美人だった。マジで神楽坂でほっそいグラスに一口で飲み干せそうなビールを注いで1200円も取りそうな店【彩】の美人女将と言った感じだった。
その美人女将が和さんに声をかけると和さんは調理の手を止め手を洗い身なりを改めるかのように美人女将に背中を見せ、美人女将が大丈夫と言うかのようにその肩を叩くと二人はそろってまたドアの向こうに消えた。
全員がドアを見守っている。レズコンビもだ。
ドアが開いた。全員の顔が数センチドアに近づいた。
まず和さんが出てきた。和さんは後ろ手に手を繋いで誰かを連れている。だが和さんのデカい身体で全く見えない。店の入り口まで来た時に和さんが脇に避けた。
そこにいたのはやっぱりサキタンだった!そして振袖を着ていた!
道路から歓声が上がった。オレもあげたし岸もあげていた。
田中さんが手を叩くと途端に全員が手を叩き始めた。拍手じゃあなかった。この感動を音で示さんとするばかりに文字通りに手を叩いていた。
振袖は最近の成人式ではやっているような派手な色彩の乗った物ではなく、深い赤色を基調として控えめに緑色の水仙が描かれているだけだった。だがオレの心臓をがっつりと握りしめたのはサキタンの履いた高めのヒールの編み上げのブーツだった。サキタンのスタイルが日本人のそれとは大きく違っていたから、分かりやすく言えば足が長かったから振袖の丈が上手く合わなかったんだろう。おそらくこの振袖を用意したのはあの美人女将で、美味いことブーツを合わせたのも同じなんだろう。なんてセンスがいいんだ・・。
そう、イメージは「大正ロマン」そのままだった。サキタンは少し恥ずかしそうというか、照れている感じでそれがまたたまらなく可愛い!一言で言えば「天女」だよ。西洋風に言えばエンジェルだ。
田中さんまで「はぁ・・・」とため息をついていたほどだ。
だが隣には誰もいない。サキタンの後ろにいるのは美人女将だった。
まさか和さんが隣に立つ男ってわけないよな?ないよな!?
この場にいた全員がオレと同じ疑問を持っただろうその時にサキタンが道路に向かって右手を伸ばした。
何事かとその場の全員が周りを見回し始めた。まさか、この中に隣に立つヤツが紛れ込んでいるかってな。
オレはとっさにマイクネンを見た。だがこいつもみんなと同じように周囲に首を回していた。こいつじゃないのか・・となるとダビデは誰だ?
皆が困惑していると一人の男が立ち上がりサキタンの元へと歩み始めた。
そいつは、ベトコンだった。ベトナム人のグウェンティキム。
いや違うぞお前、勘違いしてんなよ。
彼女は「誰かこの手を取って」って言ったわけじゃないんだよ。それぐらいのことも分からないのか?おい、止めろよベトコンそれ以上進むな。マジで止めろ。
だがオレの願いもむなしくベトコンはサキタンの目の前まで進み、伸ばした彼女の手を取り口づけしてからサキタンの横に立った。
道路からは悲鳴と怒号が飛ぶ。
サキタンは苦笑いをしていたがベトコンのヤツは実に不満げな様子だった。
でもそれもしょうがないだろ?誰もがニケ像の隣にはダビデ像が並ぶと思っていたのに隣に来たのはピカソのゲルニカだったんだ。
二人が、と言うよりサキタンがその可愛さを十分に披露したところで二人は今日の為に特別に用意された特等席へと座った。
和さんがキッチンへとはまり込むと再び調理を開始した。
美人女将が新郎新婦の前に湯気の立つ湯呑を二つ置いた。
和さんの仕事はほぼ終わっていたのだろう。すぐに盛り付け大皿に乗った料理がいくつも出てきて、それを美人女将が道路まで運んできた。とっさに手伝おうと数人が立ち上がったが今日はお客さんだと美人女将は制止した。
だが当然オレたちエビス屋の二人がカウンターに寄る。やはり美人女将は座っていてと言ったがエビス屋として立場上そうもいかない。これには和さんも同意したので三人で料理を運んだ。
その途中で美人女将がオレたちに目を向け「エビス屋さん?」と声をかけてきた。
「え、ええ」岸が辛うじて返すと美人女将は「いつもどうもね。あなたが岸くんでいいのかしら?向こうが直樹ちゃんね?」と微笑んで給仕を続けた。微かに京都っぽい訛りがあるようだった。
