雄渾

「ここがいい」
「確かにここならコウヤ様も満足なさるでしょう。戦が起これば必ず主戦場となることは確実ですからね」
「この島国で唯一、大会戦の許される平原の係争の要地。征夷の殿も必ず満足なされるはずだ」
「見るだけで退屈と言われるかもしれませんが」
「そのときには黄泉から炎馬を駆って駆けあがって参られるでしょう。そういう人でした」
「黄泉の鬼より地上の戦ですか。コウヤ様らしいですね」
「北の鬼も黄泉渡りしている。退屈ではなかろう」
「それよりもつれあいとなって黄泉を乱しておらぬかが心にかかります」
「これは」
「したり」
「無法の中に法をおさめる人でしたから」
「吹き出し笑いはひどい」
「だが征夷の殿が国造りに向かぬことは知っていよう」
「できないということではありませんよ」
「やらぬということは不得手よりたちが悪い」
「そうですか?」
「平らかな世に退屈して国造りができる人。可笑しいと笑ってすませられるものではないでしょう。本当に始末が悪い人でした」
「その始末をつけるのですからこの国にとっては僥倖。官費で祭りを開いても良いくらいです」
「よせ、よせ。せっかく眠った征夷の殿が石棺を破って躍り出てきてはかなわん。北の鬼が片付いたと息をついたところだ」
「あの人は鬼ではありません」
「しかし、鬼のようなもの。鬼以上に始末に困る」
「北の鬼も」
「いやここに盤踞していた鬼と呼ばれた方もここではコウヤ様と同じ扱いだったのかもしれませんよ」
「ならば」
「それ以上はいいませんように。私たちの役目はコウヤ様が望んだように始末をつけて後生を残さぬことです。よろしいですか?」
「北へと同道していないのに認可などくだせません」
「しかし」
「今生の別れは出立の時分に済ましているということだ」
「迎え送る方はそれだけではすまないのですよ。妻を泣かせたと憤怒で地を震えさせられては困ります」
「顔を見ていては惜しくなります。この場を見られては忌みになります」
「埋めるぞ」
「私は地鎮を・・・」
「結界を敷いた方がいいのでは?」
「鬼道も巫術も一笑し、踏み破るコウヤ様には無益でしょうが私たちの心の安寧のためには良い薬になりますからね」
「外からわからぬのは当然として内からも気づかれぬように頼む。征夷の殿が面白がっては困る」
「黄泉以上に興味深くはない結界を張りましょう。コウヤ殿が興味をなくした隠形陣あたりなら大丈夫でしょう」
「大将の陣を眩ませたあれか」
「そうです。石棺を隠すには大袈裟ですがコウヤ様なら気にもなさらないでしょう」
「内から見たことがあったかな?」

天を突くようにというのは比喩でしかないが、それを表すことこそが芸であろう。
竹には雄渾たる意気があるが、竹というものは群れるものである。
孤高たりえず首を垂れる竹のしなびた姿こそが本様というものだ。竹は一本、一人として立つのではなく、竹林の造作の一部として存在することこそが自然の摂理だ。
だが墨絵の竹は雄渾であり、幽玄である。
ナリクはそんなことを思いつつ、墨筆を走らせる。
竹林を前に、孤高を思い、雑多な笹を除き磨きたてた一本の雄渾を心に見る。
暗く沈む陰竹の林の中にある光り輝く雄渾を思う。
竹取の翁がかぐや竹を見つけるように自然にではなく、歯を食いしばり無理やりたたき起こすような気骨で、凝視する。
ないものを見る。
それは至芸と言えるだろう。
見るとは空想や妄想を配した先にある「真実」だ。
気合とも吐息ともつかぬ短い呼気とともに白紙の上に一本の線が描かれている。
上から下にではなく、下から上に。
「ほう」
斬りつけるような咆哮が全身を打つ。
「これはおもしろい」
頭を巡らすと巨躯が目についた。
「虎か?」
そう思った。
だが思い直す。
「名を」
虎之介はこの一線を見て「見事」と口走るような男ではない。
「ふむ、名乗ってもいいが信じまい。いやまて」
男はかがめていたと思われる巨躯を伸ばし、顎に手を当てる。
「お主、裸ではないか」
「ん、黄泉の衣服は地上では隠れ蓑か。いや蓑隠れか。まいったな」
「おやじ殿のような物言いをする」
ナリクは笑った。
ナリクの仕える主は巨躯ではない。こびとと言ってもよい。数え年十五になるナリクよりも頭一つは背が低く、手足も小竹のように細い。
しかしその心魂は強く、戦において敗北を知らない。
ナリクの主が下僕から城主にまで飛び上がったのは、その心魂と不敗ゆえだ。
「猿の下にいればいい目が見れる」
それが「わしだ」とは主の口癖だ。
「おれの服では」
「いや私の服では間に合いそうにない」
ナリクも人並み以上の体格だが、巨漢とまではいかない。
虎之介、あるいは城介のものならば、それなりに見えるだろう。
もっともこの男の体躯からすれば、毘沙門天の化身と呼ばれる城介のものでも及ぶまい。
それほどに大きい。
「おぬしが気にせぬのなら衣服など必要ないさ」
「なぜだ?」
「おれは人の目には映らぬ」

翌朝、ナリクの仮屋敷に客があった。
「ナリク、馬だ」
ふすまを開けるとそこにはナリクより頭二つは背の高い偉丈夫が立っていた。
今にもかみつきそうな顔相の同輩だ。
ナリクと同じ釜の飯を食い、主をおやじ殿と呼ぶ同輩は八人しかいない。
「今度はオレたちも戦場に出られる。見ろ!」
「これは」
「槍だ。一手の大将を討つにはそれなりのものが必要だ」
「古びた槍だが」
「大善殿の槍だ」
「那倉大善殿か!」
「上様から下賜された大槍よ。ねだってねだってようやく手に入れた」
「大善殿に勝ったのか」
「きっと手を抜いてくれたさ。でなければオレごとき若輩が大善殿に槍を付けられるかよ」
「では一番首を取らねばならんな」
「おおともよ!」
竹林がぶるぶると震える。
「この槍で日向の首を上げてやる!」
「城介」
「ん?」
「それは何だ」
「おお、そうだ。おやじ殿がお前にも馬を届けろと言われてな。駿馬だぞ」
「鞍鐙もついているな」
「派手であろう」
「おやじ殿らしい。で、俺が最後か」
「お前は馬が困らぬ体躯だからな」
「なるほど」
「届けたぞ」
「待て、待て、受取状くらいは持たせなければ俺の面目が立たん」
「そういえばそうだった。おやじ殿に持たされたものがあった」
そう言って差し出された受領書にはジョウスケをはじめ見知った者の名が続いている。
虎之介、新三、元介、勘助、孫二郎、赤熊、忠介の認めの後に、筆を入れる。
「次は戦場で会おうぞ」
「おう」

