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第十四話 橘京子はバラバラになって消えた。

「僕と岸くんは別の大学になったら、あまり連絡を取らなくなっちゃったよね。でも京ちゃんと僕はずっと一緒だったよ。いや違うよ、京ちゃんは早稲田に行ったよ。国立じゃなかったけどね、僕らと違って京ちゃん、とっても頭が良かったでしょ?」

僕らはね、京ちゃんが大学に入ったら一緒に住もうって決めていたんだ。二人で住むところは南大塚の賃貸マンションに決めてあったしさ、京ちゃんは無事に早稲田に合格したし引っ越しはいつにしようかなんて言ってたらさ、京ちゃんが親に挨拶に来てほしいって言うんだよ。
僕はもうさ、えーっ!!ってビックリしてさ、そしたら京ちゃん、目を細めて僕を睨んでさ、イヤなの?って。
嫌ってわけじゃないけど、急すぎるよ。
京ちゃんは焦ってびっくりしている僕を見て笑ってさ、そんな堅苦しいことじゃないから大丈夫、でも今更だけどお父さんが二人で住むなんて聞いてないって怒り出しちゃって……。
え?怒ってるの!?
いや違うの、違うのよ。お母さんがね、じゃあせっかくだしこの機会に一度会ってみましょうよって言ってくれたから、大丈夫!軽い感じだからね。
そうは言ってもさ・・・もちろん僕はいつか京ちゃんと、ほら、そのさ・・結婚したいと思っていたけど、せめて大学を出てからって思っていたしさ。それに怒ってるなんて言われちゃったらもう・・・。

でも行かないわけにはいかないし、僕はスーツを新調して行ったよ。
そしたら京ちゃんは笑ってさ、何してんのよ結婚の挨拶ってわけじゃないんだからなんて言うんだよ。僕は結婚を前提にお付き合いさせていただいていますって言うしかないと思っていたのにさ、京ちゃんがそんなこと言うもんだから僕は京ちゃんの両親に会ってなんて言ったらいいのわからなくなっちゃってさ。
僕はそんな状態で京ちゃんの所沢の実家に行ったんだよ。

京ちゃんの両親はね、お父さんは所沢市の隣の狭山市にあるホンダの工場で働いている人で、お母さんは昔は小学校の教師だったらしいけど、京ちゃんが高校に入ると教師を辞めて自宅で学習塾を始めたって聞いてた。
京ちゃんの家は大きかったし庭も広かったな。バスケットのゴールに小さなブランコまであったよ。
京ちゃんはこれで遊んでいたのかななんて思って心を落ち着かせようと思ったけど全然無理だったよ。心臓はバクバクしてて玄関をくぐったら京ちゃんのお母さんはニコニコしていて「後藤くんいらっしゃい」って言ってくれた。

僕は「お邪魔します」って言って案内されるままにリビングのドアを開けた時、京ちゃんのお父さんは椅子に座って腕を組んで一言も発せず僕を睨みつけていたよ。
そりゃあそうだよね、せっかく早大まで行かせた一人娘が東洋大の彼氏をつれて来たんだもん。
僕はふらつきながら椅子に座って必死に挨拶しなきゃって思っていたんだけど出てきたのは「初めましてお父さん、後藤と言いま・・・」
うわああ!!お父さんって言っちゃった、ああ、もうダメだ・・・。
「お前にお父さんなんて呼ばれる筋合いはない!!」ってドラマみたいなシーンが頭に浮かんだよ。

でも京ちゃんのお父さんは怒鳴ったりしないで目じりをピクピクさせて目を閉じて、歯を食いしばって耐えていた。
僕は必死で「ごめんなさい、後藤と言います。京ちゃんと、その・・その・・・あの。一緒に住むことにしました」って言ったんだ。
そしたらお父さん、拳をギューッと握って唇を震わせてまだ耐えていた。
それを見て僕はもう行っちゃえって思って、立ち上がって
「京ちゃんは、僕が守ります!」って言ったんだ。
京ちゃんのお父さんは怒って何て言うだろう。お前に何が守れるんだ!って言われるかも。僕は何を言われてもこれが本心なんだって思ってお父さんの憤激に構えた。

そしたらお父さんは破裂したかのように突然お腹を抱えて笑い出して、お母さんも「お父さん、後藤くんに失礼でしょ」とか言いながら笑ってた。え?っと思って隣を見たら京ちゃんも笑ってた。
僕は何が何だか分からなくって立ちすくんでいたらお母さんが全部説明してくれた。
京ちゃんのお母さんは学習塾を開いているだけあってとってもおしゃべりだった。京ちゃんの家族は晩ごはんの時にみんな今日何があったか話すらしいんだ。お父さんは今日どんな車を作ったのか、部下の誰それは真面目で優秀だけど、新しく入った誰それはちょっと目をかけてあげる必要があるなとか。お母さんは学習塾でどんなことを教えたとか、この子は飲み込むが早いとか、あの子は教え方を工夫しなくちゃとか話してね、京ちゃんはもちろん今日は学校で何があってとか話していたんだって。もちろんそこには僕や岸くんのことも含まれていたんだって。

京ちゃんのお母さんは僕のこと全部知ってたよ。東洋大に行っていることはもちろん、オフロードバイクに乗っていること、最近は趣味でプログラミングにハマっていること。先週は京ちゃんとどの映画を見に行ったのかまで知っていたよ。京ちゃんから大きいけどとっても優しい人って聞いていたけどせっかくだから一度会ってみたいわねって話になったんだって。
でもどうせならちょっと楽しくしましょうっていう事でお父さんが腕を組んで僕を睨みつけたってわけらしいよ。
お父さんは「母さんがやろうって言ったんじゃないか」って言って、京ちゃんもまさかそんなかしこまってスーツを新調してくるなんて思わなかったって笑ってた。みんな笑っていたよ、僕以外ね。

その後は庭に出てバーベキューをしたよ。お父さんはずーっとニコニコしていて、京がバイクの免許を取るのを止めてくれたんだよね?ありがとう、これからも京を頼むよって言ってくれた。でも僕のバイクがホンダのバイクだってことは気にもならなかったらしい。お母さんは僕のことをもうホントに根掘り葉掘り聞いてきて京ちゃんがもういいでしょって止めに入ってきたくらいだった。それでも僕は緊張しっぱなしで何を食べたのかも覚えていないくらいだったよ。
京ちゃんの両親はとっても良い人だった。自分たちが育てた子供をちゃんと信頼していて、その子供が選んだまだ見たこともない男を信頼してくれていた。だから僕も京ちゃんをもっと大事にしなきゃって思えたんだ。

京ちゃんと僕の共同生活が始まると、お互いがより大事な存在になった気がした。何をするにもまず相手の事を考え動いていた。
晩ごはんは基本自炊だったんだけど、昨日は僕が作ったんだから今日はやらないぞなんてことじゃなく、お互い早く帰って晩ごはんを作って待っていてあげようって思っていた。
正直なところ、京ちゃんの両親はそれほど裕福ではなかったんだね。結構大きな家で広い庭があったけど、所沢では普通なのかな。言い方はあれだけど京ちゃんの両親は工場の工員さんと自宅で開いている小さな塾の講師だからね。
一人娘とはいえ早大に通わせるなんて大変だったと思うし、さらに仕送りまでして京ちゃんを一人暮らしさせるほど余裕はなかったと思う。
でも人の良さそうな彼氏と一緒なら仕送りも最低限で済むって思ってくれたんだろうね。

僕と京ちゃんは近所のレンタルスペースを借りて塾を始めた。
南大塚から埼玉の河川敷に手伝いに行くのは難しいからね。
京ちゃんは英会話教室、僕は初歩的なプログラミング教室。
京ちゃんの英会話教室は早大の美人女子大生講師ってことで話題になってすぐに大人気になった。

僕のプログラミング教室は全然だったよ。プログラミングを学びたいのならパソコンくらい持っているだろうって思っていたんだけど、受講しようと来る人のほとんどはパソコンすら持っていない人ばっかりで、パソコン教室なのにパソコンが無いのか!?って怒って帰る人ばっかりだった。僕の分のスペースはすぐに無くなってその分、京ちゃんの英会話教室が広くなった。僕は簡単なアプリを作ったり、その過程を動画にしてYouTubeにアップしたりして僅かな広告収入を稼げはしたけど、京ちゃんの英会話教室の稼ぎには全く及ばなかった。

僕の主な仕事は京ちゃんの英会話教室にたまに顔を出して、彼氏の存在をアピールすることになった。京ちゃんは年がら年中受講生から食事やデートに誘われてそれを断るだけでも大変な仕事になっていたから。僕の姿を見てすぐに辞めていく人もいっぱいいたけどそれ以上に申し込みがあったよ。

僕らはそのお金で海外旅行に行った。最初は台湾。次はタイ、更にベトナム、シンガポール、マレーシア、ラオス、ミャンマー、インドネシア・・・東南アジアは行きつくしたってくらい行ったよ。
年に5回は行っていたと思う。

でも京ちゃんの旅行はちょっと変わっていた。お寺とか遺跡と言った観光地にも行くし、デパートで買い物もするんだけど、観光地どころか観光客なんか絶対に行かないような寒村に行くんだ。
もちろん交通手段なんかほとんどない。バスや電車で近くまで行ってあとはひたすら歩き。4時間くらい歩いて日本人なんか初めて見たって言ってくるような小さな村に行ったこともあったな。

最悪だったのはベトナムの山間の村に行った時だね。3時間くらい山登りをしてやっと着いた村は予想はしていたけどコンビニなんか絶対にないって一目でわかる村だった、だって電線が無いんだもん。

でも京ちゃんはホント不思議な女性だった。
京ちゃんが疲れた顔も見せずにこんにちわーって手を振ると村の人がみんな集まって歓迎してくれるんだ。日本って言う国がどこにあるかも知らない、それどころか電線も水道管も、もちろん下水もないような村でね、ほとんど自給自足の生活をしているような村でも、京ちゃんが来るとみんな歓迎してくれた。

でさ、そのベトナムの村で出された晩ごはんは豚の血の鍋だった。歩いてきたんだからこれを食べないとねって言われてもさあ。
豚の血だよ?見た目は巨峰ゼリーの失敗作ってところかな。でも血なんだよね、うぇーって感じ。
京ちゃんに肘でつつかれて僕はひきつった笑顔で何とか食べた。味は何だろう、意外と血の生臭さはなかったかな、つるんと柔らかくて豆腐みたいな食感のレバーって感じかな。
でも僕はやっぱり苦手で他のお皿に乗ってたカニに手を伸ばしたらまた京ちゃんに肘でつつかれた。
それは食べちゃダメだって。しっかりと火が通っていなそうなものは絶対に食べちゃダメ、吸虫が危ないからって言われた。
じゃあこの豚の血は?大丈夫なの?って聞いたらこれは大丈夫、私達のために今日屠畜してくれた豚だし、十分煮てあるから。あとお酒と水もダメだからね、のどが乾いたらペットボトルの水を飲むこと、だって。ホテルでのディナーならそんな心配することもないのにね。

次の日は朝から村の人と生活を共にして農作業を手伝ってみたりヤシの木を食い破る害虫を取ったり森を切り開いたりなんてしてたよ。ヤシの実を割って飲む生ぬるいココナッツジュースがあんなに美味しいものだったなんて初めて知ったよ。

