魔術師アラムのフィールドワーク

森の中を歩くというのは簡単ではない。
誰もが思い描く豊かな森は緑豊かでありながら森の本性である「危険」の取り除かれた人の作品に過ぎない。
木々の枝の間から漏れる光さえも専門の庭師の選定によってつくられた偽りだ。
本来の森では心地よく澄んだ空気は肌を撫でるナイフであり、生い茂る木々の枝は闇を招く手でしかありえない。
そんな中を四人の男女が歩いている。
ピクニックに来ているわけではない。
その証拠に彼らに笑い声はなく、一人一人がそれぞれの武器を手にしている。
先頭を歩く男は右手に銀色に輝く穂先を持つ槍を持っている。
長さはそれほどでもない。
森の中で扱いやすいように柄の部分が短く調整された槍であり、短槍と呼ばれる類のものである。
体には鹿の皮をなめして固めた皮鎧を着ている。
腰には刀が一振り、足元には音を立てにくいように乾いた草で編んだ靴敷きを履いている。
それに続くのは金輪をつなげたチョッキを着た少年である。
チェインメイルと呼ばれる鎧の出来損ないは大雑把に胸と背中を覆うだけだ。
まだ子供の面影を残す赤い髪の少年は右手には曲刀を握り、左手には盾を持っている。
その後方に白く目立つ神官衣の上に緑色の外套を羽織った女性神官が歩を進める。
その額には水の女神アクエルの神官であることを現す、自由なる水の流れの意匠を凝らした額あてをしている。
最後を歩くのは赤い長衣をまとい、捻じれた杖を持つ魔術師である。
「そう緊張することはないさ。俺の導師級の魔術とべラムスの剣があれば、銀狼の一匹や二匹敵じゃない」
「狼は群れで行動する。そう簡単な相手じゃないぞ」
注意を促したのは先頭を歩く槍使いだ。
彼はこの中で最年長であり、傭兵としても、何でも屋としても、獣退治の仕事人としても、この中で最も古りている。
それでもまだ十九歳になったばかりでこういう仕事をする荒事屋としては駆け出しと言ってもいい年齢だ。
獣退治の仕事も十を超えない数しかやったことがない。
もっともそれだけの数をこなして五体満足で生きていると言う事が彼の実力の高さと運の良さを示している。
運がいいという点については槍使いの男――青年は自信を持っている。
今回の狼退治も銀狼である可能性を示唆して、ふつうの狼退治より大きな報酬を約束させることができた。
銀狼は獣というより魔獣に分類される知能の高い狼だがめったに人里に現れることはない。
現れたという話はあるがそれは銀狼ではなく、毛並みや体格の似た狼だったというのが真相だ。
そう言う話を彼はいくつも聞いている。
そして銀狼の可能性がある依頼を受けるときの注意点も知っていた。
それは銀狼と思わずに進むこと。
意外に思うかもしれないが銀狼に全滅させられたパーティは銀狼に勝つことができる準備をした者たちなのだ。
銀狼は孤高の魔獣であり、強力な森の主でもある。
だからこそ、それとの戦いには特別な準備が必要となる。
それは丈夫だが重い鎧であり、扱いづらいが強力な一撃を見舞える大型武器であり、銀狼の動きを制限するための鋼の網であったりする。
だがそれは相手が巨大で人を恐れぬ銀狼が相手でなかった場合、致命的な弱点になる。
ニ十匹から三十匹で群れるただの狼に対しては重すぎる鎧や頑丈な盾は物の役には立たず、扱いづらい武器ではその体を突き刺すことはできない。
鋼の網を投げる暇に、あるいは重い鎧に疲れて動きが鈍ったところを狙われ、ただの狼の犠牲になった者たちは多い。
そしてそれがまた銀狼伝説として流布されるのだ。
今、荒くれ者たちが集まり、どんな依頼でも受ける依頼所つまりは冒険者の酒場にいる銀狼退治のベテランたちのほとんどが大掛かりな装備で狼の群れにやられた犠牲者の後を襲った者たちだ。
あれだけの装備をして勝てなかった狼は銀狼に違いないと依頼者が値を吊り上げたところに食いついて望外の儲けをかっさらった者が大勢いる。
そして今回その役割を担うのが彼らというわけだ。
だから彼らは銀狼を相手にするには軽装と言える装備で、森を探索している。
もっとも槍使いの青年が思った以上に今回のメンバーは気楽であり、まだ子供であるべラムスでさえ、青年に言われるまで鞘から曲刀を抜きもしなかったし、盾を持っていくことにも難色を示していた。
あとの二人にしては言うのもバカバカしい。
自由気ままな水の神官であるアーマ・ハウは水の女神アクエルさまに晴れ姿を見てもらうんだとばかりに神官の正装である白地に青い刺繡のついた神官衣に聖別武器と呼ばれる正式な神官にしか与えられない儀式武器と教義書を携えてピクニック気分だし、べラムスより三つ年上の魔術師アラム・ランカードは導師級の魔術師にしか着ることが許されない真っ赤なローブと魔術師の杖だけを持ってやってきた。
重い鎧は無理でも軽い皮の鎧の胴当てぐらいは付けろと言ったのだが聞きもしない。
もっともその魔術の腕は確かで「鎧の胴当てを付けるならこの魔術は使えないがいいのか?」と言ってぶっぱなした魔法が町の噴水場の女神像を一撃で粉々にし、さらに水場を覆う囲いを吹き飛ばした。
それは怖気が来るくらいの破壊力で、その轟音と熱に青年は顔を逸らし、何が起こったのか確認できなかったほどだ。
確かにあれほどの力があれば狼の群れなど恐れる必要はない。
もちろん噴水場からは一目散に逃げてきた。
出発直前の日暮れに近い時間の出来事だったので、たぶん大丈夫だろう。
誰かに見られていたとしてもなぜそうなったのか、誰がそれをやったのかはわからないに違いない。
あのとき、アラムは導師のローブをまとっていなかった。
そして魔法を使える魔術師があんな場所で魔法をぶっ放すことなどない。
そもそも魔術師が荒事屋に加わることがない。
町の荒事屋のいる酒場の近く住んでいる者たちの中に魔術の知識がある者はおらず、魔術師のローブをまとわず歩いている魔術師は魔術師として認識されない。
魔術師は外出時には魔術師のローブを付けなければならないというルールはないのだがふつうの町の人々にとって一生目にするかどうかわからない希少な存在である魔術師は必ず裾を引きずるようなローブを身に着けているものなのだ。
賢者の学院というこの王国、いや大陸の王国すべての要たる魔術師教育機関がある。
魔術と呼ばれる力を発揮するための才能と技術を教え、資格ある者に魔術師を名乗ることを許す職能集団である。
賢者の学院の許可がなければ正式に魔術師を名乗ることは許されない。
古来、学院で認可を受けた魔術師の中で優れた能力を持つ導師たちは各国の統治を行う宰相職として迎えられ、その地位は魔術師の専売特許となっている。
魔術師はその専門分野において優れた知識を持っており、宰相以外に採用される者も多く、戦時は戦場魔術師としてその手腕を振るう魔術師もいるという。
その他にも土地の質の改善や魔獣退治、森林増築に、王城建築など様々な分野で魔術師は活躍している。
つまり魔術師というのは大陸をまたにかけたハイ・ブランドなのだ。
騎士に跪く者たちが彼らが高潔であり、力強く、勇敢であることを疑わず、神官を見ればその奇跡の力を思い、首を垂れるのと同じように、魔術師と言えば長いローブをまとってその優れた知恵で王を導いているというのが常識なのである。
平服でふらっと町中に現れ、魔法をぶっ放して知らんぷりをしているなどとは誰も思わない。
もっともこの仕事の後、アラムがどうなるかはわからない。
賢者の学院の掟は厳しく、それに違反する魔術師には学院総出で――つまり各国の宰相の権力さえ使い――罰を与えると言われているのだ。
町に帰った瞬間に拘束されるということもあり得る。
理由は強力な魔術を使える魔術師は宰相としてあるいは学者として各国に仕官しており、戦争の火種になる恐れがあるからだ。
もっともだからこそ魔術師の起こした不祥事について追及がされないという見方もある。
荒くれ者の集まる酒場の近くの噴水場が破損したのが原因で戦争が起こるなどと言うことはあまりにもバカバカしすぎる。
わざわざ魔法王国ラヴェルーナの外縁にできた城下町のはずれでテロ活動というのも意味が分からない。
そもそも基本的に魔術師たちは学院にいるか、仕官をしているかのどちらかで、荒事屋など下賤な仕事に就くような魔術師は皆無に近い。
ちなみに学院から認可を受けていない魔術師は学院の管理の外にいるので青年が思っている魔術師とは関係がない。
一時期学院に所属し、認可を受ける前に、あるいは受けられず、下野した者たちは賢者の学院で学んだことのある魔術師もどきであり、正式には魔術師として認められない。
そんな自称魔術師でも魔法が仕える者が荒事屋になることは少ない。
魔術王国と呼ばれるこの国でさえ、荒事屋の冒険者の酒場へ流れてくる魔術師など皆無に等しい。
槍使いの青年が知っている中ではラフムという名の魔術師一人だけだ。
彼は黄金の団というパーティを設立し、大陸の七つの未開峡の一つ黄金峡の発見を目的として荒事屋をしていたが、今はそれを達成した五人のパーティメンバーとともに巨万の富を持って、新たな夢へと挑戦していると言う話だ。
ちなみに槍使いの青年が初めてラフムを見たのは荒事の斡旋所に登録に行った四年前のことだが、そのころから黄金の団は斡旋所のもっとも優れたパーティとして知られていた。
もちろん槍使いの青年とラフムの間に密な関係性などない。
だがその武勇伝は耳にタコができるくらいには聞いていた。
今回、魔術師アラムをメンバーに入れたのはその武勇伝の影響でもある。
魔術師に、神官に、曲刀の戦士に、槍使いというのは黄金の団の構成メンバーと同じである。
あとは使命を帯びた騎士さえいれば疑似黄金の団の完成である。
本当は暇な連中をかき集めて狼退治と行きたかったのだが、人望という点では槍使いの青年は壊滅的だった。
まだ若いということを差し引いても四年もの間、荒事屋をしているのに決まったパーティメンバーがいないのはそのせいだ。
彼自身の腕は悪くない。
一人で荒事屋を続け、五体満足で暮らしていけているのだから相当なものだ。
しかしパーティを組めていない。
今回も斡旋所に登録に来た連中をひっ捕まえて連れてきた。
「前の連中は壊れちまったからな」

月が中天をつく頃、槍使いの青年はようやく狼の足跡を発見した。
「五、六匹ってとこか。銀狼呼ばわりされるにしちゃあ数が少ないな」
本来、狼は雄雌のつがいを中心とした一集団で四から六匹ほどであることが多い。
野生の狼の群れとはひとつの家族集団の形でしかなく、数十匹が群れるというのはまれだ。
しかし銀狼退治に失敗した荒事屋の後を追う場合は二十から三十匹の集団を想定しておかなくては失敗する。
銀狼対策として動きを阻害されるほどの重装備をしていたとしても、さすがに四匹の狼に全滅させられる冒険者パーティはいない。
まったくの素人ならいざ知らずそこそこの実力がある冒険者パーティなら不意を打たれてもニ十匹以上の狼が追いすがるような状況でなければ全滅はない。
銀狼は一匹孤高であり、人に対しての侮りも強い。
そのため対決を目前にして休息を取り、油断しているところを狼の群れに襲われるのは銀狼退治失敗の定番だが、そこで喉首を噛み切られるという状況を考えてもこの数はおかしい。
「銀狼が五、六匹もいるとしたらなかなか歯ごたえのなることになるな」
と、ぞっとしないことを言ってきたのは魔術師のアラムである。
黒髪を後ろになでつけた魔術師にとっては初めての魔獣退治だ。
緊張もするがそれ以上に興奮を抑えきれないと言った様子で今にも駆けだしそうな風情がある。
「アラム兄ちゃん。もし戦いになったら僕の刀に魔法をかけるのを忘れないでね」
「わかってるって」
少年べラムスも同じ調子で、まるで手柄を立てて騎士隊長にでもなろうとしているかのように気合が入っている。
「それなら私は銀狼の毛皮を二枚くらいもらおうかしら、一枚は妹分のお土産にしたいの」
槍使いの青年は気楽な調子で話している三人を怒鳴りつけたくなったが、この仕事は依頼状では「魔獣銀狼退治」なのだ。
今「ただの狼だ」とばらしてしまっては三人の士気にかかわる。
そして足跡は間違いなく、ただの狼のものだ。
良く調べていくと落ちている毛も赤褐色でふつうの狼の毛に間違いはない。
先ほどはぞっとしたが、現実的に考えれば先に森に入って全滅してくれた冒険者パーティが狼の群れの数を減らしてくれたというのが正解だろう。
六匹くらいなら槍使いの青年一人でも何とかなる。
ニ十匹もいるなら狼の注意をひいてくれる仲間が必要であり、そのためにこの三人と一時的にパーティを組んだわけだが、必要のない盾となってしまったというのが素直な感想だ。
もっとも銀狼相手に一人で勝利してきたというのは先の冒険者パーティが全滅しているだけに依頼主に疑念を抱かれる結果になるだろうから全くの無駄ではないのだが・・・。
狼の足跡を辿っていくと縄張りを主張する糞の跡にぶつかった。
「そろそろだぞ」
槍使いが合図を出すと少年は盾を背負い、神官は儀式武器を引き抜き、魔術師は捻じれた杖の握りを確かめる。
「盾は背負うもんじゃない」
そんなことを言う気は失せている。
狼の数は少なく、別に彼らに期待することもなくなっている。
大怪我をして分け前を主張するくらいなら、いっそ死んでくれとしか思わない。
狼の遠吠えの声が聞こえる。
人間が自分たちの縄張りに入ったことを仲間に知らせているのだ。
その遠吠えに耳を澄まし、槍使いの青年は三歩進んでは一歩下がり、と言った調子で距離を詰めて行く。
「居た」
赤褐色の狼が全身を天へと伸ばすようにして、森の中にある岩の上で吠えている。
青年は素早く短槍を逆手に持ち替え、肩に乗せると鋭い呼気とともに投擲する。
ぐっと詰まるような音を立てて、遠吠えが途切れ、月明かりの下、その姿もあらわだった狼が岩の上に崩れ落ちる。
槍使いの青年は盾を掲げ、投擲用のナイフをつるした帯に手を触れながら倒れた狼に近づいていく。
遠吠えを発していたと言う事はこの場に他の狼はいないと考えていいが油断していいことなど何もない。
足に絡みついてくる草がやや面倒だが、それも青年の素早さをもってすれば問題ではない。
倒れた狼の喉に突き刺さった短槍を引き抜き、岩陰に隠れる。
刃についた血が、点々と続いたが気にしない。
風の流れは倒れた狼の頭の方へと流れている。
血の臭いに誘われてくるのか、それとも血の臭いを察して回り込んでくるのかはわからない。
どちらでもいいように岩陰に身を隠したのだ。
槍使いの青年が動いたのを見て、少年剣士であるべラムスが駆けてくる。
そして魔術師のアラムと神官のアーマ・ハウも。
神官アーマ・ハウはせっかく渡した緑の外套を脱いでおり、白に青で刺繍された神官衣が月明かりに目に痛いほどに目立つ。
赤いローブをまとった魔術師アラムは闇夜の中では意外と目立たないが、ローブの裾と草が擦れ合う音が騒がしい。
三人は駆け出したものの、槍使いの青年が隠れた岩陰を見つけられないでいる。
道半ばで立ち止まり、それぞれが言葉をかけあっているようだ。
「いい調子だぞ」
槍使いの青年はあたりを警戒しながら三人の様子を眺めている。
あの騒がしい三人がいれば狼の群れはこちらよりあちらを優先するに違いない。
槍使いは深く息を吐き、槍を肩に担ぎ、いつでも投げられるように構える。
今のところ近くに狼の気配はない。
だが狼の行動範囲は驚くほどに広く、その移動速度は侮れない。
狼の脚力があれば全力で逃げる馬車に追いつき、馬を襲うことなど造作もないのだ。
今、影も形も見えなくてもいつここに現れ襲い掛かってくるかわからないのだ。
「あの三人が襲われてくれたらずいぶん楽になる」
槍使いの青年はそんなことを思いつつ、岩陰に伏せている。

魔術師アラムは突然走り出した槍使いの青年を制止しようとした。
槍使いは短槍を投げてしまい、その左手にある盾だけが頼りな状態だ。
曲刀という武器を持っているべラムスを同行させるべきだった。
それ以上の得策は強力な魔術師であるアラムが魔術を使うために必要な時間を稼ぐ盾役になってもらうことだった。
アラムも剣術は使える方だが今は剣を持っていない。
理由は今回が魔獣退治の冒険者としての初仕事だからだ。
導師級の魔術を修めた魔術師が初めての魔獣退治を剣で行ったなどと言う伝承はカッコよくない。
強力な魔法で戦う戦士たちを援護し、確かな知恵でピンチを救う。
それこそができる魔術師だとアラムは信じていた。
強力な魔獣と切り結ぶ戦士たち、それを援護する魔術師と神官、そして苦戦の末に最後に炸裂する火球の呪文が銀狼の息の根を止める。
そんな美しいサーガこそがアラムの望む魔獣退治だった。
だがそんな美しい理想に反して、槍使いの青年はいきなり短槍を投げつけて駆けだしてしまうし、べラムスはつられて出て行ってしまうし、さらに援護のために来ているはずの神官さえも派手派手しい儀式武器を掲げて出て行ってしまった。
アラムは舌打ちしながら、その後を追う。
「あいつらどこへ行きやがった」
走り出したアラムの足元に長い魔術師のローブが絡みつき、走るのに邪魔で仕方がない。
ローブの裾が起こす草摺りの音が大きいのも問題だ。
「くそっ、邪魔だな。帰ったら短く裾上げしてやる!」
だが今は仕方がない。
魔術師アラムは裾に足が絡まって転ばない程度の速度で走り、やっと前の二人に追いついた。
もちろんそこには最初に走り出した槍使いの青年の姿はない。
「べラムス! あの野郎はどこに行きやがた?」
「槍のお兄ちゃんのこと? さあ?」
「さあ?ってじゃあお前何を追いかけて」
アラムは神官アーマ・ハウの方を見る。
「何ですか?」
アーマ・ハウはキョトンとした様子で首を傾げた。
「アラム兄ちゃん!」
べラムスが曲刀を掲げた。
アラムはその意味が分からず、まごまごした。
それは数瞬のまごまごだった。
だが致命的なまごまごでもあった。
雷光の速さで振り下ろされた曲刀の一撃を受けながらも牙をむいてきた銀色の獣の牙がとっさ前に出したアラムの杖をくわえ、あっさりと噛み砕いたのである。
「いっ、マジか!?」
魔術師の杖は特別な樫木を何度も錬成して強化した代物である。
初球の魔術師の杖でもハンマーの一撃くらいになら耐えられる。
導師級の魔術師に与えられる杖ともなればその硬度は鉄の剣の一撃にも耐えるほどに高い。
ちなみにアラムの杖は家から持ち出した超高級品であり、導師級の魔術師の杖の倍の堅さと魔術発動器としての性能がある。
目の前の狼はそれを易々と噛み砕いたというわけだ。
アラムが驚きの声を上げるのも無理はない。
そして
「逃げるぞ。杖がないと魔法が使えない!」
魔術というものは発動器である杖を通して発揮される超自然的「力」である。
杖を持っていない魔術師などそこいらにいる農夫にも力負けする貧弱な坊やでしかないのだ。
「じゃ、僕が援護するからみんな逃げて!」
最年少のべラムスが前に立ち、曲刀を構えて銀狼と対峙する。
べラムスが思っていたのと違い、銀狼はさっき見た狼より一回り小さかった。
子供なのかもしれないがべラムスの一撃を受けても倒れず、アラムの魔術師の杖を噛み砕きいたあたり油断していい相手ではない。
「待て、神官のねーちゃん。聖別した武器をべラムスに渡すんだ! それならちゃんとダメージが入るはずだ!」
「何でよ。この戦鎚は神官戦士の証で誇りなのよ。私がこれをもらえるまでどれくらい教会に奉仕したか。ひっ!」
アラムとアーマ・ハウが言い争っている間に再び銀狼がべラムスにとびかかる。
べラムスはそれを交わしざまに曲刀で銀狼の首のあたりを打ち据えたので、銀狼の牙は神官アーマ・ハウの喉笛には届かなかったが、その神官衣の袖を食いちぎっていく。
「わ、私のとっておきが・・・。仇は任せるわ」
神官衣の袖を食いちぎられたアーマ・ハウは喰らえとばかりに見えない拳を銀狼に叩き込むと袖の代わりに残っている聖別された儀式武器をべラムスへ向かって投げ、一目散に逃げだした。
野生の獣にあった場合、背中を見せず、ゆっくりと後ずさりをするべしという教えがあるがもう襲われているのにのんびりとはしていられない。
「べラムス、そいつは魔法の武器みたいなもんだから曲刀で殴るよりずっと効果がある。使え!」
「わかったよ、兄ちゃん!」
べラムスは投げつけられた儀式武器の戦鎚を器用に受け取ると代わりとでも言いう様に曲刀をぶん投げてくる。
「兄ちゃんはそれ使ってよ」
「お、おう」
アラムは一瞬戸惑ったが足元に突き刺さった曲刀を引き抜くとぞろぞろと草を摺って邪魔な魔術師のローブの裾を引き裂いて走りやすい短さに整える。
儀式武器をぶん投げてきた神官アーマ・ハウに視線を向けると彼女も曲刀を使って「命あっての物種よ」とばかりに気合を込めて神官衣の下に着ているスカートをザクザクと切って落としていく。
「そいつは?」
「脱いで抱えていけば問題ないでしょ。神官衣は高いのよ!」
それを言われれば魔術師の杖はもっと高いし、導師級を現す魔術師のローブも相当に高いだが今はそんなことを言っている場合ではない。
「逃げるぞ」
「あたりまえよ!」
二人は振り返りもせずに来た道を一直線に下っていく。
神官衣の袖をくわえた銀狼はやや苦労しながらそれを口から引きはがすと金色の目を輝かせて、べラムスを睨みつける。
「姉ちゃんより怖くない」
べラムスは腰の高さ以上の大きさの銀狼を見て口元を引き締める。
があっと激しい呼気を吐き出し、銀狼がとびかかってくる。
べラムスは直前まで背中に隠していた戦鎚を口を開けた銀狼の顔面のやや右上に叩きつける。
切り裂き潰す手ごたえがあった。
曲刀でいくら斬っても得られなかった感触である。
べラムスのメイスの一撃を受けた銀狼の態勢が大きく揺らぎ、地面に着地し損ねて大地を転がった。
べラムスはくるりと身をひるがえし、再び銀狼と正面から対峙する態勢になる。
銀狼の脚力はすさまじく、その飛び掛かりは鷲が飛翔するような勢いと速度を持っていた。
つまりべラムスの五メートルほど前から飛びかかり、べラムスの五メートル後ろへと着地する。
すれ違いざまに一撃を入れた後に急いで追いかけても、追撃するには無理がある距離だ。
立ち上がった銀狼の右目は傷つき潰れていた。
視界の半分を失ったせいか、あるいは頭部内部への衝撃のせいか、銀狼は立ち上がった後にそのままの姿勢でフラフラしていた。
べラムスはあれなら追撃を食らわせられたと後悔したが、今から行くには危険すぎる。
再び銀狼がとびかかってくる。
べラムスはそれをチェインメイルの出来損ないのチョッキで迎え撃った。
飛び掛かってきた銀狼は突然、頭ごと前半身を包み込んだ金輪の網の重さにバランスを崩し、地面を転がる。
べラムスは走り寄り、もがいている銀狼の右の後ろ脚にメイスを叩きつけた。
二度三度と叩きつけると銀狼の右足の肉を裂き、骨に届く感触が伝わってくる。
先ほどまでとは明らかに違うダメージの累積効果にべラムスは「大陸での戦いには魔法の力を宿した法剣は必須だな」と心底思った。
ミスリル銀の武器も同じような力を持つのだが、魔法の効果を付与すれば銀狼にだってダメージを与えられるという魔術師アラムの言葉が頭に残っていたのでそう思った。
べラムスはこのまま銀狼に勝てるのではないかと思ったが、四度目に戦鎚を振るったときにそれが不可能であることを知った。
儀式武器としてつくられ、聖別されていた戦鎚が鎚頭の部分がぽっきり折れてしまったのである。
全身鎧を叩いて、中身を砕くという非情の武器メイスだからこそ今まで持ったが、儀式用の武器や防具は見た目を重視し、軽量化が激しいためとても実用には耐えられないのが当たり前だ。
銀狼はメイスで殴られたダメージでまだ動けない。
べラムスはその様子を見て、すぐに銀狼に背を向けて走り出す。
めざす道行は魔術師アラム、神官アーマ・ハウと同じ逃走路である。
その途中で自身が投げた曲刀を拾い、折れた儀礼用の戦鎚を右手に曲刀を左手にしたまま、走る。
出来損ないのチェインメイルのチョッキを脱ぎ捨てるときに背負っていた盾は一緒に捨てている。
チェインメイルのチョッキと盾を捨てたおかげでべラムスは快足を持って逃走を開始できた。
さすがに先に逃げた二人の背中はまだ見えない。
だが背後から銀狼が追って来る気配も感じない。
狼は快足であるということは朧げにしかわかっていないが、銀狼の脚力を見ていればその速さは予測できる。
銀狼がチェインメイルのチョッキを跳ねのけ、立ち上がればこの程度の距離はすぐに詰められてしまうだろう。
だが隠れられるという自信はない。
森は銀狼の住み家であって、べラムスの住み家ではないのだ。
「逃げられるだけ逃げるしかない」
戦闘において、戦場において、徹底を欠くと言う事は致命的だと姉から教え込まれている。
べラムスはひたむきな熱意をもって逃げた。
「兄ちゃんたち大丈夫?」
赤褐色の狼と対峙していた魔術師アラムと神官アーマ・ハウの前の狼の首を曲刀であっさりと切り裂き、尋ねる。
「何とかな。それよりこっちに曲がるぞ」
魔術師アラムが指さしたのは来た道の半ばにあった分かれ道だ。
「今のであいつらの縄張りを出たことになる。狼どもの縄張りの大きさを計算すれば、こっちの方が安全だ」
アラムは狼の縄張りを現す糞の外に出たことを確認し提案する。
「わ、私も賛成」
提案した魔術師アラムも、手を挙げた神官アーマ・ハウも息が荒い。
神官戦士の訓練を受けている神官アーマ・ハウ、戦士としてもそこそこ戦える腕がある魔術師アラム、体力的には問題がないはずの二人も初めての実戦の緊張感に常にない疲労感を覚えているのかもしれない。
「じゃあ兄ちゃんの案で行こう」
べラムスは頷き、魔術師アラムの案内で横道に入る。
その数瞬後に、再びべラムスの曲刀がきらめく羽目になったのは偶然か、それとも・・・

