まおう

「あー、負けた。負けた」
吉音はビールのプルタップに指をかけて舌打ちする。
今日の流れなら絶対にとれると確信していたのに、まさかの万車券を超えが10万車券にまで成り上がるとは・・・
テーブルを叩いて、腹の中をうねる悔しさを冷やすために苦い液体をのどの奥に流し込む。
流し込まれた液体は一瞬、ひやっと腹を冷やすが吉音が枝豆に手を伸ばしたころには逆にかっかと頭を叩いてくる。
「惜しかったなぁ」
最終コーナーまでは予想通りの大穴だったのだ。
それがまさか差し替えされるとは・・・
「またギャンブル」
「まさと」
あきれたというより嫌悪感さえにじませた声に吉音はテーブルに伏していた顔を上げる。
「ギャンブルなんてものは」
「わかった。宝くじも、競馬も、ボートも、スロットも、パチンコも、負けるようにできてる。じゃないと会社として成り立っていない。わたしたちが負けたお金が社員の給料になっている。そうでしょ。わかったから今日は言わないで!」
吉音はまさとが口を開く前に手を前に出してそれを遮る。
まさとの言っていることはわかる。
理論としては正しい。
だがその正しさも体験の前には無力だ。
なけなしの600円が10倍になる。
それがレースなのだ。
それを選ぶとき、過去のデータを見て、直近の成績を考え、雨か晴れかと天候の影響を思い、走路の熱さに今節の着順を数え、それから試走タイムを見る。
スタートタイミングを計り、ハンデをコンマ1で区切るべきかを計算する。
あとその日のレース内で何番が三着までに入っているかも。
そんなことを考えるとレース間の30分などあってないようなものだ。
気づくと締め切り10分前、スマホに買い目を打ち込むころには「あと5分」は「まもなく」に文字を変えている。
間に合わないことも多い。
それが来たときには歯噛みと舌打ちをこなして、来なかったときにはホッとする。
そんな精神的なジェットコースターが12レース続くのだ。
もちろん予算を考えると全レースに賭けるなんてことはできない。
というか、してはいけない。
だが「ケンに徹する」つまり見て予想だけするというのは、予想していた通りの買い目が入ったときに「ぐぬぬ」と後悔してしまう。
得した気分にはならないのだ。
しかも負け始めると負けを取り戻そうと大きな倍率の買い目を捜してしまう。
軸つまりは絶対に三着までに入る選手の一人は決めているのだが、そこからの相手選びが頭の痛いところなのだ。
八車建てで、三連単つまりは一着から三着までをすべて当てようと思ったら、単純に計算しても270分の1。
一着を決めても25分の1。
一着と二着を決めていても5分の1。
一着と二着を入れ替えて安全を着期せば10分の1。
一着を決めて複勝つまりは一着二着三着が順不同でも当たればオッケーなモノを買っても15分の1。
一着二着を決めれば5分の1。
当たりやすく見えるが確率的には同じであり、倍率はガクンと落ちることを考えれば単勝だ。
まさとに言わせれば「外れたらゼロだろ。なら当たるところに大きく賭けるべきだろう」となる。
その通りなのだがそうじゃない。
単勝をずばピタで当てるから気持ちがいいし、配当もいいんだもの。
心の幸せも、財布の中身もダブルアップというわけだ。
そんなことを言っているから負けちゃんだろうけど。
吉音はそんなことを思いながら唇を尖らせる。
そしてふと思う。
こいつも一回、レースに賭けてみれば人生変わるだろうに・・・と。

