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第九話 茄子の揚げおろしもたべちゃう!の巻

田中はドアを開けた。そこは天井にLED照明が据えられ店内?よりも明るかった。
正面に閉じられたシャッターがあった。おそらくその向こうは道路だろう。
右手の階段は二階に繋がっているようだ。階段の下にはまたドアがありこれがトイレだろう。そのわきにはブーンとうなりを上げる大きな業務用冷蔵庫があった。他のスペースにはラックが備えられており雑多な物が陳列し、周囲には様々なケースが置かれ、そこにも様々な酒が収められていた。
田中は一通り見渡した。特に怪しいものはない。(刑事でもあるまいし)田中はやや自嘲気味にそう思った。
こういった行動は警官としては必要な習性だろうが、ハコヅメの警官にはあまり必要のないスキルだった。
しかし今後渡部と組んで捜査一課で働くことになるのだから、日常でもこういった目線は磨いておいて損は無いだろう。
田中は階段下のドアを中に入った。中は狭く洗面所がありさらにドアがありその奥には洋式トイレがあった。
田中はトイレに入り用を足しながらあの店主にどう切り込むかを考えた。出来るだけ自然な流れでエビス屋の事を聞き出したいのだが・・。
田中は答えの出せぬまま用を足し終え洗面台で手を洗う。トイレから出ると金髪碧眼の外国人男性が立っていた。
「エビス屋サン?」
田中は思わず聞き逃せない言葉を発した金髪の外国人男性に問い詰めるような目を向けたが外国人男性は「ん?」と言った表情を浮かべただけでトイレに入っていった。
金髪碧眼の外国人男性は田中にとって今一番気がかりな言葉を残してトイレに入っていった。
なぜあの男性は田中に「エビス屋?」と言ったのだろうか。それは聞いておいた方が良いだろう。
幸いにも燗するための酒を探す必要があった。まあもうすでに見つけてはいたが、外国人男性がトイレから出てきても、田中がまだここにいる理由の言い訳には出来るだろう。
ドアの向こうでトイレを流す音が聞こえ手を洗う音がした。ほどなくして外国人男性が濡れた手をハンカチで拭いながらトイレから出てきた。
男性は田中に(なんでまだいるんだ?)と言う少し不審そうな顔を向けてきたが田中は慌てることなく、いかにもこの店は初めてなんですと言った雰囲気をまとわせ「熱燗の酒ってどれですかね?」と聞いた。
男性は「エビス屋さんチガウか。サケはソコにアルヨ」男性は冷蔵庫脇に置かれたケースを指さした。
そこにはラベルに巻機と書かれた一升瓶が入っている。それは既に分かっている。聞きたいのは別の事、なぜ田中にエビス屋と言う言葉を発したかだ。
「ああ、これですね」田中はケースに近寄り巻機の一升瓶を手に取って振り返った。
「どうも。でもエビス屋さんって言うのは?」
「エビス屋サンに、アタラシひと、入ったのかってオモったね。でもサケわからない、チガウね」
「私が?エビス屋さんって言うのは?誰です」田中は知らないふりをして単刀直入に聞いた。酒を楽しみに来た人間が居酒屋の物置然としたところで見ず知らずの男と話し込むことに楽しみを覚えることは無いだろうからだ。ここでの話は早く済ませた方が良いだろう。
「エビス屋サン、リカーショップ。タイショにお酒持ってきてくれる。タイショのカウンターの四つ椅子に座れるノは四人ダケ。あの小さのオジさんと・・」
男性はそう言ってドアを顎で示した。小さいおじさんと言うのは砂場と言う老人の事だろう。
「・・タイショのオヤさん。あとエビス屋さんのキシさんとゴトさんだけ。だからエビス屋さんにアタラシひと入ったと思っタヨ」
タイショ。大将。カウンターの中の松と言う男性の事だろう。その親?あのもう一人の老人は佐川と呼ばれていたが。まあ可能性はないわけではない、タイショは佐川と言う老人の娘と結婚したという事か?
「親?親子なんですか?」
「チガウ、チガウ、オヤさんオヤさん」男性はそう言って指で上を指した。
佐川と言う老人はおそらく落ちぶれた元暴力団組長、砂場はその元構成員。松もその一人だったというところか。しかし先ほど松は「組長」と発した砂場に咎めるような顔を向けていた。それを客の外国人が知っているというのも腑に落ちないところがある。
それでも田中は笑みを浮かべて理解したように頷いた。あまり根掘り葉掘り聞いて不審がられるのも得策ではないだろう。
「そ、オヤさん」男性はそう言ってまた酒を楽しむべくドアから出て行った。田中も後に続いた。