「見事な陣立て。吉備真備のごとし」
膝を打ってあげる声はナリク以外の者には聞こえていない。
そして
「さすがは日向殿よ」
と目を細める猿以外に眼前眼上にはためく旗をほめる者はここにはいない。
この一霊一人以外の誰もがただ一筋に、沸き立っていた。
ナリクもそうだ。
「オレは大剛の者を討つぞ。一番槍は当然。大善殿の槍に恥ずかしい思いはさせぬ」
古風な槍を懐に抱くようにして一番槍の呪を唱えるジョウスケがいる。
「一番槍は俺だ」
ニ十石の給与を貯めて増やして手に入れた新品の片鎌槍を肩に担いで吠えるのは虎之介。
足軽兵の持つ六間槍を思わせるような長大な柄を持った槍である。突くだけでなく、槍頭の横についた刃で鎧をひっかけたり、斬りつけたりもできる。
新三、元介、勘助、孫二郎、赤熊、忠介もそれぞれの場所で、沸き立っている。当然として、戦場に慣れた古強者たちもここが先途と沸き立っている。
戦のはじまりとは本質的に沸き立つものではある。
だが戦場に慣れた者たちが誰それとなく沸いている場は珍しい。
二人のうち一人は沸ききれずに、冷えていないければそれは浮き足となり、敗北へのきっかけとなるからだ。
誰が知らずともそうなるのがふつうである。
戦を楽しめる者がいれば、そうでないものがいる。
戦上手がいれば、戦下手もいる。
それぞれが違うことが戦場を場として、正しく形作っているのだ。
たとえそれが熱狂の中の偽りの冷静だとしても。
この熱狂を作ったのはおやじ殿、猿、筑前と呼ばれる小男である。
米を食らわせ、金銀を撒いた。
さすがに十五のナリクは駿馬で自分も熱狂に巻き込まれたとまでは気づかない。
物で釣られるというのは釣られた側にとってうれしくはない。
だから誰もが己を騙す。
騙す努力をしなくなれば人は信を失う。
それは己への信であり、他者からの信でもある。
「さあ、進め。いざ進め」
ただでさえ大きな声が、大音声で節を取りつつ、歌う様に命じ続ける。
その声は丘を下り、平原を抜け、敵陣まで届きそうに思える。
「おう、おう、おう」
声を押されるように、全軍が動く。
「こちらも見事」
膝を打った手をかかげて、頭上で打ち合わせる。
まるで祭りの手拍子だ。
その見事の中にナリクはいる。

ナリクの熱狂に冷や水を浴びせたのは見慣れぬ光景であった。
ありていに言えば、馬の背は高いと言う事だ。
背が低ければ見えないものが良く見える。
ナリクは旗指物を見上げることには慣れていても、見下すことには慣れていなかった。
下から見れば二三しか見えぬものが、上から見れば百に増える。
今までにもナリクは遮二無二突き進むことを恐ろしいと思ったことはある。
あるが、それで足を止めたことはない。
目先のことしか見えないと言う事は幸せであった。
小さな勝利は大きな自信となり、気づけば味方に勝利が転がり込んでいた。
ところが、今日は違う。
やるべきことに変わりがあるわけではない。
だが手綱を緩めてしまう。
「百か、千か」
馬上の恐怖というものであろう。
騎乗の武将には「資格」が必要だったのだ。
「ナリク殿?」
と声をかけてきたのは主が馬回りとして与力してくれた足軽だ。
五平太、弥助、平助、五助、伝兵衛。
ナリクと同年代の四人と物慣れた小頭が一人。
そして
「高いところで止まってしまえば撃たれるぞ」
びしりと音がした。
瞬間、ナリクの視界は乱転した。
あっと思ったときには視界が暗転した。
ナリクが転がった後の地面に、赤黒いシミが小さく小さく証を残す。
駿馬の駆け去る馬蹄の音は聞こえなかった。

「目が覚めたか」
「ああ、名無し殿か」
「ふてくされておるのか」
「私は大したケガをしていない」
「不服か」
「敵兵の数に怯え、鉄砲の音に撃ち落とされた」
「なあに、ちゃんと当たってはいたさ。馬から転げ落ちてもおかしくない勢いで。そこにある鎧を見ろ」
「穴が開いている」
「あの距離から強火薬での狙撃とは相当な名手よ」
「見えたのか」
「馬より高くに居ったゆえに」
「ふん」
「本当だ。おれだからこそ見えた」
「それだけではないでしょう」
「おれなら避けられただろう」
「私が無事なのです。あなたのような堅固な肉体の持ち主は避ける必要もないでしょう」
「あるさ。馬から落ちなければ二発目が飛んでくる。馬は主人を感じる。おれが揺らいでは二発目はさばけまい」
「そうでしょうか?」
「馬を狙われる。避けられんさ」
「それで私はなぜ生きているのですか」
「ほう、よく気が付いたな」
「あなたのおかげです」
「実はお前の体を借りた。お前が魂消た拍子におれの魂が吸い込まれたのよ」
「魂入りですか。そんなことができるのですか」
「あのときはできた。今は遠慮している」
「今もできると」
「試してみなけりゃわからん」
「試したそうですね」
「退屈しのぎさ」

「御運のよろしいことで」
小頭の五平太は日に焼けた顔をほころばせた。
その手にはあの駿馬の手綱が握られている。
手綱の先には見たことのある駿馬が繋がれている。
いきり立ちも、怯えもしていない堂々たる姿は戦に慣れた馬らしい。
「慣れぬ私を乗せて不満だっただろう」
おやじ殿が笑っていよう。
虎や城介、孫一郎はどうか。
どうかと思えるほどには遠い。
だが遠すぎることはなさそうだ。
ここには負傷兵がいない。
前線ではないが、後ろへ移送されたわけでもなさそうだ。
「ワシの家で」
ナリクの様子を見て五平太が口を開く。
「仮家ですが」
畑もなければ、家畜もいない。
生活感がまったくない。
戦のために借りた家だろう。
「目を覚まされましたか」
水を汲みに行っていたのか弥助と伝兵衛が桶を両手に駆け寄ってくる。
「ぶざまなところを見せてしまったな」
「とんでもごぜえません」
「殿がいなければ、わしらは生きてはおりませぬ」
「それそれ」
「わしがいなければ」
「まったく鐘馗様」
「疫払いか」
「へい」
「もう一度出ますな」
「出る」
「戦場は勝ち負けこもごも。五平太、弥助、伝兵衛が従いまする」
「平助、五助は」
「見当たりませぬ。生死もとんと」
「わしらは生きたな」
「ナリクの殿の奮戦、指揮があればこそ」
「ゆめうつつよ」
「夢でも現でもワシらはかまいませぬ」
「そうか」
魂消ている間に武勇を立てているなど冗談ではない。
悪戯好きもおやじ殿に似ている。
「急ぎ出る。前に褒美だ」
ナリクは五平太、弥助、伝兵衛にそれぞれに小粒の銀を渡していく。
おやじ殿もなき上様も好んでやり続けた見声渡しだ。
「あなたも望め」
ナリクの言葉に笑い声が応える。
「おれの望みも叶えるか。豪儀だが、それでこそだ。青竹の心魂。戦場に一竿起てようぞ!」
ナリク以外に聞こえぬ声に合わせて、駿馬が強くいなないた。