槍使いの青年は騒ぎ出した三人の様子を慎重にうかがっていた。
お気楽な三人である騒いでいても狼に襲われているかどうかはわからない。
すると槍使いの青年の聞いたことのない不思議な斬撃音がした。
何とも表現がしようがないが、あえて言うなら振り下ろした剣の刃がその威力を減じないままに消滅した音と言えばいいだろうか?
正確には勘とか、感覚という方が正しいのかもしれない。
とにかく普通ではない。
ふつうではないが槍使いの青年はそれにかまっている暇はなかった。
「こっちに来たか」
槍使いの青年の耳は確かにこちらに向かってくる狼の足音を聞いた。
一匹ではない。
槍使いの青年は短槍を剣のように使えるように柄の部分を短く持つと楯を掲げて狼の襲来を待つ。
「うおっ」
槍使いの青年はとっさに左手の盾を斜め下に向けて出す。
重いものがぶつかる音と衝撃が来る。
先の狼の足音に正対するように態勢を調整した青年の左から別の狼が襲ってきたのだ。
おそらく正面にいる狼と連携していたのだろう。
油断していたら足をやられていたところだ。
小さいながら鉄で補強された方円状の木の盾にぶつかった狼はきゃんと悲鳴を上げ、よろめいた。
槍使いの青年は迷わず、その狼の急所へと短槍の穂先を突き入れる。
確かな手ごたえとともに狼の断末魔が響く。
そこへ襲い掛かってきた正面の狼へは腰紐に下げていたナイフを投げつける。
刃の厚い幅広の投擲用のナイフである。
ナイフはあっさりと狼の頭蓋骨を砕き、その額に突き刺さる。
槍使いの青年に向かって飛びかかってきた狼は額を砕かれ、方向を失い、ふらふらと二三歩くとそのまま絶命した。
槍使いの青年はゆっくりともう一匹の狼に突き刺さった短槍を引き抜くと冷静に周囲を伺う。
獣の足音を聞き逃さないように、獣の気配を感じ損ねぬように・・・
槍使いの青年はしばらく緊張していたが、それでも自分を襲ってくる狼がいないことを確認すると小さく息を吐いて、戦闘態勢を解いた。
「あとはこいつらの皮を剥いで――」
言いかけて槍使いの青年は地面を転がった。
その頭上を青白い気の光を放つ獣が通り過ぎていく。
その獣は飛翔の勢いそのままに狼の一匹を噛み砕くとそのままそいつを喰らい始めた。
右後ろ脚をひきずるそいつの目はひとつしかなく、体毛は銀色をしていた。
槍使いの青年はそれが銀狼であるという認識はしなかった。
なぜなら彼が、いや彼らが思い描く銀狼は巨大なる魔狼であったから。
こんなに小さな狼がそれとは思っていなかったから。
だがそれでも恐怖は感じた。
槍使いの青年は仲間に警告の声を上げることもせずに逃げだした。
どうせ使い捨ての仲間だ。
槍使いの青年は無意識のうちに腰紐に下げられたナイフを確認しながらそう思う。
荒事屋の仕事は遊びではない。
そして荒事屋にとって最も大切なことは生き残り、明日を迎えることだ。
槍使いの青年は走りながら考える。
どう逃げればいいかを。
そこには元仲間たちのことはない。
十中八九、あの化け物に殺されているだろうから考えても無意味だ。
あれは何だったんだ。
わからない。
だがあれが傷ついていたこと、怒りを持っていたことはわかる。
狼の攻撃を分散するために作った即席の仲間だったが思わぬ時間稼ぎをしてくれたことになる。
槍使いの青年が狼との戦っている間にあの魔獣と出会った三人は不運だった。
出会わなかった自分は幸運だった。
それが現実だ。
槍使いの青年は三人と同じ道を逃げていく。
そしてその途中に一匹の狼と出会い、格闘した。
ちょうどべラムスが狼の首を跳ねた場所だとは槍使いの青年は知らない。
決死の戦いを終えた彼は無意識のうちに道を曲がった。
その数瞬後に再びナイフを振るうことになったのは・・・

赤褐色の毛皮を持つ狼の襲撃は続いている。
今、相手にしている狼を倒せばちょうど六匹目だ。
べラムスは狼の牙と爪を避けながら、タイミングを計って曲刀を振り下ろす。
曲刀は厚い刃の重みのままに狼の胴を両断した。
「大丈夫か?」
さすがのべラムスも全身から汗が吹き出し、呼吸が乱れているのが外から見てわかる。
「かなり疲れた。あと一匹は行けると思うけどその次は無理」
声をかけた魔術アラムに応えたべラムスは大きく息を吐いて、胡坐をかいた。
「じゃあ、少し休憩だ。べラムス、刀をよこせ」
「うん」
べラムスから曲刀を受け取ったアラムはひとつ気合を入れると左右上下に振ってみる。
「ちょっと使い勝手が違うがいけるか」
「あんた剣が使えるの? 魔術師のくせに?」
「ガキの頃にちょっと習ったことがあってな。ただし魔術のお勉強のせいで体力が落ちているからきついかもしれん。防御に専念してれば時間稼ぎくらいはできるだろうが、時間を稼いでもな」
実際は狼の二匹くらいまでは何とか持ちそうだと思っているが、うろ覚えの剣が実戦でどれだけ通用するかはわからない。
そもそも象牙の塔で重いものを持つことも、走り回ることもせずに暮らしているうちに体がなまっていることは間違いなく、べラムスの曲刀もかなり重い気がする。
本来曲刀は肩に担いでからの振り下ろしで、相手の攻撃ごと粉砕する重攻撃剣なのでしかたがないが、鎧を着ていないアラムがそれをやるのはリスクが高い。
べラムスのように相手の攻撃を見切ってかわす技量と身体能力があってこそ輝くのが曲刀であり、それがなければきちんと鎧で受けてからの振り下ろしが基本戦術なのだ。
今のアラムには攻撃を受ける鎧がないのでべラムスの真似をするしかないが、それは難しい。
魔術師のローブも見た目以上に頑丈だし、狼の爪くらいなら二度ぐらいは耐えられるとは思うがそれをやろうとは思わない。
爪や牙を耐えた後にローブを引っ張られ、地面に転がされれば終わりだからだ。
「とりあえず俺が見張りに立つから、お前らは腹ごしらえでもしてろ。俺が一撃でやられたら諦めろ」
魔術師アラムは宣言すると森の奥に向かって立ち、べラムスとアーマ・ハウに背中を向ける。
「変な魔術師ね」
神官アーマ・ハウは肩をすくめ、腰のポーチから携帯ビスケットを取り出しかじる。
ビスケットをかじりながら座れる場所を探し、腰を下ろし、水筒に入れていた果実酒を口にふくむ。
べラムスは呼吸を整えてから大の字に寝転がり、銀狼との戦い、そして曲刀の刃の通る狼との戦いを反芻しながら目を閉じる。
まだ周りを囲まれ一斉に襲われる戦いは経験していない。
今までは一対一の戦いだけだったが、これからはそういう場合の立ち回りも考えておいた方がよさそうだ。
軽い寝息を立てながら、べラムスはそんなこと思う。
「思ってた以上に疲れているみたいだな」
べラムスの寝息を聞きながら、魔術師アラムは小さく背伸びをした。

あの月が――
西にどれくらい傾いたときに見張りを交代しようか。
魔術師アラムはそう思いつつ月を見上げ、「うげっ」と声を上げる。
森はどこまでも続き、空はいつもの夜の色ではあるが見上げると月がない。
さっきまであった月が!
おかしい。
そう思ってきちんと観察してみると雲の動きもおかしいし、森の木々の形もおかしく見える。
説明するのは難しいが、違和感がある。
「おい、砂時計とか持ってないか?」
「ないけど腹時計ならあるわよ。私のお腹によれば森に入ってから半日は経ってるんじゃないかしら」
「体感は頼りにならないから砂時計って言ったんだよ! 半日だと?」
「そうよ。自由なる水の流れを司る水の女神アクエル様の神官たる私には完璧な食事時を知る能力があるわ。私の場合は朝と昼と夜の三回は必須。今、ちょうど朝ご飯どきだから半日は経ってるはずよ」
「マジか」
アラムは空を見上げるが太陽がやってくる気配はない。
それどころか夜は深くなるばかりだ。
だが神官には奇跡と言われる力が備わっていることを知っているアラムはそれを一笑に付すことはできなかった。
「それじゃあ俺たちが道を曲がってからどれくらいの時間が経っているかわかるか?」
「それはわかんないわね。ただ銀狼退治に森に入ってから半日経っていることは確かよ。私のお腹がそう言っているもの」
自信ありげにお腹を叩いて見せる神官アーマ・ハウはそう断言した。
「つまり俺たちは森に入ってからのどこかの時点でこの世界に取り込まれたってわけか」
「どーゆーこと?」
「月だよ。ここには月がない」
「あれ、そう言われればそうね」
「月が沈んで太陽が昇るのなら問題はないが、月が消えたのに朝は来ていない」
「そう言われればここ変な感じね」
「わかるか」
「何となくだけど」
神官アーマ・ハウは何か適切な言葉を探していたようだったが結局あきらめたのか、それだけを言う。
「べラムスが目を覚まさないってことはないだろうな」
魔導士であるアラムは賢者の学院の授業でこういう状態の原因についての基礎的な講座を受け、そのときどきの基本的な注意点を学んでいる。
その中に一度眠ると二度と目を覚まさない眠りの森というやつがあった。
「別に変な様子はないけど。目覚ましの奇跡を使ってみる?」
「いやいざとなったらでいい。まあ、今がその時な気がしないでもないが」
「どういうことなの?」
「どういう理由かはわからんが俺たちは森に囚われちまったってことだ」
「意味がわからないんだけど」
「迷子になったと思っとけ」
「ええっ、私、お昼ごはん準備してきてないわよ!」
魔術師アラムの簡潔な説明に神官アーマ・ハウは天を仰いだ。
昼飯のことを心配している場合ではないとアラムは思ったが、よく考えるとそれを心配することは間違っていないのかもしれない。
森で迷子になっても、出られない結界に閉じ込められても、遭難者たちの命が失われる理由の九割は空腹と焦りからの体力と気力の喪失によるミスである。
その意味では食事の心配をするというのはもっとも理にかなったことだともいえる。
迷子系の結界に迷い込んだ者たちの末路にはその形はどうあれ餓死という結果が準備されているのだ。
「どうしたもんかな」
アラムは何度も腕を組みなおす。
いつもは杖を右腕の内側に抱くようにして腕を組むので、杖がないことに居心地の悪さを覚える。
「べラムスが起きるまではじっとしてていいんじゃない? 彼が狼切りの殊勲賞なんだし、私たちだけじゃ戦えないでしょう?」
「それもそうだな」
魔術師アラムは素直にうなずいた。
森歩きに半日かかっているとしたらべラムスの負担は相当大きい。
夜半の間戦い詰めというのは相当にきつい。
「あんたも少し寝たらどうだ。あんたの腹時計が正確なら半日歩き詰めってことになる」
「じゃ、そうさせてもらうわね。朝ごはん食べたから眠気が」
水の神官らしい自由さで神官衣を丸めたものを枕にしてごろりと横になったアーマ・ハウはすぐにすやすやと寝息を立てはじめ、幸せそうな顔で眠ってしまう。
「まったく」
魔術師アラムは腕組みを解いて、木に立てかけていた曲刀を掴む。
一番体力のない魔術師が寝ずの見張りに立つというのは間違っているんじゃないかという気がするが、それを言えばあの神官から五倍くらい言い返されそうな気がする。
「まあ、杖のない魔術師なんかただの足手まといだからな」
魔術師の杖を持ち魔法が使える状態ならば「十分な休息で集中力や魔力を回復させないと魔術師なんてただの役立たずだぞ!」とか言えるわけだが、現状ではそんなことは言えない。
賢者の学院の導師級魔術師アラム・ランカードは傍若無人だが、自分の立場を見る目は持っている。
悪ぶった善人というのが一番当てはまるのかもしれない。
「月は出てないな」
アラムは空を見上げ、ため息をつく。
もちろん太陽の光もない。

「これで六匹目か」
槍使いの青年は眼下に倒れた狼を忌々し気に蹴りつけると舌打ちをする。
彼の背中には赤褐色の毛皮が二枚背負われている。
曲がり角で殺した狼と先ほど殺した狼の二匹の毛皮である。
銀狼退治の報酬とは別に売るつもりで剥いできた。
本当はあの岩場で殺した三匹のものも剥ぎ取ってきたかったのだが、もしあの化け物と戦っていたら自分は生きてここいなかっただろうと思う。
槍使いの青年は座り込み、息を整える。
狼たちとの戦いでの疲労がある。
だがそれ以上に彼を疲れさせているのは今自分がどこにいるのかがわからないことだった。
あの化け物から逃げるために慌てていたせいだとは思いたくないが、それでも依頼者の村への林道がわからないことは認めざるを得ない。
まあ、いい。
生き残っただけでも僥倖なのだ。
槍使いの青年はそう思いつつ、後ろへと倒れこむ。
魔術師アラムの言葉で眠ったべラムスと同じように・・・
あるか無きかの眠気が、槍使いの青年をまどろみへと誘い、槍使いの青年はそれに逆らうことをしなかった。

助けて。
そんな声がした気がした。
それは彼にとってもっとも親しい者の声だ。
彼女は恐ろしい魔物に襲われようとしていた。
二本の角と蝙蝠の羽を持つ巨人のような魔物である。
その口には唇と一体化した黒い牙が生えており、両手で竿状の武器を持っているその先は三つに分かれ、それぞれの先には小さな槍の穂先がついている。
巨人ほど背が高いが体は華奢でその手にはかぎ爪が・・・
いや漆黒の盾に、黒剣を持って、同じ色の鎧を付けた角のある魔人だ。
悪魔どもを従える有角の超越者の姿はおぞましくも美しく、白い歯がその吐息で赤く燃えている。
助けなければいけない。
とっさにそう思うような光景だが、べラムスは首を傾げた。
そして――

「よう、眠れたか」
目を開けたべラムスに声をかけたのは魔術師アラムである。
曲刀を杖替わりのように、足元に突き刺し、森の奥を睨んでいる。
いや眠いのを我慢しているらしく、目が閉じそうになるのに必死に抵抗しているようだ。
「アラム兄ちゃん」
「そろそろ交代してもらっていいか。眠い」
魔術師アラムはあくびをしながらべラムスに言う。
「僕、そんなに寝てたんだ」
「いや俺が寝ていないだけだ」
アラムは答えにもならない言葉を発する。
頭が回っていないのではなく、べラムスの知るアラムはいつもこんな風だ。
「まあ、お前がいなけりゃ全滅してたんだ。気にすることはないさ」
アラムはそう言い残すと裾が不揃いに切り裂けた魔術師のローブに包まるようにして横になった。
「神官のお姉ちゃんも寝てる」
「ああ、そいつは寝かしといてやってくれ。奇跡を起こすには睡眠は大事だからな。もちろん魔法を使えない俺にも睡眠は大事だが」
「おやすみ、兄ちゃん」
べラムスの言葉にアラムは小さく頭を動かし、了解の意を伝えるともう一度あくびをして目を閉じる。
いろいろと考えていたことが睡魔によって奪われていくようだ。
だがいいだろう。
考えすぎて疲れるよりは・・・

彼女の前にはもっとも愛すべきものが助けを求めている。
それはもう必死で・・・
その姿を見て、彼女は思わず目頭を熱くした。
我が女神様らしいと思ったのだ。
邪悪な金貸しが水の女神を責め立てている。
邪神チャラ・ナーシだろうか?
清貧なる女神の姿に比して何という禍々しさだろう。
金貸しはどんなに面の皮の熱い人間いや神でさえ、顔を青くして震えあがるような罵倒の言葉を投げつけ、そして右手に持った呪われし借用書を女神に向かいつきつける。
いや神々を縛る呪いの石板だろうか?
おぞましい光景であり、恐ろしい光景であった。
自由を司る水の女神がその本性を失おうとしている。
信仰の薄い者なら慌てて助けに走りそうな光景だった。
だが深き信仰を持つ神官アーマ・ハウは肩を震わせ我慢した。
せっかく女神が迫真の演技をしているのに、傍にいる彼女が爆笑しては申し訳ないではないか。

「お姉ちゃん、目が覚めたんだ」
「あら、べラムスくん、起きるの早かったのね」
神官アーマ・ハウは髪に寝癖がないかと髪を触り、枕にしていた神官衣をはたいて、フードのように頭から足首の辺りまで覆うそれを被り、微笑んだ。
「おもしろい夢でも見てたの?」
「うーん、思い出せないけどそうかも。そういえばべラムスくんは朝ごはん食べた?」
「朝ごはん?」
べラムスは暗い森の空を見上げ、首を傾げた。
「あれ、聞いてないんだ。私たちってさ。どうやらこの森に閉じ込められたらしいの。だから森はずっと夜のままで朝が来ないんだって。ほら月がなくなってるでしょ」
「あ、ホントだ」
べラムスは初めてそれに気づいた。
そしてじっと曲刀を見つめる。
よく見ると刃の部分にあるはずの狼たちの返り血の痕跡がない。
まったくない。
代わりに刃の部分が奇妙な形で潰れるというか、下手な斬り方で鉄の鎧を何回も切ろうとしたような形跡が残っている。
場所を考えると銀狼を斬りつけて、手ごたえがなかった時に付いたものだろう。
そしてそんな状態ではとても狼の首を斬り飛ばすような真似はできないだろう。
「つまりは幻ってこと?」
「そうそう私たちは幻の森の中をさまよってるらしいの。でも出る方法はわかんないんだって。私今日のお昼までしか携帯食準備していないのに」
「僕もそうだ」
べラムスは塩気の強い干し肉と水の入った水筒を見て口にした。
そう言えばお腹がすいてきた気がする。
そのことを口にすると
「じゃあ、今のうちに食べたら私が起きてるし、危なくなったら声かけるから」
と神官アーマ・ハウはべラムスの頭を撫で、曲刀を取り上げる。
「これ、結構重いわね」
彼女も神官戦士として鍛えてはいるのだが、武芸百般を学んだわけでもなく、だいたいの神官は楽をしたいので手軽に扱えて大きな威力が出る竿状武器の短いものを獲物として選ぶ。
戦鎚などはその最たるもので、鍛冶師のハンマーの頭を丸めて軽量化した物と言われているそれは女性でも扱いやすい。
あとは短剣と呼ばれる短めの剣を使う場合もある。
ただしぶんぶん振り回していてまぐれ当たりも期待できる戦鎚メイスに比べて扱いづらい面が多い。
覇王国にその覇権を認める儀式を行う剣王神を信仰する神官は刀剣を極めるこが多いし、達人も多いと言われているがそのために信仰がおろそかになっていることが少なくない。
剣でばったばったと人を斬ることができて、癒しの奇跡まで行おうというのは虫が良すぎるのか、それとも剣神の神官たちが騎士団にも負けない武力を持って覇王国に圧力をかけるために、現実的な武力を優先しているからなのかはわからない。
ひょっとしたら大陸の覇王国を認める承認の奇跡を持つ剣神は他の神とは違う系統の奇跡を使う神なのかもしれない。
戦の神という戦い専門みたいな戦神があるのに、覇王国の認定を行っているのだから本当に特殊な神性を帯びているのかもしれないとも言われている。
「まあ、扱えないってことはなさそうだけど」
神官アーマ・ハウは魔術師アラム・ランカードと同じようなことをつぶやき、曲刀を軽く素振りした。
危なくなったら声をかけるけどやれそうだったら倒してしまって自慢しよう。
アーマ・ハウはそんなことを思いながら、べラムスが干し肉をかじるのを見ている。

激しい戦いの音が聞こえてくる。
それは仲間たちの戦いだ。
彼はそれを眺めている。
仲間たちは苦戦しており、敵の数は多い。
醜い小鬼、つまりはゴブリンと呼ばれる妖魔たちが錆びた剣や重そうな皮鎧をまとい、彼の仲間に襲い掛かっている。
その数は二十三。
駆け出しの冒険者にはさばくのが難しいぎりぎりのラインだ。
ここを生き残れるかどうかで、この先やって行けるかどうかが決まる。
戦っている仲間たちはよくやっていた。
戦士が四人に、シーフが一人、それに槍使いを入れて五人が今回のパーティメンバーだ。
盗賊あるいは密偵と呼ばれるシーフは足跡から妖魔の巣を探りだしたり、戦士たちの荷物を運んだりするのが仕事だ。
いくらすばしっこいとは言っても戦場で縦横に活躍できるシーフというのはいない。
伝説の盗賊王や王国で訓練を受けた密偵ならばそういうこともできるだろうが、ふつうシーフは戦わない。
だが今、シーフは戦いのさなかで剣を振るっていた。
倒れた戦士の代わりに戦場に飛び込む羽目になったのだ。
もはや負けは見えた。
だが逃げる暇はなく、逃がしてくれるような相手でもない。
小鬼は臆病と言われているが、それは負け戦のとき、あるいは勝敗のわからない場面にあるときであり、今のように優勢が明らかな場合は無慈悲で残酷な殺戮者でしかないのだ。
助けを呼ぶ声が聞こえた。
馬鹿な連中だと槍使いは思う。
盗賊団に襲われている商人の馬車の御者が、盗賊団がいるから助けてくれと叫んだら、通りすがろうとしていた他商人は自分の積み荷を奪われては大変と馬車を返して逃げるに決まっているのだ。
もう一度、声が聞こえた。
槍使いの名を呼んでいるように聞こえた。
だがゴブリンたちは気にもしない。
人語を解する者がいないことは明らかだ。
あるいは名前などとは無縁の魔物にはその意味が分からないのかもしれない。
再び名を呼ばれた。
槍使いの青年は――

