二、半身の半蔵

薄い半纏を羽織り植木鋏を手にした一人の老人が広く枝葉を拡げる黒松や梅に桜といった庭木、鉢に植えられた皐月や銀杏の盆栽を剪定していた。
だがその仕事はとてものんびりしたもので一枝を一寸落とすだけで四半刻も悩むので一向に進まなかった。
老人の名は四ツ蔵と言う。

四ツ蔵のいる屋敷から遠く離れた所を畑仕事を終え籠を背負う百姓がその孫達に引っ張られる様に家路についていた。
百姓は四ツ蔵の姿を認めると深々と頭を下げ、百姓の孫たちはそれを見て四ツ蔵に大きく手を振った。
百姓は孫たちを諫めるような仕草をしていたがその声は四ツ蔵には聞こえないほどに離れている。
四ツ蔵は両手を太腿に添え百姓よりもさらに深く頭を下げ返した。
百姓は恐縮至極と言った様子だったがいつまでも頭を上げようとしない四ツ蔵に百姓たちが諦めて歩き去っていき四ツ蔵はようやく頭を上げた。

遠くから烏の鳴く声が聞こえてくる。
時は陽が遠くの山に収まろうとするほどで辺りはすっかり橙色に染まっていた。
四ツ蔵が庭の一本の柿の木を見る。
見事な柿の実が一つ残っている。

ここは火の源の国、いやもう日ノ下の国だ。
二千年もの間、いくさびが絶えることが無かった火の源の国。骸が山を成す山屠の国。
その戦火がようやく消え日ノ下と名を改めることが出来たのだ。

ここはその日ノ下で一番尊き者である天子様の為に一番強くある者と一番偉くある者がいる屋敷だ。
そんな屋敷であるにもかかわらず攻め寄せる者を防ぐために岩を積んだ石垣もなければここを守らんとする土塁もなく、市井の者と区別するような板塀もなければ生垣すらない。
それでもこの国にはこの柿の実に手を伸ばす者は一人としていないし、烏でさえも啄むことは無い。

四ツ蔵は柿の実に手を伸ばし撫でた。
良く熟れた柿の実が夕陽に照らされ実に旨そうに見える。

大殿の柿。
この最後に残る柿の実は大殿の為に残されている。
もう決して帰ることのない大殿の為に。

「なりませぬ!!!!」
屋敷の方から怒声が響き四ツ蔵はビクリと驚き身体をすくめた。
手に柿の実が握られていた。

四ツ蔵が声の聞こえた庭へと向かうと障子が開け放たれその奥の座敷には三人の男女がいた。
一人は熟年の女性、巴様。今では名を改め陽下将軍。
もう一人は四ツ蔵と同じ年かさの老人である高田様。今では高純法王となっている。

その二人の前で畳に額をつけているのはリン殿だ。
四ツ蔵は「嬢」と呼んでいる
リンは叔母であり、子を失った陽下様の養子となっている。

嬢はまだ十八か?いや、もう十八か。
「なんや、外まで声が聞こえてきましたで」
四ツ蔵が縁側に腰かけながら言った。
三人が四ツ蔵に顔を向けた。
「四ツ蔵殿」法王である高田が声をかけた。
「四ツ蔵様」リンが言う。
「嬢、様ぁなんてこそばゆいわ、四ツじいでええ。どうしたんや、百姓がビックリして逃げて行きましたで」

「リンがまた西海を渡ると言うのです」陽下将軍が四ツ蔵には目を向けずリンを厳しい目つきで睨みながらに言う。
「なんや嬢、帰ってきたばかりやないか、向こうでえぇモンでも見つけてきたんか?そやな、嬢ももう十八やもんな」
四ツ蔵の言う「えぇモン」と言うのは男の事なのだろう、少し下卑た笑みを浮かべていた。

リンは一人、二千年もの間この国を焼き続けた戦火を消し均しめ、そしてこの国を去った大殿を追って大西海を渡り竜が跋扈するという地に向かい、大殿の辞世を手に帰ってきたばかりだった。