「これは?」
「おもしろかろう」
見事と見事のぶつかり合いは、見事にはじけて、うごめく停滞を生み出していた。
勢いに任せて突っ込んだ方は八つ首の蛇のごとく進み、それを受け止めた方は酒がめのごとく、蛇の口に吸い寄せられている。
勢い任せのこちらが相手の陣を寸断したようでもあり、相手の包囲がこちらを縛り付けているようでもある。
馬上から見渡せば一塊になった敵と味方がぽつりぽつりと交互に並んで、くるくると旋回する万華鏡のように無秩序に見えつつも規則的な動きをしている。
勝敗明かならず、優劣判別しがたし、どこへ突入すればいいのかがまったくわからない。
どこへでも行けそうであり、どこにもいけなさそうでもある。
船に影響を与えぬ渦潮、つまりは幻でも見ている気になっている。
「どこへ行く?」
「場所がありませぬ。踏み入れば幻になりそうだ」
それでも踏み入らねばならない。
小姓として主の采配で動くだけのナリクから武将として成り上がるために。
「幻にのまれるぞ」
「霊、鬼、鐘馗たるあなたが言うと耳に響く」
幻の戦場にぽつりと光が灯る。
小さいが確かな光。
真っ昼間でもなお目にまぶしい。
「あれへ行く」
ナリクは五平太たちに声をかける。
五平太たちは頷く。
名無し殿と呼ばれる鐘馗が笑声を放つ。
そしてナリクたち四人と一駿馬、一鐘馗は平原に渦巻く幻の渦潮をときには縦に、ときには横にと動きつつ、進んでいく。
一騎と三徒士。
不可思議といえば不可思議な組み合わせだ。
伝令にしては身重で、部隊としては小さすぎる。
徒士が五人いれば、警戒されたかもしれない。
ナリクが並外れた容貌体躯であれば討たれていただろう。
虎之介、城介あたりなら組打ちを挑まれたに違いない。
もっとも敵も味方も関係なく、駆けていくナリク隊を放ってはおかない。
鉛玉こそ飛んでこなかったが矢が放たれ、石礫がぶつけられる。
ナリクは頭を低くして駿馬に身を任せ、五平太たちは歯を食いしばって足を動かす。
一度、銃声が轟いた。
それで戦場は幻を脱する。
銃声に驚いた陣同士の争い。
たった一発の銃声が幻の渦潮を現実に引き戻した。
一つが回り始めれば、その周囲が動き、それにつられて戦場が回り始める。
「はじまったぞ」
頭上で鳴った手拍子を無視してナリクは走る。
巻き込まれれば死しかないであろう。
駆けに駆けてナリクはそこにたどり着いた。
この隊兵のひしめく平原でただ一か所静まっている場所へ。
鎮まっている場所へ。

「殿、殿、どこへ行きなされた」
「ここじゃ」
「どこじゃろ?」
「声もせぬぞ」
「ここは見えも聞こえもせぬ。手でも引いてやれ」
「鐘馗どのには見えるのですか?」
「おれの墓よ。掘れば石棺が出てこよう」
「見えぬ土地だと? 確かに人馬ともに寄り付いてこぬところを見るとそうかもしれませんね。ここにいれば鉛玉も来ないでしょう。隠れ蓑、いや鐘馗どののいる場所となれば幽世かな?」
「幽世とは大層な。昔も今もただの死体を埋めた場所にすぎんさ」
「とはいえ、妙な場所であることは確かなこと。使いようによっては恐ろしい場所となるでしょう」
「潜むのか」
「敵味方が入り乱れ戦っている今、こうして身を潜め、槍を突き出せば軽々と首を取れましょう」
「やめておけ。闇夜に寝込みを襲うのは構わぬが、ここは違う。功名を得たいのではないのか?」
「私が一つ首を取れば、おやじ殿が一つ楽になる。主をもうけさせるのが私の務めです」
「もうけさせてもらったと主が知らねば意味がなかろう」
「おやじ殿が身代を増やせば巡り巡って私にも加増があるでしょう。天下を取れば、身内びいきの残飯にも相応の果報があるでしょう。それほどもうけさせればいい」
「おぬし戦嫌いか」
「嫌いでも苦手でもありませぬ。ただ、毘沙門天には到底足りぬことは知っております」
「それだけではあるまい。戦に楽しまむとすればそれは稼業か。好きでも嫌いでもないがやるのは稼業だ」
「よい稼業だとは思っています」
「古槍をかい抱いたあの男は戦を銭米稼ぎとは思っておらぬだろう。わしもそうだ。おぬしは変わり者よな」
「毘沙門天の化身といわれる城介と並べられてはかないませぬ。戦の風を喰らい美味だ、美味だと喜ぶ類の男ですよ。あの那倉大善が跡目を譲るような戦場狂い」
「それは、よう見た!」
「ふん、那倉大善ともあろうものが慈悲で愛槍を譲るはずがない。仁慈で手心を加えるような甘さもない」
「おぬしではそやつに勝ったとしても槍はもらえまい。おぬしの心魂はわしらとは違うようだ。わしでもやらぬ」
「わかっています」
「つまらぬと言っているのではない。わしらとは違うというだけだ。共に駆けて同じ夢を見ることはできぬ。槍がかわいそうだ。獣を海に放り込み、魚を陸に跳ねさせるようなものだ」
「一騎駆けの武者より私の方がおやじ殿をもうけさせられる」
「それ、それよ。いやふてくされるな」
「売られた喧嘩」
「ふうむ、では」
「城介を見よ。手本にせよ。百たびも聞いた。鍛えに鍛えた私自身が城介に及ぶかどうかを知らぬとでも思うか!」
「天下無双を競う気があったか」
「競わぬ。かなうはずもない。私はこの戦でおやじ殿をもうけさせるだけ」
「それが競うということよ。首が欲しかろう。おぬしはおやじをもうけさせることで抜きんでようと思うておる。欲深よ」
「意味が分からぬ」
「おぬしも滾り昂りあってこその戦をしておる。首取りの作法を知らずにあの男に勝るつもりだ」
「城介と無双を競うつもりはない」
「あるさ。二なき者になろうとしている。それは無双たる者になるということだ」
「違う」
「戸惑うたか。だがおぬしの心魂はあの男より猛々しく、耳障りなほどに大きい。わしが引き寄せられるわけよ」
「幽鬼が説教とは笑止!」
「しからば御免!」
瞬間、主客が転倒する。
いや己という城が落とされた。
「先ほど思いついたことだが、今、褒美をもらうとしよう」
ナリクは自らの肺腑が獣のごとき咆哮で震えるのを感じた。