田中が再び店内?に戻ると砂場という老人は姿を消していた。砂場が佐川と言う老人を「組長」と呼んだ時に松はわずかなに咎めるような含みのある物言いをしていた。「そろそろ・・(帰れ)」と。
砂場は松に追い出されたというところか。
頭上から暖房器具の目には見えない暖かい熱線が浴びせられる。このままいなくなった砂場が座っていたところに席を移したいが、それは松の機嫌を損ねる気がする。彼が機嫌を損ねれば後藤の事を聞くのもそれだけ難しくなるだろう。田中は後ろ髪を引かれる思いで松の目前の一番端の席に戻った。
田中は松に手にした一升瓶を向けた。
「どうも」と、松はカウンター越しに一升瓶を受けとると代わりに湯気の立つ椀を田中に差し出した。
「茄子の揚げ下ろしです、嫌いでなければどうぞ」
田中は差し出された湯気の立ち上る椀を両手で受け取って席についた。
この寒空の下では湯気さえ旨そうに見える。
湯気の立つ椀は汁で満たされ皮が剥かれ四等分ほどに切られた薄緑色の茄子と厚揚げ、ナメコが入り三つ葉が散らしてあった。
「どうぞ」松がスプーンを指しだしてきた。田中は礼を言いスプーンを受け取った。
松が一升瓶の栓を開けポンっと子気味のいい音が響いた。

汁椀に入る茄子は薄緑色で皮は手で剥かれたようだ、一度油で揚げてから皮を剝いたのだろうか。田中はスプーンで茄子を掬い取り熱さを和らげるべくフーッと吹いてから口に運んだ。
茄子は好物だ。だが火の通りすぎた茄子は茹ですぎた蕎麦のようだし、火の通りが足らない茄子はスポンジのような歯ごたえを残す。あの焼き鳥の後ではそんな心配はしてはいないが。
熱い。しかし寒空の下にいる今はこの熱さも旨味の一つだった。途端に口の中に出汁の香りが広がった。茄子を噛む。
揚げ茄子の僅かな香ばしさと、茄子の吸った揚げ油と出汁の旨味が口に広がった。茄子の揚げ加減は絶妙と言ったところだった。僅かにザラつく舌ざわりのする汁は大根おろしだろう。所謂茄子のみぞれ煮だ。
もう一掬い。今度はナメコと熱い下ろし汁が乗った。口に運ぶと出汁の強い旨味が広がる。しかも何より暖まる。
もう一掬いと厚揚げを半分に切ろうとスプーンを縦に当てるが切れない。豆腐に衣を付けた揚げ物かと思ったが違う、これは餅だ。揚げ餅だ。切らずにそのまま口に入れた。
雑煮の焼餅とは違い、揚げ餅の表面が吸った出汁がまた口中に広がった。旨い。もちろん旨いが何より暖まる。暖まるのもまた旨い。
散らしてあるのがアサツキでも小ネギでもなく三つ葉と言うところが、また憎い。もう一掬いと茄子と三つ葉を口に運んだところで松が小さなコップ酒を差し出してきた。
「どうぞ」
田中が差し出されたコップを手にすると冷たくコップを満たす酒は僅かな量だった。テイスティングと言ったところか。