「まあええんちゃうか、嬢なら一人でも大丈夫やろ」
四ツ蔵がそう言うと陽下将軍が叩きつけるように言う。
「何を馬鹿なことを!今やリンは将軍家の一粒種です、一人旅など以ての外!!」
「ほんなら、お供を大勢にも引き連れて行ったらよろしですがな」
そう返す四ツ蔵に陽下将軍が畳みかけるように言う。
「そんな銭はありませぬ!二千年の戦火の消えた今、一文たりとも無駄に使える銭はありませぬ!!」
咄嗟にリンが四ツ蔵に向き直り頭を下げて言う。
「四ツ蔵様、旅路の伴をお願いできませぬか?」
「おっ、それは」妙案とばかりに高田様がポンと膝を叩いた。
「あかん!こんな年寄りに何をさせるつもりや。儂は隠居も隠居、植木挟みも重い年寄りや。無茶ぁ言うもんやないで」
そう言われてもリンは即座には諦められず上目遣いに四ツ蔵を見た。
「無理やって、勘弁してぇなぁ。西海を渡るだけでも一月、かん地に着いてそぉからどれだけあるんや。無理無理、無理や!」
「リン!四ツ蔵殿の歳を考えなさい!無理は言わぬことです!」
陽下将軍がたしなめるように言う。
「いや、無理言うわけでもないやけどぉ歳ぃ言うたかて儂もそないに年寄りってわけでもないけどなぁ・・」
リンが上目遣いのままその目に希望を宿らせる。
「いや、あかんて。な?めんどいわ」
陽下将軍はそんな言い訳がましい四ツ蔵を鼻で笑う。
「年寄りに冷や水を浴びせるものではないですよ、それに貴女は祝言を控えているのです、西海を渡るなどとんでもない!」
「ほあ!?祝言!?なんや嬢、えぇモン見つけてたんかいな!誰や!」四ツ蔵は思わずズイと身を乗り出した。
四ツ蔵にそう言われリンは顔を背け伏せてしまった。
「なんや恥ずかしいんか?ええやろ?四ツじいにな、言うてみい、ほれ」
顔を伏せたまま答えぬリンに変わって陽下将軍が答えた。
「中川家の剛一郎殿です」
「はあ!?」
四ツ蔵は驚いた様子で陽下将軍を見、そしてリンを見た。
「嬢、趣味悪いのぉ。中川家なんぞチンチンと銭勘定ばかりの火の源の国一の嫌われモンやないか。刀を研ぐ代わりに算盤で胡麻すっておったようなモンどもや・・・」
四ツ蔵はそこまで言ってリンに恨みがましい目を向けられていることに気が付いた。
「いや、すまん。言い過ぎやな。今はもう日ノ下やもんな。銭勘定も大事や」
四ツ蔵の言い草にはまだトゲが残る。
だが四ツ蔵にとって今一番の、いや今生最期の関心事は嬢が誰を見初めるかだった。
それはあの大殿が火の源の国の戦火を切り均し消した理由でもあったからだ。

嬢が誰と添い遂げるか。
四ツ蔵は大殿と幾度かそれを酒の肴にしたものだった。
四ツ蔵の一等はやはり高田様の息子、裕一郎殿。
眉目淡麗の六尺体躯。文武両道とはいかなくとも文は高田様を凌ぐかと思わせる素質があり、何より女子に優しいと噂だった。

下々では女子など飯炊き、少し名を馳せた家でなら送り迎える政の添え物。
そんな時代で女子に茶を淹れさせるどころか逆に茶を淹れてやり菓子まで添えて楽しませることを喜ぶ者など他にいない。
「どうや、あれが一等、いや特等やろ」
しかし大殿は思案気に小さく頷き酒を口にするだけだった。
それが四ツ蔵には不満だった。
そらぁなぁ、嬢が選ぶってことが大事なんやろ。でも酒の肴や、ちぃとくらいあれこれ言ったかてなぁ、つまらんお人や。

だが漸く戦火を鎮火する目途が立ち始めた頃だった。
火の源の国は遂には関の西の坂ノ家と、大殿を筆頭に高田様、巴様、そして坂東忍を纏める大頭である半蔵の四人衆が立つ坂東石ノ家に二分した頃。
大殿は酒を口に運びぼそりと言った。
「おぬしに子がおればのお・・」
四ツ蔵はそれを聞いた時、耳を疑った。
「何を言うんや!」
だが分かっている、大殿は世辞や媚びを決して口にはしない。
それは本心なのだ。
本心だと分かっているからこそ、四ツ蔵は杯を投げ捨て席を立った。