「まずはあやつだ!」
幽世の墓から飛び出したナリクの槍が一人の武将を指し示す。
二丁の鉄炮を所持する部隊を率いるその武将は組下の隊長であろう。
堂々たる体躯に、恐ろし気な顔をしている。
鎧兜の色はわからない。
獲物を追う勢子のようにきびきびと動く足軽たちの動きばかりが目に入る。
「首をもらうぞ」
声はナリクのものだが、気勢が違う。
男は煩げにナリクを指さす。
石礫が舞い、火縄が絞られる。
「五平太、弥助、伝兵衛、遅れるなよ!」
駿馬が駆ける。
ばらばらと石礫が降り、轟いた銃声に合わせて馬が跳ねる。
その姿を見て、隊長らしき男は槍を取った。
鞍上に身をうつし、前へと出てくる。
跳ねた駿馬がくるりと回る。
突撃を緩めたのだ。
「錣十郎太なり」
「厄除けの鐘馗」
大音声というわけではないがよく通る声が響きあう。
いざ、と馬を寄せる。
ナリクの槍は剛槍というには短すぎる。
十郎太の槍は十分。
だが当のナリクの頭にはそんなことを考える余白はない。
かつかつと響くのは槍の音か、馬の鞍がぶつかる音か。
寄らねば槍が届かず、寄れば首をねじ切られる。
熊に素手で挑むような怖気が背中を走る。
「組もうぞ!」
「おうよ!」
馬の鞍から転げ落ちる。
十郎太が獣の顔で笑う。
膂力は万力。
経験は抜群。
素質もまた。
ナリクは馬から転げ落ちながら勝敗の別を知った。
が、血を浴びて息を吐いたのはナリクだった。
間を惜しんで馬に乗る。
それはナリクの体を使うものの覇気か、それともナリクの恐れの色か。
「五平太、首」
「へい」
五平太がそう答えたとき、ナリクは駿馬を駆けさせている。
隊長を失った部隊は唖然と立ち尽くし、蜘蛛の子になる前に砕ける。
そばにいる味方部隊が槍を入れたのだ。
五平太と弥平が味方の兵を押しのけるようにして錣十郎太の体にとりつき、首をねじ切る。
そのときになって、錣十郎太の兜が目についた。
質素な造りで、華美ではない。
侍大将の組下のさらに下の者でも付けぬような粗末な兜だ。
そんな男があれほど恐ろしい。
ナリクはぶるぶると震え、身もふたもなく泣き声をあげた。
つい先ほどまでは城介にはかなわぬと思っていた。
かなわぬまでも遠くはないと信じ切っていた。
だからおやじ殿にもうけさせるなどと口にできた。
それが砕けた。
今しがた見た敵部隊の様によく似ている。
違うのは砕く者が自身であるということだけだ。
恐ろしくて泣いている。
悲しくて泣いている。
悔しくて泣いている。
情けなくて泣いている。
ナリクは自分だと思っていたモノが「なかった」ことを泣いていた。

奇跡のように分断され合った敵味方は小部隊単位で行動している。
そうとは思えぬほどに密着していながら隊長ひとりに率いられた部隊が、隣の部隊ともつながりを得られずに孤立している。
どこにも一塊になった兵力がないというのは奇術的としか言いようがない。良き侍大将が、侍大将が率いる組下の小隊長ひとりひとりの質が、戦の勝敗を決めるという点ではどんな戦とも変わりがない。
にもかかわらず。
常の戦ではない。
「大戦とはそういうものよ」
それぞれが好き勝手に動き、その手綱を握る総大将でさえすべてを制御することはできない。
できるのは衣服のほころびに継ぎ布をするように、それぞれの大将との間を伝令あるいは援兵という糸を通すのが総大将の仕事であった。
が、この場面でそれをしようとしたのは敵だけだった。
「見事な武者ぶり、褒め置くぞ。それ皆も押し出せ。引きぶりはいらぬ。ただただ押せや!わしも出るぞ!」
馬の鞍を叩き、大音声で叫ぶ小男はただ一人で押し出そうとする。
そばにいた者がが声を上げ、手を伸ばし、そして引きずられるように前に出る。
床机に座って指揮をしていた者たちは仰天したと言っていい。
大将たる者が前線に出るのは指揮所としての機能性を高めるためであって一騎駆けをするためではない。
駆けながら指揮を執るというのは古今に例示はされても実際にはない。
大戦になればなるほど前に出る兵は多くなり、それを掌握する大将は体より頭を働かせることになる。
動かないことこそが大将としての働きの見事さの証であり、兵たちもそれを知って安堵し、よく働くのだ。
それを。
本陣が戦場から遠すぎると思ったのであろうか。
いや遠くはないはずだ。
これ以上近づけば兵を掌握することなどできなくなると戦っている侍大将たち、それを膝下に置く大名たちは感じている。
奮励叱咤の馬出しか。
「運はわしに任せよ。わしが負けたことがあるか!」
いちいち名前を呼ばれた大将たちは床机から立ち上がるしかない。
それぞれの軍の指揮所である陣が払われ、大将が馬に乗る。
馬に乗っていた侍大将は馬を進める。
それを見た部隊長たちは「はや突撃か」と気組みをつくり、気組みにのまれた兵たちはもはや自分の足とも思えぬ足の動きに驚く余裕もない。
統率をあきらめた兵の集まりが、統率の糸を緩めぬ軍へと襲い掛かった。
くるくると渦巻いていた渦を大波がかき消していく。
かき消しきることができればこの戦はこちらの勝ちであろう。