寒かった。確かに寒かったがこの茄子の揚げ下ろしで暖まろうとしているところに熱燗ではまさしく過ぎたるは及ばざるがごとしと言った感がある。
湯気の立つ茄子のみぞれ煮を前にする今はこの寒さも旨味の一つと言った感があるところに、頼まれた熱燗ではなく敢えて冷酒を出してくるこの松と言うこの男性。田中は焼き鳥の旨さも思い出し、一見の客にこれほど気遣いができる人物がこんな安居酒屋を営んでいるのが不思議に思えた。
「茄子は、お嫌いですか?」松が言った。
「いや、茄子は好きです」田中は笑いながら首を横に振って答えた。
「それよりこの餅が。揚げてあるんですよね?」
「ええ、前は揚げ出しの豆腐だったんですけどね、ウチの出入りの酒屋が餅の方が良いと言うので揚げ餅にしてみたんですよ。まあ好評です」
田中は「出入りの酒屋」という言葉に反応して問い返そうとしたが松は顔を横に向け外の外国人に言った。
「鶏唐上がったよ!」
再び道路で酒を楽しむ外国人たちから小さな歓声が上がり全員が松に目を向け、そのうちの二人がカウンターに歩み寄ってきた。
松は一人に大皿に盛った唐揚げ一皿と山に持ったレタス、もう一人には鶏唐と揚げ野菜の甘酢和え、さらにマヨネーズのボトルを手渡した。一人がマヨネーズのボトルを脇に挟み隣の皿から唐揚げを一つ摘まみ食いすると座って待つ外国人たちからたちまちブーイングが起きた。
田中はそれを見ながら笑って「大人気ですね」と言うと松は「腹の減っている貧乏外人さんは、こんな物でも喜んでくれます」と返した。
こんな物。と松は言ったが焼き鳥もこの茄子のみぞれ煮も本当に旨い。あの唐揚げも本当に旨そうだ。山ほどのレタスを添えるのもまたいい計らいだ。甘酢和えの皿から漂ってきた酸味の香りを肴に田中はコップ酒を口にした。
酒はさっぱりとしたやや辛口で口当たりは上々カラりとした感で、出汁の効いたみぞれ煮とちょうどいい塩梅だ。田中は日本酒はあまり嗜まないかったが心に「巻機」とメモを残した。
田中はもう一掬い餅を口に入れる。揚げ豆腐ではなく腹に貯まる揚げ餅であるところが寒さを和らげてくれる。さらに汁を一掬い口に運んだ。
出汁の香りと共に三つ葉の香りが口に広がった。小ネギでもアサツキでもなく三つ葉と言うのが良い。
「付けますか?」松が聞いた。
「いや、冷で少しいただけますか」田中が答える。燗酒もいいがこの熱い汁物に合わせるのは冷酒の方が良い。元日の初詣での温かい甘酒は寒いからこそ旨いものだ。それと同じでこの寒空の下での熱い汁物は格別に旨い、その旨さには熱燗はまだ早い。
松が伸ばした手に田中は空にしたコップを返した。松はコップに僅かな酒を注ぎ田中に返した。ケチっているわけではないだろう。すぐに汁物の旨さより二月の夜の寒さが勝ってくる、そうなれば熱燗の出番だ。憎い。