「これがいいよ」
まだ幼い少年が指さしたのは薔薇の装飾が施された長剣だった。
「こっちのにしなさいよ」
反論したのは少年と同い年の少女だ。
そこには二つの竜首が絡み合って魔法石を支える捻じれた杖が飾られている。
「ぼくはゆうしゃになるんだよ」
「まほうつかいのほうがかっこいいわ。まほうのちからがなかったらゆうしゃだってどらごんにまけちゃうわ」
「ぼくはさーらにはせんしになってほしいな」
「なんでよ」
「だってまほうつかいじゃいっしょにたたかえないじゃないか」
「たたかえるわよ。あれっ、いまなんていったの?」
「だからさーらにはこのけんをもらってほしいんだ。ばらのきしとして」
「なーんだ。あんたがほしいわけじゃないんだ」
「きみへのぷれぜんとだよ」
「じゃあ、わたしからはつえをあげる。あんたはまほうつかいになってわたしのそばにいるの。ばらのきしのまほうつかい」
「それじゃあならんでたたかえないよ」
「だいじょうぶ。わたしがまもってあげるから」
「ぼくはゆうしゃがいいのに」
これは夢だな。
アラムは過去の一幕を目にして、それを意識した。
強力な意思を持ち、その制御を学んでいる魔術師であるからこその自覚だった。
「しかしこいつは悪質だが、未熟すぎるぞ」
剣と杖を管理人に取ってもらい、交換する二人の子供の姿と鏡合わせになる場所にはドラゴンと戦う少女の姿がある。
とても弱弱しくしかし決意を込めた表情でドラゴンに立ち向かう少女が危地に陥っている。
どうやらアラムの記憶の中にある印象的な出来事から悪夢を作り出しているらしい。
だがその悪夢は外から見ればお世辞にも上手い悪夢とは言えない。
鏡写しに写している少女の像はしっかりしているが肝心の竜――ドラゴンの姿に全くリアリティがない。
いや竜を見たことのない者からすれば恐ろしいドラゴンそのものなのだろうが、竜殺しの勇者として名を残そうと本気で考え、その姿かたちだけでなく生態や種族的特徴などを調べているアラムにしてみればお粗末すぎる。
残念ながら伝説で語られ、絵画に残されている竜つまりはアラムがしっかりとしたイメージとして思い描けるドラゴンは本物とは程遠い。
本物の竜はもっと複雑で理解しがたい形をしている。
絵画に残っているような美しい姿ではないのだ。
資料に残る竜の姿に対する記述はその一つ一つがすべて別の生物を示しているのではないかと思えるほど千差万別であり、未だにアラムの頭の中に竜の確固たる基本イメージがない。
今、さーらことフリュティエと戦っているのはアラムの記憶の中にあるただ一つの基本イメージ。
つまりは千年王国ドラゴニアを建国した勇者王サーラの伝説を描いた絵画のドラゴンであるから現実としてのインパクトは弱い。
何より今のアラムは魔術師の杖を失い、魔法が行使できない状態だ。
あんな声で呼ばれても助けに行けるはずがない。
いや夢と自覚していなければ助けに行ったかもしれないが・・・
「やっぱりねえわ」
魔術師アラムは人差し指で額を掻き、肩をすくめる。
そもそもあのフリュティエがアラムに助けを求めるというのがあり得ない。
これが夢であると気づいていなくても駆けつけることはしなかっただろう。
敗北とか、苦戦とか言う文字が一目散に逃げだして近寄ることも嫌がるのが、フリュティエであり、アラムが千年王国の王であり竜殺しの勇者の名前である「さーら」というあだ名で彼女を呼んでいた理由なのだ。
「夢の中で攻撃してくるような力はないらしいな」
アラムは夢と自覚してから魔術師の杖をイメージして具現化させようとしている。
だが夢に関する魔術系統は一般的ではないのでただの導師級の魔術師であるアラムには難しかった。
魔術師として他人を教え導く資格を持つ導師級の魔術師でも難しいほどに夢を操る魔術は特殊だというべきか。
ともあれ呼び声に応えなければ、影響はないようだ。
「それなら夢魔術の実践訓練でもやるか」
普段はやろうとしても夢を自覚する機会は少なく、自覚した瞬間に目覚めるというのが定石だ。
ところが今回に限っては夢の世界にアラムをとどめようとする「力」があるらしく、ほとんど不自由なく意識を保っていられる。
夢を操るとなれば最初に浮かんでくるのは夢魔の類だが、それにしてはやり方が迂遠すぎる。
眠った相手の夢に入り、直接、生気を奪ったり、害を与えるのが夢魔サキュバスやインキュバスであり、さらに上位の夢魔つまりは悪魔に系統分類される魔物になると意識を乗っ取るか、心を壊すとさえ言われている。
それに比べれば夢を見せて術にかかった者の「同意」を得ようとしているあたり、夢を媒介にしているが夢の中で直接影響力を持つ夢魔の類とは全く別の「力」が働いているのかもしれない。
魔術師アラムはそう考え、意識の糸を使って隠れている相手を引っ張り出すようなイメージを使ってみた。
蜘蛛の糸の呪文で相手をからめとり、引っ張るイメージと言えばわかりやすいかもしれない。
だが上手くいかない。
魔力を収束させ、魔法へと変換する変換器であり、発動器でもある魔術師の杖がないのが原因だ。
意思を力に変えるには、それなりの手続きがいる。
たとえば神官が奇跡を起こすのに祈りを必要とするように・・・
「あっ!」
そう言えばあの神官は神官衣の袖を銀狼に食い破られた腹いせに「神の見えざる拳」とやらを撃ち込んでいた。
「あいつなら――いや無理か」
アラムと同じで夢を自覚できればあの力で見えない術者をぶん殴ることもできるだろうが、そうなる前に夢に囚われる確率の方が高い。
魔術と奇跡のどちらが行使するのが難しいかはともかくとして、意識の制御の精密さにおいては間違いなく魔術師に軍配が上がる。
そうでなくては夢に対して魔術的アプローチをかけて、その系統樹が形成されるようなことにはならない。
奇跡の力では夢魔を追い払うことはできても、夢を支配しコントロールすることはできないのだ。
ちゃんと学べばそれなりにできるようになる。
それが魔術の強みであり、難しさでもある。
逆にある日突然できるようになるのが奇跡の強みだ。
「どっちにしても今はどうしようもないがな」
もし魔術師であるアラムが夢系統の魔術をかじっていれば神官アーマ・ハウを指導していろいろとやりようもあったのだろうが、残念ながらそれはないものねだりなのである。
「まあ、夢で誘いをかけてくるということがわかっただけでも収穫か。あとはこれを覚えたまま夢から出られるかだが」
「それは困ります」
アラムの夢声にこたえたのは同じ質の声だった。
見る間にアラムの思い出ではない方の映像にひびが入り、そこから可憐な女性が姿を現した。
年齢は――
「ばばあか」
「違います」
「人間は二十歳過ぎたらみんなばばあだぞ」
御年十七歳のアラムにとってはそうである。
「私たちは違います」
「じゃいくつからばばあなんだ? つかお前何歳だ?」
可憐な女性はアラムに向かって、穏やかな笑みを見せ――
「人を惑わす古樹の精は三百年はしないと意志を持つことがないんだろ? 人を惑わせ、喰らうようになるのはそれからだって聞くぜ」
夢の世界を振動させるほどの舌打ちをした。
その振動で女性の後ろにある映像の一部に入ったヒビが、一瞬で全体へと波及し、ガラスが百枚割れるような凄まじい音を立てて砕け散る。
「おっ、やるか? 言っとくが俺はお前の夢を見破った凄腕魔術師だぞ。一応話し合いの準備はあるから座ってくれてもいいんだぞ!」
凄まじい破砕音に耳をうたれた魔術師アラムはちょっとビビったが、それでも女性の舌打ちの力が届いたの範囲を見ていた。
女に近づかなければ危険はない。
フリュティエの姿と声を使って、アラムをあの映像のもとに呼び寄せようとしたのはそこが彼女が影響を及ぼせる領域だからだ。
そしてアラムがここに踏みとどまっていられたのはあの女の特殊能力が「幻覚」ではなかったからだろう。
映像は見え、言葉を交わせるのだが他の感覚に訴えかける力がないのだ。
幻影と幻聴で獲物を罠に誘い、あの女がいる場所へと足を踏み入れれば何かしてくるつもりだ。
アラムの夢の世界の自我領域とあの女の夢の自我領域の境目が今、女が立っている場所だろう。
「ここから動かなければ安全だ」
どんな特殊能力にも効果範囲と効果時間というものがある。
人が無限に走り続けられないように、どんな勇者であっても無限に戦い続けられないように、永遠に人を縛る特殊能力というものは存在しない。
「人でなくするというなら別だがな」
少なくとも今、アラムの知る範囲ではそうだ。
「仕方がありませんね」
舌打ちをしてアラムをビビらせた女は静かにそう呟くと白い肌にまとっている布に手をかける。
首の後ろにある結び目に指をかけ、その指を滑らすようにして結び目をほどく。
首の後ろの結び目で固定されていた衣服が重力に従い開いていき、腰のあたりまでその位置をずらす。
結び目とともに束縛を解かれた柔らかな胸がこぼれ出る。
それはたわわに実った果実の何倍も大きく、そして美しかった。
柔らかな左右の果実の上には青白い血管さえ透けて見え、それぞれの果実の中心から外に向くようにぴんと立った男を誘惑せずにはおかない女の重力が・・・
「おう、あ」
さらに女はやや顔を伏せながら、腰帯にも手をかける。
胸を隠したりしていないところが魅惑ポイントだ。
するりと解かれた腰帯とともに下半身を覆う布が落下して、胸と同じく肌色の足が目に入る。
その付け根にあるのはアラムの夢では決して形を結ばない秘密の花園だ。
「おい、おい、悪夢が効かないからっていきなり脱ぎだすのは・・・、バカすぎるだろ」
お手軽すぎる。
そう言いつつもつばを飲み込んだ魔術師アラムはもはや抵抗しようという意思を失っていた。
いやそんなことを思う前に男の本能が柔らかな胸を、見たことのない花園を求め、アラムを動かしていた。
「ようこそいらっしゃいました。私の領域へ」
そう言って勝利の微笑みを浮かべる女の顔をアラムは見ることはできなかった。
アラムの手も目も違う場所を探索することに忙しく、それどころではなかったからだ。
忙しくそして熱心に自身の体を触る魔術師に、女は眉根を寄せる。
しかしアラムは気にしない。
いつもは見ることもできない場所、いつもは触っても感触があいまいな胸に意識を全集中している。
竜殺しの勇者の夢を追い、象牙の塔に引きこもっていた魔術師はまだ女遊びというものをしたことがない。
いつかはと思っていたが、まだ機会を作れていない。
それがいきなりやってきた。
その機会にアラムはむしゃぶりつき、超集中している。
健全な若者の、健全な欲望を止めることは難しい。
「ちょ、触りすぎ」
「うるっせえ、隠すな。もっと触らせろ」
こうして冷静沈着でもっとも正しく夢の世界を理解した魔術師アラムは迷いの深奥に囚われた。
とても幸せな感触とともに・・・

地面に届くほど長い緑の髪を無造作にたらし、前髪で顔の半ばまで隠れた女の子が地面に倒れた男を見ている。
彼女の三倍はある背丈の男は肩口あたりまで伸びた黒髪を地面につけたまま、物足りなさそうな顔で眉根を寄せている。
手がもみゅもみゅとみだらなのか、不器用なのかわからない動きをしているのが不気味だ。
「これなあに?」
緑の髪の女の子は倒れている男の髪を引っ張ったり、頬をつついたり、変な動きをしている手の中に足を突っ込んでみたりしながら聞いた。
「うん、たぶん、人間の魔術師だと思うんだけど」
小さな女の子と比べると二倍半は背が高く、百倍は色っぽい体型をした女性が指を頬に当て、ちょこんと首をかしげる。
「初めての獲物だね。食べよう」
女の子は大きく口を開け笑う。
「待って、待って、お姉さまたちに報告させて。私の初めての獲物なんだから!」
すぐに牙をむき食らいつこうとしていた女の子はそう言われて、「それもそうだね」と牙を収める。
顔のほとんどが口と化していた女の子の姿が気だるげな人間に戻る。
「じゃ、行こう」
「ちょっと待って、一人で運ぶのは大変だから手伝って。お願い」
一人でその場を離れようとしていた女の子は慌てる女性の言葉を聞いて、ちょっと首を傾げ、「あいつら、こっちに連れてくればいいじゃん」と口にした。
「お姉さまたちにこっちに来いとか言ったら、またお仕置きされちゃうわ」
「そうなの?」
「そうなの」
「あいつらやっつけてあげてもいいよ」
「それはやめて。バク様は大丈夫だと思うけど私はお姉さまたちの力がないと人間に刈られちゃうわ」
「そっか、じゃあ仕方ないね。がんばれ」
「手伝ってほしいんだけど・・・」
「半分食べたら軽くなるよ」
「・・・やっぱりいい」

一つ気合を入れてから、槍使いの青年は体を起こす。
森の中はまだ暗く、あれからそれほど時間も経っていないようだ。
「さすがに疲れちまったかな」
草場とは言え、地面に寝ていたので凝り固まっている筋肉をほぐすために首や肩を動かし、何回か深呼吸をする。
狼の数は槍使いの青年が予想した最大数である六だった。
しかもその全部を自身の手で仕留めている。
疲れないわけがない。
囲まれて、追い込まれるような羽目にならなかったことは幸運だったし、今回の目的とは違う化け物があっちの三人を襲ってくれたのも幸運だった。
今回の報酬に関しては自分の分を重く、あいつらの分を軽くしても文句は出ないだろう。
もっともそれはあの三人が生きて森を出られていたらの話だが・・・
槍使いの青年には幸運はあっても仲間運がない。
勝手に仲間が死んでくれるので報酬が多くなり、得をすると言ってしまっては人聞きが悪いが、結果そうなることが多い。
これは槍使いの青年のせいというより、槍使いの青年が捕まえる仲間が初心者ばかりであることも関係があるように思える。
だが実際にはそうでない場合であってもそうなることが多い。
結局、運の悪い連中が集まってくるのだ。
少なくとも槍使いの青年はそう信じている。
荒事屋、冒険者などという職業は腕より運である。
運があれば生き残り、生き残れば強くなる。
生き残ればこそ人望やら人脈やらもついてくる。
死なない程度に行動し、生き残って得するように立ち回り、人より多くの報酬を得る。
それが荒事屋の才能というものだ。
その意味では俺は才能にあふれている。
今も寝ている間にあの化け物を含めた、危険に襲われることはなかったではないか。
運が悪ければ他の獣に襲われたり、あの三人が生きていて彼を囲んでいる中、目を覚ますというシナリオもあったに違いない。
だが彼の周りには誰もいないし、何もない。
槍使いの青年は自らの幸運に感謝しながら投げ出していた短槍を掴み、盾を構えるとくるりとその身を翻す。
一度、道を戻ってあの化け物がいなければ素早く村に戻れるあの道を走る予定だ。
おそらくあの化け物はいないだろう。
もしあの化け物があの道の近くにいるのなら彼が寝ている間に襲い掛かってきていたに違いない。
だがそれはなかった。
そして今、気配を探っても槍使いの青年の周囲に強力な存在感はひとつもなかった。
「今のうちに村に」
槍使いの青年は森に入るときに使った林道へと向かい歩を進める。
ずっと。
その道のりの長さが異常であるとは気づかない。
気づけないという状態が正常であると感じるように認識がゆがめられているのだ。
こうやってたどり着けない道を探すことこそが迷いの森の肝であった。
おそらく足元に先に銀狼に敗れた者たちの死体が転がっていても彼がそれに気づくことはなかっただろう。

気づくことがない。
それは槍使いの青年とは別の者たちも同じである。
干し肉をかじっていたべラムスも、見張りを引き受けた神官アーマ・ハウも魔術師アラムが消えたことに気づいていない。
もっとも神官であるアーマ・ハウはアラムから「月」についての話を聞いていたので違和感は感じている。
それをべラムスにも示して警戒を促しもした。
それでも二人は一人が消えたことに気付かない。
森の中から出られないこと、時間経過がおかしいことは認識しているが、自分たちが三人で森の脇道に入ったことは忘れている。
人を迷わせ、喰らう森とはそういうものだ。
いろいろな事実に対する認識が「迷子」になり、やがては自らの存在も忘れてしまう。
いや「迷子」であることを忘れるというべきだろうか。
「べラムスくんが朝ごはん食べ終わったから、ちょっとお祈りでもしてみようかしら」
神官アーマ・ハウは「迷子」であるという恐怖からではなく、「空腹」に対する不満からそんなことを言った。
水の女神アクエルは流れる水のごとく自由であり、過去の罪だろうが未来の罪だろうがことごとく水に流してくれる優しい女神である。
ひょっとしたら「お昼ご飯を準備していなかった罪」を水に流して、食べ物をたくさんくださるかもしれない。
いやきっとそうだ。
神官アーマ・ハウは食事を終えたべラムスに曲刀を返すとその場にひざをつき、目を閉じる。
「自由なる女神アクエルよ。迷える子羊に・・・、いえ人間である私に子羊のラムか何かをくださるととても喜びます。他のものでもいいです。朝は携帯用のビスケットと果実酒だけでした。いえ果実酒は大好きなのでオッケーなのですが、ビスケットはお腹にたまらないのでもっとヘビーなお肉なんかがうれしいです。そろそろお昼です。夜は一日の疲れを取るために飲んで騒ぐのは当然ですが、お昼も午後を元気に生きるためにいっぱい食べるべきだと思います。朝ごはんを軽く済ましたので私はお腹がすいています。アクエル様も朝ごはんが携帯用のビスケットで――すいません、朝はおやつ用の甘い甘いビスケットでした。本当は結構満足してたのですが、今はお肉な気分なのです。なぜかわかりませんが森から出られないので、よかったらここに調理が終わったお肉を出してくれるとあなたの信者はとても喜びます。本当に困っているんです。そういえば冒険者として仕事を受けたのもお金が必要になったからです。アクエル様ならわかってくださいますよね。あなたの信者は頑張っています。邪神チャラーナに負けないように。だからここに小さな奇跡を、私にとってはとってもとっても大きくてもアクエル様にとってはちっちゃなことですよね。ちょっとだけでいいのでその奇跡を・・・」
真剣な様子で両手を握り、祈る姿は外見には神々しい。
その姿に素直な少年べラムスが思わず、膝をついて両手を合わせる程度には・・・
「ほら見てください。あんな小さな子が祈っています。今奇跡を起こせばきっとあの子もアクエル様の信者になりますよ。がんばりましょう。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいのでアクエル様の奇跡を見せちゃいましょう。きっと褒めてくれますよ。あー、お肉が出てきたらあの子めちゃくちゃ喜ぶだろうなぁ。アクエル様の奇跡の前によだれを垂らしているあの子の姿が目に浮かぶようです。ささ、やっちゃいましょう!」
世界を作りし、五元神の一柱たるアクエルは水を司るだけにその性質は融通無碍であり、水のようにつかみどころがない。
燃える情熱を愛する火の女神、深き慈悲を司る大地の女神、運行を司り行動そのものを好む風の女神、世界に光と輝きをもたらすことを自らに課している光の女神。
それらの元神と呼ばれる女神だけあって他の神々に比べるとそうとうに縛りが緩いと言われるが、その中においても水の女神アクエルは別格の風情がある。
なのでこんな祈りでも女神アクエルは喜んでくれるのだ。
覇王国を認可する剣神に仕える神官たちのようにこうやって祈るようにという基本マニュアルなど存在しない。
そもそもマニュアルなんかが通用するなら剣神含め、すべての神を崇める人々は奇跡の力に目覚めるはずなのだ。
だが実際には奇跡の力に触れられる者はとても少ない。
神官アーマ・ハウとて最初から水の女神を崇拝していたわけではない。
ある日突然女神の声を聴いたのだ。
そしてその日から奇跡の力を使えるようになった。
借金取りに「見えない拳」を叩きこみ、それが邪神チャラーナの手先であったことに気づいたとき、彼女は水の女神アクエルの神官となることを決め、教会の信者となったのだ。
もちろん願ったことがそのまま奇跡として示されないこともある。
だが示されることもある。
ダメでもともと祈らなきゃ損損というのが神官アーマ・ハウの認識であり、それが彼女をここまで育てたと言って良い。
奇跡は起こしてもらうものだが、願わない限りは叶わない。
「帰ったらアクエル様の大好きな悪魔殺しをお供えしますから!」
瞬間、アーマ・ハウの全身が神々しい水色の輝きに包まれる。
「奇跡が、起こる!」
神官アーマ・ハウは確信し、その感覚に身も心も委ねる。
『できるだけ約束は守ってね』
出来なくても決して怒りはしないという優しい声にアーマ・ハウは深くうなずいた。
そう水の女神はどこまでも優しいのだ。

森の中に洞窟があった。
こう書くと当たり前のように聞こえるが、その洞窟は樹木の洞窟だ。
森の木々の枝が、根が絡みあい、つながり合って光の届かぬ闇の穴を形作っている。
その洞窟を形作るための数千数万の木の枝が自然ならざる成長と形状を取ることを要求され、それに従った結果できた樹城洞窟だった。
洞窟を支える大樹はなく、ただ長く引き伸ばされた枝同士の支え合いだけでできている。
だから洞窟なのだ。
そんな洞窟の中に妙齢の女性がひざをついている。
となりには緑の髪を放埓に伸ばし、その中に体を埋めているかのような子供がいる。
前髪で隠された目は見えないが、闇の中を怖がっている様子はない。
ただし喜んでいるというわけでもない。
一方、女性の方は明らかに委縮している風だった。
ひざをついた女性はその頭を子供の頭の位置にまで下げ、信託を待つ神官のようにかしこまっている。
「ちゃんと獲物を取ってきたのだろうね」
「もちろんです。お姉さまがた」
女性の発した言葉に彼女を嬲るような声が途絶えた。
「本当かい?」
「人間の魂だよ」
「人間の魔力だよ」
「人間の精神だよ」
同時に三つの声がひざをつく女性に自らの要求を発する。
「すべてがある者です。バク様が欲しいと言われた肉をも持っています」
「そうだぞ」
バクと呼ばれた子供がにししと笑う。
洞窟の中に嫌悪に似た空気が生まれる。
「では見せてもらおうか」
「はい、お姉さまがた」
ひざをついていた女性は立ち上がると何かを迎えるように胸の前に手を差し出す。
その手の中に緑色の光が生まれる。
そう言えば今まで暗い洞窟の中で見えていたのは女性とバクと呼ばれた子供だけだった。
闇に閉ざされた洞窟の中で女性の体自体が発光し、その姿を明確にていたのだ。
緑の光に照らし出されたのは奇妙な生物だった。
生物たち、あるいは彫像というべきだろうか。
それは木々の洞窟の中に立つ塔のように見える。
ただしその半ばに醜い小鬼の上半身が生えている。
犬に似た顔を持つ上半身が生えている。
老婆に似た顔を持つ上半身が生えている。
「何だこりゃ」
驚きの声を上げたのは先ほど「獲物」と呼ばれた男だった。
緑の光の中に浮かび上がった男は黒い髪を持ち、赤いローブをまとっていた。
ただしその裾は切り裂かれている。
走るのに邪魔なので自ら切り裂いたのである。
「人間だ、人間だ」と塔に生えた三つの上半身が騒ぎ立てる。
「強い魂を持っている」
「強い魔力を持っている」
「強い精神を持っている」
それぞれが騒ぎ立て「よくやったね」と声をそろえた。
「ありがとうございます」
緑に輝く女性は嬉しそうに顔を上げた。
その頬を洞窟の天井を走る蔦の一本が叩く。
「調子に乗るんじゃない!」
「どれだけ待ったと思っているんだい」
「あたしたちは腹ペコで今にも死にそうなんだよ」
「ごめんなさい」
蔦で打たれ、倒れた女性はすぐに立ち上がり、頭を下げる。
「まあいい。これで腹を満たせる」
「そうだね。ひさしぶりの・・・。十年ぶりの食事だ」
「三十年ぶりの、だよ」
「百年は待ったよ」
それぞれが言い、そしてこう続けた。
「さあ、魂を」
「魔力を」
「精神を」
「「「取り出し分けてくれ」」」
「分ける?」
三つの声の要求に緑に輝く女性は小さく首をかしげる。
そして傍らの子供に視線を向ける。
「食っていいか」
「ダメです」
「俺を見るんじゃねえ。魂と魔力と精神を切り分けるなんてことは不可能だ」
「本当ですか?」
「本当だよ。そもそも魔力と精神力は魂に依存し、魂は精神力と魔力によって維持される。精神力が魂から引き出すのが魔力で、魔力を燃やして肉体を作るのが魂だ。肉体と繋がった魂が精神と魔力を生み出し、人となる。人がその心に欲望を持つのは魂が肉体の影響を受けるからで、そのつながりの連環を崩すことは死を意味する」
「ではあなたを殺せばいいのですね」
「肉体の死は心魂の消滅であり、死すればすべては失われる。死にかけた状態でも魔力も精神力も肉体とともに消えゆく途上にあるだけだ」
魔術師アラムは導師である。
導師とは教え導く者であり、魔術師志望者への授業を行う義務もある。
アラムは十四で導師の資格を得たので、授業数もかなりこなしている。
石の上にも三年とはよくいったもので十七になったアラムには教え導く導師としての態度がしっかりと身についている。
「はやくおし」
「わたしは腹ペコなんだ」
「これ以上は待てないよ」
小鬼の顔が、犬の顔が、老婆の顔が、急かす。
「わかりました。お姉さまがた、すぐに」
「ちょ、待て、待て、待て!」
「何か?」
緑に輝く投げ槍を掌に浮かべた女がちょこんと首をかしげる。
槍の長さは大人の身長ほど、材質は光、周囲の空気をも振るわせるような強烈な光でできた槍を見て、さすがのアラムも腰を抜かした。
戦乙女の槍。
戦神のしもべとも娘とも言われるバルキリーが勇者の魂を父なる戦神のもとへ導くために与えられた必中の死矢であり、必殺の槍である。
一説には五元女神を生み出した神が彼女たちのわがままで世界が滅ぶことを恐れて生み出した神殺しの槍と言われたりもする。
勇者殺しの槍ともいう。
とにかく神に近い精霊が使うというその光槍は最強の対人兵器と言って良い。
というか、「こんな化け物じみた力を使う精霊が何でゴブリンやオークやホーントをお姉さまとか言って崇拝してやがるんだ?」とアラムは思った。
柱に埋まっている小鬼ゴブリン、犬頭のコボルト、森の老婆たるホーントは邪悪で奸智に長けていると言えないこともないが、それほど恐るべき存在ではない。
恐るべき存在ではないはずだがその姿を見るにただのゴブリンやコボルトでもなさそうだ。
今にも光の槍を放ちそうな精霊女に気を取られながらそんな思考をしたアラムは腐っても魔術師であった。
小鬼、犬頭、老婆の三体の妖魔、魔物は一本の塔のように見える樹木の上下に絡み合う様に生えていた。
よく見ると小鬼たちの体は木製であるように見える。
生きた樹木。
樹木に寄生する能力を持つ妖魔、あるいは妖魔に寄生する魔樹の類かもしれない。
つまり
「ふつうのゴブリンとかとは思わない方がいいってことか」
火球の呪文でもぶちかませば一瞬で灰にできそうだが、魔術師の杖のない今のアラムには不可能だ。
魔術師は発動器である杖がなければ途端になにもできない無能者に成り下がる。
年老いた魔術師が杖を振り上げてドラゴンと相対する絵画にも真実はあるのだ。
「お、俺を殺したら魂は取れないぞ!」
「大丈夫です。この槍で殺せば魂が残ることはわかっていますから」
「そんなわけあるか!」
「本当です。バク様がお魚を食べるときに撃ち抜いたら私が食べる分の見えない何かが出てきました。おいしかったですよ」
「それがそいつらの望んでるものかわかんねーだろ。つか、さっきの話じゃお前が人間捕まえてきたの初めてっぽいのに。こいつらなんで生きてるんだ? 本当にこいつらは人の魂とか魔力とか精神とかを食うのか? そもそもこいつら生きてるって言えるのか?」
アラムは矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
だが精霊女はちょっと首を傾げ、「そんなの知りませんよ」と唇を尖らせる。
「知らねーのに言いなりなの? 試しにその槍でこいつら撃ってみろよ。たぶん簡単に倒せるぞ」
「あなたが責任を取ってくれるならいいですけど――、できないでしょう」
精霊女は穏やかに笑い、すっと目を細めた。
(やばい、こいつはマジで死ぬ)
そう思ったとき、光の槍が矢のように自身を貫こうとしているのが見えた。
太陽の生み出す光を避けることができないように戦乙女の槍はまっすぐにアラムの心臓を貫こうとしていた。
その動きは緩慢に見えたが、もちろんアラム自身は見える光の槍の速さの百万分の一以下の速さでしか動けない。
つまりは動く間もなく、死を予見した。
が、その瞬間、木々でできた洞窟が、いやその中心にある塔たる樹木が見えない力に撃たれたように震え、光の槍を放った精霊女がまぶしい光でも見たかのように顔を覆い苦悶する。
しかもアラムの心臓を貫く、いや貫いていたはずの光の槍も完全に霧散している。
何が起こったのかはわからない。
ただその現象を起こした者が魔法でもなく、精霊の力によるものでもないことだけはわかる。
まさに奇跡。
「まるかじり」
精霊女の近くにいた緑の子供がぐあっと口を開く。
顔の半分が口になったのではないかと思うほどの大口だ。
だがその大口にある鋭い歯列が噛み砕いたのはアラムではなく、ゴブリンとコボルトとホーントの絡みついた樹木である。
襲い来る大口に向かって、ゴブリンが炎蜥蜴の吐息を、コボルトがさび付いた剣を、ホーントが魔力の矢を放つ。
火蜥蜴は精霊であり、コボルトの剣は短剣であり、ホーントの放ったのは初級の魔術であるエネルギーボルトだ。
大口を開けた子供は火蜥蜴の吐いた炎を突き抜け、コボルトの短剣を払ったものの、ホーントの放った青白い光の矢に撃たれて地に落ちた。
次の瞬間、ホーントが悲鳴を上げる。
「杖をよこせ、ばばあ!」
三連続攻撃の間隙を縫ってホーントに取り付いたアラムは魔術師の杖を持つ老婆の腕に嚙みついていた。
木目さえ入っている老婆の枯れた腕が肉骨の抵抗を示す。
アラムの歯が食い込んだ肌からは赤いものが染み出し、簡単にへし折れそうな細腕の奥には確かに骨の硬さがある。
ついでに痛覚もあったことにアラムは感謝するべきだったろう。
しゃがれた悲鳴をあげた老婆は手を振って、アラムを振り払おうとし、杖を取り落とした。
アラムはその音を聞くと老婆の腕から離れ、地面を転がりながら杖を拾う。
間違いない。
儀式によって魔術の発動器としての機能を持たされた杖、すなわち魔術師の杖である。
「よーし、すぐに俺様の魔法で焼き尽くして・・・」
アラムが魔術師の杖を構えて、呪文の詠唱に入ろうと小鬼と犬頭、老婆の混合樹に向き直ったのと大口を開けた子供が再び襲い掛かったのは同時だった。
そしてばりばりと骨ごと肉を噛み砕く音が洞窟内とアラムの耳に強く響く。三つの胴体の内の一つ、一番肉付きが良かったゴブリンが砕けていく。
それはもうびっくりするぐらいの勢いで大口を開けた子供の中へと消えていく。
老婆ホーントがアラムに噛みつかれたのと逆の腕の指を上げる。
その人差し指には複雑な文様の刻まれた指輪があった。
「させるか、ボケ!」
アラムがとっさに唱えたのは先ほどホーントが大口に向かって唱えたエネルギーボルトである。
初級魔術の攻撃呪文だけに唱えるのが簡単で呪文も短い、導師であるアラムであれば魔力構成を整えれば一言で発動できる。
もちろん老婆のホーントより発動速度は速い。
人差し指を掲げ呪文を唱えていたホーントが悲鳴を上げ、呪文の詠唱を中断する。
大口の子供は一瞬それを見たが、やっぱり肉付きがいいコボルトの半身へと嚙みついた。
「おい、ガキ。ばばあは食ってもいいが指輪は残せよ」
アラムは魔術師らしく、スマートにお願いして、戦いが終わるのを待った。
結果はもちろん超貴重品の魔法の発動器「指輪タイプ」を巡って大口のガキと取っ組み合いをすることになった。
つまりアラムは超貴重品の魔法の発動器「指輪」を手に入れそこなったのだ。
そして
「お姉さまがたを倒してしまってどうしてくれるんですか! せっかく見つけた安住の地だったのに! 責任とれるんですか!」
精霊女の激怒を買った。
指輪を飲み込んだガキにぽんぽんと慰めるように背中を叩かれて、泣きそうになる。
二十代のばばあって怖いんだな。
アラムは膝を抱えながらそんなことを思った。