「ほんで、嬢はあのボンクラのどこがええんや?」
四ツ蔵はすっかり色ざめた。大殿もガッカリするやろなぁ・・・。
「そ、それは・・」
言いよどむリンの代わりに陽下将軍が答えた。
「今は将軍家と中川家が対と成る事がこの日ノ下に大事な事なのです」
「いやな、それは分かるんやけど、嬢はあのボンクラのどこが気に入ったんや。嬢はついぞ迄な向こうに行っておったやろ、あれはそないにえぇモンなんか?」
四ツ蔵にとっては孫の様に思っていた「嬢」があんな男を選んだことに心底がっかりした。中川家なんぞ算盤片手にあっちに胡麻を擦りこっちに手を揉むような一族や。それでも目鼻立ちのえぇ男言うならわかるんやが剛一郎なんぞええとこ銭勘定でぶくぶく太った大黒様や。
リンは顔を伏せて答えた。
「会った事は御座いませぬ」
「は?何言うとるんや?会った事無いて・・・」
なんや、嬢もあれか銭か。銭ぃ欲しさにチンチン大黒かぃ・・・。まあ儂に言われとうないやろうけどなぁ・・・。
だが嬢の様子がどこかおかしい。
銭を選んだいう事を恥じる様子ではないし、嬉しそうな欠片すらなくどこか悔しそうですらあった。

「嬢?なんや?」
四ツ蔵の問いに嬢ではなく陽下将軍が答えた。
「会ったことがあろうがなかろうが、そんなことは関係ありませぬ。此度の祝言は私が決めたこと。リンは黙って中川家へと嫁げばよいのです」
四ツ蔵は耳を疑った。
何を言うとるんや?大殿が何の為に、誰の為に刀を振るったと思っているんや?
「陽下様が決めたて・・・いや、あかんやろ・・・」
いや、どういう事や。嬢が帰ってきたら祝言が決まっておった言うんか?
嬢が自分で決めたと違うんか?あかん、なんやそれ。

「今の日ノ下には中川家の銭が必要なのです。中川家の銭がいまだ関西で燻ぶる坂ノ家の残党どもに流れればまた火の源に逆戻り!リンを嫁がせ中川家と石ノ家を繋ぎこれを盤石の構えにすることが今の日ノ下の大肝要!」
陽下将軍が叩き伏せるように言った。
だが四ツ蔵も黙ってはいられない。
「いや、嬢が自分で選ばなあかんやろ。なんや大殿が・・」
四ツ蔵がそう言いかけたところで陽下将軍はまた叩き伏せるように言った。
「大殿はもうおらぬ!!」
いや、そらそうやけどそりゃあちゃうやろ。
「いや陽下はん、そら大殿はおらんけどもな。その願いは知っとるやろ?」
その馴れ馴れしい口の利き方にか、痛い所を突かれたからか陽下将軍は怒声を上げた。
「銭働きの忍び風情が政事に口を出すつもりか!!!」
そう明け透けに言われては四ツ蔵も開き直るしかない。
「儂ぁ政事なんてしらぁないけどな、大殿の願いは分かっとるつもりや!大殿は戦火に燃える火の源を女子が自分が好いたえぇモンに嫁ぐことが出来るような世にしたい言うてたやろ?それが今や日ノ下や!そん為にや、まず嬢が自分でえぇモン見つける言う事が大殿の願いやったんと違うか!?」
「黙れ!!!忍は忍らしく銭勘定でもしておれ!!!!」陽下将軍は顔を赤らげさらに大きな怒声を上げ目の前の茶碗を掴みその茶を四ツ蔵へ浴びせかけた。

大殿はおかしな侍、いや武士やった。

四ツ蔵の出自は黒山置である

百姓が春に植えた苗を丹念に手入れし必死に祈り水害や旱魃、冷害に耐えて秋に稲穂を垂らしたとて少なくとも半分は領主や大名と言ったその地の支配者に奪われる

百姓が実らせた米の半分を取っていくわけだが五公であればまだ易い
庭に植えた柿を乾し栗を茹で、イモや野草で食い繋ぎ余った米を売れば正月を小さな白い餅に皮を焦がした塩鮭の切れ端を入れた豪華な雑煮で祝えるだろうし、春の節句には幼子に何かしらの祝いを手向けることも出来るだろう
だがその地の領主が戦が始め七公、八公となればそうはいかず途端に生活は難くなる
だが生きてはいける
わずかに残った米を売り払いより安い麦粟蕎麦稗で春まで食い繋ぐことは出来る