そんなことをしている内にもうお昼、ご飯を食べてまた歩いて帰ろうって時間になった。お昼は野菜を巻いた生春巻きと揚げたセミの幼虫か蚕の蛹だった。食べられそうなものは生春巻きだけだったけど京ちゃんはこういうところじゃ生野菜も食べない方が良いって言うから、セミの幼虫を食べるか蚕か何かの蛹を食べるかの選択肢しか無かった。もちろん僕が選んだ選択は「食べない」だった。でも京ちゃんはこれからまた山道を3時間歩くのよ?何か食べないと途中で倒れちゃうでしょ?って。

僕はせめてエビっぽいって聞いたことがあるセミばかり食べた。当然京ちゃんは蚕ばかり食べることになった。
全然お腹いっぱいにはなってないけど、もういいですってくらい虫を食べてじゃあ帰りますって時に村の人がメインディッシュを持ってきてくれた。
ヤシの木から取った大きな芋虫だった。ヤシの木を食い荒らす害虫のはずなのに大事そうにカゴに集めていたからおかしいとは思っていたんだ。
魚醤と薬味の入った小皿にカブトムシの幼虫くらいの大きさの芋虫が5、6匹入れらると、芋虫達は元気よく暴れ始めてた。

これ、生だから食べちゃダメな奴だよね?もう生だからとかそういう問題じゃないけど一応京ちゃんに聞いてみたんだ。
京ちゃんは、いやこれは、その・・・って。
なにそれ?ダメじゃないって事?冗談でしょ!?
でもさすがに京ちゃんもこれは・・・って断ろうとしたんだけど、村の人にこれはベトナムの昔の女王様も食べていた最高の御馳走なのよなんて言われて仕方なく京ちゃんは一匹を手に取った、芋虫がものすごく暴れていたよ。
硬い頭を歯で食いちぎってからって正しい食べ方まで説明されてたけど、僕は手に持つことすら無理だった。京ちゃんが目をつぶって芋虫の頭を噛みちぎろうと口に持って行った瞬間、村の人たちが一斉に笑った。

冗談だよ、無理して食べなくていいからって。
なんでも昔、ベトナムの女王様が食べていたのは本当らしいけど、今じゃこれを食べるのは物好きだけなんだってさ。まあそこにはその物好きってのがたまたま5、6人いて一瞬で芋虫達はいなくなったけどね。
その後はまた3時間も山道を歩いて帰ったけど、足取りは二人とも軽やかだった。だってあの芋虫を食べなくて済んだんだもんね。

そんな風に色んな国に行ったよ。旅費の安く済む東南アジアばっかりだったけどね。
京ちゃんがすごいのはどこの国に行くとなっても最低限の会話は出来るくらいに言葉を覚えていくところだね。数か月おきに違う国に行っていたし、さすがに文字までは無理だったみたいだけど、それでもどこの村に行っても会話にはそれほど困っていなかったよ。僕はいつも「ありがとう」だけ覚えた。テリマカシとかサラーマトとかコップンカッとかね。

京ちゃんはどの国に行ってもいつもその国の全部を知りたがっていたな。街中のうす汚い屋台でご飯を食べてその国の庶民の生活を知るなんてレベルじゃなくて本当に時間の許す限り全てを知りたがっていた。
インドネシアの海岸で組み上げられた木の上で火葬にされる遺体を二人で眺めていたこともあったし、ブータンでは鳥葬を見たこともあった。人の遺骸に鳥が群がって食いちぎっていた。
鳥葬って言うのはチベット仏教やゾロアスター教で行われているんだけど、その二つは意味合いが全く違うんだって。チベット仏教の鳥葬は故人が天に帰るための方法で施しであり徳を高めるという意味もあるそうなんだ。
でもゾロアスター教での鳥葬は、遺体は穢れだからそれを火で燃やしたり地に埋めたりすることは火や大地を穢すことになるから鳥葬が行われているんだって。京ちゃんが教えてくれた。

大学で勉強して英会話教室で授業をして、お金を貯めて東南アジアに行く。そんな生活を何年か過ごして、僕は大学を卒業して木工芸の工房に入って職人見習いになった。
京ちゃんは、直ちゃんはIT企業に行くと思ってたのにって意外そうな顔をしていたけど、僕は木をいじるのが好きだったし今は木工をやってみたかったんだ。これからITの仕事はどんどん増えるだろうしいつでも転職できると思うから。
っていう事にした、もちろん本当は違うけど。

京ちゃんも早大を卒業すると高校の頃から目指していた一流商社に就職した。外資系じゃなかったけど日本一の商社だった。僕はそれを機にずーっと考えていたことを口にした。
京ちゃんにプロポーズしたんだ。
僕はもちろん京ちゃんは喜んで受けてくれると思っていたんだけど、京ちゃんは少し首をかしげて申し訳なさそうな顔をした。
新卒で新婚じゃ社内で受けが悪いからもう少し待ってって言われちゃった。
それもそうだよね、ゴメンねって僕は言ったら京ちゃんも私こそゴメンねって言ってくれた。

日本一の商社に就職した京ちゃんはやっぱりスゴかった。英語は英会話教室を開けるほどだし、東南アジアの言葉はどこに行っても日常会話くらいならさほど問題ないくらいだったからね。他の新卒が研修だなんだって行っている間に京ちゃんはすぐに東南アジア部署に配属されて通訳代わりにあちこち連れていかれたみたい。火水木は海外ですごして、金曜に帰国して報告書をまとめて土日は僕と過ごして月曜に報告書を提出して火曜日にはまた別の国に出国っていう生活だった。仕事を教えられるためではなく東南アジアに詳しい便利な通訳としてこき使われ続けたのに京ちゃんは仕事の愚痴を口にすることは全くなかった。

いや、一つだけあったな。
東南アジアに行って夜になると男性上司が必ず
「女を手配してこい」って言ってくるんだってさ。
京ちゃんはせめてもの抗議として料金を数倍に割り増ししていたんだって。どの男性上司も必ず高いって文句は言うんだけど、じゃあご自分で手配すればどうですかって言うとみんな素直に払うんだってさ。上司からボッタくったお金に京ちゃんの気持ちを少し足して女性に渡そうとすると、女性は「何のお金?」って驚くんだけど、おなたの取り分よって言うと何度もお礼を言って帰っていくんだって。またお願いって言って。

京ちゃんはさ、自分の娘ほどの年齢の女の子と夜を共にして満足そうに朝食を取る男性上司を見るともっと搾り出させれば良かったって思うんだけど取りすぎると男性上司は自分でホテルのカウンターに電話してそれ専門のガイドを呼んだ上で数倍どころか逆に値切ろうとするだろうし・・って。

不思議なもので日本で年収8桁に届く人でも東南アジアに行くとなぜか千円や下手すると百円を値切ろうとするんだってさ。
京ちゃんはこんな風に女性を買おうとする男性を心の底から嫌悪していたけど、共に東南アジアを訪れる男性上司の大半を嫌悪することに疲れて少し慣れた自分が嫌になったって。

そんな仕事をしていたら京ちゃんは2年目には初めてのプロジェクトを任されることになった。僕はお祝いのディナーを作ってあげて京ちゃんを送り出した。京ちゃんが派遣されたのはタイの寒村だったんだって。
タイの国会議員の秘書に連れられて行き、この村で何か新たな事業を起こして村を豊かにしてくれって頼まれたらしい。

京ちゃんは全てわかっていたって言ってた。
この寒村の誰かの、村を何とかして欲しいって頼みが何かの伝手で議員まで届いて、なにか無碍にも断れない理由があった議員は、別の伝手を使って別の誰かに放り投げて、その誰かが誰かに放り投げるうちにウチの会社に投げ込まれた。

けれど予算もほとんど取れず何もない村で何か立ち上げろと言われてもそんな失敗前提の仕事を任せるほど暇な奴はいないし行きたがる奴もいない。そんなわけで、語学だけは堪能で一人で放り込んでも大丈夫そうだし、まだ2年目で会社にいなくても特に困らない京ちゃんの足元にその仕事が転がってきたんだって。
僕はボッタくられた誰かの恨みじゃないの?って思ったけどもちろん口にはしなかった。

京ちゃんは英語すらろくに話せない新卒の女性を二人つけられてタイに行くことになった。会社にいなくても問題ない女性三人組。そんな状況でも京ちゃんは腐ったりしないで前向きに現地を詳しく調べて回ったらしい。その寒村には何もないことはすぐに分かったって言ってた。

自給自足が基本の村で期待できる産業は何もなく、仕事といえば陽が昇り明るくなるのを合図に小さなバイクで2時間かけて行く観光都市にしかない、そんな村だったって。
でも京ちゃんは諦めずに調べて回って観光都市部でココヤシの殻が大量に廃棄されているのを目にしたんだって。そこで京ちゃんはそれをヤシ殼炭にして日本に輸入する計画を考えた。廃棄されるヤシ殻をこの村に運ぶ手立てから、ヤシ殻炭を作る機材や工場、そうしてできたヤシ殼炭を日本に送るルートまで考えてプロジェクトを提案したんだって。
京ちゃんのプロジェクトは即日決定ってくらいの勢いで進み始めて僕は少しだけ不機嫌になった。
だって京ちゃんはよくて月に一回も帰ってこなくなっちゃったし、炭焼小屋を作るだけなのにプロジェクトは半年たってもまだ終わらなかったからね。結局京ちゃんが帰ってきたのはプロジェクトのスタートから8ヶ月後、派遣されてから一年近く経ってからだった。
僕は凱旋帰国する京ちゃんを御馳走を作って待ってた。

ベランダで京ちゃんの大好きなサンマを七輪で焼いて、テーブルに置いたカレーライスはもちろんビーフカレー。僕が作るカレーはいつもはポークか、たまにチキンカレーだったけど、東南アジアじゃ牛肉を食べる機会はなかっただろうからね。丸一日煮込んだ特製牛スジカレーにサラダも並べてグラスにちょっと奮発したシャンパンを注いだときに京ちゃんの携帯電話が鳴った。
うん、うん、大丈夫、ありがとう。京ちゃんはすぐに電話を切って僕とグラスを重ねた。会社から?って聞いたら、うん部下の子から、工場の落成式が無事終わったって。
え、今?落成式やってたの?京ちゃんは出なくて大丈夫だったの?
うん。京ちゃんは小さく答えて大根おろしをたっぷり乗せたサンマに醤油をかけて箸を伸ばした。

やっぱり直ちゃんのご飯が一番だねぇって嬉しそうに食べてくれた。
焼いただけなのにね。
僕は京ちゃんが大事な落成式より、村がこれから豊かになっていく大事な初日より僕を選んでくれたのかなって脳天気に考えてた。
でも洋風甘口のビーフカレーは、東南アジアの辛口の食事を一年間食べていた京ちゃんにはいまいちだったみたい。美味しいって言ってくれたけど京ちゃんの表情を見れば僕だってそれくらいは分かる。
それにさ、京ちゃんが電話を切る時に少し、ほんの少し下唇を噛んだのを見ていたよ。何かあるんだろうなって思ったよ、でも僕は特に気にはしなかった、その時はね。