彼女は、そうか。今日はこんな日だから和さんが特別に雇ったウェイトレスなんだろう。しかし和さんもこんな美人をよく見つけて来たもんだな。結婚パーティーに花を添えるなんてもんじゃないぜ、嫉妬されてもおかしくはないくらいだ。
一品目の料理は硬焼きそばだった。数枚の皿に大きく盛られた揚げたての麺と、鍋から湯気を立てる醤油味の餡掛け。みんな自分の食いたい分を遠慮なくよそっていく。あとの者のことなど考えない、好きなだけ取っていく。それが彩でのルールだからだ。
和さんがオレを呼んだ。オレは呼ばれるままにカウンターに行き和さんに言われるままに大きな寸胴を道路へと運んだ。
美人女将は「お客さんよ?」と和さんに苦言を呈しながら椀を手にオレの後に続いた。寸胴の中身は具沢山のつみれ汁だった。美人女将がみんなに温かいつみれ汁を皆にふるまい始めると岸のヤツがすかさず七味を持ってきた。田中さんも動こうとしたがオレが目線で制し(どうですか?)と目を向けると(いただきます!)と目線を返してきた。
後藤がふとカウンターに座る二人に目を向けると今日のために特別に用意されたメニューを吟味するように見ていた。
寿司だ!思わず心の中でガッツポーズを決める。
卵巻きが食えるぜ!和さんの卵巻きだ。あの二人が満足し終えた時に残っていた寿司ネタはみんなにふるまわれるだろう。しかし卵巻きだけは別だ。オレの物だ。和さんの卵巻き!彩で一番のスペシャルメニューだ!
田中は思わずカウンターに座る二人に見とれた。新郎新婦の彼らだけに振るまわれるのであろう食事は何だろうか?それがとても気になった。
あの松という板前は何を出すのだろうか?
それは直ぐに分かった。松が二人を前にポンっと手を叩いたからだ。寿司だ。アレは寿司を握る板前の所作だ。
田中にとって寿司と言えばカウンターに座り目の前の板前にガラスケースの中に並べられたネタを見て頼むものだった。
「エビ」と言えば板前がガラスケースから蒸しエビを手にし、シャリを手にさっと握り自分の前に置いてくれるものだった。田中は40を半ばも過ぎてこの年になってもまだまだ回転寿司と言う店には行ったことが無かった。
田中にとって寿司とは勝手知ったる馴染みの寿司屋で自分の好みまで知り尽くしている板前がまさに板の前で握ってくれるものだった。寿司と言う物は当然素手で作るものだ。赤の他人が素手で触った物など中々口には出来ない。そういった物を口にするには、そこに信頼と言うアクセントが必須だ。
田中にとってそう言った食べ物は母が作ってくれたオニギリか、行きつけの寿司屋の板前が握る寿司くらいの物だ。だから田中は江東区の団地に移り住んで以来、寿司を口にすることは無くなった。
そういえばあの板前は大トロだけは滅多に握ってくれなかった。田中が「コレ・・・」と指さしても「子供の食べる値段じゃねえ」と叱られたものだ。
だから母が、今日はこの子の誕生日なんでお願いしますと懇願した時だけ最高級のカマトロを握ってもらい食べた覚えがある。
あの握り寿司の味は今でも覚えている。いつまでも噛んでいた。醤油を舐めたかったのだがそれはさすがに怒られるのは分かっていたので箸を醤油皿に浸けてちょっとづつ醤油を舐めてカマトロの旨味をいつまでも意地汚く味わっていたものだ。
板前が軽く笑って言った「そんなにいつまでも噛んでちゃ次を握れないぞ」
そこには、幼い田中と板前の間には、間違いなく信頼が横たわっていた。
新婦が何か頼んだようだ。松は小さく頷きシャリ桶に手を伸ばしサッと二貫の握りを作りその前に置いた。新郎新婦がそれに感嘆したように一貫ずつ手にし口にした。
「あの大将は、寿司も握れるんですか?」思わず声に出して聞いた。
「和さん?握れるってもんじゃないですよ」後藤が答えた。
「聞いた話じゃ和さんは若い頃に銀座で店を構えていたらしいです」岸が付け足した。
「銀座で!?」
「噂ですけど」そう言って後藤が湯気の立つつみれ汁の入った椀を差しだしてきた。
田中は軽く頭を下げて礼を示し椀を受け取った。
「七味は?」岸が聞いてきた。
頷きで答えると岸が田中の持つ椀に七味を振ってくれる。