突如、道が開けたとは槍使いの青年は思わない。
彼はずっと走っていたのだがそれをおかしいと認識できていなかった。
だから槍使いの青年にとってそれは当たり前だった。
「この道を戻ればすぐに」
空を見上げれば太陽が西に傾いている。
それを見て、槍使いの青年は自らの認識を無意識のうちに調節した。
「この道を戻れば夕暮れまでには村につく」
それは正しい認識だ。
そしてつい先ほどまで夜の森を走っていたという認識はあっさりと書き換えられる。
槍使いの青年は足を速めながら思った。
「あの三人より前に村につかないと自分の手柄を横取りされるかもしれない」と・・・

「アラム兄ちゃんがいない」
「そう言えばそうね」
祈りを終えた神官アーマ・ハウはべラムスの言葉に、黒髪の魔術師がいないことに気付いた。
何となく違和感のようなものがあるが、それを気にしている場合ではない。
「荷物も置いてないわ」
「あのさ。アラム兄ちゃんもお姉ちゃんも保存食を入れるポーチくらいしか持ってきてないよ」
「そ、そうだったかしら」
「そうだよ」
言い切るべラムスの顔を見ていると自分が間違っているような気がする。
「何か釈然としないけど」
何が釈然としないかはわからない。
ともあれ、今は魔術師アラムを探すのが一番だろう。
「お腹すいたけど」
「鹿だよ」
「捕まえましょう。お肉よ」
何か忘れているような気もするが、今はお肉を手に入れて食べることが一番だ。
「盾の裏に小型の弓矢が張り付いてたんだけど、あれは捨てちゃったしなぁ。追いかけるにしても森の中じゃ分が悪いよ」
「追いかければ群れにたどり着くはずよ。あれは雌だから群れを見つければ子供が食べられるわ」
「何か言い方がイメージ悪いなぁ」
「それは誤解よ。雌の集団は母鹿がリーダーで群れはその子供たちなの。母鹿を狩ると集団がばらけるから子供を狩るというわけ。大丈夫、子供と言っても体は大人だから食べ応えはあるわ」
「鹿、追わなきゃダメかな」
「腹ペコじゃ実力の半分も出ないわよ。文句を言ってないでさっさと追う!」
神官アーマ・ハウはべラムスを急かすと来ていた神官服を丸めてわきに抱えるとすぐに走り出す。
「仕方ないなぁ」
アーマ・ハウと同じくらいわがままな姉に鍛えられているべラムスはその後を追って走り出し、すぐに女性神官を追い抜いていく。
「子供を狩ったらすぐお姉さんを呼ぶのよ。いろいろと処置することが多いんだから」
後ろから聞こえてくる声にべラムスは手を上げることで応える。
森という地形のおかげで鹿の姿を追うことはそう難しくはない。
ただし追いつくのは難しい。
神官アーマ・ハウの言った通り群れを見つけてから狩りに入るのが得策のようだ。
べラムスは気配を消しながら鹿の影を追う。
鹿にべラムスを翻弄しようとしている様子はなく、一直線に群れに向かっているようだ。
本来の鹿の性質なのか、それともこの鹿が特別無防備なのかはわからない。
気配を断つことが思った以上にうまくいっているのかもしれないとも思う。いろんなことが重なっている。
だからべラムスは気づかなかった。
自分が狼のテリトリーの中へと足を踏み入れてしまったことに・・・

ゴブリンの祭司、コボルトの戦士、そしてホーントの魔術師は失われた。
その瞬間、樹木の中に生まれていた確かな自我も失われた。
だがその樹木は三つの自我を持つ前も今の樹木のままだった。
ゴブリン、コボルト、ホーントをその身の内に取り込んだのはあくまで樹木であり、自我はその余禄に過ぎない。
数百年の樹齢はない。
だがその樹木には他の樹木が何十年たっても得られない変異が生じている。
この巨大な枝の洞窟もゴブリンどもがやってくる前に形成されたものだ。
もっともゴブリンの祭司の自我を得て、コボルトの戦士の力を得て、老婆のホーントの知恵を使ったおかげで最初の洞窟とは比べ物にならないほどに精密で強力で動かしやすい体となったことは確かだ。
この体さえあれば洞窟に入ってくる獲物を待つ必要もない。
塔のような樹木はごく自然に周囲の枝に巻き付いた蔦によって自らの全身を覆い隠させる。
その蔦は複雑に絡まりながら洞窟の隅々まで塔の樹木の意思を伝えていく。
これは生存のために必要なことなのだ。
そうどんな植物もが自然に行っている自衛行動であり、そこに複雑な思考はない。
塔の樹木はそう考えた。
考えた?
そう考えたのだ。
ゴブリン、コボルト、ホーント。
それぞれの自我が持っていた思考の癖はすでに塔の樹木の本来の植物性へ強く強く食い込んでいる。
大地に生えた雑草がその根を深く深く張り何度引っこ抜かれても甦るように、塔の樹木も気づかぬうちにそれらの思考に侵食されていた。
ゴブリンの祭司は精霊を使い、コボルトの戦士は打撃を使った。
ホーントの魔術師は魔術を、そしてそれらを複合して受け入れた塔の樹木には害獣を取り込み支配するという性質があった。
三つの自我が、三つの欲望が、三つの力が塔の樹木に絡みついていた。
ひとつの魂の座に複数の魂が宿ろうとすれば「沈黙の座」となる。
では一つの魂の座に複数の自我と欲望と力の残滓が残されたら?
その答えがここに在った。
塔の樹木の繫茂本能によって統一された自我と欲望と力は塔の樹木の性質に従いながら完全なる別種としての行動を開始する。
洞窟全体が震え、自我が欲望が力がそれを一つの魂の座において実現させた。
その形はまるで・・・

ぞわぞわと大地がうねる感覚に魔術師アラム・ランカードは抱えていた膝を投げ捨てて、立ち上がる。
「気持ち悪っ」
というのが最初の彼の感想である。
木の枝の洞窟のすぐそばにある湖のほとりで膝を抱えていたアラムの足元の草が、いや草の下を走っていた地下茎がうごめき、草ばえのすべてが気色の悪い動きをしたのだ。
「どうかしたんですか?」
「バカ、地面がうねうねしてるだろ」
「それが何か?」
「いやその何でもな――くはないわ! お前、俺が」
「何ですか」
精霊女の冷たい目にアラムの心は折れかけた。
さっき膝を抱えるほど罵倒された恐怖がそうさせるのはごくごく自然なことだったが、アラムはその自然を意識し、見事に無視して見せた。
ねじ伏せたのではなく、怒られても「死んでない」ことにフォーカスしたのである。
実に魔術師らしく、完璧なマインド・アクセプタンスをやってみせたアラムはすぐに背筋を伸ばし、老婆ホーントから奪い取った魔術師の杖を精霊女の鼻先に突き付けて、大声を張り上げる。
「俺がお前の安住の地を見つけてやるから、とりあえず俺の言うことを聞け!」
「本当ですか!」
「あ、うん、善処する所存があったりなかったりでして」
一瞬、喜びに輝いた精霊女の目に氷雪の兆しが・・・
「いやもういいや。いざとなったら俺の部屋を明け渡すからそこで暮らせ」
「まあ、マイホームというやつですね。私の希望としては人里離れていなくてもいいので人間に見つからない隠れ家的な場所で夜は月の光を浴びてゆっくりできる環境が理想です。昼間は太陽の日差しがまぶしくなくて、あと水が豊富で、栄養価の高い土が寝床だったりしたら最高ですね。そうそうあと栄養価の高い人間が――」
「ちょっと待て。寝床の土までは言いが、その先は俺に言っていいことなのか? さすがに人間バクバク食べるとか言われたら火球の呪文を連打するぞ。つか、人の町でそれをやるのは自殺行為だぞ。魔法王国舐めんな」
「違います。栄養価の高い人間がたくさんいれば少しづつチューチューして元気に暮らせるんです。殺しちゃったら一回こっきりですよ。もったいないじゃないですか」
「何をチューチューするつもりなのかはしらんが、それで夜しか外を歩けなくなったり、人間じゃなくなったりしなければオッケーだ。ムキムキマッチョがいいのか?」
「私はいち姉さまと同じで魔力チューチューです」
「いち姉さま? しわくちゃのばばあか」
「杖を持っていたお姉さまです。あなたが熱烈に噛みついた」
「思い出させるな」
「つまり魔力の高い人間がいっぱいいるところがいいわけだな。それならぴったりだ。栄養価の高い土の寝床と水については要相談だ」
「何でですか! さっきはいいって」
「言ってない。だいたい魔力チューチューする奴が栄養価高い土とか言ったらその肥料が何だかわかんないだろ。怖いだろ。俺は墓暴きとかはごめんだぞ。それから水もどれくらいでいっぱいかわからんし、ただ昼間真っ暗で月明かりが差し込むってところはオッケーだ。魔法の鍵もかけられるし、セキュリティーは完璧だ。他人はめったに訪ねてこないし、いないふりをしたらごまかせる。この物件がダメなら他に良い場所はない。それぐらいの優良物件だ」
「広さは?」
「導師級の魔術師の部屋は研究施設も併設できる仕様だからかなり広いぞ。お前が二十人くらいゴロゴロしても楽勝なくらいの広さはある」
「そんなに?」
「すまん。横になってもに訂正させてくれ。その勢いでゴロゴロされたら足りんかもしれん」
引っ越し部屋を想像したのか、精霊女はうねる草の上を勢いよく転がっている。
「今ぐらいゴロゴロ出来たらとても満足なので十分です」
精霊のくせに草まみれになって立ち上がった精霊女は両手を握り締めて、目をキラキラと輝かせる。
「バク様もいいですよね」
「うー、いいの?」
緑の髪を放埓に伸ばしている女の子が指をくわえてこちらを見ている。
ゴブリンとコボルトとホーントをばりばり噛み砕いた大口持ちとは思えない可憐な風情を出して来ている。
とても嘘っぽい。
「こいつは別に部屋欲しいとか言ってないし、ここにいても安全だろ。つか町に連れていったら人間バリバリ食いそうだからダメだ」
「だいじょうぶ、じゃあくな味がするやつしか食べない。バク、おまえのこと尊敬した。言うこと聞く」
「なっ」
声を上げたのは精霊女である。
「ば、バク様が尊敬した」
「邪悪な味って一回噛みつくってことじゃねえか。お前が噛みついたら甘噛みでも血だるまになるぞ」
「だいじょうぶ、なめればいい」
「大口出した時点でアウトなんだよ!」
「じゃあ、ださないようになめる」
「・・・・・」
「ださないようになめる」
「おい、お前、こいつの面倒を見れるだろうな」
アラムはじっとこちらを見つめる大口隠した女の子から目を逸らし、精霊女を見る。
「それは無理です」
「何でだよ! 俺が部屋を明け渡してやるんだからそれぐらいやれよ! いざとなったら戦乙女の槍でとっちめればいいだろ! お前精霊なんだから噛みつかれても平気だろ!」
「何を言っているのですか。バク様は健啖家なんです。何でもバクバク食べちゃうんです」
「だいじょうぶ、ドリーネはじゃあくじゃないから食べない」
「ほらバク様もああいってるぞ」
「周りの人間に責任を持てないと言っているんです! あなたも食べられかけたんですよ!」
「えっ」
「じゃあくでも尊敬したやつは食べない。だいじょうぶ」
「ちょっと待て。今のはどういうことだ? この正義の魔術師アラム・ランカード様が邪悪だっていうのか! 表に出ろ!」
「ここ外です」
「とにかくお前とこいつはセットだ。お前がこいつの面倒を見れないっていうならさっきの話は無しだ」
「ずるいです。そういう話になったのもあなたがお姉さまがたを」
「あいつらを食ったのはバク様だろ! 責任転嫁するんじゃねえ! そうだ! 俺はお前に勝手に連れてこられただけで何にも悪くねえじゃねえか! 何で泣くほど怒られなきゃいけなかったんだ? 謝れよ!」
「ドリアーネ、ごめんなさいは?」
「あああっ、バク様まで!」
「こいつの方が物分かりがよさそうだな。そうだ。お前は残れ、俺バク様だけ連れて帰るから!」
「ちょ、待ってください。私そんなに強くないんです。お願いですから連れて行ってください。夢のマイホームプリーズです!」
「わわ、縋りつくんじゃねえ。ちょ、当たって」
「んっ?」
アラムと精霊女がわちゃわちゃしているとバク様がついっと視線を上げる。
そこには巨人族オーガのように巨大な顔を持つゴブリンと地獄の番犬ヘルハウンドのような頭を持つコボルトと老人の顔を持つと言われる魔獣王マンティコアのような恐ろしげな顔をした老婆ホーントがそれぞれ巨大な体躯を持て余すように木の枝の洞窟の前方に並んで生えていた。
見ようによっては三つの長い首を持つ竜のようにも見える。
そして今まで地面に潜っていた洞窟の床部分の下に着の枝に蔦が絡みついてできた巨大な亀の足のようなものが複数見える。
もっともそれは洞窟を持ち上げるための装置であり、実際の移動はその複数の持ち上げ土台の底でうごめく蔦によってなされているようだ。
「おいしそう」
「んなっ!」
「ええっ!」
じゅるりとよだれを垂らしたバク様をよそに魔術師アラムと精霊女ドリアーネは驚愕に目を見開き、硬直した。
それはゆっくりとではあるが着実にこちらへ向かって近づいてきていた。

森には森の掟がある、というのは人間の誤解である。
森にも世界にもルールはない。
あるとすればそれは変わりゆく時の流れに従い生きる生物植物たちの変容であり、森を支配した王の「行動」が作り出す不文律だ。
もう一度言おう森にルールなどない。
王の行動が作り出す不文律が森の掟に見えるだけだ。
右目を失い、右足を引きずる小さな王は「それ」を作り出すことのできる存在だった。
彼あるいは彼女の意志が堅固なる形を見出したとき森に掟が生まれるだろう。
あるいは彼あるいは彼女の意志がついえたときに・・・
隻眼になった銀狼は残った黄金の目で森を観た。
銀狼の視線は神のそれのように天空から森をとらえ、その中に黒く渦巻く存在を感知する。
森を侵食支配する力を持つ別王が存在する。
銀狼はそれをずっと以前から感じていた。
だがなぜか見つけ出すことはできなかった。
銀狼が真の森の王になるために倒さなければならない存在。
迷いはある。
銀狼は自身の森を支配したいという思いに違和感を覚えているのだ。
銀狼の心は若く柔軟だった。
森を支配する王になり、森を守らなければいけないという使命感はあった。
圧迫感あるいは強迫観念的な信念と言ってもいいかもしれない。
しかしべラムスという人間に傷つけられ、森の住人たる狼に苛立ちをぶつけたとき、その信念は揺らぎ、若い柔軟性が激しく動揺した。
森を守りたい、森の掟を敷かなければならないという思いは森の住人を無意味にむさぼることによって打ち砕かれた。
守らなければいけない存在を殺したという現実が銀狼を森の守護者としての現実を書き換えたのだ。
自分は自由なのだと銀狼は自覚した。
銀狼という存在にかけられる使命感という名の不自由は「幻」だったのだ。
銀狼は太く長い咆哮を放つ。
それは独立の咆哮であった。
この瞬間、銀狼は自由になった。
森にいるのも、森を出るのも、森を守るのも、森を滅ぼすのも、あるいはまったく別の何事かをするのも自分の思いのままにやればいい。

べラムスと神官アーマ・ハウは、今や西に沈もうとしている太陽を背に塩と果実酒で味付けされたシカ肉を貪り食っていた。
狩りは順調だった。
べラムスは容易く鹿の群れを発見し、その中で若そうで立派な一匹の雌鹿を一刀の下に切り殺した。
切り裂くように鋭い指笛でアーマ・ハウを呼ぶと、彼女はすぐにやってきてあっという間に鹿の解体を終わらせた。
神官アーマ・ハウはこういうことに慣れているらしく、火を起こしたべラムスのところにたっぷりの肉を持ってやってくると手早く調理して見せた。
話を聞くと調理のための調味料や解体セットは神官になる前から持ち歩いていた愛用品だそうだ。
しかしアーマ・ハウはそんなに大掛かりな荷物はもっていなかったはずだ。
それを問いただしてみると「それは秘密っていいたいけどまあいいか」と彼女が持っているポーチが魔法の力を宿す品であることを明かしてくれた。
ただし彼女が知っている鍵言葉を言わない限りはその力は発揮されず、魔法のポーチだとバレる心配はないと笑っていた。
べラムスもまだ十四で魔法の品と縁もなかったのでそんなものかと流し聞きしてそんなに注意を向けなかった。
魔法の品の価値、特に荷物の分量や重さを小さな場所に収納する力を持つ品の価値をべラムスが知るのはずっと後の話である。
鹿肉を堪能し、人心地つくと二人は魔術師アラムの捜索について話をする。
なぜ消えたのか、どこに消えたのか、どうやって探せばいいのかを話し合う。
一人で帰ったというのはたぶんない。
それは神官アーマ・ハウがアラムが「月がでていない」と異常を警告を発していたことをはっきりと思い出したことによる。
神官アーマ・ハウが祈りによって奇跡を起こしたことを見ていたべラムスもそう思う。
あのときまで二人とも「アラムがいない」ことに気付かなかった。
あの場面で一人で森を抜けることができるとは思えない。
アラムは魔術師の杖を失い魔法が使えない状態だというのも理由の一つだ。
では「どこに」消えたのか?
それはわからないと言うしかない。
連れ去られたとしたら痕跡が残っているはずだとも思ったが、残念ながらそれを調べるにはあの場所に戻るしかなく、鹿の追跡に集中していたべラムスはあの場所がどこだったかを覚えていない。
感覚的にかなり離れてしまった事だけはわかるが、元の場所に戻れる自信はない。
それはアーマ・ハウも同じようで、「今度はアクエル様にアラムの捜索を願ってみようかしら」などとべラムスからすれば罰当たりなことを言っている。
神の奇跡とはそんなに軽々しく扱っていいものではないというのが一般常識である。
もっとも手がかりが何もないことも現実で、手段としては悪くないかもしれないとも思う。
荒事慣れした冒険者なら見捨てるという選択肢を選んだかもしれないが冒険初心者である二人はそこまでドライではない。
そんなわけで散歩がてらそこら辺を探してみることに決めた。
夜に空腹を抱えて森の中を歩くのは危険すぎる。
日が暮れるまでに見つからなかったら一度村まで戻って、食料などを補給してもう一度森に戻ってくることを確認し、二人は森の中を歩き始める。
「魔法の一発でも撃ってくれたらすぐにわかるのになぁ」
森を震わす轟音が響いたのべラムスがそう愚痴った瞬間であった。