「これ、当たってるから換金してきて」
ある朝、吉音は都電の切符と同じサイズの一枚の紙を渡しながら、まさとに言った。
「自分で行けばいいだろ」
「まさとは今日、休みでしょ。あたしには仕事があるの」
「何の仕事があるんだよ」
「ちょっと、ね」
「レース場に行く時間ぐらいあるだろ。その様子じゃ会社に行くわけじゃないんだろうし」
「あ、っそ。じゃ母さんにいってもらおうかしら」
「ちょ、母さんはダメだ。母さんがレース場に行ったら」
「でしょ。だからあんたに頼んでるのよ」
「・・・わかったよ」
「ありがと。それからこれ好きに使っていいから。お昼も外で食べてきていいわよ」
「すぐ帰ってくる」
まさとは憮然とした表情そのままの声音を、吉音の耳に残して家を出た。
「あんた、ご飯は?」
部屋に戻ろうとした吉音を聞きなれた声が引き留める。
「もうひと眠りするからあとでいい。父さんは?」
「野球見てるわよ。ホント、休みの日に朝早くから起きて何が面白いのかしら」
「そういう母さんだって、パチンコ屋に入り浸ったりするじゃない」
「たまによ。それに1ぱちだしね」
ため息をつく母を見て、吉音は肩をすくめる。
1ぱちとは1円パチンコ。
1000円で1万円分遊べるという安玉貸しの店である。
まさとが母のためにわざわざ探し出してきた母がどうあがいても4円ぱちんこや20スロがない孤立した1円ぱちんこ専門店である。
この母にして、吉音あり。
なかなか、いやめちゃくちゃなギャンブラーである。
それを見て、吉音はギャンブルの楽しみを知り、まさとはギャンブルの危うさに戦慄した。
公務員の父はたしなむ程度で今は休みの日にメジャーリーグを観戦するのが習慣になっている。
吉音も今日は休みである。
ちょっと出かけようとも思ったのだが昨日の大敗で懐が寂しく、給料日まではまだ遠い。
何より今はそれ以上に楽しい仕掛けをしているところなのだ。

「こんなに人がいるのか」
まさとはレース場に設置された券売機の列に一つに並んでいた。
すぐに当たり券を換金して、家に帰るつもりだったまさとだが、あいにくとレース場のつくりに詳しくない。
発券機払い戻し機のある場所どころか、レース場のある場所を探すだけでもかなり苦労した。
モータースポーツであるレースに限らず、公営ギャンブルというのはうるさいものだ。
そのため住宅地や商業地から離れた場所に設営される。
それでもこれだけの人が集まる。
ざっと見ただけでも100人は超えているように思える。
もっとも集団としての人を見て把握する必要のない仕事をしているので、100人もいないのかもしれないし、もっといるのかもしれない。
ともあれ、そのうちのほとんどの人が手に持ったレースの出走表とオッズの表示された画面を見ている。
今、まさとと一緒に発券機の前にいるのは10人ほどだ。
もちろん払い戻しは最後にという人もいれば、ネット投票をした人もいるだろうが目の前の状況を見ると還元率70%などというのが現実ではないと実感してしまう。
ちなみに同元のもうけは控除率30%だ。
もちろん運営費用は掛かるので30%すべてが儲けとなるわけではないが、単純化すれば客から一万円を受け取り、七千円返す仕事だと考えればいいだろう。
考えるだけでも腹が立ってくる。
公営ギャンブル場を市が経営することで、赤字財政を黒字に転換していた
例もあるし、今は様々な公営イベントのに資金を提供しているとのアピールが激しいのだが、レースをやらないまさとはそんなページにたどり着くことはない。
「ぼーっと突っ立ってどうしたんだい?」
声をかけられ、まさとは自分の前に発券機があることに気づいた。
当たり券を取り出し、発券機の中央にある液晶画面を見る。
それから中央下にある紙幣投入口に目をやり、その右側の硬貨投入口を指で撫で、その右上にあるマークカード投入口に目をやり、右下にある硬貨受け取り口に視線を落とし、左上の投票権受け取り口に当たり券を入れそうになり、ようやく左下にある投票券投入口を発見し、当たり券を滑り込ませる。
「にいちゃん、はじめてか? 最初はなかなかわからんもんだからな」
肩でも叩きそうな様子で、その老人は言った。
「姉の代理で」
と言わなくていいことを言ったのは初めての発券機操作でまごついた恥ずかしさからだ。
「へえ、って万車券じゃないか。こいつを取れるとはねえちゃんとやらはやるねえ」
「偶然だと思います」
まさとはそそくさとその場を離れる。
知らない人間に気安く声をかけられたことに怖さを感じたのだ。
居心地が悪い。
まさとは払い戻されたお金を封筒に入れて自分の財布とは別にした。
そしてふと思い出す。
「そういえば姉さんから昼めし代もらってたっけ」
当たり券と一緒にポケットに突っ込んだままだったお札を引っ張り出したまさとは硬直した。
そこにはお札の中で一番偉い人の目を隠すように付箋が張られていた。
『これ使い切るまで帰ってこないように。楽しめ、まさと!』
まさとはため息をついて顔を上げた。
目についた液晶画面には次のレースの出場選手の試走タイムが表示されている。