「それくらいで」田中が言うと岸は七味を振りかけるのを止め自分と後藤の椀にも同じように七味を振りかけ終えるとそれを別の外人へと手渡した。割烹着の女将が割りばしをくれた。
寒空の下で三人は湯気の立つ椀を啜り始めた。
やはり美味い!軽く生姜が効いているつみれは鰯だろう、他の具も実に多い。イチョウに切ったニンジンに大根。ゴボウ、レンコンにシメジも入っている。普通にこの鰯のつみれ汁を食うのなら七味は不要だが、この寒空の下ではこの椀を更に美味くしてくれる。実に美味い。
田中は熱々のつみれ汁を啜りながら主役の二人が寿司を頬張る姿を見ていた。
確かに松の手際は素晴らしかった。右手にシャリを取り左手にネタを持つ。ネタにワサビを少しばかり乗せてシャリと合わせる。流れるように寿司の六面を押さえると二人の前に置かれた下駄の上に乗せる。二人は一貫ずつ手にし仲良く口へと運んでいる。実に美味そうに食べていた。
あの松という板前が出す料理は実に素晴らしく、心配りまでもが完璧だ。あの男がかつて銀座と言う一等地で店を構えていたというのならまず納得できる話だ。
しかし、今のこの店はどうだ?こう言っては失礼なのだろうが、あの腕前とこの店が釣り合うとは到底思えない。それが田中の正直な感想だ。おそらく何かしらの信念をもって、稼ぐためではなくこの店を営んでいるのだろう。
そこに二人の新たな客が細道を通り姿を現した。
それが招かれざる客だというのは既に田中には理解できていた。
二人の老人が姿を現すと途端に店は静かになった。招かれざる二人の客、それは佐川と砂場の二人の老人だった。砂場はまだ遠慮がちな様子だったが、佐川は何を気にするでもなく歩いてきた。
松がすぐに声をかけた。
「佐川さん、今日は遠慮してくださいって・・」
佐川がそれを遮る。
「気にすんなよ。おお?寿司か、俺にも頼むぜ」
佐川は周りの怪訝そうな視線を気にするでもなくカウンターに付こうとし、砂場は一応周りを気にする素振りを見せるが佐川の後に続いた。
カウンターで寿司を堪能していた新郎新婦が二人を避けるように席を立った。
佐川はカウンターに座った。
「なんだよ気にすんなよ座ってていいぜ外人の姉ちゃん、ここに座って酌しろよ」
隣の椅子を叩いて佐川が言う。
「佐川さん、今日は帰ってください」松が言う。
「ああ?いいから早くしろよ。なんだ砂?早く座れよ」
「いや、でも・・」砂場はさすがに空気を感じ取ったようでカウンターの椅子には座らなかった。
「おい、酌しろって言ってるんだよ!座れよ」佐川がサキタンの腕をつかんだ。
グェンのヤツが思わず前に出ようとしたのをオレが止めた。岸のヤツがサキタンと佐川の間に入った。
「ああ?男はお呼びじゃねえんだよ!女、こっちこい!」佐川はそう言って岸の胸を突きサキタンの胸を掴んだ。
サキタンが小さな叫び声をあげた。
オレは佐川に襲いかかろうとするグェンを押さえ、岸は佐川の腕を叩きサキタンを守る様に後ろに下がらせた。
佐川はチッと舌打ちした。
もうこの場の誰も口を開かない。
「まあいいぜ、松ぅ、早く寿司握れよ」
「佐川さん、彼女に謝って今日は帰ってください」
和さんが繰り返したが、この場にいる全員は今、和さんがどう出るかを見極めようとしている。和さんの対応次第では明日から、いや、今日この場から外人客は一人も来なくなるだろう。
「松!!お前随分エラそうな口を利くようになったなオイ!こんなチンケな店でもオレの城だってか?中学も出たての糞餓鬼だったお前に飯と宿の面倒を見てやったのは誰だ?言ってみろよ!」
「佐川さんです」
「なら黙って寿司握れよ?俺は腹ぁへってんだよ、早くしろよ」
異様な空気に田中さんも近寄ってきた。
「あの年寄り、ここの大家なんですよ」田中さんならこれでこの面倒な状況を理解してくれるだろう。
しかもどうやらあの年寄りはここの大家と言うだけではなくどうやら和さんの恩人でもあるらしい。
クソジジイが!サキタンの胸を触りやがった!ここでグェンの代わりにオレがこのジジイの細い首根っこを掴んで店から叩き出すのは簡単だ。だがそれをしたら店子である和さんの立場ってもんが失われる可能性がある。だが、和さんがこの場を上手く納めなくては外人連中の和さんに対する評価ってもんも失われる。