「決まったな」
杖を振り下ろした態勢で、魔術師アラムは満足げに呟いた。
何から何まで完璧。
今まで唱えた火球の呪文の中でも最高最大の完成度だったことは間違いない。
もちろん杖からほとばしった火球は大爆発を起こし、今までで最大の破壊の力を発揮している。
いくら巨大な洞窟の形をしていてもたかが木の枝の集まりが耐えられる威力ではない。
爆発が収まった後には大穴の開いた元洞窟が生やした三巨頭の一つや二つを失った姿で苦し気にもがいているに違いない。
何しろこれだけ距離があるのに火球爆発の余波である熱風が頬に熱いくらいなのだ。
「賢者の学院だと魔法縮小の結界の中でしかファイヤーボールは撃てないからな」
全力全開の火球の呪文にこれほどの威力があるとは思わなかった。
そしてここまで完璧な魔術構成と呪文詠唱ができたのも初めてだ。
その気持ちよさは格別なものだ。
だからアラムは魔術師の杖を振り下ろした姿勢のまま、火球を放った余韻に浸っていた。
みずみずしい蔦がその足に絡みつくまでは・・・
「うわっ」
やや前のめりの姿勢で杖を振り下ろしていたアラムの体が後ろにひっくり返る。
魔術師アラムは両足を洞窟から伸びてきた蔦によって絡めとられ、ものすごい力で洞窟の方へと引っ張られ、ずるずると草の上を滑っていく。
「ちょ、誰か。バク様、この蔦嚙み切ってくれ!」
といったときには緑の髪を大地につくままに放埓に伸ばした子供バク様ははるか遠くに離れている。
何しろ、アラムの目の前にはすでに支え木と蔦でできた洞窟の足の一本が見えているのだ。
あっという間に数十メートルの距離を引っ張られたわけだ。
大口のバク様にしてみてもカッコつけたアラムがいきなり消えたようにしか見えなかっただろう。
「やべえ」
というのもはばかられる勢いの中では呪文を唱えることもできない。
簡単なもの以外は・・・
「魔力の矢よ!」
純粋な魔力の塊が力の矢となって蔦の根元の部分を撃つ。
エネルギーボルトというやつだ。
簡単にアラムを引っ張り寄せる力を持ってはいても蔦は蔦、導師級の魔力を持つアラムのエネルギーボルトには耐えられず、魔力の矢に撃たれた部分が弾けて切断される。
弾けて切断されたのは一か所だが、そこから伸びている蔦がアラムの左右の足に絡みついていたので、アラムを引っ張る力はなくなった。
こういう判断こそが魔術師の、魔術師たるゆえんである。
学問を舐めてはいけない。
しかしそれと同じように自然を舐めてはいけない。
力を失った蔦に代わって、洞窟の他の足に絡みついている蔦がうねうねと動き、アラムに襲い掛かってくる。
アラムはとっさに杖を出しかけて――すぐに気づいて杖を抱くように庇うとごろごろと草の上を転がる。
アラムの体を求める蔦は寝っ転がって、ごろごろと動いているアラムの頭上や足元、左右を縦横に走り、それぞれが絡みついたり、ぶつかり合ったりしている。
蔦の数が多すぎて逆に邪魔しあっているのだ。
けっこうな数の蔦がアラムの体に触れたが完全に巻き付く前に他の蔦がやってきて巻き付こうとして、お互いに弾きあうようなことになっている。
蔦がしなり弾けるたびに体に痛みが走る。
アラムが何とか洞窟の下から這い出したころには魔術師のローブはボロボロであり、その下の体も打ち傷だらけになっていた。
だが魔術師の杖だけは無事だ。
「これがないと何もできないからな」
そう言うアラムの顔は傷だらけである。
だが視界はあるし、口も動く。
こうやって這い出してこれたのだから体も大丈夫だ。
アラムは自身にそう言い聞かせながら、できる限り急いで近くの木の陰へと走る。
その頭上で聞きなれないが、アラムにはわかる呼びかけの声がした。
そしてアラムの眼前に赤い炎をまとった巨大なトカゲが姿を現す。
「火蜥蜴か」
それも人の三倍はある巨大な火蜥蜴である。
火蜥蜴は炎の基礎精霊であり、たまに自然発生したりする弱い部類の精霊種族なのだが、ここまで巨大なものは見たことがない。
巨大な火蜥蜴がその舌をチロチロと動かす。
「炎を遮る障壁よ!」
アラムが呪文を完成させた瞬間に火蜥蜴の口元にチロチロと見えていた炎の舌がアラムへと襲い掛かる。
精霊使いがよく使う炎の舌がアラムの作り出した障壁をべろりと舐める。
実際には赤く焼けた炎の火箭がアラムへ向かって伸びたように見えた。
火箭はアラムの前で見えない壁にぶつかり、弾けるとその力を失い消える。
だがそれだけでは終わらない。
火蜥蜴はその失敗に憤ったようにその尻尾を振るって、アラムに叩きつける。
もちろんそれも見えない壁にぶつかって消えるはずだったが、アラムは火蜥蜴の尻尾の大きさに驚いて、それを避けてしまった。
別に動く必要もなかったのだが、やっぱり怖かったのだ。
学問を収めていても怖いものは怖い。
何となくだが初めての戦いで優秀な魔術師が不帰の人になる理由が分かった気がした。
実戦は驚きの連続なのだ。
「アラム兄ちゃん!」
声とともにアラムに絡みつこうとしていた蔦を切り払ったのはべラムスである。
何かうまそうな匂いをさせている。
「私もいるわよ!」
そう言って顔を出した神官アーマ・ハウからも香ばしいにおいがする。
何か口元がつやつやしている気もする。
「まあいい。べラムス剣を掲げろ。魔力を付与してやる! お前は回復に専念な。俺とべラムスが怪我をしたら頼む!」
「あんた、もうボロボロじゃないの」
神官アーマ・ハウはあきれ顔で右の掌を魔術師アラムへと向ける。
「癒しを」
祈りをささげた様子もないのにアラムの全身から痛みが消えていく。
「すげえ、これが神官の癒しの力か!」
「水の女神アクエル様の御力よ。ちゃんと感謝するように、信者になってもいいわよ」
神官アーマ・ハウはいい笑顔を浮かべ、自慢げに胸をそらす。
「それは、それとして」
魔術師アラムは一つ息を吐くと二つの呪文を完成させる。
ひとつはアラムの曲刀の切れ味を上げ、精霊や悪魔をも傷つけることができる魔力を与える斬力増強の呪文、もうひとつは自然ならざる力から受けるダメージを軽減させる魔法防御の呪文である。
これでべラムスは精霊を斬り、炎の舌に舐められてもいきなり大やけどを負うことはなくなった。
先ほどアラム自身を守った炎の舌ぐらいなら防ぎきる見えない盾のような強力な防御呪文もあるのだが、強力であるがゆえにその範囲が限られているので戦場を動き回ることが仕事の戦士には適切ではない。
傷の回復ができる神官がいし、べラムスは気力体力が充実した戦士なので、炎の舌で舐められてもいきなり倒れたりはしないだろう。
それならば完全に炎を防ぐ陣を敷くより、多少の怪我はしても戦士の動きに従う魔法防御の呪文の方が使い勝手がいい。
アラムはそう判断した。
実戦の場で呪文を行使する機会がない魔術師たちはその呪文の特性や使い方は知っていても、その応用力には乏しく習熟しているとは言い難く、アラムもその例にもれなかった。
防御系統の魔法を複数重ね掛けするという発想は実戦を経験しないと出てこない。
そもそも同じ系統の魔法は干渉しあい、上手く発動しないという例も多々あるのだ。
炎防御の魔法と物理防御の魔法が同時に効果を現すかどうかを試す余裕はなく、炎防御の魔法と魔法の攻撃を弱める万能性のある防御呪文のどちらもが効果を現すとは限らない。
実戦経験のある魔術師が優遇される理由である。
魔力の付与されたべラムスの曲刀があっさりと火蜥蜴の首を跳ねた。
火蜥蜴は苦悶の声も残さずに消滅する。
あるいは炎の舌と尻尾の二連撃で実体を維持する力が消えかけていたのかもしれない。
火蜥蜴は契約精霊ではなく、自然精霊だったらしい。
ゴブリンの祭司の力で自然精霊が一時的にとは言え、あれほどはっきりと実体化して見えるなんてことはふつう無いのだが・・・
「今は考えても仕方ないか」
アラムが這い出してきたのは洞窟の化け物の右の後ろあたりだった。
前に生えたゴブリン、コボルト、ホーントの三巨頭は見えない。
ただ丘のように盛り上がった洞窟の後方に尻尾のような形で地面に木の根のようなものが繋がって広がっている部位が見える。
「何だありゃ?」
今の位置からそれを見るのは丘を越えたばかりの位置からその最後尾を見るようなものだ。
だからと言って近づくには危険すぎる。
アラムはゆっくりと杖を掲げ、呪文を紡ぐ。
遠見の目の呪文である。
鷲の目の力を借りて遠くを近くに見るという効果を持つ呪文と言われているが実際にそうなのかはわからない。
人の目では判別できない遠くまで見通せるようになるのは確かなのだが、その見え方が鷲の目の構造から見える形とまったく同じかは疑問視されるというわけだ。
ともあれ初級学科卒業には必須の呪文である。
魔術師アラムはそれを唱え、洞窟の化け物の尻尾の部分を注視した。
遠くから見て木の根に見えたのは洞窟という体を形作っている木の枝を供給していた樹木の群れであった。
洞窟自体がせりあがり動いたことで、洞窟の構成に携わっていた大樹のニ十本ほどが引っこ抜かれるような形で追随しているのだ。
洞窟自体の動きが鈍いのはあれを引っ張っているからかもしれない。
だが根を失えば葉は枯れるともいう。
あの木々を焼き払えば、洞窟自体の力は失われるかもしれない。
「火球をもう一発あの木の枝でできた洞窟にぶちかますか。それとも根を断つか」
視線を動かすとアラムが予想していた通り、洞窟の前方に生えた巨大なゴブリンの腹の辺りが黒く煤けている。
ゴブリンと洞窟を繋ぐ木目の部分が消し炭となって崩れ、その影響はその隣に並ぶコボルトの胴体にも及んでいる。
いやコボルトの胴体は洞窟との接続部のほとんどを失い、前のめりに倒れ、左に位置する老婆ホーントの姿がはっきりと見える。
ちょうど半球状の洞窟の前面に大穴が開き、その影響でコボルトが大地に叩きつけられたのだ。
そんなコボルトの耳が消えた。
いや小さな緑の閃光がコボルトの頭に噛みついたのだ。
見覚えのある女の子の姿を捨てて大口を開けた子供はがしがしとコボルトの頭を噛み砕く。
「うまー」
「べラムス。そいつは味方だ! ばばあの方をやってくれ!」
火蜥蜴を切り倒したベラムスは木の枝でできた洞窟の前方へと走っている。
「わかったよ!」
べラムスは答えると同時に肩に担いだ曲刀を振り下ろし、わずかに残っていた洞窟とコボルトの上半身のつながりを断つと老婆ホーントに向かっていく。
その背を洞窟を形成している木の枝が細長い腕のような形を取りながら追う。
火球で焼けた崩れた部分は動かないが、それ以外の部分はアラムの足を掴んだ蔦のように自在に動くらしい。
べラムスは振り返り、その枝の手を薙いでいく。
が、数が多い。
というより切っても切っても再生し、あるいは追加の木の手が生まれ、キリがない。
「捕まる」
瞬間、べラムスの目前でそれらの木の手、蔦の鞭が一瞬にしてバラバラに切り裂かれる。
「今ので水、水をお願いします!」
叫んだのは精霊女である。
どうやら部屋の貸主であるアラムを追ってきたらしい。
「わかった。そいつを援護してやるなら考えといてやる! 活躍次第では栄養価の高い土のベッドもあるぞ!」
「わかりました。がんばります!」
精霊女ドリアーネはこぶしを握り締めて、頷く。
「あの様子なら前の方は任せてよさそうだな。それなら」
魔術師アラムは心を研ぎ澄まし、魔力を集中させ、呪文を詠唱する。
詠唱が続くとともに杖の先に姿を現すのはもちろん今、アラムが使える魔法の中で最大の威力を持つ禁忌の呪文。
「汝は揺らめくことを脱却し、集いし光となるべき者。炎の熱さを持ちながらそれを漏らさず力の流れとして束ねし者よ、すべてを焼き尽くす劫火には及ばねどそれと同じ性質を持ち、その基礎となる者よ。ここに集いて火球となれ!」
掲げた杖の先に現れたのは真っ赤に輝く光球である。
炎の力の凝縮体であり、対象に触れるまでその熱さえ感じさせないその火光球はしかし対象にぶつかった瞬間に恐るべき破壊の炎をまき散らす。
「くらえ、火球爆発!」
アラムが杖を振り下ろすのと同時に杖の先に輝いていた光球が杖の束縛から解き放たれ、洞窟の引きずる樹木の尾へと飛翔する。
力ある魔術師は火球の呪文の詠唱ひとつで、複数の火球を操って見せるというが今のアラムには無理だ。
火球は樹木の尾にぶつかると同時にその中に凝縮されていた火力を解放する。
圧縮された炎は周囲の空気を吸って一気に火勢を増し、爆発するような音を立てて対象を蹂躙する。
いや急激に力を増した炎は実際に爆発が起こったのと同じような衝撃と熱を周囲にまき散らす。
「会心の出来とはいかなかったか」
樹木の尾を飲み込むように広がった炎は恐るべき威力を発揮したがそれでも樹木の尾を断ち切ることはできていない。
まあ、火球の呪文が禁忌とされているのはその殺傷能力の高さのためあり、純粋な破壊力はそこまでではない。
少なくとも二十の大木が絡み合ってできている巨大な樹木の尾を一撃でぶち壊すような破壊力はない。
ただし火球の呪文を受けた樹木の一部は黒く炭化し、その周囲には炎が燃え移っている。
火球の呪文の本領は単純な打撃力ではなく、その余波から生まれる被害にこそある。
家屋があれば燃え移り、森であれば木々を這う。
再び呪文を詠唱する声が響く。
先ほど一撃を叩きこんだ後に文字通り蔦に足をすくわれたことから得た教訓である。
会心の一撃を出すのは心地よいが、それは勝利とは違う。
会心の策、会心の一撃は勝利のきっかけとはなるが、それだけでは勝利は得られないのだ。
二発目の火球が放たれ、樹木の尾を再び震わせる。
だが一発目より威力が落ちている。
「ちっ、焦りすぎたか。もっと精密に呪文を組み上げないと魔力の無駄遣いになるな」
魔法が発動すればよい試験と違い、実戦では成果を重視するべきだ。
同じ魔力、同じ呪文でも、その構成の精密さと集中力、発動のタイミングで明らかに威力が上下している。
最初にコボルトの上半身を焼き切った火球の呪文の威力と今の火球の威力を見れば明らかに前者が上だ。
同じ量の魔力を消費したにもかかわらず、これだけの威力の差がある。
ほんの数秒を惜しみ魔法構成を雑にし、ほんの少し集中力を欠いた結果だとすれば、無理な連射は避けるべきだろう。
強力な魔術師も戦士のサポートがなければ役に立たないという箴言を魔術師アラムは鼻で笑っていたが、今の火球の呪文の連射でその意味が分かった。
たった数秒の時間を稼いでくれる者がいるといないでは魔術の威力は本当に雲泥の差となり、魔術師は役立たずと化す。
最初の魔法を撃ち込んだ後、逃げ出すような戦法を使うなら一発の威力を高めることはできるだろうが、戦いのさなかにそれをやり続けることはできない。
戦場の脅威である魔術師がいることが知られれば一番に狙われ、すぐに追いつめられだろう。
当たらない矢を射かけられるだけでも魔術師の呪文への集中力は激減するのだ。
各国が魔術師を宰相として迎えている以上、魔法への対抗策としてこれ以外にも様々な手段が講じられていることだろう。
だが魔法が発動するまでの時間守ってくれる戦士がいれば魔術師はそれらを気にせずに高威力の魔法を生み出すことができる。
それでも向き不向きはあるだろうが・・・
三発目の火球は一発目以上に時間を使い詠唱し、威力の高まりが最大限になった瞬間に手放した。
まさに耳をつんざくというのがふさわしい爆発音を立て、燃え上がった炎は樹木の尾に確かな炎の灯している。
「大丈夫なの?」
轟音に押されるように尻もちをついた魔術師アラムに、神官アーマ・ハウが走り寄ってくる。
「ん、ああ。ちょっと」
魔術師アラムは立ち上がろうとして、今度は前に倒れてしまう。
「顔が真っ青よ。お腹減ってるんじゃないの?」
「火球爆発の魔法を使いすぎて疲れてんだよ!」といい返そうとして、アラムは本当に腹が減っていることに気づいた。
めまいがするほどに腹が減り、喉も渇いている。
空を見上げれば東から登った太陽が西へと沈もうとしている。
ざっくりというと月がないことに気付いた昨日から何も食べていない。
いろいろあって気が高ぶっていたが、今の集中で精神の高ぶりが鎮まり、自身の状態に心身ともに正直になれたのかもしれない。
「そういや腹減ったな。何か食い物」
を、持ってきていたはずだなのだがポーチの中には干し肉ひとつなく、水筒まで空というか、ないな水筒・・・
「くれ」
「携帯用のビスケットの余りが・・・ないわね」
「おい」
「ま、果実酒あげるからこれで我慢なさい。どうせ魔術師なんて何日も飲まず食わずで部屋にひきこもってるのが仕事なんだからちょっと食べれば大丈夫でしょ」
「否定はせんが、報告はしておくぞ。水の女神の神官が魔術師なんてヒキニートの集まりだと言ってたってな」
「ごめん、ビスケットあったわ。これあげるから勘弁して、携帯用じゃなくて有名店の貴族のビスケットよ。ひとかじりでカロリーオーバーのあの高級ビスケット!」
「そんなもんが、って甘ええ、だがしつこくなく、くせになる味わいだ! なんだこれこんなうまいもんがあったのか!?」
驚愕に目を見開くアラム。
それを自慢げに見守るアーマ・ハウ。
もちろん戦いは続いている。

魔法で切れ味の増した曲刀であっさりと洞窟からコボルトの胴体を断ち切ったべラムスは、感嘆を込めて口笛を吹こうとして失敗した。
三回に一回は成功するのだが今回は失敗のときらしい。
コボルトの胴体の八割は木の枝でできた動く丘のようなものに穿たれた大穴と一緒に失われていたが黒く炭化しながらも繋がっている部分があったのでそれを斬ったのだ。
そのつながりの太さは両腕どうにか抱えられる木の幹ぐらいだった。
さすがにチェインメイルを断ち切ると言われる曲刀の剛撃でも一度では無理そうだと思える太さだったのだが、べラムスが曲刀を振るってみるとそれがあっさりと切れた。
曲刀にかけられた魔法の賜物だ。
魔力を持つ剣、法剣は値段が付けられないほどに価値があると言われるがその理由が分かったような気がした。
そしていつかは魔法の曲刀を手に入れようと決意する。
そこへ緑の髪を振り乱した女の子が駆けてきて、地面に落ちたコボルトの耳に飛びかかる。
「べラムス。そいつは味方だ。ばばあの方をやってくれ!」
思わず身構えたべラムスの耳にアラムの声が響く。
「ばばあ? わかったよ!」
見上げると巨大な老婆がこちらに大袈裟な身振りをしながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。
その言葉は古代の秘術にして、アラムが良く使っている言葉だ。
「魔法!?」
べラムスは驚愕しながらも老婆ホーントの上半身が生えている方へと足を踏み出す。
呪文は詠唱中に傷の一つでも付ければその効果を失う。
そう聞いている。
だがべラムスが老婆ホーントにたどり着く前に呪文は完成してしまう。
老婆ホーントは邪悪な笑みを浮かべ、指輪のついた人差し指を突き出した。
べラムスは腕で顔を覆い、魔法に抵抗するために自らの意志を奮い立たせる。
べラムスの姉に言わせれば魔法は気の勝負である。
強い気をもってすれば魔法の力を跳ね返し、そうでなくても威力を半減させることができるという。
「負けるか!」いや「勝つ!」という意思が魔法を打ち消すらしい。
そのことをアラムに話すと魔術師の見解として「まあ、間違いじゃない。魔法は術者の意志で構成された自然ならざる「力」を引き出す公式でそれを紡ぎ出す根本は人間の意志力だ。だから「気」であれ、気合であれ、人の意志で捻じ曲げたり、弱めたりすることは可能だろう。貧弱な魔術師が強力な魔法を受けても倒れないのは意志力と魔術構成力に長けているからと言えるし、英雄とか勇者とかいうレベルでなくても名のある人物が呪文一発で倒れないのも意志力の賜物だと考えれば納得がいく。もちろん他の要因も考えるべきだろうがな。たとえば眠りをもたらす呪文が聞きやすいのは徹夜明けの人間だし、邪悪な意思に操られやすいのは邪悪な心を持つ人間だ。体調の良し悪しとか波長の合う合わないなんかも考慮しておけばより効果的な行動がとれるんじゃないか? 今のところこれくらいだな。あとは必中の呪文というのは案外少ないから動き回るのも手だぞ」と言っていた。
が、魔法の効果は意外なところから現れた。
何と老婆ホーントの胴体が埋まっている木の枝の洞窟から無数の木の枝の手が伸びてきたのである。
べラムスを背中から襲う様に。
べラムスは慌てて身を翻し、曲刀を振るったがその数は多く切り払っても、切り払っても、数は減らず、それどころか増えている気さえする。
べラムスの後ろを襲った木の枝の手の他に、前をふさぐ新たな蔦の鞭や手も現れている。
べラムスに直接かけられた魔法ではなく、木々を操る魔法だったのかもしれない。
べラムスを包み込み捕らえようとしている木々と蔦の数は多く、すでにドーム状にべラムスを包囲している。
くるくると旋回しているような無数の手が不気味だ。
「捕まる!」
「大気に眠りし精霊たちよ。風の刃となって我が敵を切り裂け! 牙烈風塵!」
ぶわっ視界が白く陰ったかと思うと次の瞬間、べラムスを捕らえようとしていたすべてがズタズタに切り裂かれ、力を失い地に落ちていた。
「水、今ので水お願いします!」
声の方へ視線を向けるとそこには柔らかな一枚布を首の後ろと腰帯で体に巻き付け、その布以上に目を引く柔らかそうな豊かな胸が特徴的な大人の女性がほほ笑みながらべラムスの方に手をかざしている。
その美しさにべラムスは一瞬、「女神様?」と思った。
絵画に描かれる大地の女神がこんな感じだった気がする。
土がどうとか言っているからやっぱり大地の女神なのだろうか?
だがそれにしては言っていることが変な気がする。
「家主さんとは話がつきましたのでがんばりましょう。あ、自己紹介が遅れました。私、ドリアーネと言います。めったに会うことはないでしょうが町に住むことになりましたのでよろしくお願いします」
「え、あ、はい」
べラムスは精霊女ドリアーネの言葉の意味を捕らえかねたがとりあえず返事はした。
問題になるまでは触れない方がいいことがあることをべラムスは自身の体験から知っていた。
べラムスは曲刀を肩に担ぐ格好になり、切り裂かれバラバラになった木の枝と蔦を踏み越える。
踏み越えた相対してみると老婆ホーントは巨大だった。
正確にはホーントが生えている位置がアラムの背丈よりずいぶんと高い。
振り上げた曲刀の先が老婆ホーントの腰と洞窟の接続部にやっと届くぐらいだろうか。
だからべラムスは曲刀が一番威力を発揮する位置へと攻撃を加える起点を変えることにした。
すなわち木の枝でできと洞窟を支える土台となる複数の足と洞窟を繋ぐ部分へと樵が斧を撃ち込むように曲刀を叩きつける。
横からではなく、上から切り落とされた曲刀は洞窟を形作っている木の枝の網目を貫き、大きな傷を与える。
厚いというのがべラムスの感想である。
表面だけではなく、奥深くまで傷が入ってはいるがそれでも洞窟の中にまでは届いていない。
外の光を完全に遮るほど枝の折り重なった枝の厚みはべラムスの予想を超えるものだった。
だが丘陵が動いていると思えるような大きな塊を見たときに感じた絶望感を思えばずっとましだ。
あのときは本当に硬い土でできた丘が動いているのだと思い、それをどうにかすることなど不可能だと思ったのだから。
べラムスは振り下ろした曲刀を引き抜くと再び力を込めて、傷がついた場所へと曲刀を振り下ろす。
やや刃が西に流れた。
バリバリと洞窟の表面の木の枝の作り出した網目が裂ける。
べラムスがふらついたわけではない。
洞窟が動いたのだ。
耳をつんざく爆音が聞こえてきたのはその直後だった。

樹木の尾が燃えている。
まだ強い命を持つ樹木がそうなるときと同じく、上がった炎は湿気を含んだ木や枝を燃やし尽くす力を発揮する前にその勢いを削がれていく。
薪にする木は適度な大きさに切った後に風通しの良い場所で乾燥させなければならず、食用の炭もきちんとした設備を作り焼かなければならない。
炎を維持するためには樹木の命を絶ち、加工する必要があるのだ。
それをせずに火勢だけで押すのは難しい。
山火事は自然発火現象のあおりでだかファイヤーボールほどの火力があれば何となく行けそうだがそれも乾燥しやすい季節に地面に落ちた木々が乾き、火勢を維持しやすい状態ができるからに過ぎない。
そして木の枝の洞窟はその状態とは全く違う。
なぜなら木の枝の洞窟の移動を支えている足はみずみずしい生きた蔦であり、樹木の尾も命の力に満ち溢れた大木の集まりなのだ。
「どうしたもんかなぁ」
ブランドビスケットをかじりながら、魔術師アラムは頭をひねる。
先ほどまでの疲労感がすっかり抜けているのはビスケットのおかげばかりではない。
神官アーマ・ハウが疲労を取り除く奇跡を行使してくれたのだ。
そのおかげであと一つか二つは魔法を行使できるだけの魔力と意志力がよみがえっている。
疲労を取り除くことと魔力が回復することの因果関係はなかなか説明が難しい。
魔力を消費し魔法を使えば疲労するが、疲れるということが魔力を消費することとイコールではないところが争論のポイントとなる。
疲労が回復しても魔力が枯渇している状態はあり、魔力が有り余っていても疲労困憊している場合もあるからだ。
魔力を完全にコントロールできていないので、魔力の消費以前に意志力が折れ、疲労の回復で意志力が戻り、残りの魔力に意識が向くというところだろうか?
よくわからない。
ともあれ再び魔法が使えるようになった今、使う魔法を吟味し、この場面で最も効果的な呪文を行使するというのが魔術師として取るべき最適解だろう。
だが最適解の公式形はわかってもそれにどの魔法を当てはめればいいのかはわからない。
これも実戦経験を積む中で学ぶことだろう。
先ほどからアラムは使える中で最大の破壊力を持つ火球の呪文を使い続けているが実戦を積んだ魔術師にとって、それはおろかな行動なのかもしれない。
「失敗は成功の母だとでも思っておくか」
この森に入る前は銀狼をファイヤーボールで打ち倒すイメージを持っていたのだが、いろいろと違ってきている。
そもそもこの木の枝で作られたでっかい洞窟が何なのかすらアラムにはわからない。
精霊女の正体も、大口のガキの正体も同じくわからない。
「世の中は不思議に満ちてるってことだな」
魔術師アラムはそんなことをつぶやき自分を励ました。
まだこれは始まりの一歩に過ぎない。
いきなり失敗というのはカッコ悪いが、それでも全滅という最悪には至っていない。
生きていれば再起の機会はいくらでもある。

森の中に響き渡るはずのない異質な音に槍使いの青年は足を止める。
「あの音はあいつのファイヤーボールだな」
槍使いの青年は一度だけ魔術師アラムの火球の呪文が炸裂爆発するところを見ている。
だからそれに気づいた。
だがその音を辿るつもりはない。
強力な呪文が放たれたと言うことは強敵がいると言うことであり、それはあの化け物である可能性が高い。
今ので仕留められたのなら望外の結果であり、そうでなくても魔術師アラムたちが自分より遅れている証左であるので歓迎すべき状況なのだ。
「せっかくだ。銀狼は退治したが違う化け物が出て仲間が命を懸けて足止め、リーダーの俺が危機を知らせに村へ走ったということにするか」
槍使いの青年の荒事屋としての経験の深さがそんな判断、あるいは計算をはじき出す。
村に避難を呼びかけるために帰ってきたとなれば非難も少なく、報酬もあるだろう。
手に負えない依頼を受けた冒険者にとって重要なのは困難な任務を果たすことよりもその失敗の原因についての情報を持ち帰ることが重要と言われるのはそのためだ。
ゴブリン退治を依頼されて森に入ったらオーガーのつがいが住み着いていたと言った場合にはゴブリン退治を割り当てた斡旋所の手落ちとなり、信用にかかわる。
ゴブリン退治を受けた冒険者がオーガーに挑んで全滅すれば、その間違いは正されず被害は増え続ける一方だ。
やがては致命的な事件が起こるだろう。
だが一人でも逃げ帰り実情を報告すれば状況は好転する。
この差は大きい。
そして依頼に失敗しても実情を掴んできた冒険者には斡旋所から大きな報酬が支払われることもある。
そうなると相手を一目見ておきたいという欲望が頭を持ち上げてくる。
一つ目の化け物の存在がそれなのだとは思うが、距離的に離れすぎているような気がしないでもない。
「うっ」
そう思って後ろを振り仰いだとき、森の木々を貫くように二本の柱が立つのが見えた。
それは丘の上に人の三倍ほどもある巨大な人型の半身のように見える。
もちろん森の木々の上に遠く見えるものなのではっきりとはわからない。
ただあの一つ目の化け物とは違う何かであることは確かだ。
「こりゃ、ヤバそうだ」
同時に自分は運がいいと思う。
一つ目の化け物ではないかもしれないと警戒したところに新たな化け物の正体が見えたのだ。
「この情報を持って帰ればいい金づるになるぞ」
槍使いの青年は笑みがこぼれるのを止めることができなかった。
彼は今までこうやって生き残ってきたのだ。
だからこのまま、そう思ったとき彼の目の前に四人の冒険者の姿が現れる。
どこから出てきたのかはわからない。
忽然とという表現がぴたりと当てはまる出現の仕方だった。
一人は重装鎧を付けた騎士らしく重そうな竿状武器を担ぎ、それに続くように現れた熊のような体躯の男はその体格通り、豊かな髭とその代わりのように禿げ上がった頭をなでている。
鎧代わりの熊の毛皮を剥ぎ取りチョッキのようにまとっているのが余計にこの男に獣じみた力を感じさせる。
三人目は美しい黒髪を持つ男だった。
長身細身であるが、がっしりとした大木のような力強さと静かさを持っており、その衣服の薄さが彼が自らの肉体を武器に戦う武闘家であることを示している。
最後の一人は骨と皮しかないような体に軽い皮鎧をまとった男である盗賊、密偵、シーフの類だろう。
「君は?」
「ラムセス。槍使いだ」
「そうか」
という声とほとんど同時に重装鎧を身に着けた騎士が槍使いの青年の足元に倒れる。
別に槍使いの青年が短槍で突き殺したわけではない。
「わしらは腹が減っていてな。何か食い物を分けてもらえるとありがたい」
それに続いた熊男の顔面もしっかり地面を舐めている。
「たった七日間のまず食わずというだけで」
と口にした武道家は立ったまま気絶してしまった。
ただ一人、最も頼りなさそうに見えるシーフのみが肩をすくめ、「この道は村から森に入るときに使った道だな。どうやらあそこから抜けられたらしい」とつぶやいた。
「それで俺は村に知らせて、人を募って仲間を運んでもらうつもりだが、あんたはどうする? 俺と行くか? それとも」
そのときシーフの目に剣呑な色が見えた。
槍使いの青年の警戒心を刺激する色、すなわち不運を導く色だ。
「いや、俺は仲間のところに戻る」
槍使いの青年は先ほど来た道を振り返り、森の木々の上に顔を出した竜の首のようなものを指さし言った。
「嘘じゃあるめえな」
「今から離れるから信じられるまで見ていてくれ」
槍使いの青年は肩をすくめて、今しがた関わらないと誓った新たな化け物に向かって走り出した。
あそこに三人がいるとは限らないが、一度はそば近くにいくしかない。
あの盗賊あがりは明らかに槍使いの青年を疑っている。
よくはわからないが罠にかけられたのかもしれない。
ともあれここに残っていれば命が危うい。
少なくともあの盗賊にはそれだけの力がありそうだった。
下手をしたらあの化け物どもより恐ろしいかもしれない。
「まあ、あの場に残るよりは化け物のところの方が安全だろう。あそこには幸運は転がってなさそうだ」
槍使いの青年ラムセスはそう口にした。
口にしたことが真実になることをラムセスは信じている。