しかし、その地に戦火が点けばもう無理だ
田畑は焼かれ隠し持っていた米は侍どもに奪われる
百姓に残されるのは侍どもが知らない地を這うツルの下に隠れる芋と、雑草にしか見えないのであろう山野草くらいのものだ

当然今年に生まれた子供は諦めざるを得ない
わずかな芋と山野草では乳も出ない
芋を手に近隣の百姓に乳借りをしようとしても無駄なこと、皆同じなのだ
子は何れ死ぬ
だから父はその子の首に手を掛け母の目の届かないところに埋めるのだ
だがやはりそうと出来ない父もいる
そういった者は子を黒山へ置き去るのだ

黒山はどの国にも一つくらいはあるし、中には二つ三つの国にまたがるほど栄える黒山さえある
黒山に置かれた者は死ぬまで飯には困らぬと言う

「飯には困らぬ山野の獣と黒山置」
そう揶揄されるように確かに飯には困らぬだろうがそれは山野の獣と変わらぬ存在と成り落ちる
つまり人ではなくなるということだ

「飯には困らぬ山野の獣と黒山置」
これにはこう続く
「一里歩けば黒山の物」
父がその子を黒山に置き一里も歩き子の泣き声が聞こえなくなる頃にはもうその子は黒山の者、いや物となっているという事だ

確かに、黒山に置き捨てられた子は死なぬ程度の飯には困らぬがその子は獣となり生きて地獄を歩むことになるのだ
そうするくらいならば母がその腹を痛めて子を産んだのだから、父はその心を痛め子を縊り殺すべきなのだ
だが子を黒山に置き捨てる父は多い
住まう国が三年の間、戦に関わることが無かったらそこは太平天国と言われるほどに世には戦がはびこっているのだ

飯に困らぬからと子を思って黒山に置き捨てる父はいない
単に埋めるのが面倒なのだ
そこらに置き捨て山野の獣に食われるか、黒山に置き捨てその子が獣になるのかの違いでしかないのだが、山野の獣は次は自分たちを襲うかもしれぬが黒山の獣が百姓を襲う事はない

黒山などと言うと山賊の類を想像するが黒山の獣が民百姓を襲うことは無い
民百姓を襲ったところで実入りは殆ど無いし民百姓はそこの領主の財産なのだ
自らの財産を棄損された領主はその黒山に刀を向けることになる
黒山はその地の領主と良好な関係を築き黒山の獣は銭の為に疾走るのだ

その日もある黒山に一人の子が置き捨てられその父が一里歩いたところでその子は黒山のモノとなった
頭目はその子に半蔵と名を付けた
黒山の獣は歳を二回り重ねて一人前と言われる
二回り、つまりは二十四歳だ
そこまで生き延びた獣は強者と言って良く一蔵と呼ばれる
その後も強獣は疾走り続け頭目の為に蔵の一つくらいは建てるだろうからだ

頭目はその子に半蔵と名を付けた
十かそこらで死ぬだろうという意味だ
だがこれはその子が劣っているように見えたからではない
一蔵まで生きる獣はほんのわずかだからだ
劣っているどころか一蔵になる見込みが少しはあると付けられた名と言える

這う事を止めその二本の足で立った黒山の子がまず覚えるべきことはその空いた両手で隣に立つ子を殺すことだ
横の子が藁馬や折鶴に手を伸ばす中でその子は苦無を手にし二人の子を刺し殺した
半蔵は数えの一つ、生まれてまだ十月だった

半蔵はその名が示す十二の歳を越えてもまだしぶとく生き残っていた
半蔵のいる黒山は大きくはなく、その国にはもう一つ別の黒山があった
当然その二つの黒山はどちらがより領主の気を引けるかと常に争っていた
半蔵は十四の時にその生命を落としかけたがその代わりに人知れずある秘術を編み出した
「渡り」と言うものだ
この秘術を持つ獣は少ないだろうがそれを確かめるすべはない
「渡り」を見ることは出来ないからだ
おそらくはいないだろう