そこで僕は二度目のプロポーズをした。でも京ちゃんは顔の前で手を合わせて片目をつぶった苦笑いでゴメンって言った。今は仕事に集中したいのって。
僕はその顔を見て一年間お預けされて帰国したとたんにプロポーズなんて我ながらみっともなかったのかなって思った。でも京ちゃんは京ちゃんで少しだけ嘘をついていたとも思った、でも僕はその嘘が何かは分からなかったから京ちゃんは結婚って形にとらわれたくないのかなって思った。
京ちゃんは夢にまで見ていた仕事に就けたからこそ結婚って言う形に囚われたくなかったんだろうって。
僕は一緒にいれればそれでいいやって思ってプロポーズすることは止めることにした。
僕は(炭焼小屋をつくるだけなのに)随分時間がかかるものなんだねって聞いた。
京ちゃんは笑ってご飯を食べながら全部教えてくれた。

まず村と都市をつなぐ道路を作るでしょ、これにだいぶ時間を取られたの。
え?道路を作ったの?
そうよ、都市部と結ぶ道はあったけど、ところどころバイクしか走れないような山道だったからね。タイではホンダのカブが大人気なの、向こうではドリームって言うのよ。シートがフラットで長いから一台のドリームに家族四人乗って街にでかけたりするのよ、直ちゃんも見たことあるでしょ?私も部下の二人を乗せて何度か山道を走ったわ。
僕が真正面から見つめて無言の抗議をすると京ちゃんは、やめてよ直ちゃんって笑った。
私の腕前は知ってるでしょ?あの河川敷で走ってたのよ?女の子の3人乗りくらいで心配しないでよ。

だからね、タイの地方の役人さんと交渉してまず道路を作る許可と資金をもらったの。
確保できた資金は乏しくて小さなトラックが通れるくらいの細い道路しか出来なかったけど電線も通して街灯も付けて村にもやっと電気がきたの。その道路を使って工場を建てるための重機や資材、機材も村に運んだの。街灯を付けたから夜でも安全に走れるようになったのよ。

日本から来た女の子達がなんでこんなことをしてくれるの?って村の人は喜んでた。村の子供にとって電灯っていうのは戸外に置いた発電機がうるさく鳴り響くものだったから、なんで音がしないのに明るいの?って聞かれたわ。
発電機は遠くに遠くにあるから静かなのよって教えてあげたの。子どもたちにはサープラウって、電気のお姉ちゃんって呼ばれるようになっちゃった。

森が切り拓かれて工場の建設予定地が出来てすぐに建設が始まった。
やっぱり大勢の知らない人がやってきて村が騒がしくなるのを嫌がるに人もいたけど他の村の人が、あの子たちのおかげで発電機を回す燃料を買いに何時間もかけて街に行くこともなくなっただろってなだめてくれたりもしてた。

それでね、もう工場も完成するから私がやることもなくなったから帰国したの。出来たヤシ殻炭を安く買い取るのは、モチロンうちの会社だからね。

京ちゃんってスゴいんだね……。僕は心の底からそう思った。炭焼小屋を作るだけでしょ?なんて言わなくてよかった。
そうよ、私スゴイんだから。しらなかったの?京ちゃんはそう言ってグラスを差し出して二杯目のシャンパンを要求した。

その後の京ちゃんは意外にも暇そうだった。一か月くらいかな、あまり会社にも行かずにのんびりしていた。
でも二か月後、京ちゃんも社会人三年目になった。そこでまたプロジェクトを任されて海外に行った。

今度はベトナム。本当に何もなかったって言ってた。港湾都市には近いけど役に立たないポプラの木が生えているだけの山村だったって言ってた。でも京ちゃんはまた頑張って調べてそのポプラの木でベニヤ板を作ることにしたんだって。
東南アジアでベニヤ板を作るとなったらラワンっていう木が一般的で、ポプラなんかじゃまともなベニヤは作れるわけがないって反対されたんだって。まあ反対と言うか誰も認めてくれなかったらしいんだけど。

ポプラって言う木は成長は早いけど材質は柔らかくて建築には使い道のない木だからね、割りばしや爪楊枝、マッチの軸くらいしか使い道はないんだ。僕だって木工所に勤めていたからそれくらいは分かるよ。
でも京ちゃんはポプラの木でベニヤを作ることにしたんだって。ベニヤ工場なんてかなり大規模になるからね、貧しい山村に作るなんて無茶な話だよ。でも京ちゃんはその計画を推し進めた。
ベニヤ板なんてJAS認定を受けられなければ日本では使えないけどね。でもベトナムの貧しい山村にJAS認定を受けられるような立派な工場が出来るわけがない。そこで京ちゃんが目指したものは真逆の方向。それで計画を進めた。

工場なんて言える物じゃなく、家庭内手工業レベルの機械と数家族分の人員で生産するベニヤ板。
京ちゃんが目指したのは厚みはバラバラ、接着も粗雑な今まで誰も見たことが無いほどの低品質のベニヤ板。
京ちゃんはとりあえず生産可能な形だけ作ってそこから品質を上げていくって計画で会社を説得したらしいけど品質を上げるつもりなんか全くなかったって言ってた。

とりあえず村に数件の工場を建ててベニヤ板の生産が開始され、もちろんそれは京ちゃんの会社を経て日本に輸入された。
本社の誰もが眉をひそめたベニヤ板がこの時点で既に引く手あまたで京ちゃんの作ったポプラベニヤは売る前から大ヒットしてた。
JASマークのない建築には絶対使えない今まで見たこともないほど低品質のベニヤ板。

ベニヤ板って言うのはマンションの部屋を作るにも日本家屋を作るにも絶対に必要な資材で、それにはJASマークが必須なんだ。十年二十年とその品質を保っていないといけないわけだからね。
でも京ちゃんのベニヤ板は一度雨に濡れたらバラバラになってしまうようなほどの低品質。でもそれがウケたんだ。

ベニヤ板って言うのは建築材料になるだけじゃない。例えば土木工事で穴を掘って少しの間その穴が崩れないように押さえておければいいだけの板、切って機材の輸送時の梱包材にしたり、綺麗に仕上げた床が傷つかないように引いておくだけの板。一回の使用に耐えればいいだけの板。でも単純な板材って言うのは高いんだよ、幅が広かったらそれだけ太い木が必要になるからね。
そこで京ちゃんが考えたのがJAS規格なんか必要ない安いだけのベニヤ板。
日本にもそういったJAS規格の入っていないベニヤ板はあったんだけど、それはあくまでJAS認定を受けた工場で作られたけど規定の品質に届かずはねられたものだったんだ。もちろんJAS規格ほどではなかったけどそれほど安くはなかった、きちんと作られていたわけだからね。

だから京ちゃんの超低品質ベニヤ板は大ヒットした。ベトナム各地の村に同じような工場がいくつも建てられた。京ちゃんはちゃんとポプラの植林までしっかり指導していた。山を枯らすことにならないよう、植林した以上の過剰な生産を抑えることを徹底したって。
京ちゃんのベニヤは業界で「ベトナム」って呼称が定着するほどに認知されたよ。

京ちゃんは少しの間だけ僕と日本でゆっくり過ごした後、また次のプロジェクトに飛ばされた。
次はラオスの貧しい山村だった。メコン川から東に100キロ以上離れたベトナムとの国境に近い村。
京ちゃんは木もヤシも生えていない竹藪に囲まれた山奥の村では竹の集成材を作る計画を立てたんだって。付けられた部下はやっぱり二人の新卒女性だったけど、一人は常務の娘でこんな仕事がうまくいこうが失敗しようが私には関係ない。一つ言えるのはこんなまともなシャワールームもない汚い村になんかいれないって事と、こんな村でプロジェクトなんて無理に決まってるってことと、やるだけ無駄なのにそんなに頑張ってバカみたいってこと。そう言ってドンホイのホテルのスイートルームにこもって、のんびりしていたんだって。

ドンホイ?ベトナムの?って聞いたら京ちゃんは肩をすくめてそうねって言っただけだった。
それでも京ちゃんは二人で計画を完成させるべく頑張ったって。
今度の道路は僅かな資金で何とかなるレベルではなかったから大変だったってさ。
まずラオス政府の高官に道路を作ってもらうためにお願いするんだけど、それは工場の計画を出して道路の必要性を示さないといけない、でも道路が出来ないと工場の計画は立てられない。そもそも山奥の小さな村の為に道路を作ってくれなんて無理な話だしね。そこで京ちゃんは一応ほとんど空想で練り上げたような計画書を作っておいて日本本社の常務に連絡を取ったんだって。

この頃にはもう一人の部下もドンホイにいたってさ。最初の頃から何かと常務の娘に呼び出されたりして京子ちゃんとの板挟みになっていたから、無理しないでいいのよって言ったらその子は当然だけど常務の娘を取ったってわけ。

京ちゃんが土木計画書を添えて常務にお願いしたのはもちろん道路を作ってもらう事。ベトナムのドンホイからアンナン山脈を越えてセバンファイ川も越えた先にあるラオスのバンカンまでの約80キロの道路。ベトナム側の道路はほぼ出来ているから必要なのは国境からラオスのバンカンまでの約30キロの道路の整備。でもそんなのは国家事業に属するもので日本一の商社とはいえ一介の企業に手が出せる物ではなかった。だから常務は日本政府に働きかけた。

東ベトナム海の海岸からラオスに続く道は数あれどバンカンまでの道が最後に残った唯一未完成の道なんです。でもね、ほとんどできているんです、それがあと少しで完成する。ここで日本が援助を申し出れば完成させたのは日本という事になる。0から道路を作るわけじゃない、ほとんど完成しているんです。それを再整備してほんの少し足すだけで晴れて開通です、日本のおかげでね。そうそうセバンファイ川って言うちょっと厄介な川があるんですよ。そこに橋を架けるのは日本企業でないと難しいでしょうなあ、馬島建設なんかが適任じゃないですかね。ほら先生も懇意にされていると聞いてますよ、いや他意はないですよ。ジョイントベンチャーを組むほどの工事にはならないでしょうからな。日本一の馬島建設が日本政府のお墨付きで作るとなればまあ立派な橋が出来るでしょうなぁ、橋の名前にはお恥ずかしいでしょうが先生の名前をいただければありがたいのですが。ベトナムとラオスをつなぐ道路、交通量は大変なものになるでしょうなぁ、それを繋ぐ一番大事なのはセバンファイ川に架かる橋。ベトナムとラオスの国民はその橋に深く感謝するでしょうなぁ。

普通に考えたら時間のかかる架橋工事とベトナム国境までの道路工事は同時進行で進めた方が良いよね。でも先に工事を終えたのは国境までの道路だった。ベトナムのドンホイからラオスのバンカンまで続く道路の建設はベトナム、ラオス両国が注目する一大事業だったからね、その開通式典はセバンファイ川に架かる橋で盛大に行われる必要があったんだ。
そう、日本の偉い議員さんの名前が付けられる橋の落成式でね。

京ちゃんはここまで考えて計画を練っていたんだ。先に国境までの道路が開通すればその分だけ早くラオスの山村に竹の集成材工場を作ることが出来る。そうすれば工場で作られた製品はベトナム側に運ぶこともできるし、セバンファイ川まで輸送することもできる。セバンファイ川はメコン川に通じているからね。京ちゃんにとってはセバンファイ川に架かる橋はどうでもよかったんだ。