「で、今日は何しに来たんですか?」松が聞いた。
「え?」田中は思わず松に顔を向けたが松は横を向いたまま「メシは!?」と外国人たちに声をかけた。
三人が手を上げた。オカズと言う概念のない食生活を送る欧米人には唐揚げに白飯は不要らしい。
松は炊飯ジャーの蓋を開け茶碗に飯を盛りつけながら続けた。
「あの二人は、もう堅気ですよ。いや、堅気と言うほどではないかもしれませんが、とっくに引退してます。刑事さんに目を付けられるようなことはしていませんよ」
視線の厳しかった東南アジア人が三杯の茶碗飯を受け取りに来た。
「足りなかったら言ってくれよ」松は笑顔で盆にのせた三杯の飯茶碗をアジア人に渡すと、厳しい視線を田中に向けた。
「いや、私は・・・」あの二人はやはりヤクザだったのか。しかしどういうことなのか。田中は言い逃れようとするかのように松を見たが、やや首をかしげて田中に向ける顔は「何しに来た」と詰問していた。
田中は動転し思わずそむけるように顔を伏せた。
私は刑事ではない。刑事ではないが警察官ではある。しかしあの二人の事は何も知らなかった。やはり松も元構成員だったのか?いや松は「あの二人は」と言っていた。しかし松がヤクザかどうかは今は関係ないことだ。
誤魔化すか?その思いが頭をかすめたがおそらく無駄だろう。エビス屋の事を聞くためには・・・。
「あの、私は警官です。でもあの二人の老人のことは知りませんでした」下手な言い訳をして疑念を持たれるより素直に白状したほうが得策だろう、まだ可能性はある。
「では、何しに?」松の首が更に傾いた。全く信用していないというのがその表情からも読み取れた。
「実は、ここに出入りしている酒屋さんに少し迷惑をかけてしまって・・・」
「エビス屋に?」
「ええ、エビス屋さんの仕事を邪魔してしまったもので、謝罪したいと思って。もしかしたらと来てみたんです」
「エビス屋の、どっちに?」そう問い詰める松の首は傾いたままだった。
「そうですね、後藤さんと岸さん両方に」
「うーん・・」松はまっすぐに田中を見据えた。謝罪したいと言って名前も知らないのではおかしな話だろう。テストはギリギリ合格と言ったところか。
「うーん、まあナオキだろうなぁ」松は鼻で笑って言った。
ナオキ。後藤直樹だ。もう一人は岸孝之。何とか繋がった。
「そうです、仕事の邪魔をしてしまって、後藤さんにはだいぶ気分の悪い思いをさせてしまったと思います・・」
「で、謝っておきたいって?」右の口角を上げて松が聞いた。
「はい、そういう事です」
「あなたは警察官だろ?何をしたら謝りたいなんて思うんだ?」
「いや、失礼と言うか・・」
「失礼か」松はハハッと笑って続けた。
「まあキシはまだしもナオキのヤツだろ?」
そういう松は店の表でエビス屋と制服警官との一悶着をこのビルの二階からそっと見ていたのだ。
ナオキのヤツの怒声が聞こえてきて何事かと細道から道路を覗き込んだがよくわからずビルの二階に上がり上からキシとナオキ、それに小柄なメガネと大柄な落ち着いた感じの二人の警官のやり取りを少しの間だけ見ていたのだ。
あの時の大柄な方の警官だったのか。松はそう思ったがこれはこの警官がエビス屋の事を話したからだ。それまでは本当に刑事だと思っていた。店に着た時からのそれとなく周りをうかがう様子。佐川さんと砂場さんをそれとなく観察する視線。砂場さんの「組長」という言葉に僅かに反応したがそれを抑えようとしていた感じ。なによりトイレから出てきたピエールが何か合図をするようにひそめた眉を見せつけてきたからだ。
「後藤さんというか、まあ二人の仕事を邪魔してしまいましたし」
「あいつらならそんなこと気にしませんよ」松は気にするな大丈夫と言った風に頷いた。
「かもしれませんけど」
「今日は来ませんかね?」田中は一縷の望みをかけて聞いてみたが「来ないでしょうね、今日の昼間に配達に来たばっかりですしね」知っているだろう?という態度は抑えたまま松は答えた。
「ですよね」田中は小さく口にし視線を落とし神妙そうに俯いた。
いっそのことエビス屋の住所を聞いてみるか?いや無理だろう。もし聞けたところで今から謝罪に行くか?いや、明日になるか。それで突然昨日一悶着あった警官に来られた彼らはどう思うだろうか。グーグルマップにも載っていない店の場所がなぜわかったのだろうかと不審がるだろう。
松に聞いたというのは逆効果だ。なぜそこまでと不審さを増すだけだし、何より彼らと松の間に靴の中に入り込んだ小さな石ころのような不快感を芽生えさせることにもなる。それは避けたい。
「明日か、うん、明後日にはきますよ」どこか慰めるような口調で松が言った。
「それは仕事で、ですか」助け舟を見上げる様に田中が聞く。
「いや、客としてね。そうですね、八時・・うーん、九時くらいには来ると思いますよ」
「じゃあ、その時には」仏に助けを求めるような顔をする田中に松は答える。
「ええ、どうぞいらしてください」
「ありがとうございます」そう答える田中に松は「茄子、冷めちゃいますよ。今付けますから」と苦笑いで答えた。

「お湯クダサーイ!」道路から声がかかった。田中が見ると例の東南アジア人が手を上げていた。さすがに湯はセルフサービスというわけにはいかないようだ。
「ああ、今熱燗も付けてるから、少し待ってくれ」松が答えた。
田中は手にしたスプーンで汁椀の中身を掬い口にしたがもう熱さは感じられなかった。しかし松の温かみを感じることは出来た。
田中は小さく頭を下げ心の奥底の謝意を表に出した。
松は燗酒の入った徳利とお猪口を田中に差し出した。
田中はそれを受けとり手酌で注ぎ口にした。ぬる燗だった。温度でいえば熱めの風呂。カラリとしたやや辛口だがどこか柔らかさもあるこの酒を生かす燗酒だった。
田中はもう一度猪口を満たし口に運んだ。
旨い。

実に旨い。

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