半蔵はその秘術を得たことを誰にも教えず獣として疾走り続け、十六の時には敵対する同国のもう一つの黒山の頭目の首を持ち帰った
半蔵の住む黒山の頭目は大きく喜び半蔵を跡目とするべく自身の娘を娶らせ自らの半身とした
半蔵の疾走りは目を見張るものでその後もまさに国士無双の働きを見せ半蔵が建てた蔵は四ツを数え、その黒山は三つの国に跨ることとなり頭目は棟梁となった

そして半蔵が一蔵となる時、齢二十四になった時だ
半蔵はその半身を銭に変え蔵に収めた

半身の半蔵
かつて黒山に置き捨てられた一人の子はついには坂東一の獣の頭となり、半蔵はその「渡り」の秘術を持って「忍び」と自称するようになった

忍び言うもんは銭の為だけに動くもんや。
戦火の燃え盛る火の源の国では永年大繁盛や。
どこぞの大名がどこぞの大将の首を買いに儂ンところに銭を手にやってきたもんや。
儂らにとっちゃええカモや。
銭を手に首を買いに来る大名、首買い大名や。もちろん銭さえ貰えば首を売ってやるけどな。
やけどあいつらは次は自分の首が買われるなんてことをちぃとも考えしないアホどもやった。
アホどもが首を買いに来てみぃ、その身なりを綺麗さっぱり晒して首帳に載り次はその首を売りに出されるってわけや。切っても切ってもアホどもは次から次へと湧いて狂う。
じゃが大殿は違った。
銭も持たずにたった一人で儂の黒山までやってきた。

座敷に寝ころび、黒山一のくノ一に耳掃除をさせていると配下の一人が襖の向こうに伏した
「なんや」
「客人が、参られました」
「なんや客人て、首買いやろ?首帖渡して聞ぃとけや」
「いや、それが、その・・」
「要領得んなぁどこのどいつや」
「石家の・・・」
「石家ぇ?誰や高田か?それとも巴か?」
「いえ、義経さまが・・」
「様てなんやお前、なにを言うとるんや」
しかし襖の向こうで困り果てている姿が見えるようだった。
「会うてやるわ、通せ」
「はっ!」襖向こうの忍びははすぐに消えた。

「誰の首が欲しいんや?」
半蔵はそう言って首帳を投げてよこした。
確かにどこか雰囲気がある侍や。じゃが石家なぞなぁ…。
義経は放られた首帖を興味なさげにパラパラとめくり見た。
「儂の首も載っとるな」
「そらぁそうや。でもあんさん大したもんやで、首帖を見て自分の首に気がつくやつはそうはおらんで」
「儂の首は五十両か」
「そや、石家の義経はん、それでもだいぶ上がったんやで、最近ちゃかちゃかいわしてるらしいからの。ほいでどれを買うんや、割引はせぇへんで」
出自がいいだけのぽっと出の石家如きが出せる銭などたかが知れてる、無駄な話は短いに限る。
しかし半蔵が聞いても義経は答えずに首帖を投げ返した。
「首はいらぬ、銭もない」
「なんや死にに来たんか?」
「お主は坂東忍びの頭であろう?火の源の戦火を消す手助けをしてくれぬか?」

こんな世迷い事を言う大名は初めてではない。
出来もせぬことを偉そうに言う大名はたまにおる。天子様の願いに応えるだとか、民百姓の為だの偉そうなことを言うんやが、まぁ自分が将軍になりたいだけやろ。
それが大名どころか最近ちぃと値を上げた程度の石家なんぞが何を偉そうに、けったクソ悪い!

「こちとら忍びや。戦火が消えたら商売あがったりや、何言うてるんや」
「戦火が消えたら商売あがったりか」義経は座敷で半蔵とそのわきに控えるくノ一に対し、姿は見えなくとも襖の向こうや天井裏、畳下に至るまで周囲を忍に囲まれていてもまるで気にしていないようだった。

鈍いやっちゃ。
「そうや、儂らは忍は首売り稼業や。戦火がのうなったら首買い大名も無くなるやろ」
大殿は一つため息をついた。
「茶を一杯貰えるかの」
戸惑うくノ一に半蔵が目線で答える。
(出したれ)

こいつアホや殺そう、安うすればどこぞ買うてくれるやつもおるやろ。 

二人はもう一言も話さなかった。
半蔵にすればもう聞きたいことも言いたいこと無い。この五十両をどう売るか?その思案に耽っていた。

そういや南條家が最近石家にいわされたばかりやな……でももう南條も終わりやろうしなぁ後腐れないっちゃあないんやが銭にならんなぁ……銭を持っとるのは中川家やが石家からはちぃと遠いなぁ……しかもあいつら銭勘定だけは儂ぃ以上や安売りなんぞ見せたら足元見られて買い叩かれるどころか、もう首になっとることに気が付くやろなぁ・・。
はぁ……。
今度は半蔵は思わずため息を漏らした。