道路は開通した。そしてラオスの電気も水道もなかった山村には竹積層材の工場が出来た。常務がここまで頑張って動いてくれたのはもちろん京ちゃんの為なんかじゃない。常務をここまで動かしたのは京ちゃんのたった一言だった。
「娘さんが頑張ってくれています」

京ちゃんは植林ならぬ植竹の方法まで指導したって言ってた。
竹なんて100年に一度しか種を付けないのにどうやったの?って聞いたら「あれで」ってパソコンを指さした。挿し木みたいに苗木、じゃなくて苗竹を作れるんだってさ。

僕は京ちゃんはホントすごいなあって驚いていたけど、京ちゃんは直ちゃんも料理の腕がすごく上がっている、これ本当に美味しいって焼き鮭でご飯を食べていた。
これ川口市の何とかって干物屋さんの鮭でしょ?日本人で良かったぁって言いながら美味しそうに食べてくれた。まあ僕は七輪で焼いただけなんだけどね。

そこでまた京ちゃんの電話が鳴った。橋の落成式が無事終わりましたっていう部下からの電話だったって。
電話を切った京ちゃんの表情は嬉しさが半分、もう半分の複雑は表情が何なのかは僕はまだその時は分からなかった。

京ちゃんはまた二か月ほどのんびりと僕との生活をしたあとまた次のプロジェクトを任されることになった。
次はインドネシアだった、京ちゃんの最後のプロジェクト。
インドネシアの地方政府から直接会社に依頼されたプロジェクトだった。

京ちゃんは派遣されたインドネシアでまた色々と調べあげた。最初はマングローブ林に目を付けてそこから炭を作る事を考えたらしいけど、すぐにそれは上手く行かないって結論に達したらしい。炭の生産速度に比べてマングローブ林の再生が追い付かないって思ったんだって。

そうそう、マングローブって言うのはマングローブと言う名前の木があるわけじゃなくて、海岸近くの汽水域にある雑木林の事をマングローブって言うんだよ。
だから京ちゃんはポプラみたいに単に植林するだけじゃマングローブを維持するのは難しいと考えたみたいなんだ。
ポプラの植林は言わばポプラと言う木の畑だけど、マングローブは一つの生態系だからそれを人の手で維持していくのは難しいと結論付けたみたいだね。
マングローブが維持できないのにそこから商品を作っていったらいつか不毛な土地しか残らないって思ったんだって。

それはベトナムで、木なんかいくらでも生えているんだから植林なんか必要ないって言う村人を説得し続けた経験からだって。木を全て刈り取られたハゲ山は不毛の土地になる、そんなことは日本人なら誰でも知っていることだけどね。
マングローブに手を付けるのは良くないと思った京ちゃんが次に考えたのはコーヒー栽培。

コーヒーと言うと南米のイメージだけど東南アジアでもコーヒー栽培は盛んなんだ、主に作られているのはロブスター種。でも京ちゃんが目を付けたのはアラビカ種のコーヒー生産。
ロブスター種は丈夫で病気に強く簡単に栽培できるけど安くて日本ではインスタントコーヒーの材料くらいにしかならない、つまり美味しくないんだ。対してアラビカ種は栽培が難しいけど高価、そして美味しいからね。
でも高地でないと生産は難しい。

インドネシアは2万近い島からなる日本以上の島国国家だけど日本以上の火山国家でもあるんだ。
最高峰は日本の富士山を軽く超える4800メートル越えのジャヤ山がある。
京ちゃんは無数にある山から候補をいくつか選び出しアラビカ種の生産を指導することになった。
アラビカ種の栽培条件はかなり厳しいけど、逆にそれが候補地の選定を容易にしたって言ってた。
なるべく早く収穫が出来るように成木を移植して京ちゃんのコーヒー栽培は始まった。
アラビカ種は病気に弱くて手入れが大変なんだけど、東南アジアの人はそういった細かい仕事をすることが苦手な人が多いって京ちゃんが言ってた。
何千年も山でも海でも簡単に食べ物が手に入る生活を続けてきた人たちだからね、お米なんか年に2回も3回も採れるしノンビリした人が多いんだろうね。
しっかりした手入れは期待できないと思った京ちゃんは万が一病気が発生してもその被害が一部で済む様にコーヒーノキの栽培エリア毎の間隔を拡げて病気が広まるエリアを制限することにして、その開いた隙間に病気に強いロブスター種のコーヒーノキを植えたんだって。
そうすることで、アラビカ種の間に病気に強いロブスター種を植えることでアラビカ種の耐性も上がったんだって。そんな上手くいくの?って聞いたら京ちゃんはニヤっと笑って、それが行くのよ。って答えた。

もちろん、アラビカ種とロブスター種を交互に植えるだけで両方の耐性が上がるなんてそんなうまい話はないんだ。
京ちゃんはアラビカ種とロブスター種を交互に半分ずつ植えることで村人に、細かい手入れをするのはこの半分だけでいいって言ったら村人も喜んでアラビカ種のコーヒノキの手入れをしっかりとしてくれるようになったんだって。

そうして初収穫の時期がやってきた。シルキーバレーって名付けられたコーヒーの収穫をその目で見たかったって言ってたよ。
でもその輸入の手はずや流通ルートを本社と綿密に進める必要があったから京ちゃんは一時帰国することになった。
村人に絶対に二つの実を混ぜてはダメ、別々に収穫することって厳命して日本に帰ってきた。

京ちゃんは本当に嬉しそうだった。霧の多い山で尾根に挟まれて絹に覆われたように見える谷で採れたコーヒーだからシルキーバレーだってさ。
僕はせっかくだから橘コーヒーって名前にすればよかったのにって言ったら京ちゃんは、私一人で作ったわけじゃないんだからそんなことできるわけないでしょ?って。

村の人みんなで作り上げたコーヒーなの。みんなのんびりしてるけど、本当にいい人達。
村長さんもいきなり日本から来てコーヒーを栽培しましょうって言う私なんかのことを信頼してくれて協力してくれたの、村人を一人一人説得して回ってくれたのよ。それがようやく実ったの。みんなの努力が実を結んだの。

今頃、アラビカ種のシルキーバレーが樽に詰められて、名前も付けられないロブスター種のコーヒーは麻袋に詰めれているの。
京ちゃんは満面の笑みで本当に嬉しそうだった。
ロブスター種はインスタントコーヒーのメーカーに流して、アラビカ種は国内の大手コーヒーショップチェーンに卸す予定なんだって。

二週間ほど日本に滞在し大まかな流通ルートを決めた京ちゃんは再びインドネシアに旅立っていった。
収穫は見れなかったけど、初出荷は絶対にその目で見届けたかったんだって。

村に戻った京ちゃんは笑顔の村人に迎えられ歓待され、みんなで一緒に初出荷を見届けようと倉庫に連れだって行った。倉庫で一杯に積み上げられたシルキーバレーと刻印された樽の山を眺めた。思わず感極まって泣きそうになったけどすぐにおかしいと首を傾げた。

ロブスター種を詰めた袋は?まさか全部同じ樽に詰めちゃったの?まさか・・。
樽を開けて中身を確認してロブスター種の方は麻袋に詰め直せばいいけど・・・。
しかし村人は京ちゃんが一番聞きたくなかったことを言った。

村人はロブスター種もアラビカ種も一緒くたに収穫してしまっていたんだ。
京ちゃんは力が抜けてへたり込んでしまった。そして目の前が真っ暗になった。
喜んでもらえたって笑う村人に対して京ちゃんは怒って詰って自分のオフィスに閉じこもってしまったんだって。村の人達は何が起きたのか分からず困惑していたって。

あれほど強く、別々に収穫するように言っていたのに。京ちゃんは村の人達に裏切られた思いでいっぱいだったって。
京ちゃんはオフィスにこもって泣いて泣いて陽もくれかけた頃、オフィスのドアをノックされた。
村長なのはわかっていた。村で京ちゃんのオフィスのドアをノックするのは村長だけだから。
何ですか?というと村長が入ってきた。その手には錆びた空き缶があった。部屋の中にコーヒーの香りが拡がった。錆びた空き缶には焙煎されたコーヒー豆が入っていたから。
ほら、せっかくみんなで収穫したんだ、飲んでみようじゃないか。
村長はそう言って京ちゃんのオフィスでお湯を沸かし棚からコーヒーミルとカップを用意した。村長は錆びた缶の中身をコーヒーミルに入れゆっくりとハンドルを回し始めた。

京ちゃんはテーブルに置かれた錆びた空き缶を見つめた。
あのコーヒー豆に相応しい入れ物だと思った。
10の品質の物を1の品質の物と混ぜてしまったらその品質は5ではなく1になってしまう。
どうしよう、本社になんて説明しよう……と現実に引き戻されかけたところで村長が口を開いた。

日本からきたお嬢さん。
そう、村の人はみんな京ちゃんをキョーと呼ぶが村長だけは孫ほどの歳の女の子に敬意を払うかのように「日本から来たお嬢さん」と声をかける。

みんな驚いているよ、何をしてしまったのか、なんで怒らせてしまったのかと困惑している。
謝罪ですらなかった。京ちゃんは終始村人をまとめることに尽力してくれた村長には憤慨を見せないように気をつけながら答えた。

アラビカ種とロブスター種は別々に収穫してって言っておいたんです、絶対に混ぜないようにって言ったのに。あれじゃあ売り物にならないんです。

日本のお嬢さん、私たちはあなたの会社に不利益を与えてしまったということかな?
村長は挽き終えたコーヒー豆をペーパーを置いたドリッパーに入れた。途端にどこか甘さを感じさせるコーヒーの香りが部屋に充満した。まあまあのフレグランスだった。

違うんです、会社はいいんです。多少の不利益は問題ありません。
問題ないことはなかったがこれまで携わった全てのプロジェクトを成功に導いてきた京ちゃんの経歴が傷つくことはないはずだった。実は京ちゃんには傷つくほどの立派な経歴がなかったから。会社の人間はむしろ京ちゃんがやっと失敗したと喜ぶ可能性すら有った。

あれでは価値がとても低くなってしまうんです。あれでは村にほとんど利益が落ちないんです。村長さんも村が豊かになるってことでみんなを説得してくれましたけど、それが嘘になってしまったんです。みんなが喜ぶ姿が見たかった。それなのに全部駄目になってしまったんです。

村長は湯が湧いたヤカンを取りに立ち、また席についた。ゆっくりとゆっくりと深く考え込むようにドリッパーに湯を差した。コーヒーのアロマが京ちゃんにも届いた。とても甘いアロマだった。

日本のお嬢さん、村人にアラビカ種とロブスター種を別々に収穫するように言ったのかな?

そうです、何度も念を押したんです。

村長は目をつむりドリッパーから立ち上るアロマをすべて吸い込もうとするかのように顔を揺らした。

その時に、理由は説明したのかな?

え?

アラビカ種とロブスター種を別々に収穫しなくてはならない理由を村人にしっかり説明したのかな?

いえ、しませんでした。

それはなぜかな?村人に説明してもわかるわけがないと思ったのかな?