「もう持てませぬ」
悲鳴を上げたのは物慣れた小頭の五平太だった。
五平太が背負っているのは首袋。
肩がけ、腰釣り、背中負い、両手ばかりか首の前にも首受け布が下げられている。
むろん弥助、伝兵衛も似たり寄ったりだ。
「重ければ捨てろ」
五平太はこの殿の剛腹さよと腹立たしくなった。
ナリクにとっては初めて自儘な一手を持って戦場に立つ一人戦の初陣である。
首の一つでも取らせてやれば重畳と思っていたが、話が違う。
これでは物慣れた組頭、侍大将も及ばぬ。
五平太は上手く布紐を駆使して十二の首を運んでいる。
弥助は三つ、伝兵衛は二つだ。
ふと「猪武者」という言葉が頭をよぎる。
一騎駆け、組打ちを好み、首の数のみを誇る化け物のことだ。
功名心は並外れ、理屈の天地がひっくり返って粉々に砕けている。
首を至宝とする猪武者が何ととった首を捨てろと言う。
これは分が悪い。
今はいいが後で、首実検に供する首がないと激怒したナリクに五平太は斬られるであろう。
逃げるか。
「鐘馗様、それはもったいねえだよ」
弥助が息を継ぎ継ぎ、訴える。
「そうか、もったいないか」
ナリクは思い出したように頷き、腰に下げていた矢立てに添えていた筆と墨壺を投げてよこす。
「それで、たけ、いや、ささでも書いておいてしるしとするといい。首洗いは改めのときにするものだからな」
「首を置いていくので?」
「そう置いていく。捨てるには惜しかろう」
「それはよい思案じゃ」
五平太がことさら声を上げたのは逃げる気持ちがあったからだ。
捨てた首がどこにあるかなどどうせわからなくなる。
結果は同じだ。
五平太は受け取った筆を墨壺に突っ込んだ。

疲労とは肉体に付きまとう影だ。
魂が無限に広がり散ってしまうのを防ぎ、地上にとどめるための器には魂を引き留める枷が必要なのだろう。
肉体を奪われたナリクは荒く激しい呼吸が近づいてくるのを感じ実感する。
相手の大きさに息を呑むことはナリクの魂魄の所業であり、肉体の作業ではなかった。
そうでなければナリクは今、生きてはいまい。
呼吸が止まるような恐怖は、ナリクの肉体とは無関係だった。
ナリクの肉体の今の主は恐ろしく効率的にナリクの肉体を動かし、勝利を重ねてきたのだ。
もしナリクの魂が一寸であれ、肉体反応に関わっていたとしたらこうはいかなかっただろう。
そう感じている。
ナリクはまさに勝つべくして勝っていた。
最初の恐怖は去り、こういう戦い方もあるのだと目を開かされてばかりだ。
手本である。
どんな技芸にも手本は存在する。
だがそれは目標と言い換えてもいい形であり、自らとは違う誰かが生み出したものだ。
つまりは完全には真似できぬ。
同じ技量と評価されても、それはあり得ぬ戯言である。
超えたと言われてもそうかと思う。
たとえば那倉大善からの勝利を喜びながらも実力とは思っていなかった城介のようなものだ。
他人の目利きと自分の目利きが違えば評価は落ち着かず、ごまかしに落ち着く。
できるはずだと言われ、できぬとき他人を疑い、できぬと言われてできたとき自分を疑う。
何もかもが完璧にかみ合うことはない。
永遠に他人の型に縛られることを忌避し、自ら型を作る。
それが技芸というものだ。
だが今、ナリクは他人の体が生み出す形ではなく、自分の体が生み出す形を見ている。
まさに手本。
気合のあげ方、槍裁き、鐙踏みに、押し引きの呼吸、あらゆることがナリクの肉体で行使されたものだということに疑いはない。
魂消てしまっても体が変わるわけではない。
今このときに限らず、体こそ不変であり、魂こそが不定であろう。
もしそうでなければこれほど疲労してはいまい。
ナリクの体を使う魂の形は雄渾なる巨人であった。
これくらいで「疲れた」などとは言わぬであろう。
もちろん言葉もなく、肉体の支配権を手放すこともしていない。
今、ナリクの肉体は疲労の極にある。
ナリクの魂と思考、感覚がここまで鮮明になってきたのは肉体の疲労を受け、ナリクを魂消させた別の魂の支配力が弱まってきているからだ。
ナリクの肉体に引きずられた魂が不本意にも休みを強要されている。
それは眠りかもしれぬ。
「槍合わせの味はどうだ」
いう声もない。
瞼が重い。
馬の首に頭を預け、槍を取り落としたことで、ナリクは魂入りとなった。
「殿、殿、ささ、ささは描いてござるぞ」
五平太のかすれ声を聞くやいなやナリクは嘔吐した。
頭が強く速く殴打され、日の光を直接投げ込まれたように、五体がくらみ、おぼつかない。
びっしりとかいた汗の感覚がまだらとなっている。
城介と組打ち、のっぱらに倒れたときとも比べ物にならぬ。
馬から降りるために指一本動かすことさえできない。
たったそれだけで体がきしり、悪寒が脳をかき乱す。
吐いてスッキリとするようなこともないのだが吐かねば息が苦しい。
苦しいから吐き、息をしようと口を開け、再び胃液を漏らす。
腹も緩んでいるような気がする。
悪い酒に酔い、夜を超えても酒気が抜けぬ状態に似ている。
が、そこに感じたことのない毒が添えられている。
戦場の毒。
違う魂によって体を縦横に酷使された影響だ。
ナリクはかろうじて馬のたてがみをつかむ。
しかし頭が重く、倒れこんだ。
うなじを強打された駿馬がいななき暴れる。
殿、殿という声がナリクをえずかせた。
毒を吐き出したいのか、空気を求めているのか。
暴れる馬によってゆすられた全身が悲鳴をため込む。
魂消てしまえばどんなに楽かと何度も思う。
だがそこまで行くには足りないらしい。
違う魂による行使によって歪み、常とは違う疲れを宿した肉体は本来の魂を見つけて、二度と離すまいとするかのようにナリクの意識を拘束する。
器の苦しみを知れとでもいうかのように、ナリクの魂を攻めたてる。
助けを求める声を出すのさえ、今以上の苦しみへのしるべだ。
やめておけ。
やめておけばおさまる。
おさまってくれる。
ナリクは悪寒に体をねじりながら顎をそらし、息を吸う。
足りない。
吐き気がこみ上げる。
頭の中の太陽が内側から弾けようとして、ちかちかと目に刺さる。
水と思い、手を伸ばし、口に含み、のどに拒まれる。
疲れ果てるという、が疲れの果てを超えたところでナリクは七転八倒している。
無意識のうちに刀を捜した。
眼にも意識にも見えぬ刀はすでに失われているのに。
戦場での醜態はよくあるものだ。
ナリクはその舞手の一人となった。
いい拍子で手を叩く音は聞こえない。
「ぐわん、ぐわん」と耳に聞こえぬ音が目に見える波となって、襲ってくる。
戦場の音。
生きた存在のものもあり、命を持たぬ存在のものもある。
ナリクは今、それを幻視し、確信してしまうような酩酊状態に置かれている。
残念ながら醜態を笑う戦話も、そのときの心得も、自分がそうであることが恥だという想念もない。
神仏に助けたまえと祈ることも忘れている。
醜態を演じる者に善悪理非はない。
駿馬から転げ落ち、踏み殺されるのも、そうならないのも運でしかない。
そういう災厄から逃れられるものだけが生きていさおしを上げることができるのだ。
馬が跳ねる。
勢いを受け止めた体がずるりと鞍の上から滑る。
視界はきかないも同然、魂は器につかまれ、こゆるぎもできない。
魂消るようなことは不可だ。
鞍から滑り落ちたナリクは土草の上を毬のように跳ねる。
ころころと転がり、横向きで止まったナリクは兜の結び紐の結び目を指で探っている。
そばを駆け抜ける者たちがいた。
敵かもしれぬ。
だが馬から転げ落ちて威厳の一つも見えないナリクには目もくれない。
とどめを刺しておかなくては安心できないのは敵であり、敵とは脅威を感じる相手だ。
ナリクの姿は寝苦しい夜に夜着をはだけようと苦闘する者に似ている。
駆け抜ける人足、馬足はそれを脅威とはみなさない。
少なくとも乱戦中にかまっていられる相手ではない。
ナリクが好まぬ類のぶざまさが、ナリクの命を救っている。
けっこうなことだと思う余裕はない。
兜の結び目の緒は容易にほどけぬように固く結び、余った部分を切っている。
かかった指で強く結び紐を引っ張るが効果はない。
逆に引っ張ったことで紐が首を圧迫し、苦しくなる。半ば嘔吐しかけたナリクはさらにもがき胴丸鎧を少し加工したものに手をかけるが脱げるはずもない。
「水をひっかけろ。それから土を掘って塗りたくれ!」
五平太は叫び、弥助と伝兵衛は従う。
瓢からナリクの顔と鎧にかけられたぬるい水の上に、掘られた土が塗りたくられる。
土は水の湿り気でべたべたとナリクの顔に、髪に張り付く。
戦場にふりた小頭としての知恵である。
「殿をどこかへ隠せ。ワシはあたりを、水でも探してくる」
瓢をひったくった五平太は歯を食いしばり、駆けていく。
弥助と伝兵衛は馬の手綱を取り、主人たるナリクをその背へと押し上げる。
馬の鞍に荷物のように担ぎ上げられたナリクに、敵味方の目が向き、すぐにそれる。
荷物になった武者とは死体であり、その価値はマイナスと言っていい。
拾い首も卑しいが、死に首を取るのは恥なのだ。
「どうすべえか」
弥助も伝兵衛も戦場に慣れてはいない。
逃げ出そうにも目算がない。
「たけばやし」
降りてきた音は誰の言葉か。
弥助と伝兵衛は顔を見合わせ、敵城の西東に延びる間道へと目を向けた。