頼むよ和さん、あんまり情けない姿はさらさないでくれよ。
そう思ってもオレにできることはグェンのヤツを押さえておくことくらいだけどな。少なくともグェンの怒りの矛先がオレに向く前に何とかしてくれ。
「佐川さん、彼女に謝って帰ってください」和さんはまた繰り返した。
駄目だよそれは、和さんを見るみんなの目がどんどん澱んでいく。
「松ぅ!!てめえいい加減にしろよ!龍二と勝二を呼んでやろうか?あの二人の前でもそんなエラそうな口が利けるのか!?」佐川がカウンターを叩き激高した。
「いや、それは・・」
「ほらぁビビりやがって。エラそうな口も大概にしろや!さっさと寿司を握りやがれ!」
駄目だ。ここで和さんがあのジジイに寿司なんか出したら明日から彩に客は来なくなるだろう。オレが力づくであのジジイを叩き出すのが今は最善の策だ。オレが勝手にやったことなら和さんも大家に何かしらの言い訳が出来るだろう。だがオレが一歩前に進もうとすると田中さんがそれを止めた。
何事かと思いオレが振り向くと田中さんは大丈夫とでも言いたげに小さく頷いた。
田中は当然、佐川と言う男について調べていた。記録は古くパソコンで調べられるようなデータベースにはなかったが、書類には残っていた。現住所はこのビルの五階だった。名前を一文字変えていたようで現在の名前は佐川九兵衛という名だが、かつて佐河組の組長で当時の名前は佐河九兵衛となっていた。
佐河組。それはバブルの頃に急増したヤクザの一つだった。バブルと言う狂気ともいえる経済発展は多くのヤクザを産みだし、新たな形態のヤクザを産み出した。所謂、法に精通した経済ヤクザだ。だが佐河組は力を生業とするタイプのヤクザ、武闘派と呼ばれるタイプだった。佐河組は10人ほどの小規模な武闘派ヤクザだったがバブルと言う狂乱時代には十分需要のあるヤクザだった。まっとうな企業がヤクザの暴力を欲していた時代だったからだ。
その佐河組で最も恐れられた組員が二郎兄弟と呼ばれる二人のヤクザ、勝二と龍二だった。この二人は今ではまっとうな企業を経営する社長となっているが、傷害や殺人未遂で服役した過去を持ち、未だに警視庁から要注意人物としてマークが外れていない人物だ。殺人罪でこそ服役はしてはいないが死体が見つかっていないだけだろう。
もしその二人が松を脅し恐喝するようなことがあればすぐにその身柄を拘束されるだろう。それに、あの佐川と言う老人はこのビルのオーナーではない。つまり大家ではないことも分かっている。
佐河組の様な武闘派ヤクザはバブルでこの世の春を謳歌したのだろうがバブルの終焉と共にその存在価値も失われ、多くの暴力一辺倒の武闘派ヤクザと同じように佐河組もほどなく解散していた。
この佐川と言う男はそんな時代の流れ、企業がヤクザを必要としなくなった時代に乗れなかったヤクザ、時代に取り残され生きる術を失った武闘派ヤクザの典型のような男なのだろう。
そして松は佐河組の構成員ではなかった。
「佐川さん、今日は帰ってください」松は繰り返し言った。もちろん佐川に寿司を握ることもなかった。
「おおう?分かったよ、じゃあ二郎二人を呼んでやるからな?いいんだな?」
そこへ倉庫で何やら準備をしていた美人女将が姿を現した。
「あら?佐川さん」美人女将は佐川を見て声をかけたが歓迎するようなそぶりは見せなかった。
「おお!桐じゃねえか、まだこいつと付き合ってんのか?石女」
松が反射的に和帽子を投げ、むしり取る様に前掛けを外しカウンターから出てこようとした。
「和くん、いいのよ」桐と呼ばれた美人女将は言ってカウンターを出ようとする松の前に立ちはだかった。
「よくねえ!!」松が桐の肩に手を掛け脇に退かせようとする。しかし桐も避けようとしなかった。
そこへさらに砂場が立ちはだかる。
「松さん、すいません!おやっさん、帰りましょうよ」
しかし佐川は不敵な笑みを浮かべたまま椅子から立とうとはしなかった。
「おお?ずいぶん威勢がいいな松。マジで二郎の二人を呼んでやろうか?ああ!?」
松は桐と砂場の二人に遮られそれ以上進むことはなかったが怒りは収まっていないようだった。