くノ一が茶を持ってきた。
一つを半蔵の前に置き、もう一つを義経の前に置いた瞬間だった。

人を殺す機というのは存外そこらにある。
茶を置くだけでもそこに機がある。
人は茶を出される時、それを見る。そして畳にトッと置かれるその瞬間に気を取られてしまう。
気を取られるということは、機を晒しているということだ。
半蔵は胡座をかいたままでも十尺は飛べる。
半蔵が腰を入れた瞬間だった。
義経が消えた。
(あかん!!)半蔵はとっさに「渡り」の秘術を使った。
だが動けない。
自分以外の者が「渡り」を使うのは初めて見た。だが動けば殺られるという事は分かる。

半蔵の右肩には大きな斬られ傷がある。
小さな矢傷や刀傷は山ほどあるが右肩の傷は殊の外大きい。
当時十四の半蔵は頭目の付けた半蔵の名を上回ったと、そんなことで鼻を高くし一人で敵対する黒山へと乗り込んだのだ。
十四の半蔵は確かに歳の割には腕が立ったがそれが無謀であるという事すら分からぬ未熟者だった。
一人断ち二人斬り三人殺したところで半蔵は自分が死地にある事に気が付いた。右に逃げても左に交わしても常に先回りされている。もはや前に進むことは出来ない。
半蔵は必死に逃げた。だがどこへ逃げてもやはり先回りされている。
正面を突かれ左右を挟まれついには四方を囲まれた。
半蔵が動くたびにその囲いは徐々に狭まっていきそこで半蔵はようやく気が付いた。
先回りではなかった。常に距離を保ちつつも先回りされたと錯覚させることで右に左にと走らせ時間を稼ぎ四方を囲み揃うのを待っていたのだ。

周りを完全に囲まれて四方八方を塞がれると徐々に包囲が狭まってきた。蝶が蜘蛛の巣から逃れようと動くたびに巣にからめとられる様に半蔵も何とか逃げ出そうと動くたびにその包囲は狭まってくる。
いつも一人疾走りの半蔵はこのような集団の戦法を見るのも受けたのは初めてだった。
半蔵は逃げ続けるがそのたびに包囲は狭まる。ついに敵の一人が見えた瞬間だった、四人が同時に襲ってきた。
前と右は刀、左からは苦無が飛び、後ろは分銅の付いた絡め縄を投げられた。
半蔵は絡め縄を飛んで避けるが向こうもそれは見越している。前から振り下ろされる刀を右手の刀で防ぎ左手で目くらましを投げた。苦無は左腕で防いだが右からの刀は半蔵の肩を大きく斬り裂いた。
目くらましが炸裂し闇夜の森を一瞬、強く照らした。
襲ってきた四人が目くらましを食らい一瞬動きを止めたところで半蔵は右からの敵を斬り捨てさらに逃げた。襲いかかってきた残りの三人からは逃れたがそれ以外はまだ変わりなく半蔵への包囲を更に狭めてきた。
左腕には苦無が深く突き刺さり右肩は深く斬られもう使い物にならない。
半蔵は必死に逃げながら思った。

儂は何なんや。

確かに黒山では飯には困らなかった。
それどころか疾走り、そして首を取り帰るとその日は白い米が食えた。
死に物狂いで斬り捨て帰った時は塩をたっぷり付けて焼かれた雉が添えられることもあった。

何なんや儂は・・・。

半蔵は十四ともなれば自分の疾走りで頭目がどれほどの銭を蔵に積めたのかを知っていた。
半蔵の疾走りで稼いだ銭はこの黒山でも五本の指に入るだろうことも分かっていた。
それに対し半蔵が得たのは白い飯と汁に香の物に付いてくる塩の効いた雉や獣肉だった。
半蔵は特に牡丹鍋が好きだった。猪肉は力がつく。熊肉が出されることがあったが熊は硬いし臭い、あまり好きではなかった。熊肉が出たときはそれを羨ましそうに見る者に投げ与えてしまったほどで、当たり前のように出るようになった白飯でさえたまには麦飯が食いたいと換えてやることもあった。
半蔵が稼いだ銭があれば牡丹鍋などいくらでも食えるだろうし、日々粟や稗を食い稀の麦飯に喜ぶあの惨めな獣共にも白い飯を食わせることもできるはずだ。
しかし半蔵は疾走り続けた。それが世界だった。不満も疑念も無かった。人を斬り飯に食う。それが世の理だと思っていた。