弥助、伝兵衛は戦に慣れた者ではない。
戦場の中の安全を見抜く目を持たぬ彼らは竹林を目指し、三日月の内をなぞるように足を進める。
戦場に慣れた者なら前後不覚の主人を連れて、戦場をかすめるように竹林を目指したりはしないだろう。
五平太なら前後不覚の主人の言葉など無視して、あっさり味方の陣地へ駆け込んだだろう。
それこそが戦場の作法であった。
酔っぱらいの言葉を真に受けるのは人目がある場所だけでいい。
見た者が生きるか死ぬかわからぬ場でそれに従うのは愚であろう。
いかに激しい戦といえども顔を上げる間もないほどの応報は一刻と続かない。
暇とは言わないが息をつく時間はある。そんな者たちがナリク主従に目を向ける。
死んだ主人を馬に乗せ、前へ進むというのはどういうわけか。
いや戦場から離れようとしている小者たちが右往左往しているのだろう。
「陣屋はそちらではない」
「もっと下がれ」
幾度か声もかかった。
弥助と伝兵衛は礼は言ったが耳を貸さない。
小頭の五平太から隠せと言われ、主人のナリクからは竹林へ行けと言われている。
それらの言葉が弥助と伝兵衛が動く唯一の原動力なのだ。
わからぬことは考えぬ。
少なくともこの殿の指示に従っていれば生き残れると信じている。
銃弾を受け、馬から転げ落ちても息を継ぎ、槍を動かし、自分たちを救ってくれた主の姿が脳裏に焼き付いている。
「この殿さまといれば死なずにすむ」
それが二人を大胆にした。
何と敵方の武将たちの横を悠々と横切ったのである。
直線的な動きならすぐに撃ち竦められただろうが、三日月の内側をなぞるような道行が敵からすれば戦場を離れていくようにしか見えなかった。
まさかそこから竹林の間道へと戻るとは考えもしなかった。
理由は危険すぎるからだ。
戦場は武士の稼ぎ場であると同時に野盗追いはぎの跋扈するところでもある。
たった二人で馬、鎧を持って暗い竹林に入るのは野盗追いはぎに襲ってくださいと言っているようなものだ。
あるいはあの二人は野盗追いはぎであるのかもしれない。
そうみれば純朴可憐な弥助と伝兵衛もまんまと戦場から馬と鎧を着た死体を運び出す度胸の据わった野盗に見える。
ついていけば自分たちも餌食になるかもしれぬ。
そんなことを考える者が多くいた。
もちろん弥助も伝兵衛もそこまで考えてはいない。
だが弥助と伝兵衛の動きというのはそういう色眼鏡で見ることができるほど放胆なものだ。
石礫は届かないが弓矢が届き、銃弾が届く範囲にも躊躇なく、馬を入れる。
当然、撃たれない。
旗指物も折れて、鎧武者は馬の荷となっている。
たかが小者風情にくれてやる弓矢も銃弾もない。
醜悪な馬荷となったナリクと弥助、伝兵衛の純朴な歩みが弓矢・銃撃の危険を穏やかに、あるいは強烈に振り払う。
いやもはやそんな些事に意識を裂いている暇はなくなりつつあった。
正面から無謀としか言いようのない動きで、戦場の渦潮を一掃しようとしていた大波がその目的を達成しようと大突撃をかけたのである。
ほとんど戦場をつんざく鯨波が轟いた。
敵味方入り乱れた渦潮が状態を変ええぬまま流される。
乱戦、激闘はこの人波を押し返そうとする必死の防衛線だった。
防衛線になった時点で七分の勝敗は決していた。
だが三分の利があれば戦場の複利が動く。
日向の指揮は複利を回転させる寸前まで来ていた。
いや半ば回っていた。
だから筑前の押し出しを受け止め、今まで持った。
だが今、それが終わろうとしていた。
筑前の勝負がけがあと半刻遅れていれば、複利が回り切り、勝敗は逆しまになっていただろう。
戦場とは相場に似ている。
読み切ったはずの者が負け、いつわりの希望や恐怖で思考を停止させた者が勝つこともあるのだ。
この場合は感情を計算できる者が勝った。
「わしは運が良い」
という一語に賭けた者が押し切った。
分が良いか悪いかは計算しつくし、血を吐きながら捨て身に出た者が勝った。
いや勝負の前にすべての金米を吐き出したことこそが勝因なのかもしれない。
資産がなくなれば借金を踏み倒して逃げるしかない。
金米のかかる将兵はここで消えてくれた方が後々都合が良い。
すべて借りものである。
だが借りものを増やして、財を成すことこそ商売というものだ。
「違う」
あの猿はそんなことを考えてはいない。
あれは商人ではない、盗人だ。
あらゆる手でひとを騙し、奪い、笑う。
騙された方がそうと気づいたときには貸したはずの己がはるかに大きな負債を負わされて、あやつの前で平身低頭し命乞いをしている。
恐るべき悪人であった。
不思議な盗人であった。
こういう型の悪人は見たことがない。
むろん日向は己が善人とは思わない。
ただ悪人として納得できぬだけだ。
納得できぬ以上、
「逃げる」
と決断する。
戦いは日向が生きている限り終わらず、最後は必ず己が勝つ。
「百敗の中の一勝こそ我が身上よ」
日向は大きく背をそらせる。
笑ったのだ。
人を騙し続けるのに必要な金米をなくした以上、猿に勝算はない。