「佐川さん、勝二さんと龍二さんを呼んだらもうここにはいられなくなりますよ」
「ははっ!脅してるつもりか松?二人を呼んだらオレを追い出すってか?オレを追い出す前にあの二人はお前をどうするだろうな?それにオレを追い出してこんなところに誰が住むって言うんだ?俺以外誰も住んでいないじゃねえか」
松は自分を落ち着かせるかのように下を向き、ゆっくりと息を吐いてから静かに言った。
「あなたを追い出すのは、あの二人ですよ佐川さん」
「なんであの二人がオレを追い出すんだよ、バカか」
「あなたをここに住まわせているのがあの二人だからですよ」
「ああ?」二人の話がかみ合っていないようだった。話が読めない佐川は少し不安そうな表情を松に向けた。
「何十年前になるんですかね。俺はあの時、何も考えずに東京に着て明日食う飯も今日寝るところさえなかった。そんな時、佐川さん、俺に声をかけてくれて面倒見てくれましたよね」
「ああ、鉄砲玉くらいにはなりそうだったからな」
「でしょうね。でも俺は感謝してました。龍二さんと勝二さんは俺の仕事も見つけてくれて俺はこうして板前になれましたよ。本当に感謝しています」
「ならあ、さっさと寿司を握れや!」佐川は感謝と言う言葉を掛けられ不安が消えたようだ。
「でも、もうあなたに恩義は感じていませんし、あの二人を恐れているわけでもありませんよ」
「この世界じゃ一宿一飯の恩義ってもんは軽くないぜ松」佐川は鼻で笑った。
「俺は極道じゃありません。あなたの組に足を付けたこともない、ただの板前です。それに組をバラす時にあなたたちが俺に押し付けた借金でもう恩義も感じていません、それはあの二人に対しても同じです。あなたたちは全部を俺に押しつけて逃げ出したでしょう。俺はあなたたちに何の恩義も感じていませんし、義理もありません」
「その借金を返せたのも俺らがお前を板前にしてやったからだろうが」
「右も左も分からない小僧を料亭に下働きと紹介するだけであの借金を押し付けたと?」
「たかが8千万じゃねえか!石女!こいつを黙らせろや!!」佐川が桐に向かって怒鳴ると桐は顔を伏せて倉庫の奥へと消えた。おそらく泣いていた。松は顔を真っ赤にして砂場を軽々と押しのけたが砂場はそれでも必死に佐川と松の間に立った。
みすぼらしい老人が必死に止めようとする姿を見て松は少し冷静さを取り戻したようだった。
「佐川さん。あなたがここに住んでいられるのは私があなたに恩義を感じているからじゃないですよ。勝二さんと龍二さんがあなたの面倒を見てくれって俺に金を払っているからです。このビルの三階から五階までの賃料ですよ。それにあなたがここいらへんの飲み屋でツケだのなんだのと言って飲み食いするとみんな俺のところに集金に来ているんですよ。それもあの二人の金です。あの二人がなんでそんな金を払っているかわかりますか?」
「んなもん、子が親の面倒を見るのは当然だろうが!」
「佐川さん、組はとっくの昔に無くなっているでしょう?もう、子でもなければ親でもないでしょう」
「盃ってもんはそんな軽いもんじゃねえ!」
「そう思っているのは佐川さんあなただけですよ、あの二人はそうは思っていません。いや、もう誰もあなたを親と慕う人はいません。あの二人がいまだにあなたのために金を払っているのは、あなたに金の無心をしに来られるのを苦々しく思っているからですよ。今じゃ二人ともゼネコンとも付き合いがあるような立派な会社の社長です、いまだに入れ墨を見せつけるようにするあなたに来られたら困るから俺に金を払って押し付けているんです。今でもあなたを組長と慕うのはこの砂場さんだけですよ」
今度は佐川が顔を真っ赤にしてうつむいていた。
「砂!帰るぞ!こいつのクソマズい寿司なんか食えるか!」佐川はカウンターをこぶしを叩きやっと立ち上がった。
「二人に謝ってください」松は新郎新婦を顎で示し非情な追い討ちをかける。
佐川は松を睨みつけたが目の前に椅子を引きそこに手をつき、サキタンに頭を下げ、逃げるように砂場と去っていった。
サキタンが大丈夫よとなだめてもグェンのヤツは怒り心頭だった。そりゃあそうだろう。でも和さんが「二人ともすまない。これで勘弁してくれ」二人に深く、長く頭を下げたことでグェンもやっと怒りの矛を収めたようだ。