京ちゃんは全力で否定した。
違います!帰国するまで時間がなかったし別々に収穫する必要があることを全員にしっかり伝えておこうと思って……。

ふーむ。村長はうなずきながらコーヒーに満たされたカップの一つを京ちゃんの前に差し出した。
村人は一生懸命に収穫していたよ。地に落ちた一粒すら残さず拾う者もいれば、粗悪な実は入れてはいけないと諭す者もちゃんといた。村人たちだって自分で考えることはできるよ。日本のお嬢さん、あなたがきちんと別々に収穫する理由を説明していれば村人はちゃんと仕事をしたはずだよ。

京ちゃんは思わぬ叱責とも取れる村長の言葉に思わず顔を伏せ絞り出すようにマーフサヤメニサルとだけ口にできた。

私のミスだった。村長の言うとおり、時間がなくともきちんと説明するべきだった。そうしていればそれを理解した村人はそれを他の村人にも広めてくれたはずった。私はなぜそうしなかったのか?それは心の何処かで村人を見下していたのかもしれない。私が悪かった。それなのに自分勝手な失望と憤りを村の人達にぶつけてしまった。

マーフ。京ちゃんはもう一度謝った。しかし今年は約束した利益は村に届かない。
サヤサンガットミンタマーフ。本当にごめんなさい。京ちゃんは涙を溜めて三度目の謝罪をした。

大丈夫だよ日本のお嬢さん、あなたがこの村を豊かにしようと思って頑張ってくれたのは私が一番知っている。もちろん村の人達もだよ。今年の利益は少ない、いや無いのかな?それは私から村の人達に説明しておくよ。大丈夫だよ、来年は頑張ろうじゃないか。泣くのは止めなさい。
ほら飲んでみよう。村長はカップのコーヒーを口にした。

京ちゃんはそこまで話して僕の前にアイスコーヒーの入ったタンブラーを置いた。
飲んでみて。京ちゃんは笑顔で言った。
アイスコーヒーなのに強い甘い香りが広がっていた。
コーヒーはそんなに飲まなかったしそれほど詳しくないけどロブスター種がどんなコーヒーかってくらいは知っていた。東南アジアで栽培されるコーヒーはほとんどがロブスター種。主にインスタントコーヒーの原料にされる。そのまま飲むには苦味が強すぎるから大量に砂糖を入れて飲むことが多い。ベトナムでは練乳を入れて飲むのが一般的なほどだよ。

恐る恐る口にすると酸味は少なくやはり苦味が強かった。
そして甘いというか深いコク。コクといえば聞こえはいいけど強すぎてクドいくらいだった。
お世辞にも美味しいとは言えないコーヒーだった。

美味しい?京ちゃんは期待を込めた顔で聞いてきたが正直なところ答えに詰まった。
僕は口にしにくい感想を飲み込むようにもう一度タンブラーに口に付けた。
待って、飲まないで。京ちゃんはそう言って冷蔵庫から牛乳を持ってきて僕のタンブラーに注いだ。

はい。

僕は京ちゃんに促されカフェオレになったコーヒーを一口のんだ。
ん?さらにもう一口飲んだ。
美味っしい!素直な感想が口からでた。
京ちゃんは嬉しそうに笑った。
カフェオレはだいたいコーヒーの香りがする少し苦味がある牛乳でしかないことが多い。
でもこれはこのクドいくらい深いコクが牛乳のまろやかさとしっかりと混ざりあいちゃんとしたコーヒーだった。酸味が弱いのがまた良いのかもしれない

美味しいよ!コーヒーはあんまり飲まない僕が美味しいと思うんだから本当に美味しいんだよ!

京ちゃんは嬉しそうに言った。
災い転じてってやつ。でも偶然じゃないの、村の人達の頑張りが実を結んだ結果ね。霧の谷で採れたアラビカ種とロブスター種の奇跡のブレンド。シルキーバレーはカフェオレ専用ブレンド、シルキーブレンドに生まれ変わったの。

京ちゃんはまたプロジェクトを成功させた。そしてまた暇になった。月曜日に会社に行き形ばかりの報告をして家に帰る。東京の本社に京ちゃんのデスクはなかった。
どうせまた二か月も経たないうちにうちに京ちゃんは次のプロジェクトを任されて日本を離れる。つまり僕の元から離れて行く。でも京ちゃんももうすぐ30歳だ。だから僕は確認の意味もあって京ちゃんにまたプロポーズしようと思った。
でも逆に京ちゃんから話したいことがあるのと言われた。その顔は「私ももう30になるしやっぱり結婚したいな」なんて言う顔じゃなかった。

テーブルに付き僕と向かい合った京ちゃんは言いづらそうな複雑な表情をしていた。
とてもじゃないけど「わかったよもう一度プロポーズするよ」なんて言葉を期待している顔じゃなかった。僕は緊張して京ちゃんの言葉を待った。
京ちゃんは絞り出すような声で言った。

「別れましょう」って。

僕は言葉の意味が理解できなかった。別れましょうって、何と別れたいの?結婚はしたくないというならわかるよ。結婚と言う仕組みにはめ込まれたくないっていうのならわかるよ。でも別れたいってどういう意味?
え?待って、別れるって僕とは一緒にいられないってこと?
僕は「別れましょう」という言葉が吹き荒ぶ頭の中をなんとか落ち着かせようと額に手を当てたけど余計にクラクラしただけだった。
まさか僕より大事だと思える人がインドネシアにいたの?そんなの……そんなのどうしようもないよ。

「今まで黙っていてごめんなさい」京ちゃんが泣きながら謝った。

今まで?今までって、え?何を黙っていたの?なにも分からない、京ちゃんは何を謝っているの?
京ちゃん?何の話?

「私、子供ができない身体なの」京ちゃんは力を込めて必死に押し出すように声を出した。
「直ちゃん、私が大学を卒業する時にプロポーズしてくれたよね。心の底から幸せな気分だった。だけど、少しだけ待って欲しかったの。新卒が新婚じゃ仕事も任せられないだろうし」

うん、そう言ってたよね。

「でも直ちゃんにプロポーズされたのは本当に嬉しかったの。たったの一言でこんな幸せな気分になれるんだってびっくりしたくらいだった。でも少し待ってほしかったの。だからせめて検査しておこうと思って病院に行ったの」

検査?なんの?

「ちゃんと子供が出来るかのね、色々な検査を受けたの。直ちゃんに1年か2年待ってもらってから結婚してすぐに子供がほしいと思って、確認するつもりで行ったの」

でも……。

「うん、無卵子症と免疫機能障害の疑いがあるって言われたの。免疫障害の方は薬で一時的に抑えられるそうなんだけど、無卵子症の方はどうしようもない、原因は分からないし対策もしようがないって。子供を持てる確率っていうか、期待はできるんですよね?って聞いたけどお医者さんはゼロではないって。直ちゃん、ごめんね」京ちゃんはそこまで言うとまた泣き出してしまった。

ゼロではない。言い換えれば「奇跡に期待しましょう」だ。
奇跡っていうのは、映画の中で何年も昏睡状態の患者がある日突然目覚めるとか、そうでなければ世界のどこか遠くの誰かに降り注ぐ物のことだ。僕ら、というか京ちゃんにそれがもたらされることはない。
僕はなんと言っていいか分からず、静かに待っていた。

「ごめんなさい、もっと早く言うべきだったのは分かっているの。でも怖くて言えなかったの、直ちゃんと離れたくなくて」
京ちゃんは涙に塗れた顔を上げて僕を見た。

そして涙を流しながらも無理矢理に微笑んで観念したかのように
「何年も無駄にさせちゃったよね、ごめんね」
と全てを言い終え、これで終わりとでも言うようにまた顔を伏せ言った。
「ごめんなさい」

僕はさすがにムッとした。
「京ちゃん、子供できないんだ」

うん……ごめんなさい。

「悪いけどさ」
京ちゃんはそこから続く言葉の衝撃に耐えようと両手をギュッと強く握りしめた。

「どうでもいいよ」
京ちゃんは驚いて僕を見た。

「どうでもいいなんて言っちゃ悪いけど、僕にとって一番大事なのは京ちゃんだよ」これは本心。

「二番目に大事なのは京ちゃんと一緒にいること」これも本心。京ちゃんは少し呆けたような顔で僕を見ていた。

「高校の時に出会ってさ、もう僕は32だから14年も一緒にいるよね。でも無駄だったなんて思ったことは何一つないよ。だからさ、無駄だったなんて言わないでよ」これも本心だった。

でも直ちゃんは子供ができたときの事を考えてIT関連の仕事を諦めたじゃない。

「いや、僕は木工芸の仕事が好きだからだよ」僕はちょっぴりウソをついた。

確かに京ちゃんの言う通り僕は大学を卒業したらIT関係の仕事に就くつもりだった。そしていくつかの会社をめぐり二年後くらいには起業するつもりだった。
だけど京ちゃんは大学でも成績優秀で本当に日本一の商社に就職するのも全くの夢ではなくなっていたから、僕は二番目に好きな木工芸の道へと進むことにした。京ちゃんは商社に勤めることになるだろう、そこで子供が出来たら?京ちゃんのキャリアはそこで止まるだろうね。日本はまだ女性が子供を育てるために一年ほど休職してからまたキャリアを継続するなんてあり得なかったからね。

だから僕はその時の為に、子供が出来た時の為に木工芸の道を選んだ。IT関連の仕事を続け起業なんかしたら子育てのために一度休業するんなんて難しいだろうね。そうなると京ちゃんは自分のキャリアをあきらめて僕の仕事を優先して子育てに専念するだろうからね、そんなことはしてほしくなかった。それに木工芸とITなんてアナログとデジタルの真逆の仕事に思えるだろうけど、センスがとても重要なクリエイティブな仕事と言う点では同じだし。

私でいいの?京ちゃんはまだ泣いていたけどさっきまでとは違う涙を流していた
「違うよ、僕は京ちゃんがいいんだ」

一緒にいてくれるの?
「違うよ、一緒にいて欲しいんだよ」

京ちゃんは両手で顔を覆って子供の様に声を上げてさらに泣きじゃくった。
「京ちゃん、僕と一緒にいてくれる?」

京ちゃんは両手で顔を覆ったまま泣きながら頷いてくれた。

僕は「結婚しよう」って言った。
京ちゃんは両手で顔を覆ったまま二度三度と大きく頷いた。
僕はそんな京ちゃんを抱きしめた。
僕も泣いていた。
嬉しくて。

それから僕たち二人の距離感は違うものになった。
ずーっと一緒にいた。朝ごはんを作って一緒に食べて、映画を見てショッピングに出掛けカフェでケーキの食べ比べをして公園でのんびりして買い物をして帰り、晩ごはんを作り二人で食べて飽きるまで映画を見た。二人の一番のお気に入りはトムクルーズとエリザベスシューのカクテル。
僕は「ブライアンがエリートビジネスマンになって二人は幸せに暮らすんだろうなって思っていた」って言ったら京ちゃんまだまだ分かってないわねって笑って言った。そして二人は愛し合った。僕たちは怠惰で淫らな生活を送った。