竹藪とは逞しく天を突くものたちの作り出したものではなく、自らの重みに耐えられなくなり頭を垂れたものたちの作り出した闇である。
暗く冷たい闇はじめじめとした不快さを内包している。
水墨画にある青竹のからりとした気配はそこにはない。
そんな場所に潜んでいる者がいた。
藪蚊にくわれてかゆい。
耳元にぷーんと気に障る音がする。
それをぺしりと叩くとつぶされた蚊の中から赤い血が染み出し、衣を肌を染める。
叩いても叩いても終わることはないが、見つけたときに叩かなければ念が残る。
聞き覚えのある声と音がしたのはそのときだ。
首を巡らせれば、それは駿馬と言える馬であり、俊英というには情のこわい落馬の殿であった。
「ここへ来たか」
五平太は舌打ちしたくなった。
見つかってはまずい。
この間道は村の稼ぎ場の一つだった。
竹藪に潜み、ここを通る武者から馬や鎧などの武具を剥ぎ、売りさばくのが農閑期の稼ぎだ。
兵とは農閑期の若い者であり、農村の若者を兵として徴発しても作物に影響がないという時期にしか戦は起きない。
戦も稼ぎとしては悪くない。
日の食事は普段は口にするものよりよほど味が濃く、うまく立ち回れば褒美も貰える。
ケチな領主でなければそれを続けたいと思う者も少なくない。
次男坊三男坊はそれを望んで農村を離れる。
戦を経験し生き残れば五平太のように小頭として雇われることになり、給金を手にすることもできる。
もちろん。
それとは別に徴発されなかった村の者たちにも仕事が必要だ。
五平太の村にとってはこの竹林こそがそのための仕事場だった。
あちこちに槍やら刀やらを持った村民が潜んでいる。
田畑を耕すよりはるかに実になることもある。
ここ数年はそちらの稼ぎで村は豊かになっていた。
戦国乱世とは戦の多い時代だが、戦の起きる場所は決まっている。
まったく戦と縁のない土地もある。
五平太がいる竹林のそばの平原はこの島国で戦が起きやすい土地柄だった。
年に二度三度と戦が行われるわけではないが、起こったときは大戦となることが多く稼ぎが良い。
五平太が小頭として雇われたのも子供のころから「これ」を経験してきたからだと言ってよい。
竹林の陰に入った弥平と伝兵衛があわただしく、鞍上の武者を引き下ろす。
あちこちで気配が動くのを五平太は感じた。
「やれ」と思う。
だが「やられる」と身がすくむ思いもある。
気づいたとき五平太は声を上げていた。
獅子吼し、自分より大柄な武者たちを十人以上突き殺した恐るべき手練が脳裏に浮かんでいた。
ここに潜んでいる村民は十五人しかいない。
「あっ、小頭」
「わしらを追いかけてきてくれただか」
五平太を見た弥助、伝兵衛が文字通り飛び上がった。

日が傾き月の光が差し込むころ、ナリクは鎧兜を脱ぎ、麦飯を口にしている。
水出しの汁に浸けて戻す糒ではない。
ここにいる者たちが炊き出した飯である。
潜み待つすべに長けているのか炊き出しの炎も煙もナリクには見えなかった。
においすら定かではない。
「疲れておりなされたのじゃ」
五平太が自らの指を舐めながら言う。
ものふりた小頭は頼もしい。
しかし。
とナリクは思う。
妙才の青竹を見て、その雄渾さにあこがれ、墨を刷り筆を執ることが多くなったナリクは竹林を訪れることも多い。
竹林で一夜を過ごしたこともある。
いったいこのしだれた竹林のどこに妙才はあの青竹を雄渾なる青竹を見たのかと不思議に思ったこともある。
技芸は模倣だ。
だがナリクは妙才の青竹を模写することはしなかった。
直感的にその誤りを知っていた。
おやじ殿のそば仕えとして戦場に出て槍を振るうようになってそのありかがおぼろげに見えた気がした。
今では心にそれを見ることができる。
ただ届かぬというもどかしさがある。
妙才に勝ろうとは微塵も思わぬ。
足りていないことが不満なのだ。
麦飯を平らげたナリクはごく自然に鎧兜を五平太の村の者に差し出した。
村人たちが落ち武者狩りであろうことはわかっている。
ナリクに飯を食わせるより、槍を食らわせて身ぐるみを剥ぐこともできたのだ。
そうなっていないのは五平太のおかげだ。
命の代価として命以外を差し出すのは当たり前のことだ。
おやじ殿には悪いが駿馬もくれてやるしかない。
この命は自分にとってはこの上のない宝だが他人にとってはそうではない。
己の命には値は付けられぬ。
値は付けられぬが値を付けなければ足元を見られる。
無価値なものに価値があると知らしめるにはみずから銭を並べて見せるしかない。
ナリクはおやじ殿のように彩色の言葉を吐く能力はない。
城介のように槍を持って服させることもできぬ。
そもそもナリクの手には槍はない。
あるのは馬と鎧兜だけだ。
馬はともかく鎧兜は出来合いである。
いや馬も駿馬とはいえ戦場で馳駆するには驚くほどではなく、農耕輸送に使うには飼料が高くつく。
高くつくがおやじ殿からの授かり物だ。
その意識がナリクに鎧兜を差し出させた。
潔さそうに見えて、強欲。
武将に必要な核をナリクは持っている。
「まあ、待て」
鎧兜に手を伸ばそうとした村人を五平太が遮る。
村人の顔に朱が昇る。
「このお人は太陽が」
と五平太が指を上に向け、わずかに傾けた。
「こう動く間にここにいる全員と同じだけの武将首をあげている。鎧兜を取り上げねばワシらの倍は働いてくれる」
「ほんとうか」
「ワシがこの目で見た。首も運んだ。多すぎて捨て首にしたが」
「あれひとつで百文にはなるぞ。組頭以下ではない」
暗い竹林の中、しゃがれた声が保障する。
「そういうことだ。殿、よろしいな。ワシらとひと働きしてもらうということで」
「どう働くのだ」
「それはおいおいまだまだ戦の勝敗は見えませぬからな」
「そうかな?」
その声に反応する者はいない。
ただナリクだけが一度顔を上げ、横を向いた。
馬蹄の轟く音が聞こえた気がした。