まさとは完全な素人である。
だがギャンブルをする母親をずっと見ていた。
もちろんどうやって勝負をするのか、勝てるのかといった手段を詳しく知っているわけではない。
だがただ一つだけ身に染みていることがある。
「考えなくなったら終わりだ」
まさとは最初、自分の誕生日に合わせて車番を選ぼうとした。
しかしそのやり方で負けまくった母がちらついた。
負ければ負けるほど現実から乖離した方法を試すようになるのは大負けのサインである。
最終的に目についた数字を足したり掛けたりして買い目を選ぶというめちゃくちゃなことを真剣にやりだしたり、オッズが高いものにしか賭けない状況が生まれたりする。
前半、「おしかった」「今のは買えたなぁ」と言っていた人間が後半になると予想を放り出して、運頼みになる。
その姿をみて、まさとはギャンブルと関わらないことに決めた。
計算も経験も意味がなく、運も通用しないギャンブルとの付き合い方がまったくわからなかった。
必ず負けるとはそういうことなのだ。
還元率70%も集めた賭け金の中から30%を差し引いてから残り金額を払い戻し金に振り分けているという意味だ。
的中者がいないとき100円の車券につき70円が払い戻される体験があれば誰でもレースに賭けるバカさ加減がわかるだろう。
そういうシステムを構築し、瞬時に運用してオッズを出す運営団体の大きさと利益計算能力を考えれば、一個人が相手にするのはいかにも無謀だ。
とにかく勝てないのがギャンブルなのだ。
「それに一万円も使えとか。バカなのか?」
使えるかどうかではなく、使うのが無駄遣い過ぎるという意味だ。
一瞬、レースをやったと嘘を言ってごまかそうかとも思ったのだが、一万円を黙って懐に入れるのは後味が悪い。
「昼を食べてからにするか」
まさとはレース場に設置されいる食堂に入り、券売機で食券を買って席に着いた。
レース場にはとにかくモニターが多い。
ホルモン定食を食べる間にも、レース情報が流れているのが聞こえる。
さすがに、食事をしている人たちが手にレースの出走表を持って目を血走らせえているという光景はない。
そういえば外れ車券がそこここに落ちているといったこともなかった気がする。
「それよりも今は」
どう賭けるかだ。
まさとはそう思い、ため息をつく。
賭けないといけないという縛りがきつい。
金を出すから嫌いなことをヤレというならまだ折り合いもつくが、金を渡されて、金をどぶに捨てるような無益ことをしろと言われるのはたまらない。
100万渡すから強盗をしろと言われているような感覚だ。
実際には100万渡すから70万にしてこいと言われているわけだが、たぶん吉音はそうは思っていないだろう。
吉音は遊んで来いと言っているのだ。
「何が楽しいんだか」
まさとはさっさと食事を済ませるとレースの出走表とコーヒーを手にぶらぶらと歩く。
「こちら有料席」と書かれたプレートを見つけたまさとはそこへ行き、料金を払って、上へと上がる。
600円払った。
吉音なら有料席に上がらずにそのお金で車券を買うだろう。
だがまさとには人が多い中、突っ立ってレースの予想をするよりもコーヒーをお供に席に座っている方がいい。
「さて、どうするかな」
いきなり全額ツッコむという考え方もありだ。
だが全く知らないものにやみくもに賭けるのはまさとの主義にあわない。
「基準は試走タイム」
単純に試走タイムから順位を予想する。
そうして備え付けられていた鉛筆の芯を付けたプラスチックの爪楊枝のようなもので、出走表の番号に〇をつける。
〇をつけたところで、こんな簡単でいいのかと思う。
隣に「ハンデ」の数字を見つけた。
0、10、20、30と書かれているのはスタート地点らしい。
まさとのいる席から次のレースの出走位置に色分けされたポールが立てられているのが見える。
「これがハンデっと」
ハンデの書かれた出走表を目で追っていくと直近の順位が並んでいる。
ただしその順位の上の文字が違う。
よく読んでいくと順位とはいってもレース開催場も違えば、走ったレースも違う。
A会場の1レースでの一着とB会場の1レースの一着は違うし、同じ会場でも1レースと12レースでは気温その他の条件が異なる。
「全然、参考にならない」
それを参考にしなければいけないのがレースのばかばかしいところだ。
そんなことを言っている間に「投票残り時間5分」の文字が点灯した。
まさとはため息をつき、今回は賭けないことに決めた。
試走タイムで考えた結果がどうなるかを見てみようと思ったのだ。