赤褐色の毛皮を持つ盲目の狼はふと顔を上げた。
においを感じたからである。
強く逞しい銀狼の子供のにおいを。
複数の獣足音が草を摺り、顔を上げた盲目狼の周囲に集まる。
数は三十ほど。
この森で最も大きな群れであり、銀狼の育ての群れでもある。
こっぴどくやられたようだな。
盲目狼は血のにおいを棚引かせる銀狼を感じそう思った。
銀狼は右足を引きずりながら盲目狼の方へと近づいていく。
周囲の狼と比べ、ひときわ逞しい体躯を持つ盲目狼はこの群れの長老である。
群れのリーダーの席はすでに若い狼に譲っている。
群れの中ではもっとも沈着であり、勇敢な灰色の毛並みを持つ狼がそれである。
だがリーダーの座を退いた盲目狼に対しての群れの尊敬は失われることはなかった。
盲目狼はやや迷惑がってはいるが、基本的にその敬意を受け入れ、群れのために尽くしている。
ただ新しいリーダーとなった灰色狼がそれやりにくいと思わず、歓迎している節があるのに若干の不満はある。
リーダーたる者、古い長者など排斥する気迫があってしかるべきだと信じているからだ。
今も縄張りに入ってきて狩りをした人間についての処断についての相談を受けていたところだ。
そういうことは自身で決めて欲しいものだと思うが、その人間たちの情報を聞くにつれて、さすが俺がリーダーの席を譲った男だとも思う。
話を聞く限りでは警戒するべき点はないようにも思えた。
だが盲目狼の嗅覚は「危険信号」を発している。
今の群れのリーダーである灰色狼もそれを感じたのだろう。
だからわざわざ長老である盲目狼に話を持ってきたのである。
そこへ右の眼をつぶされ、右の足を砕かれた銀狼が帰ってきた。
ありうべからざることだった。
この森にかつて起こったことのない異常が発生している。
凄まじい轟音が響いたのはそのときだった。
聞くだけで毛がびりびりと怖気だつようなおぞましい力が伝わってくるような音だ。
これには灰色狼の慎重さに異を唱えていた若い狼たちもその身を縮こまらせざるを得ない。
そんな中、銀色の毛皮を持つ隻眼の子狼は牙を剥き、鼻を鳴らす。
盲目狼は決断を促すように灰色狼を見た。
灰色狼は一瞬の沈黙の後、決断を下した。
それは他の縮こまった狼たちの意志とは全く違う決断だった。

コボルトの耳に噛みついた大口は緑の髪を振り乱し、その頭を噛み砕き、滴る液と肉の味を堪能した。
コボルトとはいえ、人の三倍の肉量があるので感じる満腹感は格別だ。
「まんぞく~」
緑の髪を足まで伸ばした女の子がごろりと横になるさまはある意味ほほえましい。
しかも彼女の口から滴っている赤い液体は樹液の赤色を持っている。
今の姿だけ見れば興味本位で父親の果実酒に口を付けた子供が子供らしい速度で酔っ払って寝てしまったようにも見える。
そのそばにある巨人の骨のようなコボルトの骨を見てもおそらくその感覚が揺らぐことはない。
なぜならその骨はあまりにも完成された品であり、博物館にある骨格標本のようにきれいに磨き上げられているからだ。
これは大口がおいしくいただいたことも関係しているが、それ以上に骨を構成する木目の塊が組み上げられた芸術品の質を持っているという面が大きい。
どこまでも「作り物」という印象がある。
実際に塔の樹木の本質はそれであった。
自らに触れたものを吸収し、強制的に寄生させ、その脅威を除くというのが塔の樹木の生存戦略である。
だが塔の樹木となったとき、それ以上の何かを持っていたような気がするのだ。
自分は何者なのかと考える植物は何者なのだろう?
少なくともその思考は植物の領域を超えている。
あるいは動物の域に達しているのかもしれない。
さらに突き詰めれば人間の域に行きつき、さらに先を望めば・・・
しかし、今のところ、塔の樹木にはそれは望めないらしい。
理由はわかっている。
先を望むには歩を進めなければならない。
コボルトからゴブリンへゴブリンからホーントへとその魂と思考を寄生進化させてきたように、さらなる生贄を得る必要があるのだ。
それはコボルトもゴブリンもホーントも超える魂と頭脳を持つ存在に違いない。
だが塔の樹木はその存在の名を特定することはできていない。
それができるようになったとき、塔の樹木はその存在のすべてを取り込んでいるだろう。

魔術師の存在は戦場を左右する。
それは正しい。
生前と進軍する敵の中に一発呪文を叩きこめば混乱を招くのは明らかだし、奈落へ続く谷の上に彼らの攻めるべき城塞の姿を映してもいい。
ただしどちらがより多くの成果を得られるのかはわからない。
結局は与えられた状況と経験において戦場をどのように動かせばより有利になるかという判断を下す魔術師の頭脳にこそ、すべてが掛かっていると言えるのだろう。
戦いの場で魔術を駆使してきて、自身の魔術の使い方についてもそう思ったが、べラムスや神官アーマ・ハウの行動についての判断も最良だったとは言えないように思える。
特に敗色濃厚となった今は・・・
「暗い顔しててもどうにもならないでしょ」
アラムの頭を小突いた神官アーマ・ハウは水筒に口を付けると「なくなっちゃった」をつぶやき、それを投げ捨てる。
投げ捨てられた水筒に蔦が巻き付き、勢いよく木の枝の洞窟の中心らしき部分へと引っ張っていく。
樹木の尾の数は二十から減っておらず、ゴブリンとホーントの頭も健在だ。
その間に空いた大穴はアラムのファイヤーボールの効果で回復はしていないが、そこに飛び込むには二つの首をどうにかしなくてはならない。
ミシミシと大木が倒れるような音がして、木の枝の洞窟が傾く。
アラムからは見えなかったが魔法によって斬撃の威力を増していたべラムスの曲刀が木の枝の洞窟の土台の足の一本に到達し、破壊したのだ。
それは数十ある土台のうちの一本に過ぎなかったが、それが失われた影響は大きかった。
木の枝の洞窟は数十の土台で洞窟底を持ち上げ、土台の下をキャタピラのように蔦を移動させることで前進していた。
前を支える土台の一つが崩れ、しかし蔦の移動は続いていたので崩れた土台の足に蔦が絡まり、生物で言えば転倒に近い状態が出現したのだ。
「べラムス、穴に飛び込め!」
アラムの声にべラムスが頭上に近くなった火球爆発で空いた穴によじ登ろうとしたとき、アラムの呪文が完成する。
火球の呪文ではない。
身体能力強化の呪文である。
魔術師アラムはべラムスの筋力と敏捷性を強化した。
曲刀を木の枝の洞窟の面に突き刺し、それに足をかけるべラムスの動きが別人のように滑らかで力強く変化する。
「精霊女も何かしろ」
というアラムの意志は声にならない。
人の身体に働きかける魔法は地味ではあるが、その構成は難しく、効果を発揮させるのはさらに難しい。
それを成功させるために魔術師アラムは残りの魔力と気力を使い果たしていた。
喉からはぜーぜーと荒い息だけが漏れ、瞼を伝って流れ込んできた汗が目に染みる。
体が鉛になったように重く、頭の中で割れ鐘がめちゃくちゃな音を立てて鳴り響く。
手足が蠟のように白くなり、力が入らない。
魔力欠乏症の典型的な症状だ。
よくある「我が命魔力に代えて」という物語の中の悪の魔術師である妖術師の言は嘘ではない。
強力な魔法を使いすぎれば、体を痛め、病を発症することもあるのだ。
賢者の学院の魔法の実習でも慣れない魔法を使い大量の魔力を一気に失った結果、騎士の訓練で限界を超えて体を酷使し、吐いたり、気分が悪くなる新米騎士よろしく倒れる者が続出する。
厳しい騎士の訓練の中で命を落とす者がいるように、厳しい魔法の実習で命を落とす魔術師もいるのだ。
「ちょっと下がった方がいいみたいだけど」
神官アーマ・ハウがそう囁いたのは水筒が蔦にからめとられて持っていかれたからではない。
遠くから近づいてくる狼の吠え声を聞いたからだ。

二十を超える群れを率いているのは灰色の狼だったが、その狼を従えているのは隻眼の銀狼だった。
森に生み出された存在か。
灰色狼はそんなことを思う。
こうして群れを率いるリーダーである自分がその背を追わずにはおれないというのはやはりあの小さな銀狼に彼には計り知れない「力」があるからに違いない。
まだ子供とは言え、銀狼は銀狼なのだ。
群れのリーダーである灰色狼はそう思ったが、群れの狼たちが走るのは自分たちの新たなリーダーである灰色狼が走るからである。
群れの狼たちは灰色狼の背を追って走っている。
その後ろを盲目の狼が走っている。
赤褐色の毛並みを持つひときわ大きな狼である。
若く力強い灰色狼に比べれても大柄に見える。
だが、それは先褐色の毛皮に刻まれた無数の傷跡のせいだ。
もはや二度と獣毛が生えないほどに深い数十の傷のせいでその他の部分がその体格を大きく見せるほどに逆立って見えるのだ。
本来なら程よくまとまるはずの獣毛が、数十もの深い傷をかばうように異様に長く伸びているのだ。
盲目狼はにおいだけで群れの中を生き、群れとともに走っている。
今も昔も先頭を走ったことはない。
ただでさえ目立ちすぎた彼はその気配を消すかのように群れの後ろにつき、おかげで死なずに生きている。
もっとも生き残ったせいで、若い狼たちを率いる立場になってしまったわけだが・・・
それにしても――と盲目狼は思う。
いったい銀狼は群れをどこへと導くつもりなのか?
盲目の狼がそう言う疑問を持ったのは銀狼のにおいが変わったからだ。
血のにおいをまといながら、帰ってきた銀狼は明らかに今までとは違うにおいをまとっていた。
曖昧で神聖である森のそれとは違う。
強烈な野生のにおいだ。
そのにおいについて、推測できることはある。
だがそれを他者に伝えることはできない。
なぜならそれが野生の狼が持つ思考感情の中には生まれない奇妙なものだからである。
それは自暴の戦いを望むにおいであり、自棄を厭わぬにおいであった。
そうたとえば森の守護者にして王である銀狼に牙を剥くような不可解な行動の根っこにある自然なる意志だ。
森にすむ動物の誰もが感じることのない情動こそが今、銀狼を動かしている原動力なのだ。
銀狼の目指す者が何なのかはわからない。
だがその情動を知る狼として盲目狼はそれに従おうと決意している。
そのために群れがどうなるかはわからない。
それでも銀狼の意志を尊重したいという気持ちがある。
これは他の狼にはわかるまい。
だからこそ自分が行くのだ。
新たなにおいがする。
それは今まで嗅いだことのあるにおいであり、同時に嗅いだことのないにおいだった。
人がいる。
鉄がある。
木々がある。
そして恐るべき何かがいる。
それが何であるのかを見ることは盲目の狼にはできない。
しかし感じることはできる。
それは巨大な存在だ。
そう森の王を殺したものと呼ばれる彼に匹敵するほどに強く、深い力がそこにはある。

凄まじい勢いで狼の群れが走り去っていく。
先頭を行くのは小さな銀色の狼であり、それをアラムは良く知っていたわけだが、さすがに魔力欠乏症の状態では目に映るものも思考もうつろにならざるを得ない。
アラムを支えていた神官アーマ・ハウは悲鳴を上げて、アラムを支えていた手を離したために魔術師アラムはぶざまに大地に転がった。
だがその精神は体を離れて、立ち尽くしている。
目の前には彼に挑もうとしている恐るべき存在がある。
それは太陽も月も飲み込み、ありとあらゆる生命を滅ぼすと言われる魔狼だった。
太陽を飲み込むものはたくさんある。
月を飲み込む者もそうだ。
だがありとあらゆる命を滅ぼす者はひとつしかなかった。
名を「氷雪の魔狼フェンリル」という。
雨は太陽を飲み込み、雲は月を隠す。
だがそれによってすべての命が滅ぶことはない。
雨は恵みを与え、雲は穏やかさをもたらす。
すべての命を飲み込む者は白き魔である氷雪に他ならない。
それが彼の前に立っている。
魔術師アラムはかつて「風の」称号を得るために嵐の王ストームブリンガーと相対したことがあった。
もちろんそのときは魔術の「力」で嵐の王に挑み、その力を抑え込むことに成功した。
彼には嵐の王の呼び声は聞こえていた。
彼に挑み、屈服させようと手ぐすね引いて待ち構える精霊王たる嵐の王の声ははっきりと聞こえていた。
アラムがその気になれば魔術ではなく、精霊使いとして嵐の王と語らうこともできた。
だが魔術師アラムはその機会を永遠に失うことで、魔術師として立った。
ところが今、魔力欠乏症によってその力が失われた今、再び天はアラムに精霊王の一人を使わせたのだ。
盲目の狼はそこにあの銀狼をも超える巨大な可能性を見た。
体中の傷がうずき、すべてが弾けて血を流すような歓喜が赤褐色の獣毛を持つ盲目の狼の目を開かせる。
その目は白く濁っており、いかなる現世の像も写さない。
しかしそれを超えたものを見ることができた。
できることを今知った。
咆哮は魂の震えであり、挑みかかる肉体は白き氷雪の嵐だった。
赤褐色の獣毛は純白を超えて透明に色づき、その大きさは太陽すら飲み込むほどに膨らんでいく。
どこまでも広がる自身の感覚に盲目の狼いや魔狼フェンリルは歓喜の咆哮を上げる。
音とならぬ声を、音を超えた意志を解き放つ。
凄まじい圧力がアラムの精神に挑んでくる。
だがアラムはそれを受け止める力が自身の中にあることを感覚的に知っていた。
それは嵐の王がアラムに対して挑んだ理由であり、アラムが魔術を選ぶために抑え込まねばならなかった「力」であった。
枷はない。
魔力欠乏症つまりは魔力がマイナスになった今、その「力」に代わるものはなかった。
その「力」を抑えるものはなかった。
その「力」に混ざり、純度を下げる夾雑物は皆無だった。
アラムの精神の奥深くに眠っていた力が咆哮を上げる。
そのあまりの力強さに肉体と魂が悲鳴を上げたようにも思えたが、今のアラムには関係がない。
彼は今、もっとも精霊に近い存在へと変質していた。
これは――と氷雪と化したフェンリルは驚愕した。
アラムの肉体から噴き出したのは炎。
炎をまとった龍形のエネルギーが奔流となって挑みかかってくる。
竜ではなく、龍。
ドラゴンではなく、ロンである。
龍のまとった炎が太陽のごとき熱さを持って、氷雪の狼に襲い掛かる。
すべての命を許さぬ者と命を育みながら焼き滅ぼす力を持つ者が激突する。
破壊の性質としての力量なら滅ぼすことに特化した魔狼に分があり、それ以外の部分を含めれば炎龍に分があった。
つまりは壊しあう勝負をすれば炎龍アラムが必ず負ける。
しかし、精霊と精霊の戦い、語らいは自然の中で交わされる。
独力で勝利を得ることはできない。
氷雪の魔狼が勝利の雄たけびを上げようとしたとき、炎の龍は天高く飛翔した。
天には太陽があり、雲も雪も存在しない。
氷雪の魔狼フェンリルは大きな口を開け、太陽を飲み込もうとした。
あれこそが決着点だと気づいたのだ。
まさにそれこそが決着点だった。
太陽の飲んだ魔狼はその熱さによって全身の力が奪われていくのを知った。
頭上から降下してくる炎龍を迎え撃ち滅ぼす力は残っていない。
体の内側と外側から異なる性質の炎に焼かれ、魔狼フェンリルは長く長く尾を引く苦鳴を上げる。
それは逆巻く風ではあっても決して死を撒く氷雪の嵐ではない。
一度は飲み込んだ太陽が解放され、内側にあった炎が消える。
そして外側から責め立てる炎と冷たい風は混ざり合い、ぶつかり合い、やがてひとつの球となった。
それは「力」の合成であり、勝負の結末である。
その白赤色の球をアラムと盲目の狼は別の場所にいながら目の前にしている。
激しい戦い、語り合いの結果がそこにはある。
先に動いたのはアラムだ。
人型に戻ったアラムはごく自然にその熱くも冷たくもない球に手を触れ、吸い込まれる。
それに続くように盲目の狼も鼻面を近づけ、球を舐める。
それぞれの形が消え、球の中で混然一体とした体を成す。
「汝はわれを使う者か?」
「お前は俺のしもべか?」
「否」
「汝はわれの友か?」
「違うな」
「ではなんだ?」
「なんだろうな」
それぞれの意識が溶けた中で一人と一匹いや二柱の精霊の魂は照れた。
「俺は」
「我は」
「「共にありて、やがて去る者」」
「お前は」
「汝は」
「「語りあかした魂の印」」
言葉は意味を現さない。
ただ形と音が共鳴し、ぐるぐると回る。
それがどんな意味を持つのかは本人たちにしかわからない。
あるいは本人たちにもわからないのかもしれない。
肉体を超えた世界での語らいを肉を持つ世界で理解することは不可能に近い。
ただ地に伏したそれぞれの肉体は至極満足そうで、それが悪いものではないことだけは証明しているように見えた。

天啓をいうものがある。
神のお告げと言えばわかりやすいだろうか?
それは突然やってくる。
夢の中に現れることもあれば、街を歩いているときに突然訪れることもある。
あるいは死地において声を聴くこともある。
ただしそれが正しいかどうかはその天啓の示した状況が明らかにならなければわからい。
天啓とは預言ではなく、しるしであり、可能性の示唆に過ぎないともいえる。
示唆である天啓の厄介なところは確たる証明ができない点にある。
こうなればこうなるというビジョンを示すことができない。
剣で斬られる映像が見えたとして、それが死につながるかどうかはわからない。
息も絶え絶えで倒れているのが見えても、その先どうなるかはわからない。
ただ自分を斬りつける相手を知ることで、予想を凝らして様々な対策を立てることはできる。
その意味では相手の顔色や態度、持ち物などからその性向を読む占いに似ているともいえる。
対策を立てるための導として天啓はある。
占いと違う点は一瞬のうちにそれが現れ、自身のコントロールできない部分が反応すると言うことだけだ。
それを受けるための器として訓練を積んだ者を神官という。
そして今、水の女神アクエルの神官たるアーマ・ハウは天啓を受けていた。
赤くそして黒い世界が広がっている。
銀髪いや白髪の体格のいい存在が右腕を掲げている。
異常に発達した筋肉はその右腕を異形のものに見せた。
いや筋肉の鎧が異形を押し隠しているのだろうか?
ともあれ豊かな胸を持つそれは膝につくほどに長い右腕を掲げ、咆哮していた。
唇からは牙がのぞき、その肌が褐色から赤色に代わっていくのは幻だろうか。
金色の目を持つそれは人の顔で笑う。
人では持ちえぬ異形の美を持って、その右手に縊り殺されたのは狼だ。
巨大すぎる狼。
銀色の毛皮と金色の目を持つ、いや二つの金色の目と額に輝く蒼い宝眼を持つ三つ目の狼が力なく、舌を垂らしている。
本当に三つ目なのかはわからない。
よく見れば小型のドラゴンのようにも見える。
神官アーマ・ハウはそのいずれもが己が戦うべき敵であることを直感した。
今ではなく、いずれだ。
それでもアーマ・ハウは呼吸をすることを忘れるほどの恐怖を感じたような気がした。
自らの胸に手を当て、心の平穏を流れる水のごとき自由な心を取り戻せるように祈る。
彼女の女神はすぐにそれを許し賜う。
全身を緊張させていた止息が解除され、呼吸が流れる。
呼吸が流れることで筋肉がほぐれ、さらに深く息を吐き、吸るようになっていく。
今ではない。
それがはっきりと腑に落ちる。
気づくと通り過ぎる狼に対する恐怖までが完全に消えている。
あれに比べれば狼など物の数ではないと思えた。
ふと顔をあげれば狼は走り去り、崩れ落ちた木の枝の洞窟へ襲い掛かろうとしていた。
べラムスに支え足の一本を砕かれ、傾いた木の枝の洞窟はぶざまに転んでもがく重装備の騎士のようでもある。
あまりにも巨大な騎士ではあったが、付け入る隙があることは間違いない。
その騎士を守るように小鬼の頭を持った祭司が腕を振り上げ、祈りに似た祝詞を捧げている。
呪詞というべきだろうか?
人の身長ほどもある腕を天に掲げ、何かに祈るような姿は異様であり、ゴブリンの容姿も相まって禍々しささえ感じさせる。
そしてその結果はさらに禍々しい災禍を生み出していた。
それは炎をまとった巨大なトカゲであった。
火蜥蜴と呼ばれる精霊である。
もっとも暖炉の火を守る番人を命じられるそれではなく、破壊と死をまき散らすことに喜びを覚える魔である。
呪術師に呪われた家に現れ、その家を燃やすという呪術の産物だ。
怨念の化身とも言われ、忌み嫌われている火蜥蜴は神殿や教会にとっては滅ぼすべき悪魔であり、決して怯んでいい相手ではない。
特に火の邪悪を許さないことを教義としている水の女神の神官としては絶対に見逃すことのできぬ悪だ。
いつものアーマ・ハウならすぐに駆け出し襲い掛かるところだ。
だが今はそんな気は起こらない。
それは先ほどアーマ・ハウが自身に平静なる心を取り戻すべく奇跡を行使したからだ。
静かなる心をの奇跡は熱狂を許さない。
神官アーマ・ハウは上位の神官職である司祭のように落ち着いて戦況を眺める平静な心を得ている。
邪悪な火蜥蜴への聖なる怒りはあるが無秩序な熱狂はない。
あれは確実に滅ぼすべき存在であり、自らの身をむやみに危険にさらすことはその目的のためには有害なのだ。
突如出現した火蜥蜴に牙を突き立て、しかし傷を与えられずに炎に巻かれた二匹の狼が苦鳴をあげながら大地を転がる。
地を伝うみずみずしい蔦に押し付けられた炎はその力を失い、炎の熱から逃れた狼たちが首を振って立ち上がる。
その二匹うち一匹の首に赤く燃える炎の下が巻き付く。
物理的な圧力と炎としての性質を併せ持った火蜥蜴の舌は狼の首をしめつつ、火傷をも負わせる。
狼はその舌に牙を立てようともがき、
突如、火蜥蜴の大ぶりの頭が巨大なハンマーで殴られたようにブレる。
神官アーマ・ハウが作り出した神拳の一撃である。
祈りの力を拳に変化させて、敵を打つという奇跡である。
その形は女神のそれであり、信仰心が深ければ深いほど拳を振るう女神の大きさは大きくなり、神拳の大きさも威力も上がっていく。
神拳に撃たれた火蜥蜴の頭は地面に叩きつけられ、その衝撃に耐えきれないというようにその姿を薄れさせる。
その様子を見て狼が襲い掛かる。
だがその牙は獲物を捕らえることができず、さまよった。
火蜥蜴は消えようとしている。
半透明となった肉体はすでにこの世界の法則の外へと逃れているのだ。
火蜥蜴の消滅を確認した神官アーマ・ハウは頭を上げる。
そこには邪悪な火を召喚した邪悪な小鬼ゴブリンの顔がある。
木の枝の洞窟から突き出したその半身は赤く濡れていた。
木の枝の洞窟の壁を軽々とよじ登った狼たちが牙を立て、爪を振るった結果だ。
ゴブリンは再び両手を天へとかざし、精霊に呼び掛けようとしたが、体に突き立つ無数の牙と爪が呼び起こす痛みがそれを許さない。
狼たちを払おうと振るわれた細腕は狼たちの攻撃対象となり、ずたずたに引き裂かれる。
水の神官としてあのゴブリンの顔に神拳の一つでも叩きこみたいところだが、それをすればせっかくゴブリンの胴体に取り付いて牙を立てている狼の群れにも影響が出そうだった。
普段の彼女なら気にせず実行しただろうが、今の彼女は平静の祈りで落ち着き払っているのだ。
「ここは彼らに任せましょう」
神官アーマ・ハウは大物っぽくうなずいた。
魔術師アラムへの癒し、天啓、自身への平静、神拳の二連発、ここまで多くの奇跡をその身を通して行ったのは初めてのことだ。
激しい疲労感がある。