それを見てサキタンは少し安心したようだが倉庫へのドアをチラとみてから和さんに小声で心配そうに「桐さんは・・?」と聞いた。
「ああ・・」和さんはそれには答えず二人にカウンターに付く様に促した。
とにかく場は収まった。歓声をあげたり手を叩くものはいない。みんな自分のいるべき場所へと静かに戻って行った。オレと岸と田中さんも。
「和さんってヤクザだったのか?」オレが尋ねるも岸は当然首をひねった。
田中さんがオレたち二人の顔を見てから小さく「うん・・」と頷くと話し始めた。
「あの佐川と言う老人は元ヤクザの組長です。あの一緒にいた砂場と言う老人と、話に出てきた勝二と龍二と言う二人は二郎兄弟と呼ばれていて、佐河組の構成員でした。が、あの松さんは違うます」
オレと岸が田中さんに向けて眉をひそめると田中さんは決まりの悪そうな顔をしたが話を続けた。
「いや、私は警官ですから。その、少し調べました。佐河組と言うのはバブル期に多くいた典型的な武闘派ヤクザで、構成員は10人ほどだったようです。あの佐川と言う老人は40年ほど前に佐河組を立ち上げ武闘派ヤクザとして名をあげていったようです」
「あの貧相なジジイが武闘派ヤクザ?」オレは当然の疑問を口にし
「とてもそうは見えないですけど」と岸が合わせる。
「いや、あの佐川と言う老人はあくまで組長で、そこで最も恐れられたのが二郎兄弟と呼ばれた勝二と龍二と言う二人の組員ですね。その二人はまさに暴力に生きると言ったタイプのヤクザでかなり恐れられていたようですね。実際、今でも警視庁のブラックリストから名前が消えていませんでした」
「そんな奴らが和さんを脅しに来るかもしれないんですか?」岸が不安を口にした。
「いや、その可能性は低いと思います。武闘派ヤクザの典型として佐河組もバブルの終焉と共に解散を余儀なくされましたが、二郎兄弟は意外にも時代の潮流に乗りそれぞれ人材派遣会社と土木系の会社を立ち上げ今では順調に会社経営にいそしんでいるようです。松さんが言ったように二人は佐川から距離を取りたいというより、関わり合いを断ちたいと思っているのでしょう。それで松さんにお金を渡して佐川と言う元組長の面倒を見させて距離を取っているというところじゃないでしょうか?」
なるほど、田中さんが言うのなら本当なんだろうな。
「しっかし、このビルが和さんの物って本当なのかな?」オレは思わず上を見上げて言った。
確かにビルと言うほど立派な建物ではないけど、それでもこんな東京で一等の観光地に五階建ての物件を持っているなんて・・。
「その・・・このビルの所有者は、その名義は間違いなく松さんです」
オレと岸はそんなことまで調べたのか?と少し呆れた顔を田中さんに向けた。
「いや、そうでなければいいと思って・・。そのう、松さんはヤクザじゃないと確認したかったんですよ」
「またなんで和さんがヤクザかもしれないなんて疑問を持ったんですか?」岸が聞いた。そこはもちろんオレも気になった。
田中さんは俺たちの顔を見て諦めたように話した。
「あの、お二人に迷惑をかけた日にこの店に来たんです。そこにあの砂場と佐川と言う老人がいてですね、砂場がヤクザを匂わせる事を言ったんですが私はあの二人に見覚えが無かったので少し調べてみたんですよ」
「見覚えが無かったって、田中さんは東京のヤクザの顔を覚えているんですか?」オレは驚いて田中さんを見た。岸も同じだった。
「まあ、東京中のと言うわけではないですが台東区近辺のなら記憶しています。一応警官なんで」
「マジっすか!?」オレは思わず声を出してしまう。
「いやでも、今時ヤクザなんてそんなに多くはないですからね。最近はそれよりも所謂半グレと言われる連中が問題なんですよ」
ええ?マジかよ・・。
「じゃあ、指名手配とかも?」岸が聞いた。
「それは交番に貼ってありますから。そういうわけで松さんは大丈夫だと思いますよ」田中さんは驚いた顔で見つめるオレたち二人に当然だとでも言うように、そう付け加えた。
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