まさとがケンに入っている頃、吉音はスマホをいじりながらたまごトーストを頬張っていた。
スマホの画面を緑、黄色、赤の三色が流れ去っていく。
「ひょく、ごぉ、ひゃんはかぁ」
もごもごとしたつぶやきには感嘆の色が強い。
ぽちぽちと投票シートを操作しながら、牛乳で口の中のものを胃に流し込む。
そしてもう投票できない投票シートに記されたオッズを確認して思わず声を上げる。
「これで200万車券なの? なんで」

吉音が200万車券に声を上げている頃、まさとは発券機の前にいた。
次のレースの車券を買うためである。
ケンに入った第5レースから後の車券は領収書代わりに首から下げたカードケースに残らず入れてある。
カードケースは売店で売っているレース場のロゴキャラクター入りのものだ。
他にもストラップやら選手名の入ったシールなんかが販売されていた。
まさとがわざわざカードケースを購入したのは吉音へのお土産という意味合いも強い。
波乱の第7レースのあとレース場の人たちだけでなく、モニターの中で実況と解説している人たちも浮足立った様子で困り果てているようだった。
どうやらレース史上最高の払い戻し金額だったらしい。
まさとがいる有料席でも口吻を飛ばしての理由探しが行われている。
今までそれほど話す機会もなかった会場が一瞬でまとまり動き出した感じがする。
そして――
第8レースのオッズは大荒れとなっていた。
100円が200万円になるということはオッズが20000倍あったということだ。
おそらく最も人気がなかった買い目だ。
めったにあることではない。
それこそ過去75年間に一度もなかったらしいのでまともに考えれば気にしなくていいレベルの話なのだが・・・
それを目の当たりにした人たちにとってはそうはいかないようだ。
一番人気が50倍つまり一枚買えば5000円になるオッズで、目の前に並べられる3連単の人気30組がほぼ50倍ということにそれは表れている。
さっきのレースで実況・解説の二人が言うところの「レース史上最高配当」は買い手に「夢」を見せ、その結果、すべての買い目のオッズが平均するような形になった。
まさとは今まで通りに一番人気から十二番人気までの買い目をマークシートに記入していく。
第5レースを見るだけにして賭けなかったのでそうなった。
昼飯が800円、有料席が600円、カードケースが1200円だったので残り6レースでもらった金を使い果たすには一つのレースに1200円使える計算だ。
勝とうとか考えれば掛け金の配分を考えたりする必要があるのだが、まさとはオッズの人気順に100円つまりは一枚ずつ買うことに決めた。
理由は勝とうとか負けないようにとか考えることが、吉音の仕掛けた罠だと気づいたからである。
勝とうと考えて頭を悩ますからギャンブルにハマるのだ。
たとえるなら一回だけお試し価格とかの「今だけ」商法みたいなものだ。
「一回やったらわかるから」
そういう意図が透けて見える。
実際にまさとは没頭しやすい性格だったりする。
少なくとも「オッズが安いところが当たりやすいんだからそこに1000円賭ければ2倍でもいい儲けになるのに」とため息をつく程度には考える。
考えるという事は成功を願うことであり、絶対に負けるギャンブルで「勝つ」という沼にハマることになる。
だからまさとは機械的にマークシートを塗って流している。
自分で考え予想しなければ楽しいとか悔しいとは思うことは絶対にない。
まさとはバイクの免許は持っていないので、パッと見て選手のすごさもマシンの特殊性もわからない。
機械的にオッズを写しているまさとにはレースのおもしろさのが生まれる余地はない。
それが重要だった。