何をしてもいつまでも飽きないというより、一緒にいることが楽しく一緒にいられることがただ嬉しかった。
二人の間に挟まっていたけど二人とも気が付いていなかった小さなカケラが消え去って、二人の間には距離感がなくなった気がした。僕たちは長い間一緒にいたけど、やっと本当の意味で一緒になれた気がした。
京ちゃんは次のプロジェクトまでは月曜に定型文のようなお定まりの報告書を提出するだけ。僕は工房に当分休みますとだけ伝えて僕たち二人は1か月間、人生で一番幸せな時間を過ごしていたんだ。

そんな甘美な生活も終わりの時が来た。
京ちゃんが本社の専務に呼び出された。いつもは直属の上司である課長か、せいぜいがその上の部長だったのに、今回は専務に呼び出された。
京ちゃんは次会う時は橘課長かもね!なんて言って凛としたスーツ姿で嬉しそうに出社していった。僕は何度もプロジェクトを成功させてきた京ちゃんがいまだに平社員なのが不思議で、まあ商社って言うのはそういう物なんだろうって思ってたけど、これでやっと報われるんだって思った。

でも意外と早く帰ってきた京ちゃんは、ただいまの一言すらなく、どうだった?という僕の問いかけにも答えず、一人にして!と自室にこもってしまった。
自室と言っても僕らのマンションは2LDKで一部屋は寝室、もう一部屋をパーテーションで二部屋に区切っただけのものだけどね。

京ちゃんは泣いていたみたいだけど、僕はそっとしておいた。
キッチンでただ京ちゃんを待っていた。陽も暮れて夜になっても京ちゃんは出てこなかった。深夜の日付が変わる頃、やっと京ちゃんは部屋から出てきた。

お腹が空いたと言う京ちゃんに僕は炊飯ジャーのお米にほぐした鮭と胡麻を混ぜておにぎりを二つ作って、鍋にお湯を沸かして青菜の味噌汁を作ってあげた。
京ちゃんは静かにおにぎりをその小さい口でほおばり味噌汁を啜った。
京ちゃんは、美味しいと小さな声で言ったけど二つは食べられなかった。僕がもう一つのおにぎりを食べていると京ちゃんはゆっくりと話し始めた。

タイの寒村での仕事は貧乏くじだったの。どこの誰かが振りだした貧乏くじが巡り巡って私の上司の課長のところにたどり着いて、私はそのくじを手渡された。自分で言うのもなんだけど私はその貧乏くじを当たりくじに変えたの。小さな小さな当たりだったけどね。私の上司の課長はそれで味をしめたのかベトナムから来た貧乏くじも私に渡した。私はその貧乏くじも当たりくじに変えた。

それで課長は部長になり私が声もかけられない立場になると、代わりにやってきた次の課長も言い渡されていたように私にラオスから来た貧乏くじを投げてよこしたの。使えそうな便利な女がいるとでも言われていたんでしょうね。

ラオスの仕事は大成功だった。だって常務と政治家まで巻き込んだ仕事だったから。
だから次にやってきた課長もすぐに昇進して私の前からいなくなった。
次にやってきた課長は最初からインドネシアから来た貧乏くじを持っていた、もちろん私がそのくじを受け取った。
少し早いけどそのくじも当たるはずだし、あの課長もまた部長になるでしょうね。

私はそれでいいと思っていた。仕事は楽しかったし、喜んでくれる村人の顔を直接見れていたのは私だったし、私は本当にそれでいいと思っていたの。

でも専務に呼び出されてね、やっと認めてもらえたって思っちゃったの。タイの炭焼き工場の名前はイベチャコール、ベトナムのベニヤ工場の名前はクダプライウッド、ラオスの橋の名前はアソーブリッジで積層材工場の名前はイシダインダストリーだったけど、やっぱり見てくれている人はいるんだなって思ったの。

専務は私が携わったプロジェクトの詳細が記された書類を並べて言ってくれた。我が社でここ最近の目覚ましいプロジェクトを見るとキミの名前が入っているって。

私はハイって答えた。別にね、昇進したいってわけじゃないの。もちろんしたくないと言えば嘘になるけど、私の頑張りを見ていてくれた人がいたってことが嬉しかった。

でも専務は嫌悪感に満ちた顔で、キミみたいな人がいると会社の不利益になると吐き捨てるように言った。

私は何が起きたのか分からなかった。
貧しい人達を豊かにして会社に利益も持たらしたのに何がいけないのか分からなかった。
困惑して顔を上げた私に専務は言ったの。

キミは美味しいプロジェクトの匂いを嗅ぎつけるのだけは得意なようだなって。
私は反論しようとした、何から言っていいのかわからなかったけどとにかくそうじゃないってことを伝えようとした。

でも専務は何を言っても無駄だって、全部報告が来ている。キミは美味しいプロジェクトを見つけるのが得意でそこに入り込むのが得意なだけだってね。
誰がそんなことを?それを聞くのはダメだって事くらいはわかっていたけど、反論せずにはいられなかった。シルキーバレーは?大成功でしょう?と。

シルキーバレー?ああ、聞いている。インドネシアでアラビカ種を育てると言ってその実、大半は安いロブスター種らしいじゃないか。今年は失敗?来年にはそのロブスター種がアラビカ種に変わるとでもいうのかな?そもそもこれらのプロジェクトをキミが手掛けたというならなんでどこの工場にもキミの名前の一つも入っていないんだ?ラオスの件はどうかな?キミはホテルで豪遊していたそうだね。何かマシな弁明はあるかな?

ラオスと聞いて全てわかった。常務の娘の仕業だって。彼女はラオスの工場に自分の名前を付けただけじゃ満足できなくてプロジェクトの成果の全てを独り占めしたくて父親に掛け合ったのか、父親が橋に名前を付けられた政治家に自分の娘を紹介するときにもっと箔をつけたかったのかわからないけど、常務は専務に邪魔くさい一人の女社員を排除するよう指示したんだろうってね。

そこまで話が進んでいるならもう私にできることはないじゃない?
ラオスの件?常務の娘ならビーチリゾートを満喫していましたよ。
辛うじてそれだけ言えた私に専務は、ラオスにビーチリゾートはないよ、ラオスには海がないだろう?そんなことも知らなかったのかと鼻で笑った。

それを見て私はもう会社に居場所はないんだってわかった。今まで頑張ってきた成果は何一つ認められていなかったんだって、逆に私はその成果をかすめ取ろうとしてきたと思われているんだって。

私は専務に社員証を投げつけて部屋を出た。泣きそうだったから、涙を見られたくなかったから。惨めな負け犬だと思われたくなかったから。

だからもう終わり。
京ちゃんはそこまで話して、ごめんね直ちゃん。って言ってまた部屋に戻ろうとした。京ちゃんはショックが強すぎたのかフラフラしていたのが心配だったから、大丈夫?って声をかけたけど、うん、でも少し一人にしてってまた部屋にこもっちゃったんだ。

僕は京ちゃんが落ち着くまで待っていようと思ったけど京ちゃんの具合はドンドン悪くなっていった。次の日には発熱に頭痛、トイレに立つのも大変そうだった。ご飯を食べても吐いてしまうし食べることが出来るのは少しの果物と水だけ。
僕は病院に行こうよって言ったけど、京ちゃんは嫌がった。もう少し様子を見てからって。
僕は心配で心配でしょうがなかったけど、じゃあ1日か2日経っても良くならないようなら病院に行こうよって言った。京ちゃんはわかったそうするって言ってまた部屋にこもった。
僕は気が気じゃなかった。今すぐにでも病院に連れていきたかった。でも京ちゃんの意志を尊重することにした。でもそれは長くても二日だけ。
僕はキッチンで待った。ただ待っていた。京ちゃんの部屋を仕切るパーテーションをノックして声をかけたくなるのを我慢して京ちゃんが元気になって出てくるのを待っていた。

呼び鈴が鳴った。ドアを開けると小柄で小太りの男性が立っていた。歳は60前くらいで頭は禿げ上がりお腹がポッコリとしたみすぼらしい如何にもオッサンという感じの風貌だった。
オッサンは京ちゃんの会社の専務だと名乗った。そして京ちゃんと話がしたい言った。

こいつが!
僕は京ちゃんを苦しめている張本人を目の前にして怒りがこみあげて来たけど歯を食いしばって耐えた。弱って会社にも来ない京ちゃんをあざ笑いに来たのかと思ったから。

思わず、帰れ!と突き飛ばそうとしてしまうのを必死に我慢した。
僕は噛みしめる歯の間から押し出すように、何の用ですか彼女は今、具合が悪いんですがって言ったけどオッサンは彼女と話をさせてもらえないかと繰り返した。
僕は京ちゃんをそっとしておきたかった。僕はこのみすぼらしいオッサンを追い返したかったけど、京ちゃんの様子も見たかったから一応、京ちゃんの部屋の壁をノックした。

専務さんが来たよ、話がしたいって言ってる。

今は無理。

僕は京ちゃんの言葉をそのまま伝えた。今は、じゃなくずーっと無理だ!と思ったけどね。専務はそうですか、また来ますと言って帰っていった。その後ろ姿は肩を落としどこか残念そうでクビにした社員をあざ笑いに来た人とは思えなかった。

次の日も専務は来た。また彼女と話をさせて欲しいと言ってきた。
そうですか、でも京ちゃんはあなたと話をしたいとは思わないでしょう。そう言ったけど専務はどうしても話がしたと食い下がった。僕はダメですと跳ねのけた。
すると今度は専務の方が悔しそうに歯を食いしばりドアに顔を突っ込んで橘君!話があるんだ!出てきてくれ!と大きな声で言った。
僕は咄嗟に専務の肩を掴んで玄関から突き飛ばした。専務はよろめいて尻もちをついて僕を見上げた。よほど僕の顔が怒りに満ちていたのか専務は、これをとだけ言って京ちゃんの社員証を僕に渡して、おびえた様子で、また来ますとだけ言って逃げるように帰っていった。

僕は渡された京ちゃんの社員証を見た。社員証なのに少し笑顔で自信に満ち溢れていてこれからもこの会社で頑張っていきますと言う表情の顔写真があった。
わざわざクビを通達するためだけに来たのかと思うとこれを京ちゃんに渡すのは怖かった。
でも僕は京ちゃんの部屋をまたノックして返事を待たずに部屋に入った。

専務さんが来たよ、社員証を持ってきてくれた。

京ちゃんは、そうなの?自分で捨てろって事なのね。社員証を受け取るとゴミ箱に投げ捨てた。
そして倒れた。

京ちゃん!?顔は蒼白で、お水を・・と言うので僕は急いで水を汲んできた。京ちゃんはゆっくりと水を飲んだけど、途端に吐き出した。と言うより嘔吐した。朝に何とか口にした僅かなフルーツも吐き出していた。
京ちゃんはごめんなさいと言ったけど、僕はタオルで吐瀉物を拭ってすぐに救急車を呼んだ。

京ちゃんは色んな検査を受けているようだった、僕は気が気じゃなかった。どんな病気なのか僕に何かできることは無いのか、京ちゃんの為なら何でもする。
僕にできることが何かあって欲しいと心の奥底から願った。

看護師さんに呼ばれた。
看護師さんは少し笑っていて僕はイラっとした。
診察室に通されると口角を歪めて笑っているお医者さんがいて、僕はまたイラっとした。
京ちゃんがやつれ切っていたけど振り返って僕と目があったら少しホッとしたような表情になった。
僕が京ちゃんの隣に座るとお医者さんは開口一番こういった。

おめでとうございます。

僕は反射的に立ち上がってお医者さんに手を伸ばした。京ちゃんはビックリした様子で僕の腕に手をかけた。

直ちゃん?どうしたの?