べラムスは力を込めて曲刀を引き寄せ、その刃を足掛かりに木の枝で編まれた洞窟の表面をよじ登っている。
途中に足掛かり、手掛かりになるでっぱりを見つければそこに手や足、あるいは肘をかけ、曲刀を引き抜き、わずかに頭上へと向かって突き立てる。
そして体を引き上げ――
損な動作を繰り返す。
その動きは曲芸のように危なっかしいが同時に着実な成果をもたらしていった。
何度目になるかは数えていない。
そんなことをしていると集中力が削がれるからだ。
だがこの動作を繰り返せば、木の枝の洞窟の大穴にたどり着けるという確信はある。
実際に大穴のふちである黒々と炭化した部分のにおいが近づいている。
そしてついにべラムスはその大穴の中へとその身を投げ入れることに成功する。
最初に感じたのは床の冷たさだ。
洞窟内の空気も外に比べて冷えているように感じる。
立ち上がり周囲を見回すとうっすらと闇が広がっている。
魔術師アラムの火球の呪文で大穴が開いた部分からしか光は差し込んでいない。
だがその光は太陽のそれであり、洞窟内の闇を完全ならざるものにするには十分だった。
ぐるりと周囲を見回してもそこ以外に光の漏れている個所はない。
床も半球状の天井も完全な闇に包まれている。
「すごいな」
べラムスは警戒しながらも木の枝の洞窟の精密さに感嘆の声を上げた。
もしべラムスが洞窟に来たことがあればかつての入り口が他と全く区別がつかないほどに完璧にふさがれていることにさらに驚嘆の意を持ったことだろう。
「この中に入ると木の枝とか蔦に襲われることはない――わけないか」
べラムスは曲刀を肩に担いだまま、ひょいと身をそらす。
そこを蔦でできた鞭が通過していく。
その攻撃の出先はべラムスの腰から上あたりにある壁と天井だ。
その下からの攻撃はない。
その代わりにべラムスの靴の下にある蔦はうねうねとうねりながら振動している。
おそらく木の枝の洞窟の外にあった支え柱の足を包み込み、前進する力になっている蔦のキャタピラと連動しているのだろう。
やや動きにくいがべラムスにとってはどうと言うことはない。
ただ困ったのは洞窟の内部が広すぎると言うことだ。
ぽっかりと空洞が開いた中にはやや大ぶりの塔のような樹木がある以外には何もない。
洞窟の内部に入って攻撃すれば大ダメージを与えられると思っていたべラムスにとっては当てが外れたと言ったところだ。
どんな物語でも相手の体内へ飛び込んで何とかするというのは良い手段であり、もっとも盛り上がる部分でもある。
「とりあえずはあの木でも切ってみるか」
当てが外れたべラムスだったが、目標がなければ目につくものを攻撃するしかない。
べラムスは最小限の動きで上と横から繰り出される蔦の鞭を交わしながら、塔の樹木へと近づいた。

近づいてくる天敵の気配に塔の樹木は震えた。
樹木が最も嫌悪する敵の名を鉄という。
それが近づいてきている。
塔の樹木は魂の器を持つ樹木であったがそれでもその根源にある恐怖心には逆らえない。
自然とそれを避けるための攻撃手は多くなり、同時にその数が増えたのと比例するように雑になった。
鉄の近づく速度は上がり、攻撃の数がさらに増え、雑さが目立つようになる。
放った蔦と蔦が絡み合い、その絡み合った蔦に他の蔦の鞭がさらに絡みつく、そしてその蔦の塊に・・・といった具合で塔の樹木にとってはもがけばもがくほど沈んでいく蟻地獄にはまったようなものだった。
だが蟻地獄にはまり、沈んでいくときに力を抜いて助けを待つことのできる人間など百人に一人であり、塔の樹木はその一人にはなれないようだった。

べラムスは曲刀を肩に担いだまま、走るのとほとんど変わらない速度で塔の樹木に接近し、その肩に担いだ曲刀を振り下ろした。
周囲を打ってくる蔦の鞭の異変によって道ができたのだ。
そしてその異変が永遠に続く保証がない以上、多少の無理をしても今のうちに塔の樹木に一撃を入れておくべきだった。
今やべラムスの目には塔の樹木は期待外れの空洞に残されたただの樹木ではなかった。
べラムスは自身が塔の樹木に近づくにつれて起こった異変によて「それ」がこの世界の中心であることを確信している。
木の枝でできた洞窟にとって人や獣の心臓に当たるものこそがあの樹木なのではないかとべラムスは感じている。
悲鳴も苦鳴もない。
だがべラムスが斬りつけた樹木からは真っ赤な血のような樹液が噴き出している。
まるで人や獣が肉を絶たれたかのように。
しかもべラムスに伝わってくる手ごたえが樹木の堅さを示すそれではなく、獣の肉の堅さを示す手ごたえそのものなのだ。
曲刀を振り下ろしたベラムスはその刃をくるりと返して切り上げる。
形としては最初に傷を与えた場所を下から切り上げ、さらに深く傷を刻む形になる。
今度も悲鳴も苦鳴もない。
だが塔の樹木の焦りは伝わってきた。
それは木漏れ日となってべラムスを撃つ。
べラムスの頭上にあった木の枝が絡み合い、何本もの鋭く太い槍を作り出した影響で洞窟の天井部に穴が開いたのである。
今斬りつけている塔の樹木とほとんど変わらない長さと太さを持つ大槍いや原始的な破城槌が天から放たれる。
数は十二、当たれば確実にあの世逝きだ。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
べラムスは気合の咆哮を上げ、逆手に持った曲刀を全体重をかけて塔の樹木へと叩き込む。
重く熱い肉の手ごたえを貫き、曲刀は塔の樹木の中心部に深々と突き刺さった。
さらにべラムスは曲刀の柄の部分を蹴る。
べラムスの蹴りを受け、曲刀はさらに深く塔の樹木にめり込み、曲刀の柄を蹴ったべラムスはその勢いを利用して宙返りをしながら後ろへと飛んでいる。
天井からの破城槌がすさまじい音を立てて、洞窟の床に突き刺さる。
城の門でも砕きそうな威力を持った十二撃は蔦で補強された洞窟の床を貫き、その威力の余波で床そのものもバラバラに砕く。
数百数千と絡み合っている蔦がブチブチとちぎれる音は、生木の破城槌の生み出した破壊の轟音の前にかき消されてしまう。
その威力はあまりにもすさまじかった。
もちろん宙返りをしたべラムスもその破壊の余波の影響を受けている。
飛びずさり、足をついた瞬間、その床が消えたのである。
べラムスはこの洞窟に入るために洞窟の外壁に何度も曲刀を突き立てて、登ってきた。
つまりべラムスは家の屋根より高い位置から大地に叩きつけられることになる。
べラムスはとっさにそばにあった蔦を掴む。
手の皮が破れ血が噴き出したが鋭い痛みが走ったのは蔦だけではなく、それが絡みついていた鋭い木の枝をもつかんでいたからである。
流れ出る血で左手が滑る前に、右手を伸ばし、左手の血で滑らないように左手が最初に掴んだよりも上の部分を掴む。
一瞬のことなので力を加減する余裕はない。
右手からも血が噴き出すが、かまわず引っ張り、その蔦の上を左手で掴む。
それを交互に繰り返し、崩れていない部分までたどり着き、床へと体を引き上げる。
そのままべラムスは動きを止めた。
彼の目の前には金色に輝く目を持つ隻眼の銀狼が小さな体の獣毛を逆立て戦う意思を示していたのだ。

いた。
銀狼は青白いオーラを燃え立たせながら、湧き上がる歓喜を抑えられなかった。
あの人間だ。
決して傷つかぬはずの彼女の肉体に屈辱を与え、人間という存在をその心に刻み付けた男である。
まだ子供だ、とまでは銀狼は思わない。
なぜなら彼女もまた子供だったのだから・・・
激しい復讐の炎が心をかき乱し、それ以上に沸き立たせる。
が、その炎を叩きつけようとした瞬間に天から轟音が降ってきた。
大地が振動し、そしてバラバラと崩れ落ちた。
これほど簡単に大穴が開く大地の様子を見たのは初めてであり、その崩落にあの人間が巻き込まれたことに怒りを感じた。
あまりにも突然の出来事ではあったが、それでも銀狼は怒りと失望を激しく感じていた。
それほどあの人間を倒すことに執着しているのだ。
濛々と煙とともに飛び散る砕けた枝や蔦の残滓、それに樹液を軽々と避けながら銀狼は床に空いた大穴を睨みつけていた。
その目の端に何かが映る。
血のにおいがした。
そしてそれは彼女の前に姿を現した。
両手を血に染め、額を薄く切っていたし、やや左足を引き摺っているようだったが、間違いなく生きている。
あの人間だ。
喜びと戦意が彼女に戦闘態勢を取らせた。
人間は一つ息を吐くと避けられぬ戦いに身を投じることを決意した。
銀狼にはその人間の肉体に以前は感じられなかった力が宿っているのを見ることができた。
だがそれには構わない。
以前より強ければより倒し甲斐があるというものだ。
銀狼は青白いオーラが爆発するほどに気を昂らせる。
わざわざここまで追ってきたのだ。
十分に楽しませてもらおう。

先に地を蹴ったのは銀狼だった。
蔦と枝で作られた床がえぐり取られるような凄まじい蹴り足の威力を証明するかのように銀色の体が飛翔する。
べラムスは体を横に傾けつつ、身をひねりそれを交わす。
そしてその勢いのまま、後ろを向く。
後ろの床は木の破城槌によって完全に崩落しているが、崩れた床のあった位置より上に破城槌の尾が残っている。
べラムスに身をかわされた銀狼はその勢いのまま、地に突き刺さっている破城槌の尾を蹴ってこちらへ戻ってくる。
最初からそれを計算に入れていたのだろう。
べラムスは床に散らばっていた木の枝の屑やちぎれた蔦などを握った拳を隻眼の銀狼の残っている左目に向かって突き出し、放り投げる。
握り締めていた目つぶしの木屑や蔦は赤く濡れていた。
突然、出現した赤い木屑と蔦の切れ端を銀狼は避けることができなかった。
油断というより経験不足であろう。
銀狼はとっさに目を閉じたが、左の視界の前には血でぬれた木屑が張り付き視界を阻害していた。
銀狼はそれを振り払おうと左の前足を動かした。
べラムスはそこへ飛びかかる。
曲刀は塔の樹木の幹に突き刺さったままで武器はない。
だがこの隙に外に逃げたとしても有利になるのは銀狼の方だろう。
森は広く、以前べラムスたちがそうしたように銀狼が逃げ出すかもしれず、それは可能だ。
それならば動きの制限された洞窟内という地の利を生かし、ここで組み付くべきだろう。
「背ろを取れば噛みつかれる危険は減る!」
勢い込んで床を蹴ったべラムスはつんのめった。
左足が思うように動かないことに気付かなかったのだ。
奇妙な形になった。
銀狼の背後を取ろうとしたべラムスと限られた視界の中でべラムスの動きに反応した銀狼は互いに正面から抱き合うような形で床を転がった。
飛び上がってべラムスをやり過ごそうとした銀狼の前足のやや下の胴のあたりにつんのめったべラムスの顔がぶつかったのだ。
べラムスは必死で銀狼の背中に手をまわし、銀狼はそれから逃れようと身をよじる。
何度かべラムスの背中の辺りで牙の噛み合わされる音がした。
少しでも銀狼の背中を掴む腕の力を緩めればそれはアラムの肉を食いちぎるだろう。
そしてそれを銀狼もわかっている。
一人と一匹は床を転がりながらそれぞれが必死で優位を取ろうとしていた。
牙が届かないと悟った銀狼はその前足でべラムスの背中をひっかき、血を流させる。
一方、べラムスは床が銀狼の背に来るタイミングで膝をその右後ろ脚に打ち付ける。
怪我をした右後ろ脚をべラムスの膝と床に挟まれた銀狼は体を伸ばし、逃れようとする。
べラムスは銀狼の体躯が伸びたのを見て、頭を銀狼の顎の下に入れて、両腕を組み銀狼の胴を締め上げる。
そしてそのまま、洞窟の壁へと突進する。
本当は落下してきた木の破城槌へとぶつけたかったが床が抜けているので、そこまでの足場がない。
光の一筋も通さぬ木の枝の洞窟の壁は堅かった。
だがそこにはそれ以上の「力」が宿っている。
この木の枝の洞窟は塔の樹木という魔力生命体ともいえる植物の肉体なのだ。
その洞窟を形作る枝にも蔦にも魔力に似た生命力が付与されていたのだ。
べラムスは勢いをつけ、銀狼の後頭部を木の枝でできた壁に叩きつける。
べラムスの頭で顎を抑えられた銀狼はなすすべなく、それを甘受するしかない。
一度二度と叩きつけられるうちに獣毛がきしり、鋭い枝によって皮膚が裂けていく。
銀狼は右の後ろ脚を思いっきり振った。
べラムスは鋭い後ろ足の蹴り爪を銀狼を壁に押し付けることで避ける。
瞬間、べラムスの右太ももに鋭い痛みが走り、踏み込む力が失われる。
銀狼の狙いは右後ろ脚の蹴り爪による攻撃を避けるために、べラムスが足の前後を入れ替えることを狙ったものだったのだ。
怪我をした右後ろ脚とは比べ物にならない鋭さと重さ、破壊力を持った左後ろ足の一撃がべラムスの太ももを引き裂き、べラムスの右足の力をも完全に削り取った。
思うように動かない左足に続き、支えである右足まで失ったべラムスの銀狼を押し付ける力が一気に弱くなる。
しかも今の一撃で飛翔の推力を得た銀狼はべラムスの腕の中からその体を引きはがすことに成功した。
銀狼は前足を巧みに使い、べラムスの背を押した銀狼は空中を浮遊するように高く飛びあがっている。
もっとも飛び上がったとは言ってもべラムスの腕から逃れたにすぎず、それ以上のことはできない。
ある意味では無防備な空中浮遊と言えた。
銀狼の足元には木の破城槌もなく、もちろん床もない。
このままでは銀狼は木の枝の洞窟に破城槌の破壊力によって砕け散った床の下に落ちていくしかない。
しかし空中を浮遊していた銀狼はそのまま安住の地を得た。
木の枝の洞窟には洞窟の中に入ってきたべラムスを襲おうとして絡みついた蔦のネットがいくつも生まれている。
その一つに銀狼は引っかかったのだ。
偶然なのか、必然なのかはわからない。
偶然だとは思うが、銀狼がそれを計算していなかったとは言い切れない。
べラムスは銀狼との戦いの中で銀狼の中に高い知性と優れた戦闘センスがあることに気づいていた。
銀狼を腕の中から逃し、膝をついたベラムスが頭上を仰ぐ。
薄く光る金色の輝きが、こちらを見ている。
殺気が走った。
その鋭さにべラムスは思わず床に散っていた木屑を掴み、頭上にばら撒く。
木屑の間にばちばちと雷が弾ける。
強力な破壊の雷ではない。
それは殺気の余波、あるいは殺気の生み出した何かだとべラムスには思えた
その殺気の持ち主は銀狼なのか?
べラムスは上着を裂き、銀狼の蹴り足で引き裂かれた右ももと膝のあたりをまとめて縛りつつ、警戒を続ける。
だが苦鳴を上げたのは銀狼だった。
いや苦鳴をあげながら殺気の雷を練り上げているのが銀狼なのだ。
青白いオーラがバチバチと音を立て、銀狼の体の表面を雷の流れとなって駆け巡っているのがわかる。
殺気が加速していく。
その凄まじいまでに加速する殺気の流れを銀狼自身は制御できていない。
そんな気配がする。
銀狼が引っかかった蔦のネットが煙を上げ始めているのか。
煙ったにおいが鼻を突く。
何が起こっているのかよくわからない。
「アラム兄ちゃんならわかるんだろうけど」
そういうべラムスの声には疲労の色が濃い。
銀狼の驚異的な跳躍力を支える左後ろ足の一蹴りはベラムスに想像以上のダメージを与えている。
苦しまぎれの一蹴りにしては大きすぎるダメージと言えた。
べラムスが銀狼を甘く見すぎていたと言うことだろう。
少なくともあの驚異的な跳躍を見ていながら、銀狼の後ろ脚の一蹴りをむざむざと受けてしまったのは失策だった。
そしてそんな失策を犯してしまった以上、それ以上の罰を受けるような気がした。
銀狼の帯電はその予兆ではないだろうか?
べラムスの手に武器はなく、その足は今封じられてしまった。
封じられて動けない。
――だが――
べラムスは知らずに舌なめずりした。
まだ少年になったばかりのべラムスは純真な子供の部分を残していた。
それはそれぞれの才能に与えられる天与の資質というべきものだった。
無邪気なべラムスの中で燃え上がったのは闘志だ。
負けたくない。
勝つ。
そんな気持ちが魂の奥底から燃え上がる。
それはあるいは銀狼の殺気のもとになる燃料でもあったのかもしれない。
銀色の獣と金髪の少年が真っ向から向かい合う。
ばちばちと雷をまとった獣が銀青色の閃光となって少年の首筋へと牙を剥けた。
そしてそれを受ける少年は両の拳を握り、前方に突き出した。
銀狼の牙がべラムスの喉仏を噛み切るために必ず通る道筋へと突き出された拳は銀狼の鼻面をとらえると同時に弾き飛ばされる。
両腕の筋肉がずたずたに引き裂かれるような衝撃とともにべラムスは後方へと吹き飛んでしまう。
しかしそれを受けた銀狼も無事ではない。
超加速によって荷重を増した力はそのまま自らへのダメージとなって帰ってくる。
べラムスの拳は押し切ったものの、銀狼は狙った喉仏への進路を失い、洞窟の天井へと軌道を変えている。
しかも鼻面に叩き込まれた拳の衝撃で意識はもうろうとし、天井への着地もままならず、足を滑らせるとそのまま落下し、転倒する。
相打ちの形となった。
しかしこれは銀狼による自失点とも言える。
銀狼の限界を超えた身体強化、いや超加速の雷光が発生していなければべラムスの拳を受けてもここまで酷い状態にはならなかったはずだ。
もっともあそこまでいいように翻弄されて、怒りを覚えないようでは誇り高き銀狼としては失格であるから種族的な失点と言ってもいいかもしれない。
もっともああも強力にダメージが通ったのはべラムスの体に魔法が影響を及ぼしていたことも起因しているのかもしれない。
魔力を帯びた武器にしか傷つけられない銀狼にダメージが通ったのはべラムスの肉体が身体強化の魔法の効果で魔力を帯びた武器同然の状態になっていたからという理屈も成り立つのかもしれない。
真相はわからない。
ただ銀狼とべラムスの第二回戦も引き分けに終わったことは確かだった。
べラムスは銀狼を相手にして二度も命を拾ったのである。
「また狙われるかも」
べラムスはもはや指一本も動かせなくなった両手を気にしながらそんなことを思う。
転倒した銀狼の様子をうかがう余裕はなかった。
ただ激しい痛みだけが生きていることを感じさせてくれる。
もちろん全くありがたいとは思わない。
しゅるしゅると音がして、強い力がべラムスの体を引っ張った。
べラムスはそれに抵抗することはできなかった。

ずるずると地面の草を掻きながらも前の土台が崩れたことで動けずにいた木の枝の洞窟の床面がすさまじい音とともに崩れ落ちた。
そして床面に空いた大穴からは木の枝の洞窟そのものを大地に打ち込むような杭のようなものが見えている。
木の枝の洞窟の中心たる塔の樹木が生み出した木の破城槌である。
十二本の木の破城槌は図らずも木の枝の洞窟の動きを完全に制止させる止め杭の役割を果たしている。
もはやこれ以上、この異形の洞窟自体が移動することはない。
周囲にある蔦はうねうねと蠕動することをやめてはいないが、洞窟の底が抜け、巨大な破城槌が出現したことでその動きは緩慢になりつつある。
あとは外に出ている三巨頭の中で動きを止めていないゴブリンと老婆ホーントの半身を砕いてしまえばこの洞窟の害悪はなくなるだろう。
「いやもうこれでいいんじゃないか。あとはここに近づかないように言って置いたら」
魔術師の杖にすがり冷え切った手足で体を支えながらなんとか立っているアラムは荒い息を吐く。
魔力を使い果たし、もうひとつの力をも絞りつくしたアラムにはもう打つ手がない。
それは狼と死闘を繰り広げた神官アーマ・ハウも同じだ。
二人の周囲には様々な毛並みの狼たちが倒れている。
あるものは魔術の力で、あるものは聖なるオーラの槌によって。
「べラムスは大丈夫かな」
杖にすがりながらもべラムスの名を口にして木の枝の洞窟を見る。
あの中へ入っていったべラムスと銀狼はどうなったのだろうか?
「心配なんだ?」
「弟分だからな」
アラムはバツの悪そうな顔をし、アーマ・ハウはその顔を見て笑う。
「多分大丈夫よ。あの子はとっても勇者っぽいわ」
「勇者になるのは俺なのに」
アラムは本気で不貞腐れた。
「そういうわけにはいかないだろ」
アラムの隣には襲い掛かってきた狼のほとんどをその短槍で葬ってくれたラムセスが立っている。
わずかな時間だったが鬼神のごとき働きをした槍使いの青年は呼吸ひとつ乱していない。
さすがは先輩冒険者と言ったところか。
「あの中に突入しろっていうのは無茶ぶりすぎるか?」
「俺たちが受けた依頼は銀狼退治だ。銀狼があの中に入ったのなら確認にいかなきゃならないが、あいつらが邪魔だ」
槍使いの青年は狼たちによって大地に引きずり降ろされているゴブリンの姿を短槍でさし、肩をすくめる。
洞窟から生えたゴブリンもそれに群がり攻撃をくわえている狼の両方が邪魔と言いたいのだろう。
「決着がつくまで待てってか」
アラムは険悪な声を出した。
「その通り。生き残るためにはタイミングが大事なんだ」
だがラムセスの答えは明確だ。
この場所に来てすぐに仲間と合流できたこと、狼の群れが魔術師アラムと神官アーマ・ハウに襲い掛かった絶妙のタイミングだったこと、すべてはタイミングである。
そしてそれを制しているのは槍使いの青年ラムセス自身なのだ。
「それにお前さんは今、魔力欠乏症で魔法が使えない。いやそれにしては良く戦っていたが」
「ほっとけ」
アラムは自らが使った「力」については明かしたくない。
今回は特別だと思っている。
竜殺しの勇者の一人として名を刻まれるときに精霊使いにして魔術師の――などと刻まれては魔術師として末代までの恥だ。
「そろそろいくかな」
アラムが不機嫌さを隠さずに沈黙していると槍使いの青年は軽くその場でジャンプをしてから、木の枝の洞窟へ向かおうとする。
「ちょっと待って」
そんなラムセスを見て、神官アーマ・ハウが慌てて女神に加護を願う。
ラムセスの全身に力と勇気がみなぎり、疲れもほとんど感じなくなる。
「こりゃいいな」
「まあ、あとで反動が来るけど今は少しでも動けた方がいいでしょ」
「ちっ、仕方ねえな」
それに唱和するように杖を掲げたのはアラムである。
その右手には五色に輝くネックレスの装飾品ほどの大きさの石が握られている。
「悪運は腐るほど持ってそうだからな」
アラムが呪文を唱えるとラムセスの持つ盾と短槍に淡い魔法の輝きが宿る。
「魔力付与の魔法かありがたい」
皮鎧にまではかけられないがこの青年なら盾を使って何とかするだろう。
「魔力欠乏症なのによく使ってくれた」
「他に使い道がないからな」
アラムの指に握られた五色に輝く石、魔力結晶が砕け風に溶ける。
魔法を使うための魔力の代替わりをしてくれる結晶石である。
あまり市場に出回っていない品で、今回、アラムが本当の本当に最後の手段として準備してきた最後の魔力である。
「俺の弟をよろしく頼む」
砕けた魔力結晶の価値は計り知れない。
だが彼を兄と慕う少年の命に比べればごみのようなものだ。
そう思う程度にはアラムの心は勇者していた。
「じゃ、行ってくるぜ! 銀狼とついでに未来の勇者を連れて帰ってくるからお前らも気を付けろよ!」
「この状態で気を付けるも何もあるか」
アラムは悪態をついて座り込んで咳き込み、そのまま大の字に倒れた。
乱れた魔力の流れが体内で破裂しないように意識を沈め静かな呼吸を繰り返す。
神官アーマ・ハウはそばにあった樹木に背中をあずけ、座り込んだところに狼の死骸があったので声を上げて、飛び退いた。
彼女を心配するべラムスの顔が浮かぶ。
「きっと大丈夫」
その声には奇跡を祈るような響きがあった。

グラグラと揺れる視界の中をあの人間が引きずられていく。
彼女が復仇を誓った人間が・・・
銀狼は身を起こそうとしたがまだ無理だった。
何とか立ち上がったと思ったら視界の揺れに導かれるかのように簡単に転んでしまう。
四肢がここまで言うことを聞かないことは初めてだ。
それだけあの人間が恐るべき存在だと言うことだ。
彼女が倒すにふさわしい男なのだ。
だからこそここまで追ってきたのではなかったか?
右へ左へふらつきながら彼女は引きずられる人間へと近づいていく。
引きずっているのは蔦であり、その先には塔のように立つ一本の樹木がある。
その幹には鉄の杭が深く深く撃ち込まれている。
べラムスが撃ち込んだ曲刀である。
塔の樹木の上下に広がる傷口はまるで人の肉を裂いたようであり、血のような真っ赤な樹液すら滴らせている。
そのにおいが異常であることに彼女は気づく。
樹木である以上、傷から流れ出るのは苦い樹液のはずだがその真っ赤な樹液のにおいは甘美な血のそれであった。
甘美な?
彼女は急速に侵食してくる何かの意志をその朦朧とした意識を叱咤して振り払う。
まさかこんなものにあの男がやられるとも思えないが、そうだとしたら許しがたい。
銀狼は牙を打ち鳴らし、自らの心気を昂らせる。
ばちばちと青いオーラが雷を放ち始める。
そして――