販売促進事業にかかわっているまさとは一回契約をすると破棄するのが難しいことをよく知っている。
そうなるように契約方法をプロデュースして作ってるのだ。
入り口は簡単に、出口は探しにくいところに。
それが鉄則だ。
最初の登録はメールアドレスだけで契約完了するようにして、解約手続きは探すのもやるのも時間と手間がかかるように設計する。
いつでもどこでも見れる、好きな時に使えるサブスク方式などは解約手続きが面倒なので続けているというユーザーがかなりいる。
もちろんそのことについては同意前に契約書を読むようにと促すが法規的に正しい手順と理屈というのは読み手をへきえきさせるほど難解だ。
補足事項はこっち、こういう場合はこうするとしっかりと記しているがその長文を読み切れる人は少ない。
会社側も契約事項についての文言は法律の専門家をやとって決めているのですべてを正確に理解しているわけではない。
知らず知らずのうちに契約して損をしているケースは結構ある。
ギャンブルについても同じことが言える。
収支管理をしっかりしているという人も移動費や食事、ギャンブルに時間を使った事でできなかったことについては管理していない場合が多い。
まさともこうやって「マークシートを塗る作業」をしていなければ家で映画の一本でも見ることができていたのだ。
「さきほどからずっとその買い方ですね」
発券機から離れたまさとに声をかけてきたのは大人しそうな女性だった。
「そんなに負けてんの?」
「いや別に勝ち負けは」
といい返してしまったのはもう一人の女性の物言いが姉に似ていたからだ。
そしてとっさに「しまった」と気づいた。
まさとが思った通り、その女性は姉の吉音と同じように買い目を絞って当てることの面白さと大切さについて滔々と語り始めた。
そしてそれは第8レースが決着した後も終わることがなかった。

『投票締め切りまであと5分です、お急ぎください』
そのアナウンスを聞いて、慌てて車券を買いに行く無謀な背中にまさとは姉の面影を感じずにはいられない。
「あの人も負けが込んでいるんだろうなあ」
「そうですね。陽子はここ三ヶ月で50万くらいは負けてます」
「ご、50万も・・・」
まさとは二の句が継げない。
吉音でもさすがにそこまで負けてない・・・
そう思いつつ、つばを飲み込んでしまう自分がいる。
そういえばこの間、7万勝ったからと焼肉をおごってもらった。
それを還元率と考えれば10万つぎ込んでいることになる。
そして還元率は一人に集中することはないので実際にはそれ以上に車券を購入している可能性が高い。
「どうかしましたか」
「いえ」
「車券を買っても還元率は70%です。当てられなかったら0%です」
ちょっと迷ってからそう言った女性の眉根は中央に寄っている。
大人し気な雰囲気の中に苛立ちが見て取れる。
その様子はまるで。
まさとは思わず人差し指を折り曲げて、眉間をおさえた。
目の前の女性が少し身を乗り出し、そこへ発券機に走って行った女性が足早に戻ってきた。
その手には何枚かの車券が握られている。
「あ」
まさとはそれを見て思わず声を出した。
この女性の説教を喰らっていたせいで車券を買うということを忘れていた。
今、第9レースだから残り3レースで3600円使わなくてはならない。
そう思って愕然となった。
第6レースから賭けていたので12ー6で7200円を6で割っていたが、第5レース以降に賭けはじめたので、12-5で7で割るのが正解だったと気づくことができなかった。
単純な間違いだがそれだけにショックだ。
こういう単純な間違いや勘違いが吉音のいうところの「ラッキー」とか「買えたのに」を引き起こす原因かもしれない。
「どうかしましたか?」
「いや君の言う通りだなと思って」
そう口にしたまさとの言葉を讃えるように円形コース内でスタートを切った8車のエグゾーストの音が鳴り響いた。