どうしたのって、京ちゃんが苦しんでいるのにおめでとうって!?

それを聞いて看護師さんは笑った。お医者さんはもっと笑顔になった、そして言った。

おめでたですよ。

何がおめでたいんだ!早く治療してくれ!
そう憤る僕に京ちゃんは苦笑いで諭すように言った。

直ちゃん、違うの。座ってよ。

違うって何が!?

京ちゃんは恥ずかしそうに下を向いてしまった。
僕は何かおかしいと思ったけど、怒りはまだ収まっていなかった。今度はお医者さんの顔が苦笑いになり、看護師さんは口に手を当てて笑い始めていた。京ちゃんを見るとうつむいたまま僕の腕をつかんで恥ずかしそうに言った。

子供が出来たの。
え?僕は力が抜けて落ちるように椅子に座った。

子供?どこに?

妊娠しています、四週と言ったところでしょう。お医者さんが言った。

子供って?誰の?僕はまだ理解できていなかったけど、京ちゃんに腕を思いっきり抓られて、その痛みでやっと理解できた。
京ちゃんの子供!僕との子供!

本当ですか!?

ええ、妊娠初期のですね、症状と言っては何ですけど、人によるところが大きいですからね。彼女はちょっと重いかもしれませんので、お父さんもよくサポートしてあげてください。

お父さん!?

そうきいてますよ、とお医者さんは言った。

お父さん!?今度は看護師さんに向けて言った。
看護師さんはハイハイと言った感じに、お父さんですね。と笑いながら言った。

僕は京ちゃんを見て同じ言葉を繰り返そうとしたけど、さっきより強く腕を抓られた。

直ちゃん、ありがとう。

ありがとう?それは僕のセリフだよ。子供!僕と京ちゃんの子供!二人の子供!有頂天って言葉はこの時の為にあるんだろうね。僕の心は感謝で満ち溢れていた。誰に感謝してもし足りないくらいに幸せだった。僕はついさっきまで怒りをぶつけようとしていたことすら忘れてお医者さんに感謝の言葉を口にした。もちろん看護師さんにも。お医者さんは苦笑いで良かったですねと言い、看護師さんは逆に呆れている様子だった。
京ちゃんには思わず抱きしめていっぱいキスをした。さすがに京ちゃんに怒られたけど僕は笑っていた。それくらい有頂天だった。

とりあえずは治療も薬も必要ないことが分かって、産婦人科医から色々なアドバイスをもらって僕らは帰宅した。ポストには見たことのない封筒が入っていた、エアメールだった。裏にはタイ文字で何か書かれていて表にはヘタクソなひらがなで辛うじて【たちばなきょこ】と書いてあるのが分かった。
僕は京ちゃんに渡した。京ちゃんは封筒から一枚の手紙と数枚の写真を取り出した。
手紙を読んで写真を見て京ちゃんは涙を浮かべていた。
タイだよね?だれからの手紙?そう聞くと京ちゃんは読んでみてと手紙を僕に手渡した。
読むのは大変だった。カタカナならまだしも全部ヘタクソなひらがなだったから読むのは本当に大変だった。

【でいあきょこ】から始まっていた。
あなたかたてくれたすみこしょ。
むらはもかてる。
むらひとみんなあなたかんしゃしてる。
あなたは街へのどうろもつくってくれた。
でんきもついてむらは明るくあんぜんになった。
村のみんなはあなたに心のそこからかんしゃしている。
村にはがっこうもできました。
村のみなはきょこ小学校としようとしましたが日本のゆうしが入っていたこともありカワノコムスクールとなりました。
でも村はあなたへのかんしゃは尽きることもなければ忘れることもありません。
この学校に通いたいという隣の村の子供、山の向こうの村から来る子供を村の皆で援助しています。それが出来るのも京子が建ててくれた炭工場のおかげです。
学校を建てるときに学校の前、村の中心に大きな街灯を一つ立ててもらいました。
この街灯は村の中心に立ち村を照らすこの村の象徴です。
学校に通う子供たちは夜でも村を明るく照らすこの街灯をサープラウの塔と呼んでいます。
学校には図書館もあります。
子供たちは好きな時にいくらでも学ぶことが出来るようになりました。
全てあなたのおかげです。
サープラウの街灯は村の誇りであり、あなたへの感謝のしるしでもあります。
我が村の全ての人と、この村の学校に通う全ての子供、そしてその全ての両親はあなたへの感謝を惜しむことはないでしょう。
機会を与えてもらえるのならばサープラウ、村を希望で照らすあなたに直接感謝の意を述べたい。

そう書いてあった。
写真は街灯の前ではしゃいでいるような子供たちの写真
街灯の前で記念撮影をするようにきれいに並んだ大人たちの写真
街灯の周りをお祭りのように囲む村人たちの写真だった。
最後の一枚は街灯の前で学校の制服を着た子供とおそらくその親がかしこまって立っている写真だった。その写真には「私の娘、キョコ。村の学校の初の卒業生」と書いてあった。
京ちゃんは絞り出すように、良かった・・。って言った。

僕はこんなに多くの人から感謝されている京ちゃんを誇らしく思った。
でも京ちゃんは相変わらず具合が良くなくて、僕はこんな幸せなのになんで女性だけがこんなにつらい思いをするんだろうって思った。出来ることならその一部でも引き受けてあげたかった。
でも京ちゃんは言った、慈しむ様にお腹に手を当てて言った。

ここにいるの。

そう言った。僕は思わず泣いてしまってありがとうって言った。
京ちゃんもお腹をさすりながらありがとうって言ってくれた。
その後、京ちゃんは池袋に行きたいって言った。僕らが出会った場所に。
僕は行こうって答えた。二人で池袋に行って、二人が出会った場所で改めてプロポーズするんだって思った。
京ちゃんは僕の意図を汲んでくれてありがとうって言ってくれた。
続く様に、うまくいかないね、とも言った。
京ちゃんが会社をクビになったことを言っているというのはすぐに分かった。僕は京ちゃんが言いにくいであろうことを代わりに口にした。
産まれたら京ちゃんのご両親を頼ろうって。僕の両親はもういなかったからね。お金は僕が稼ぐから心配しないでって。
京ちゃんはありがとうって言った。僕も、ありがとうって言った。

次の日、また専務が来た。
僕はこの幸せな気分が汚されるような気がして追い返そうと思い、もう来ないでくれと言いかけたところで専務はいきなり土下座した。橘君に謝罪したいって言った。殴られてもかまわないが謝罪だけはさせて欲しいとマンションの玄関で土下座した。
僕は困惑してそれを京ちゃんに伝えると京ちゃんも同じように困惑していた。

キッチンの椅子に座った三人。専務と僕と京ちゃん。
専務はいきなり椅子から降りて床に土下座して申し訳ないと京ちゃんに謝った。京ちゃんはビックリして専務に立つように促したが専務は土下座したまま謝罪の言葉を繰り返した。意味が分からない二人に支えられるように専務はやっと椅子に座り直し、いくつかの書類をテーブルに広げた。
僕はよくわからなかったけど、どうやら京ちゃんが関わったプロジェクトに関するものだったみたい。

何故京ちゃんが関わったプロジェクトが全て成功しているのか?
京ちゃんが優秀だったからプロジェクトが全て成功したのか?
京ちゃんが成功するプロジェクトを嗅ぎ分けてそこに入り込むのが得意だったのか?

普通に考えれば後者だろうね、一介の女性社員がこんなにプロジェクトを成功させるわけが無いってね。専務もそう考えたって素直に白状した。

でも、きっかけになった常務の娘の諫言。
京ちゃんの言ったビーチリゾートと言う言葉が気になって常務の娘のパスポートを調べたんだって。
そうしたら常務の娘はラオスじゃなくベトナムにいたことが分かった。
そこで専務は改めて各工場に名前を冠することになった京ちゃんの上司たちを調べてみたら誰一人現地に行っていないし、現地の京ちゃんと協議している様子さえ見られないことに気が付いた。
つまり京ちゃんが新卒の部下しか付けられない中で、ほとんど自力で全てのプロジェクトを成功させてきたんだってわかった。
専務はまた椅子から降りて土下座しようとしたけど、二人で何とか止めた。いちいち土下座されたら話が進まないからってね。結局のところ、専務はクビにして申し訳ないって言いたいだけなんだ。クビと言う結果は変わらない、専務は自分がすっきりしたいだけなんだってね。でも専務の言葉は違った。

京ちゃんを自分の直属の部下にしたいって言った。
常務の妨害はあるだろうけど私がなんとかする、あなたはわが社で最も優秀な社員の一人だ。シルキーバレーの件も改めて聞いている、今までにない形のブレンドコーヒーだそうだね。試飲した大手コーヒーショップからは引き合いが殺到しているらしい。レポートも読ましてもらった、マングローブの炭工場を止めてコーヒー農園に変更したんだろう?それは非常に良い判断だと思う。
専務はそう言って跳ねるように土下座した。でも今度は謝罪ではなく懇願だった。私の部下になって欲しいと床に頭をこすりつけていた。
二人で何とか椅子に座らせると、専務はいまマレーシアでプロジェクトが進んでいるのでそれに加わって欲しいと言った。

僕があからさまに不満を顔に出すと専務は弁明した。
違うんだ、これはほとんど完成しているプロジェクトなんだ。橘君にはそこに加わってもらって今までの功績を足して課長に昇進してもらう。そして私の直属の部下になってもらいたいんだ。末席とはいえ取締役の私の下に付くのに平社員では変な陰口の元になるかもしれないのでね。でも君には私の元ですぐに部長になってもらいたい。そしてプロジェクトを進められる社員、特に女性社員の育成に力を貸してほしいんだ。
そう言って専務は椅子から降りてまた床に頭を付けた。

それを見て僕と京ちゃんは同時に小さく頷いて二人で同時に言った。
あのー子供が出来たんです・・・。
専務さんはがっかりするだろうと思ったけど、全く逆だった。
我が事のように、まるで孫が出来たと言われているみたいに一緒に喜んでくれた。僕は良い人だなって思った。この人の元でなら京ちゃんを安心して任せられると思った。

僕は仕事を辞めようと連絡を入れたけど、逆にとっくにクビになっていると怒鳴られた。確かに何度も電話がかかってきていたけど、無視していたしね。まあどうでもよかった。当面は二人の貯金で何とかなるし。
僕と京ちゃんは池袋に行こうと駅に向かった。もちろん車で行くことも出来たけど、高校時代のように電車で行くことにした。バイクはもう無かったからね。

二人でホームに立って電車を待っていた。僕はポケットに何年も前に買った指輪を忍ばせ京ちゃんにプロポーズする場面を思い描いていた。サンシャイン通りから少しずれたジーンズメイトの前。いまでもあるのかな?あそこが僕が京ちゃんを始めて見た場所。京ちゃんは店の前に並んだ安売りセールのシャツを選んでいた。周りにも女の子はいっぱいいたけど僕は京ちゃんを見た瞬間にビビッときたって言うか、叩きのめされたというか、もう京ちゃん以外は何も目に入らなくなってた。