凄まじい殺気がべラムスの朦朧とした意識に突き刺さった。
それは刃のように鋭く、姉ほどではないが厳しい叱咤を含んでいた。
途端に、右足と両腕に激痛が戻ってくる。
それでも洞窟内の景色が動いているのは彼の体に絡みついた蔦が彼の体を引っ張っているからだ。
何のために?
わからない。
兄と呼んでいる魔術師アラムがいればきっと教えてくれただろうが、今兄はここにはいない。
痛む手足を引っ張る蔦には力がない。
べラムスの全身をぐるぐると無秩序に拘束してはいるものの、老人が必死で綱を引くような速度でしかべラムスの体を動かせていない。
おかしい。
まだ少年期を抜けていないべラムスは鎧すらつけていないのだ。
あのときべラムスより頭一つは高いアラムを洞窟の底へと引き込んだのはたった二本の蔦だったというのに、それより軽いべラムスを動かすのにここまで苦労するものだろうか?
何か理由があるのかもしれない。
希望的観測をすればすでにこの洞窟自体が力を失いつつあるということになり、絶望的観測をすればべラムスをゆっくりと動かすことに意味があるということになる。
どちらが正解かは蔦がその動きをやめたときにわかるだろう。
もちろん大人しくそれを待っているつもりはベラムスにはない。
無事な――それでも引きずる必要がある程度に負傷していたが――左足に力を込めて、何度も床を蹴り、蔦の行動を阻害する。
意味ある行動とは思えないが、意味を持つ可能性があるとすればそれだけだった。
何度も床を蹴っていると新たな蔦が左足を捕らえようと躍起になった。
その蔦の動きを追っているとその先に朧げに輝くあの樹木が存在していた。
べラムスが曲刀で切り裂き、その幹を貫いた塔の樹木である。
それを見てべラムスは震えた。
自らが切り裂いた塔の樹木の上下の傷が、貫いた幹が赤い口を開けて彼を飲み込もうとしているように感じたのだ。
よく見ればその赤い傷口は確かに脈動していた。
樹木に食われる。
そんな異常性にべラムスは震えたのだ。
このまま恐怖あるいは狂気にのまれ、暴れ出したい気分だ。
だがそれをべラムスは抑え込んだ。
生中なことではなかった。
歯を食いしばり、痛みに意識を向け、無意識のうちに右ももの傷を指で抉ったほどだ。
恐怖も狂気も去らないが、そのおかげでやや冷静な意識を取り戻す。
希望は食うために拘束が解かれる一瞬である。
その一瞬こそが彼がその全霊をなげうつときなのだ。

槍使いの青年ラムセスはやはり運がいい。
真っ赤な樹液に染まった巨大なゴブリンの半身は地に伏したまま動きを止め、同時にゴブリンを貪り食っていた狼は去っている。
彼らが狙うのは唯一残っている頭である老婆ホーントである。
狼とこの化け物に何か対立軸があるのかもしれない。
もちろんラムセスにはどうでもいいことだ。
ただゴブリンがその身を地に伏せているのでその体を伝っていけばべラムスが入った炭化した大穴にたどり着くのは難しくない状態になったということが重要だった。
地に伏せたゴブリンが生きているのかどうかを確かめるために、いや生きていた場合にとどめとなるようにその首筋に短槍を叩きこむ。
木目さえある樹木の肉体にしては異様に生々しい手ごたえが伝わってきて、ゴブリンの頸動脈が断ち切れる感触がはっきりとわかる。
その一撃でゴブリンは死んだ。
頸動脈から噴き出した血のにおいとおそらく味がする樹液を浴びながら、槍使いラムセスはゴブリンの耳に手をかけ、その頭へと昇る。
不思議な感覚だった。
見た目は明かに木であるのにもかかわらず、感触はゴブリンのそれなのだ。
もっともつるつるとした木目のある気をよじ登るより毛を掴み、肉を踏みしめる方が足場としてはよい。
もともとが人の三倍もある巨体のゴブリンなのでラムセスは容易にその背中を踏破することができた。
ゴブリンの胴はアラムが火球爆発で開けた大穴の右斜め上の位置から生えている。
短槍を使えば、足下の大穴へと降りることは簡単だった。
夕闇が迫るにはまだ時間がある。
槍使いの青年ラムセスは太陽の光を浴びながら大穴から洞窟の中へと滑り込んだ。

それは奇妙な光景だった。
全身に蔦を撒きつけられ、芋虫のようになったべラムスらしき少年がずるすると引きずらている。
その先には真っ赤な口を開けた樹木があり、その中心部分には伝説にある英雄王、あるいは勇者を待つ聖剣のように曲刀が突き立っている。
そして飛び込んできた槍使いの青年の傍には青白い雷を全身にまとった小型の狼が牙を打ち鳴らしている。
槍使いの青年ラムセスはこの光景に自分のなすべきことを見失い、立ち尽くした。
槍使いの青年にとってはこの場にいることが場違いに思えたのだ。
ここに必要なのは少年べラムスと奇妙な樹木と同居している曲刀、そしてそれを伺う銀狼の三者であり、役者は足りている。
そこへ槍使いの青年ラムセスが踏み込むことは不遜に感じ、何より自身が踏み込むことでこの危うくも完璧な均衡を破壊してしまうことの危険を察知していたのだ。
まるでこの空間に槍使いの青年ラムセスを拒絶する見えない壁でもあるかのように、彼は動きを取れなくなった。
奇妙な言い方だが「きっかけが欲しい」と思った。
そしてそれはラムセス自身ではなく、この空間を支配している「三者の誰かが生み出すきっかけ」なのである。
もちろんラムセスはそのきっかけが起こったときに場を支配するのは自身の行動の結果だと理解している。
必要とされていないのではない。
場違いなのは「今」だけであり、「きっかけ」が起こったとき、必要な最後のピースは彼なのだ。

張り詰めた糸のように空気が緊張している。
その場にいる誰もがこの一場面にすべてを賭け、均衡を崩そうと狙っていた。
蔦を操る塔の樹木が、蔦に縛られた幼い戦士が、森の束縛から解き放たれた銀色の狼が、それぞれがそれぞれの思惑と意思で一瞬の揺らぎを狙っている。
果たして誰がそれを掴むのか。
それはすぐにわかるだろう。
べラムスを引き摺っていた蔦がその曳き方を変える。
今まで横方向に引っ張り、塔の樹木へとべラムスを移動させていた蔦が直立する。
べラムスの視界が反転し、足が天井へ、頭が床へと向けられる。
その落ちる先には真っ赤な口を開けた塔の樹木の幹が見えた。
塔の樹木はべラムスを喰らおうとしていた。
かつてゴブリンを喰らい、コボルトを喰らい、老婆ホーントを喰らったように。
いや過去と同じ、いやそれ以上の結果を得るために塔の樹木はべラムスが切り開いた傷口を口代わりにしてべラムスを飲み込もうとしていた。
その傷口の端にはまるでゴブリンの牙のような、コボルトの牙のような、いや老婆ホーントの持つ歯のようなものさえ見えている。
明かに食人の習慣を持つゴブリン、コボルトの影響であった。
もはや塔の樹木は樹木としての寄生支配という根本を忘れ、獲物を食べるというレベルへとシフトしている。
それはすでに樹木の性ではなく、獣の性だ。
そしてその獣性に、鋭く反応したのが銀狼だった。
青い雷光を靡かせつつ、床を蹴った銀狼は獲物であるべラムスを奪われることを察知し、先にべラムスを喰らおうと牙を立てたのだ。
ブチブチと音を立てて何重にもべラムスを取り巻いていた蔦が一瞬のうちに噛み千切られ宙を舞う。
生きた蔦を噛み切るのは獣にも困難な作業である。
それが塔の樹木の操る蔦であればなおさらだ。
しかもべラムスを引き摺っていた蔦どもはべラムスを軽々と逆さにするほどの数と太さを持つ蔦だった。
身体能力をブーストした銀狼だからこそ、それをべラムスの肉に至るまで噛み千切ることができたと言えよう。
銀狼が噛み千切ったのはべラムスの左右の足のふくらはぎの間だった。
そこはべラムスが立っていたならば喉仏に当たる部分だ。
ぶちぶちと千切れた蔦は太く何重にも絡み合っているので銀狼にとってはべラムスの喉仏を深々と食いちぎったような感触があったかもしれない。
そうでなければ再び襲ってきていたのは間違いない。
蔦から噴き出した血のにおいと味のする樹液の赤に口元を染めた銀狼は満足げに咆哮した。
「今だ!」
小さく叫んだ槍使いの青年ラムセスは銀狼の牙によって噛み千切られた喉仏の部分の少し上の蔦の絡まっている中心のやや左へと短槍を投擲した。
狼が噛み切ったのが右方向だったのでそうしたのである。
アラムの魔力で強化された短槍の刃は太い蔦を易々と切り裂き、べラムスの体重を支え切れなくなった蔦の束がゆっくりとべラムスの体を手放していく。
完全に蔦を断ち切ったわけではない。
べラムスはゆっくりと上下を取り戻し、ちょうど曲刀の突き刺さっている位置の上あたりで制止した。
もはやべラムスを吊り上げているのは二本の蔦に過ぎない。
べラムスはその一本に歯を立てると狼のように首を振ってそれを噛み切る。
ばらりと盗賊を縛った縄が解けるように、べラムスの体が蔦から解き放たれる。
べラムスはもう一本の蔦を力を込めて噛むとそのまま体を揺らし、塔の樹木の真っ赤な口へと狙いを定める。
もちろん口の中へではない。
目標はその深紅の口から飛び出している曲刀の上である。
曲刀は片刃の武器である。
その下部には鋭い刃がついているが、上の部分には切れ味と破壊力を増すために刃はついていない。
代わりに刃の部分にかかる力を大きくするための幅厚い鉄を使い、刃を後押しする棚を作っている。
べラムスはその上に体を預けようとしている。
べラムスの体が天秤につられた錘のように揺れる。
そのたびに蔦に噛みついた歯に顎が外れ、歯が砕けるのではないかと思うような負荷がかかる。
べラムスがそれに耐えることができたのは奇跡としか言いようがない。
動かない体の中で唯一自由な口を使い、体をコントロールしたべラムスは狙い通りに曲刀の棚の部分へと落下した。
斜めに塔の樹木を貫いていた曲刀がべラムスの重みで下へと下がり、同時に塔の樹木の幹を断ち切っていく。
やがて曲刀は堅い何かに当たり、その動きを止める。
だがべラムスの落下は止まらない。
もっとも塔の樹木の傍にある巨大な木の破城槌の間には絡み合った枝と蔦が渡されていた。
塔の樹木がやっているのであろう。
べラムスの体はまだ完全に床をふさぎ切ってはいない絡み合った蔦にその身をはじかれ、十二ある木の破城槌の一本の枝とも根ともつかぬ部分に引っ掛かった。
「どうやらそこが核らしいな」
べラムスの体より前に弾けた曲刀を手にした槍使いの青年が曲刀を肩に担いで、先ほど曲刀が弾かれた部分へと振り下ろす。
音はしなかった。
だがラムセスの腕には硬く力のある核を斬り砕いた感触が確かにある。
外から人のものとは思えぬ絶叫が聞こえる。
狼がやったのか、今の核破壊の影響か。
「のんびり見物している暇はないな」
ラムセスはすぐにべラムスが引っかかっていた木の破城槌の枝とも根ともつかない部分を曲刀で切り落とし、べラムスを肩に抱える。
抱えてから思い切って曲刀を捨てる。
逃げるためには身を軽くした方がいい。
ラムセスはべラムスを担いだまま、大穴を目指そうと走り出したがすぐにその方向を変えた。
大穴の外に老婆ホーントの手が見えたからである。
いかに出やすいとはいえ、べラムスを抱えてあの高さから飛び降りるのは安全ではない。
飛び降りた拍子に足でも挫き、そこを老婆ホーントに狙われては避けようがない。
幸いなことに核を失った塔の樹木は木の枝の洞窟を維持する力を失いつつある。
安全な後方へと周り、木の枝の洞窟の壁か床が崩れ、穴が開いたところから飛び降りる方が安全だろう。
それに槍使いの青年ラムセスが走る後方には先ほど投げた短槍が転がっている。
短槍を思ったのは、傷だらけの銀狼の金色の隻眼がまだこちらをとらえているからだ。
「あれをやるのが依頼だからな」
もっともここまで酷い事態に巻き込まれた以上、無駄に銀狼を狩ろうとはさすがのラムセスも思ってはいない。
だが可能性は捨てず、危険も顧みるのが冒険者というものだ。
崩れる洞窟の後方の壁の穴の一つに樹木が見えた。
地面にまで届きそうな大樹のつらなりはこの洞窟が崩壊しつつある中にあってしっかりとした足場を築いているように見えた。
「飛び降りる必要はなさそうだな」
俺は運がいい。
槍使いの青年ラムセスはいつものようにそう思い、崩れた壁から伸びる樹木の上へと飛び乗った。
そこから次の樹木へと飛び移る必要はなかった。
洞窟が倒壊するとともに樹木の位置は下がり、洞窟が倒壊したころにはその樹木がきれいに地面の草の上に横たわる形で制止した。
洞窟の倒壊はあっという間であり、老婆ホーントと戦っていた狼の群れの中にはそれに巻き込まれたものもいるようだ。
そしてべラムスとの死闘で動きの鈍っていた銀狼は倒壊する洞窟の壁に空いた穴から飛び出した結果、樹木の根に足を挟まれてしまったらしい。
「チャンスかな」
槍使いの青年ラムセスは動けないべラムスを草の上に卸すと同じように動けない銀狼に近寄っていく。
凄まじい絶叫が響き渡った。

誰だ。
顔を上げた銀狼に見えたのは飛来する影だけだった。
右目はすでに見えず、左目を開くのも難しい。
いや巨木の下敷きになった体の感覚も怪しいものだ。
彼女の前に立ったのが狼であるかどうかの判別すら難しいのは鼻面がつぶれているからかもしれない。
あるいはひどい耳鳴りのせいだろうか?
その獣は果敢に人らしきものに挑んでいた。
優勢なのかどうかはわからない。
だが劣勢ではないように思える。
彼女はその獣を知っているような気がしたが、そうでもない気もした。
つまり銀狼の意識はもうろうとして、眠りの世界へと引き込まれつつあった。
それが永遠のものなのか、休息のためのものなのかはわからない。

左の瞼を切り裂かれながら突き出した短槍はその獣の喉元を正確に貫いていた。
その獣は灰色の毛並みを持ち、恐るべき俊敏さと知性を持つ存在らしい。
自身を貫いた短槍を喉元を前に押し出すようにしてその体に深く埋めると最後の力を振り絞って、後ろ足でラムセスの顔の皮鎧を蹴る。
蹴り足の力はかなり強い。
槍使いの青年ラムセスはその威力に耐えるために前のめりになる。
それを狙っていたかのように灰色狼の右前足が動く。
しかし今度は冷静に盾で受け、掴んでいた短槍を離し、落ちてきた灰色狼の腹を蹴る。
厚いブーツの一蹴りである。
灰色狼は地面に足をつく前にぶざまに地面転がることとなった。
「こいつはやられたか」
灰色狼を蹴ったラムセスの表情は苦い。
周囲を囲まれている。
思わず腰紐に吊るしているはずの投擲用のナイフを探し、舌打ちする。
そこにナイフはない。
今の攻防で奪われたのか、洞窟の中で失ったのか。
どちらにしろ不利は否めない。
彼の周囲には数匹の狼の気配が生まれている。
おそらくは五匹、今倒れた灰色狼を入れれば六匹だ。
だが倒壊した洞窟の下敷きにならなかった狼の姿が消えていることを考えるとさらに五六匹はいるだろう。
「逃げるぞ!」
そう声を発したのは魔術師アラムである。
高く魔術師の杖を振っているが魔術が生まれる気配はない。
「バラバラに逃げるぞ!」
ラムセスはべラムスの腹を蹴り上げるようにして背負うとそのまま一目散に逃げだした。
魔術師アラム、神官アーマ・ハウもそれぞれが思い思いの方向に逃げだしている。
さすがに幸運を自任している槍使いの青年もその顔色は良くない。
今、唯一運命があるとすれば背中に肉の盾となり得るべラムスを背負っていることだろう。
ラムセスが襲われた場合に最初に傷を受けるのも、死ぬのはベラムスの役割になるだろう。
もっともべラムスに狼の牙が届いた時点で逃げる機会は失われているだろうが・・・。
ラムセスは左腕の盾をゆらゆらと動かしながら、走る。
この逃走経路があの狼たちの罠でない保証はない。
突然、足に噛みつかれるということも十分にあり得る。
残念ながら魔術師アラムと神官アーマ・ハウを追った狼はいなかった。
ただ狼の数を考えれば向こうの方に待ち伏せがあってもおかしくはない。
「とにかく逃げることだ」
槍使いの青年は自分に言い聞かせ、足を動かした。
そして走る力が尽きたとき、彼は村のふもとの見張り口へとたどり着いていた。

「ごめん。僕のせいで」
「まあ、最初からうまくいくってことは少ないさ。気にしない、気にしない。気に・・・くそっ、導師級の魔術師の杖は高いんだぞ。それに俺さまの輝かしい門出が依頼失敗スタートとは納得いかーん!」
「まーいいじゃない。命あっての物種っていうでしょ。こうやっておいしいお酒が飲めていることに感謝しなさいな。たった一杯しか頼むお金がなくてもそれを全身で味わうの。細かいことに感謝しなくちゃだめよ。ありがとう。女神アクエル様」
ほろ苦い麦酒をあおる魔術師アラムの肩をちびちびと果実酒を舐めるようにして味わっている神官アーマ・ハウが叩く。
「しかしなぁ」
魔術師アラムの視線の先には「銀狼討伐! 優秀な冒険者求む! 前回の失敗者・・・ラムセス(戦士)、べラムス(戦士)、アラム(魔術師)、アーマ・ハウ(水の女神アクエル神官)、前々回の失敗者・・・失格騎士ラザンタール、炎の拳リー・サンメン、長き手を持つバット、獣狩りのカズゥエル」と記された依頼状が張られたボードがある。
アラムたちは依頼に失敗したのだ。
あの木の枝の洞窟の倒壊と狼たちから逃げきって村についた魔術師アラムはボロボロであり、疲れたこともあって正直に「あー、銀狼討伐は失敗だ。つか、何で迷いの森ができてるって教えてくれなかったんだ! 死ぬところだったんだぞ。動く洞窟に追いかけられて。迷いの森を解除しただけでもすごいと報酬をいっぱいくれてもいいんだぞ」などと悪態とも愚痴ともお願いともつかないことを言って、村人たちから白い目で見られた。
神官アーマ・ハウはアラムより遅れ、途中で合流した槍使いの青年ラムセスと彼女の治癒の奇跡によって瀕死の状態から復帰したばかりのべラムスとともに帰ってきた。
瀕死のべラムスを癒すほどに強力な奇跡を行使したアーマ・ハウの顔色と体調は最悪でまるで死人が歩いているようだった。
それでも歩くこともできずにラムセスの背中に背負われているべラムスよりはずっとましな状態なのだが、見た目としてはこちらの方がひどそうに見えた。
槍使いの青年ラムセスは口八丁で村人たちを丸め込むことに成功しかけた。次の日に木の枝の洞窟の残骸と狼たちの死骸を見せることで村人たちの疑いを晴らし、村の脅威を取り除いたという点では合意を得た。
しかし銀狼を退治したということにはならなかった。
銀狼が挟まっていた巨木の下には血の跡が残っていたが、それが森の中へと続いているのが見つかったのだ。
点々とではなく、ずるずると引きずられたような跡なので、ラムセスは他の獣が巣に持って帰ったと主張したのだが、べラムスがぽろりと「銀狼は生きているよ」と口にしたことで村人たちはその主張を退けた。
べラムスの一言は槍使いの青年で荒事屋として冒険者として培ってきた話術の粋を集めた百言よりはるかに強い説得力を持って村人たちに響いたのである。
それでも現場を見た村人たちは依頼料を払っても良いと言ったのだが・・・
「銀狼を退治できなかった以上、村の同意があっても依頼金は支払えません。銀狼討伐依頼の賞金は銀狼を討伐しない限りびた一文払いませんから」
と斡旋所の窓口に拒否されたのだ。
かといって銀狼退治の依頼料として斡旋所に大枚をはたいた村に余剰の金などあるはずもない。
依頼は失敗、ただ働きとなった。
「斡旋所窓口のばばあ、いやお姉さまめ!」
アラムは飲み干した麦酒の入っていた木のコップをがんがんテーブルに叩きつけていたが、窓口のお姉さまがこちらを睨んでいるのに気づき、その手を止める。
「荒れているな」
と声をかけてきたのは胸に不名誉印を刻んだ騎士である。
かつて騎士であり、王を守れなかったために鎧に刻まれた家紋を削り取ってその地位を捨てた騎士であり、失格騎士と呼ばれている荒事屋ラザンタールだ。
「おっさんか。迷いの森の中に七日間も放置されてたのによく生きてたな。つか何でここで水なんか飲んでるんだ。酒を飲めよ。酒を」
「銀狼退治の装備に金を使いすぎて、金がないどころか。借金取りに追われる羽目になってな。ここならふつうの借金取りが来ないから仕事を探しがてら避難しているんだ」
「ん、大変だな。何か飲むか。おごるぞ。アーマが」
「果実酒一杯をこんなに大切に飲んでる私によくそんなパスが出せるわね」
「ん、すまん。じゃ俺がおごるわ」
「それでいいのよ」
「おっさん、麦酒でいいか。さすがに食い物まではおごれん。俺もいろいろあって金がなくてな」
「見ればわかるさ。魔術師のローブは高いしな。麦酒二杯と果実酒を一杯、それに火酒を一杯頼む」
「おっさん頼みすぎだろ!とかいう冗談は置いといて仲間も来てるのか」
「まあ、みんな似たようなもんでな」
「うむ、酒はおごってやるから強く生きろよ。俺様は学院寮に帰ればタダメシを食えるからな」
失格騎士の様子を見て自分の生活の安定性に気をよくしたアラムが容赦のないことを言っていると
「私のマイホームですね。楽しみです」
精霊女ドリアーネがワクワクした表情で醸造酒を注文した。
「おうぅ、いつの間に」
「今着いたところです。バク様もいます」
「そんけー、あらむ、きたぞ」
精霊女ドリアーネの膝に乗った緑の髪を結いあげた小さな女の子が元気よく手を上げる。
「まあ、約束だからな。だがここの払いは持たんぞ」
「それは大丈夫です。歌って稼ぎますから」
精霊女ドリアーネはそう言うと席を立って、小さなバク様に木製の皿を持たせると美しい声で歌を歌い始める。
それは切ない恋歌であり、魅了の魔法でも使っているかのように酒場の人々の心をとろかしていく。
「きもちいい」
バク様がとろんとした顔で呟いたのを聞いて、アラムは即座に魔術師の杖で精錬女ドリアーネの頭をはたく。
「な、なにをするんです」
「お、お前、こんな町中で魔法なんか使うんじゃねえ! ここは魔法王国、んでこの酒場は賢者の学院のおひざ元だぞ!」
魔法王国ラヴェルーナは賢者の学院という大陸一の魔術師教育機関を持つだけに、魔法についての一般常識は他国とは比べ物にならないほど高く、ちょっと裕福な店主でも他国の騎士並みの知識を有している。
つまり魔法に詳しくない店で魔法を使って、貧乏生活を凌ぐようなことはできないのだ。
簡単に言えば魔法を使うと魔法を悪用したとして官憲に通報され捕まる可能性が高い。
アラムのように導師級の魔術の中でも凶悪で禁忌とされているようなの火球の呪文の爆発なら見逃されるだろうが、他の魔法、それも魅了のような悪用されやすい呪文は各店舗に周知されている。
「あなた、今、魔法使いましたよね」
「えっ」
いきなり肩を掴まれた精霊女ドリアーネが振り向くとそこには肩のあたりまである金髪を邪魔にならないように雑に頭の後ろにまとめている女性が立っていた。
「俺は止めたぞ」
「それには感謝します。ありがとうございます」
給仕の制服とは違うパリッとした服装の女性は頷き、精霊女ドリアーネをずりずりと窓口の傍にある小部屋へと引きずっていく。
「ドリアーネ、もっとうたって~」
その後をバク様がついていこうとしたので、アラムは「お前はこっち」と抱え上げると膝の上に座らせた。
音もなく、小部屋の扉が開き閉じる。
「何だ。お仕置き部屋の扉が閉まってるな」
斡旋所の二階から槍使いの青年ラムセスが袋を持って降りてくる。
そして「うちの連中じゃないか」と安堵の息を吐く。
「村人からの報酬は出なかったが、迷いの森の存在を知らせたこととそれを解放したってことで斡旋所からねぎらい金がでたぞ。あの洞窟の化け物についてはダメだった。化け物退治と迷いの森の開放は一揃いだと言われたら文句のつけようがない。迷いの森から助け出した形になった旦那たちは金欠みたいだし、今回はこれが精いっぱいだな」
それぞれにラヴェルーナ銀貨1枚に渡しながら、ラムセスは肩をすくめる。
「ラヴェルーナ銀貨一枚かぁ」
一日仕事にしてはかなり儲かった方と言えるが銀狼退治の報酬の百分の一である。
「おっ、これ記念硬貨だぞ。ま、だからと言って価値が上がるわけでもないわけだがな」
アラムは五枚のラヴェルーナ銀貨を調べ、自慢のコイン知識を披露した。
「はじめての冒険の記念だからとっておこうかな」
べラムスは銀狼との戦いの記念に
「それはいいな」
ラムセスは初めて仲間とともに生き残った記念に
「まあ、失敗記念としては妥当だろう」
アラムは趣味と失敗の記念に
「うーん、じゃ私もそうするかなぁ」
アーマ・ハウは何となく・・・・
やがて「銀の」名を謳われるようになる魔獣退治の専門家たちはそれぞれの理由で頷いた。
















































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