儂はなにもんなんや。

囲みはどんどん狭まってくる。 
この囲みの一人一人は半蔵よりも弱いだろう。一騎打ちなら半蔵は勝つ、その自信と覚悟はある。
だがこれらは合わせて一人、いや一組なのだ。
一人一人には勝てても一組には勝てない。
半蔵は一本の巨木の木立に立った。
あと一人か二人は斬れるだろう。だが半蔵の中の殺意が消えかけた。諦めたわけではない。
追ってくるのは四人、いや四匹か。その後に続く目眩ましを食らった三匹。今更ながらに囲いを目にできた。

黒山の皆はどう思うだろうか。
頭目は稼ぎ頭の一人を失ったと思うだろう。雑穀に喜ぶ惨めな者共は白飯をくれる者がいなくなったと思うだろうか。
だがそれだけだ。
野犬の群れでさえ昨日まで隣りにいたはずの仲間が消えたら一度くらいは慟哭するのではないか?

七匹の獣が迫ってくる。
こ奴らも同じや。
儂を殺して飯にありつくんや。

獣たちが周囲の木々に散りそれぞれが駆け上がった。
後追いの四匹が木々から跳んだ。三匹が苦無を手にし一人は斬りかかるべく刀を手にしていた。
刀で斬り込んでくるのは捨て駒、虚だろう。切り捨てられる覚悟で隙を作りそこに三匹が苦無を三方から打ち込んでくるのだ。
刀を手に飛びかかってる者はおそらく一番の未熟者なのだろう、斬られながらも掴みかかろうとでもいうのか隙だらけだった。 

黒山の惨めな者たちも、そしてこの追跡者達も皆が哀れだと思えた。半蔵を置き捨てたであろう父も、そして自分も。
半蔵の中から殺意が消え去った。
半蔵は刀も抜かずに上へと跳んだ。
苦無はてんで見当違いの方に飛んでいき刀を手にした者は体勢を崩し落下しかけ、あわや仲間の苦無を背に受けるところであった。それどころか上に飛んだだけの半蔵を見失ったようだ。

こんな奴らに斬られたのかと半蔵は訝しんだ。
組の技はそれほど強力なのか?この様では一人一人は半蔵の黒山では疾走りに出ることさえ任されない程度の腕前に思えた。
だがそれを見ても半蔵に殺意は戻らなかった。七人の追手が半蔵を見失っている。
半蔵の肩から血の滴が落ち追手の頭に落ちた。追手はハッと上を向き仲間に指示を出したようだった。
半蔵は別の木へと跳び、また跳んだ。
半蔵は追手を見据えた。また半蔵を見失ったようだ。

ただ二度三度と木を跳んだだけでか?
なんやこいつら……。
まるで盲の猿やないか。
半蔵は木を跳び、また走った。追手は半蔵ほどではないとはいえそれなりの手練れに思えた。自らの住処に乗り込んできた敵を返り討ちにするために出てきた者共なのだ。先ほどまで半蔵を追い詰め絡めとり深手を負わせてきた者共が盲の猿にでもなったかのように半蔵を見失っている。
不思議な感覚だった。半蔵は木立に隠れ周りを見た。茂みの向こう、木立の裏に追手がいるのが見えた。もちろん今までであってもその気配を感じることはできた。だが今ははっきりと分かる。手にした刀、構えた苦無、その焦る顔までもが見えた。
こちらが見えていない。
そんな事があるのだろうか?だがなぜ?
半蔵は試しに地に降りゆっくりと歩いてみた。追手はおそらくは血の匂いを頼りに時折半蔵の近くまでは来るものの半蔵の姿が目に写っていないかのようだった。
半蔵は歩き続けた。
麦飯が食いたいわ。そう思いながら歩き続け、ついに自らの黒山へと帰り着いた。