僕はすがるような思いで声をかけた。

いつもだったらさ、シャツ選んでいるの?これなんか良いんじゃないかな?キミが着ているところを見てみたいな、プレゼントするよなんて適当なことを言うんだけど、とてもじゃないけどそんな軽いことは口にできなかった。
しどろもどろで映画を見に行きませんかって言った。京ちゃんはでかい図体の男がそんなに慌てふためいていることを面白がってくれたのかオッケーしてくれたんだ。
プロポーズするのはあそこだって思ってた。

電車が来たって思って電車の方に目を向けて、振り返ったら目の前に京ちゃんがいた。
え?って思ったけど、京ちゃんも「え?」って感じにこっちを見ていた。
そこに電車がぶつかって京ちゃんの顔がぎゅーってなって……京ちゃんが居なくなっちゃったんだ。
京ちゃんはどこにもいなかった。僕は一生懸命探したけど、やっぱり京ちゃんは見つからなかった。
でも運良くさ、左手だけは見つけたから僕は指輪をはめてあげたよ。
京ちゃんは小さくありがとうって言ってまたいなくなっちゃった。

僕は警察署に連れて行かれたからそこにいた刑事さんに、京ちゃんがどこに行ったか知っていますか?って聞いたんだ。
刑事さんは僕を睨みつけて胸ぐらを掴んできたけど、僕はまた聞いた。
京ちゃんがどこにもいないんですよ、探してくれると助かるんですけど。
そしたら刑事さんは僕の胸ぐらを掴んだまま今度は締め上げて、お前が殺したんだろうが!イカれたフリしたって無駄だぞ!って。
でも僕が京ちゃんを殺すわけないじゃない、さっきプロポーズしたばっかりだしもし僕が殺したのならお腹の赤ちゃんも殺す事になるから二人殺したことになりますよって言った。
刑事さんはいい度胸してるなお前って言うけどそもそもなんで京ちゃんが殺されたことになってるのかわからないよね。

電車の運転手さんが見たんだってさ。
電車に飛び込んで来る人はだいたい分かるんだって。
電車がホームに入ったときに身を守るかのように少し前かがみで、ややうつむいて電車を見ている人。こういう人はヤバいんだって。
そういった人が電車の接近に合わせてギュッと目を閉じて下を向いたら十中八九飛び込んでくるんだってさ。だからといってどうしようもないみたいだけど。
でも、目をそらない人はダメなんだって、絶対に飛び込んでくる人なんだってさ。
ずーっとね、電車の前に飛び込んでもずーっと、最後の瞬間まで自分を殺す人を見ているんだって。
でもあの女性は違ったって。急に飛び出してきて、女性もビックリしたように後ろを振り返ってた。
自殺とは思えないし、突き飛ばされたんじゃないかって。それで突き飛ばした相手を見ていたとしたら、運転手さんには女性は僕と目があってるように見えたんだって。
京ちゃんが突き飛ばしたヤツを見ていたなら、ああそれは僕の左にいたおじいさんだよ。薄茶色のズボンを履いてグレーのカッターシャツを着た背の低いおじいさんがいたよ、京ちゃんは僕の少し横を見ていたからね。きっとあのおじいさんだよ。

刑事さんが絶対か?間違いないか?って言うから絶対間違いない、あと顎髭を生やしてた、2センチくらいのって教えてあげたよ。
でも刑事さんがノートパソコンで見せてきた防犯カメラの映像にはそんなおじいさんは映っていなかったんだ。
僕の言うおじいさんが映っていないどころか僕の隣には誰もいなかった。そこだけポツンと抜けたみたいに誰もいなかった。

刑事さんは僕の隣に来て耳元で言った。
子供ができたって言ってたけど、子供なんかほしくないお前と彼女の仲は険悪になっていって、もうどうしようもなくなったお前は……ドンッ!
刑事さんは机を叩いた。
二人一緒に始末できると思ったんじゃないか?
お前、ろくに定職にもついていないんだってな?最近クビになったそうじゃないか。それじゃあ子供なんて生まれたら大変だよなぁ、彼女は仕事していたのか?会社員?どこの?ほほぉすごいなぁ、エリートじゃないか。でも彼女の遺留品から社員証とかは何も出てこなかったぞ?嘘をついてもすぐにわかる。あとから嘘をついていたって分かったら裁判の時の心証は良くないぞ。
ろくに稼ぎもない二人、そこに子供なんて大変だよ、無理だよなぁ。だから切羽詰まって追い詰められてつい押したんだろ?押して楽になりたかったんだろ?だから押した。ならスッキリしてもう一度楽になればいいんじゃないか?なぁ、押したんだろ?

「僕じゃない!!」思わず僕は叫んで机を叩いて立ち上がっていた。
なんで京ちゃんが殺されたなんて言うんだ!!

刑事さんがおいおい落ち着けよって言ってきた。
刑事さんは指を一本立て車掌は誰かに押されたようだって言ってる。
二本立てた、君が言うおじいさんはどこにもいない。
三本目、そして君は定職についていない。
四本目、彼女も同じだろ?
刑事さんは拳を握って脅かすように僕の眼前に据えて、彼女は産みたがったが君は嫌だった。育てられるわけがないと思った。そしてつい、押してしまった。ほんの出来心だ。裁判でもそこらへんは汲み取ってくれると思うぞ。
僕は何度も何度も違うって言った、僕じゃないって何度も言った。
刑事さんはやっとわかってくれたみたいで、お前じゃないのか?本当に押していないのか?絶対押していないって誓えるか?
僕は絶対に押していない!って言った。
間違いないか?って念を押された僕は、絶対に押していない!間違いない!って言った。
そしたら刑事さんはノートパソコンの画面を僕に見せてね、僕の隣のポツンと開いたところを指さして、さっきも絶対間違いないって言っていたけど、嘘だったじゃないか。
そして動画を再生させた。

京ちゃんが突き飛ばされて電車に撥ねられていた。
そこだけ何度も何度も再生してた。
京ちゃんは何度も何度も突き飛ばされて
何度も何度も撥ねられてた。

僕はぜったいにあの小さいおじいさんのしわざだと思うんだ、あのおじいさんは間違いなくいたんだよ。
でもおじいさんはそこにはうつっていなかった。僕が間違っていた。
でも僕はやっぱりおしてないんだ。それはまちがいない。
婚約指輪を買ってきてプロポーズしに行くところだったんです。僕はゆっくりすわりながら教えてあげた。

刑事さんにはよく聞こえなかったみたいで言いたいことがあるならハッキリ喋れって言われた。

指輪を用意していたんです、プロポーズするところだったんです。

ふーん、指輪ね。見せてもらえるか?

僕はポケットを調べはじめた。

お前の所持品は全て調べたが指輪なんか持っていないだろ!

あ、そうだプロポーズはもうすませたんです。ついさっき。

刑事さんはすごい力で僕の顎を掴んだ。思わず、いたいですって言った。
刑事さんは続きは明日だ、よく考えておけって言ってた。

僕は警察の檻の中でゆっくり考えてみた。
京ちゃんと喧嘩なんかしていない、絶対にけんかなんかしていなかった。
でも、やっぱり僕がまちがっているのかもしれない。
僕はおじいさんがいたのを見た、まちがいなくいた。
だけど映像にはおじいさんはいなかった、僕はまちがっていた。
僕は京ちゃんを押したりしていない。
でもやっぱりぼくは京ちゃんがきらいになっておしたのかもしれないって、おもった。

でも次の日、僕は釈放された。
やっぱり事故だったんだって。刑事さんたちが話しているのが聞こえた。

あいつですよ、もうすぐ折れますって。

いや、あれは違う。被害者女性の上司が来たんだがあいつの供述は全部本当だった。

え?被害女性は本当にあの商社の社員だったんですか?

ああ、それであの男は育児に専念するために仕事を辞めたんだとさ。貯えも十分あるようだしな、あの男が殺す理由は何一つない。

でもあいつ、小さいじいさんがいたとかプロポーズしたとか普通に嘘ついてましたよ。

それは分からんが、目の前で大事な人が電車に撥ねられたんだぞ。取り乱しもするだろ。女がいなくなったとか言ってたんだろ?あんなのをこのまま署に置いておくのはマズいだろ。

僕は京ちゃんの会社の専務さんに付き添われて追い出される様に警察署から出た。
専務さんはニュースで僕が殺人容疑で逮捕されたのを見て駆けつけてくれたんだって。
大変だったね、ホント残念なことになった。でもキミはもう大丈夫だよって言ってくれたけど、僕は早く京ちゃんをみつけてあげないといけないんですっていって別れた。
でも京ちゃんはどこにもいなくてどこをさがしてもみつからなかった。もしかしてと思って所沢の京ちゃんの両親の家に行ってみたんだ。やっと子供が出来たし、ちょっときげんが悪くなったり不安になったりして両親にあいにいったのかもしれないっておもったんだ。
呼び鈴を押して後藤です、京ちゃんはかえってきてますか?って聞いたらドアが開いて京ちゃんのお父さんに思いっきりなぐられた。お母さんはひとごろし!って叫んでた。
僕はなにが起きたのかわからなくてこわくなったけど京ちゃんはここにはいないってことがわかったから家に帰った。
家で、京ちゃんが撥ねられるところを何度も何度も見て京ちゃんがどこに行ったのかずーっと考えてた。


「岸くん、京ちゃんはどこに行ったんだと思う?」後藤の顔はまだマネキンのままだった。

「後藤・・お前・・俺は知らなかったんだ、すまない」
岸の目は涙を溜めていた。

「うーん、岸くんもわからないか、それもそうだよね、岸くんが知っているはずな・・・」
岸は親友の腐り落ちた死人のような表情に堪り兼ねて遮った。

「後藤、京ちゃんは死んだんだろ・・・・なあ?」そう岸に言われた後藤はようやくマネキンから解かれ飯時のいつものゆるい笑顔に戻り表情で岸に答えた。

「ああ、そうそう京ちゃんは死んだんだよ、岸くんよく知っていたね」
後藤は「あとは大丈夫、洗い物はやっておくから岸くんは休んでいていいよ」と言った。


岸が逃げるようにキッチンを後にすると後藤は食器を洗い始めた。
食器に水をかけ流し、納豆を入れた器をまず水で流しながら指で拭う様に洗い始めた。
やっぱり朝ご飯には卵がないとダメだよね。京ちゃんもそう思うでしょ?京ちゃん目玉焼きが好きだったもんね。でもさ、焼くだけだよ、いつでも焼いてあげるよ。

後藤に前には血まみれの女性が立っていた。
なんだ京ちゃん、そこにいたんだ。まだ左手は見つからないの?。大丈夫、ここにあるよ。でも京ちゃんさ、その前にその潰れた頭じゃキスもできないよ。
分かってる。分かってるよ。あのおじいさんを殺すんでしょ。そうすれば京ちゃんが見つかるんだよね。
あれ?目玉焼きが、好き・・・だった?
京ちゃんの頭がぎゅーってなってさ、いや、違うよ。左手ならここに・・あれ?

後藤はぶつぶつと独り言を呟き続けながら食器を洗っていた。

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