意外なことにレースがスタートしてから口数が多くなったのはまさとが大人しそうと感じた方の女性だった。
さらに意外なことにその女性の口から発せられる言葉はまさとの興味をとても心地よい形で刺激した。
もう一人はと言うとスタートが切られて第一コーナーを曲がりきったところでこぶしを握り、「よし」と小さくひとことだけ。
そのあとも「どっちが来ても当たり」とひとこと、息をひそめるようにレース展開を見つめている。
一方で車券を買いに行かなかった女性はレースの実況のような選手指導のような言葉をこまごまと口にしている。
「さすがは花本選手。コーナー前で膨らんでもコーナーから出るときにはスピードが出るように思い切ってまわっていますね。試走タイムが出ているし、走路温度も高いから思い切っていけば一着も狙えるかもしれません」とか「試走タイムは出ていましたがタイヤが滑ってかみ合ってないみたいですね。無理をするとすべって外に流れてしまい、三着にも入れないかもしれません」とか「インが開きましたけど入ると出るときに包まれます。外から行くしかないはずですけど内から抜くことにこだわっているみたい」とか「一車じゃ抜けなくても二車で挟んだら抜けます。でもそうなると一着は難しい」とか言いながら手に汗を握っている。
「さくらはレース自体が好きだから」
そうフォローしたのはレースの着順の形勢が定まったのを確信して、より高い買い目が当らないかと期待している女性だった。
「レース自体が好き?」
というまさとの質問は三着がゴールラインを超えた瞬間に発せられた「よしっ!」という声にかき消される。
当たったのが「良し」なのかオッズの高い方が当たっての「良し」なのかはわからないが、ゴールした瞬間にこぶしを握り、ガッツポーズをするのはギャンブラーの共通言語なのかもしれない。
その隣で「うーん、タイヤは悪くなかったみたいに見えましたけどドドドが来てたんでしょうか?」と首をかしげる女性の様子と対比すると面白い。
車券を買わずに見るだけで楽しむ者と当たりはずれに賭けている者が並んでいるというのが不思議な気がする。
「どうかしましたか?」
まさとがレースではなく、自分を見ているのに気づいて不思議そうな顔をした女性に、姉の面影のある、いやギャンブラー気質の強そうな女性が機嫌よく、その理由を説明してくれている。
もっともその説明の八割、いや九割がたが間違っていたのだが・・・

「帰ってくるの早すぎない?」
「金は使い切ったし、レースも聞いてきた。ほら証拠」
まさとは首からカードケースを外して吉音に渡す。
「うわぁ、換金してきてないんだ」
「領収書みたいなもんだから」
「ふうん、記念なんだからこのはずれ券はあんたが持ってなさいよ」
吉音はまさとをからかった。
まさとは「当たったかどうか確かめてないけどいいの?」とやり返す。
「あんたが買った車券なんだから眺めて楽しむ権利はあんたのものよ。確かめてない??」
吉音の声色が変わる。
まさとは「せっかくだから姉さんと答え合わせをしようと思って」と平静を装おうとしたがもう遅い。
「あんた、ホントはわたしの車券換金してから車券だけ買ってどっかに行ってたわね」
「違うって」
「違わないでしょ!」
吉音はまさとを怒鳴りつけ、拳をぶるぶると震わせる。
まさかここまでとは。
「せっかくなけなしの一万円を渡してレースに賭ける楽しみを教えてあげようと思ったのに、裏切り者!」
「裏切り者って、それはあんまりだろ。だいたい姉さんが勝手に」
「うるさーい。あんたみたいなギャンブルの一つもしないようなやつがちゃんとした投資だとか言われて詐欺にあって泣くことになるんだから!」
カードケースを床に叩きつけて、こちらをにらむ涙目が怖い。
「ちょっと待って、ちゃんと予想はしたんだ。試走タイムとハンデを参考にして決めたんだ」
「そうなの?」
まさとの言葉に吊り上がっていた吉音の目じりが緩む。
しかしそこまでだった。
「あんた、人気順に買ったでしょう」
車券がそれぞれ一枚ずつなのを見てた吉音は目を細める。
もしまさとが本気で勝つために買い目を選んでいたら、金額の配分が同じはずがない。
「どうなの?」
沈黙が答えだ。
吉音はまさとの腕を掴み、ひっぱりながら顎に向かって思いっきり頭突きをした。

次の週の日曜日、まさとはレース場にいた。
吉音が叩きつけたカードケースの中にはいくつか当たり券があった。
ネット購入ではないので現金化するにはレース場に来るしかない。
当たっていた車券を一枚一枚入れている姿は、車券を重ねて一気に入れるのが当たり前のなれたものから見たらほほえましかったかもしれない。
まさとは発券機の液晶に表示された数字を見て、一瞬手を止めたが考え直して払い戻しボタンを押す。
払い戻されたお札と硬貨をポケットに入れ、「有料席」へと足を延ばす。
600円払ってエレベーターで昇る。
そして売店でコーヒーを買い、コースに向かってすり鉢状になっている有料席をぐるっと見回す。
マークシートを塗ったり、出走表を眺めて鉛筆を動かす人々の中で野球やサッカーを観戦に来たように一人だけ違う興奮に包まれた女性を見つけた。
まさとは両手に持ったコーヒーの片方をその女性に差し出しながら言った。
「モータースポーツ観戦を趣味のひとつにしたくって」





















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