半蔵は自分でも気が付かないままに不死の秘術を編み出していた
半蔵は慎重にその秘術を磨き抜いた。秘術のことは誰にも、頭目にさえ明かさなかった。
そして慎重に時をかけて敵の黒山の四天王と目させる土蜘蛛、岩熊、水猫、赤鳥を一人ずつ屠り秘術を完成させた。
そして敵の黒山の頭目をも屠りその首を持ち帰ると半蔵は自身の黒山一の稼ぎ頭となり、頭目は半蔵に娘を娶らせ自らの半身とし、半蔵は名実ともに次期頭目と目されるようになった。
その後も半蔵は疾走り続け黒山の蔵は増え続けた。
半蔵の歳が二十四に成ったときだった。
その頃には黒山は三つの国に股がるまでに大きくなり頭目は棟梁となっていた。
半蔵は棟梁の下へと赴いた。
「半蔵、歳はいくつになった」
「二十四」
半蔵の横柄な物言いに棟梁は目を潜めたがさほど気にはしなかった。
「もう一蔵だな」
「一蔵どころではあらしまへんやろ」
「半蔵っ!」さすがにこの無礼は見過ごせない。
棟梁は隠居し半蔵に跡目を譲るつもりで呼んだのだが、それが当然とばかりの態度は見過ごせない。まだ棟梁を譲った覚えはない。
傍らの棟梁の娘も半蔵の態度に驚いている。
「儂の態度が気に入りまへんか?」
「貴様っ!娘を娶ったからと言って何でも目こぼされると思うているのか!?」
「ならやりましょか」
「貴様っ!」棟梁は立ち上がり刀を抜いた。半蔵も立ち上がりつつ苦無を打った。もちろん当たるわけがない、棟梁は軽く跳び交わし苦無を打ち返す。
同時二本の苦無が半蔵を襲った。
半蔵もそれを軽く跳び交わした所に更に一本の苦無が打たれていた。半蔵が刀でその苦無を弾き落とすと同時に逆側から棟梁の刀が襲いかかった。
「これが秘術三つ返しかい、秘術言うほどのもんやないな」
半蔵は手甲でそれをいなした。
「もうそれは使えぬぞ」
棟梁が言うように丈夫な手甲は寸断されていた。
「それも使えんけどな」半蔵も言い返す。
一度見た術が通用するほど半蔵も弱くはない。
お互い狭い室内で刀を振り苦無を打つ。
しかし棟梁も決して弱くはなかった。もう五十を超えていたはずで膂力はもちろんその身体能力は半蔵に大きく劣ってはいたが、その重ねた年齢からの老練な技は半蔵にはないものだった。
「やるやんか」
「ぬかせ!」
棟梁が正面から斬り込んできた。
これは虚、実はどこや。
半蔵の背後から二本の苦無が襲いかかってきた。棟梁の娘、つまりは半蔵の嫁の打ったものだった。目は虚ろで操られていることがわかる。
傀儡の術か、さすが棟梁や。やはり虚を装って正面から襲ってきた刀が実なんや。虚に実をもたせ虚を実とするか。さすがや。
半蔵は渡りの秘術を使った。棟梁の刀が空を斬る。
半蔵の姿が消えた。棟梁は焦り身をひるがえすがその背には半蔵が立っていた。
「たいしたもんや」
ハッと振り返る棟梁の首はその勢いのままクルクルと回りながら飛んで行った。
棟梁の身体は首を失い血を噴き出し倒れた。
「まあ、歳の割にはいけたんと違うか」半蔵は刀を納め恐れ震える嫁に歩み寄った。
「見たんか?」
嫁は大きく首を振った。
「ほうか、しっかり見とけばええ幽世の土産になったやろうにな」
嫁が咄嗟に刀に手を伸ばそうとするとその手は腕ごと肩から落ちた。嫁が口中の含み針を半蔵に浴びせるが首は既に斬り飛ばされあらぬ方向に針を放っただけだった。
半蔵はこの女を嫁だなどと思ったことは一度もない。

半蔵は依頼のままに棟梁の首を銭に変え蔵へと収めた。
棟梁の首を買った者もいつかはその首を買われるのだ。
だがそれに気が付く者はどこにもいない。ここが戦火が全てを焼き尽くす火の源の国だからだ。
首を求めるものは尽きない。

半蔵は自らの半身を売った者、半身の半蔵と呼ばれその秘術を持って「忍び」と自称するようになった。

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