一度鎧に手を伸ばし、しかしそれをやめて兜だけを頭に乗せたナリクを見て、村人たちは顔をこわばらせた。
ナリクの態度を怪しんだのではない。
遠くに聞こえる戦の音の中からこちらに近づいてくる一集団がいることを知らせる者がやってきたからだ。
「数は二十五」
「組頭が露払いに来たか」
物慣れしている村人たちの声が震えている。
「取ろう」
一人が膝を叩く。
「いや組頭が帰らなければ警戒される。もし露払いなら・・・」
「そうじゃ。大将が逃れてくるかもしれねえ」
露払いは金米は持っていないが、大将ともなれば垂涎もののおまけがつく。
鎧兜ひとつとっても組頭のそれとはくらべものにならない。
「慌てる必要はねえ」
「そうだ逃がしてやろう」
「次に来るやつらを刺せばいい」
「決まった。隠れるぞ」
「それは無理だろう。馬がいる」
「戦場に逃げ馬がいるのは当たり前。誰も不思議には思いませぬ。ここに薮下がありますのでお入りを」
五平太がナリクの足を引っかけるようにして、竹藪の下にあるかくれ穴へと押し込む。
「槍を転がさぬよう」
隠れ穴には粗末だが戦のために作られた槍が置いてある。
持ち手が長くしつらえてあり、刃の部分がぎらぎらと光っている。
「田畑より槍働きで稼いでいるらしいな。おぬしよりよほど裕福だぞ」
「小姓に俸禄はない」
「おれはこいつらを褒めただけだ。潜み穴にしても囲んで逃がさぬ配置の妙が駆使されている。それよりも」
「それよりも」
「馬の手綱は切っておいた方がいいのではないか? 竹林の中にある一木を選んであんなに見事につないでおいてはさすがにいぶかしく思われるぞ」
「五平太はざらにあると言った」
「数で恐れ、欲に迷って気もそぞろ。他にもあるかもしれんが。まあ、遅いか」
「誰か居るのか? 姿を見せよ!」
良い武者ぶりの男が声を上げ、すぐに捜索を命じる。
足軽とは明らかに違う鎧武者たちが竹を切り払い、馬の主を捜している。
「さて、どうする」
「隠れ続けると決まった」
「決まったことを続けるには心魂がいる」
その言葉を聞き終わらぬうちに竹藪を跳ね上げる音と鞘走り、そして重いものが崩れ落ちた音がした。
隠れ穴から村人の一人が飛び出したのだろう。
めくら突きに繰り出した槍は当たらず、鎧武者にあっさりと切り伏せられたといったところか。
「でるか、でぬか?」
「でるわけがない」
思わず応えたナリクの耳に笹枯れの草地を踏む音が届く。
心身に戦慄が走り、思わず槍をつかむ。
瞬間、脳裏に浮かんだのは妙才の青竹としだれた竹だった。
ナリクは隠れ穴の上の竹藪からするすると槍を伸ばし、武者の首を突いた。
妙手と言ってよい。
ナリクの竹藪のそばを踏んだ鎧武者が声もなく崩れ落ちる。
引き戻す槍にひかれた死体はナリクの潜む隠れ穴の端を覆う様に倒れて来る。ナリクは慌てて体を入れ替え、死体が穴に落ち込まぬように肩で支える。のどから噴出する血がナリクの髪を赤く染める。
「でぬぞ、でぬぞ」
ナリクは自分に言い聞かせ、息を整える。
穴倉の中にいることに耐えられぬ心境になりつつある。
「見事な一突き。手練の技ぞ」
膝を叩く音が耳障りだ。
すいと二人目が現れ、術にかけられたように槍が吸い込まれる。
三人目、四人目もそうだ。
死体の重みに隠れ穴にかぶせられた竹藪が撓み崩れそうになる。
こうなってはでるしかない。
隠れ穴から這い出したナリクは竹林の深みに背を向ける。
指揮を執っていた鎧武者がナリクを見る。
そして歩を進める途中でのけぞった。
隠れ穴にいた弥助が槍で突いたのだ。
弥助の動きが契機となって、鎧武者たちがこちらを向く。
「伏兵か」
弥助に突かれた鎧武者が鎧に突き立てられた槍の柄を刀で切り落とし、ナリクに顔を向ける。
「これは」
ナリクには声もない。
「猿の伏兵ではないな。野武せり、野盗の類か」
髪に白いものの混じった鎧武者は忌々し気に口にする。
その顔をナリクは知っていた。
「日向殿」
ナリクはつぶやき、それから一息に
「この敵は総大将だぞ!」
と叫ぶ。
その声に文字通り竹林が揺れた。
鎧武者たちが驚いて、背中に槍の穂先を残した総大将の下に駆け寄ろうとして、次々に竹藪から突き出る槍の餌食になった。
槍の餌食にならなかった者は声もなく、絶命する。
落ち武者を狩るための結界には、ありとあらゆる死罠が仕掛けられていた。
次々に起こる惨状に総大将たる日向は目を見開き、動くこともできない。
敗北を知らぬという点でおやじ殿と同じであり、絶体絶命を生き延びてきたことでもおやじ殿と変わらぬ日向が手を付けかねるというのはどういうわけか。
混乱の中立ち尽くす鎧武者にナリクは突きかかった。
「ほう」
と声が聞こえた。
他の誰にも聞こえぬ声。
日向が槍の柄を叩く。
太刀を持たぬ左手で。
のど元から波を打って下がった穂先は日向の脇腹に食い込んだ。
「下郎が」
食いしばった歯から漏れた叱咤に槍を引き戻そうとしたが動かない。
振り下ろされた太刀で槍の穂先が断たれ、ナリクは後ろ向きにひっくり返った。
長い槍の石突きが枯れ笹草の大地を叩き、中空に跳ねる。
立ち上がろうとしたがその上に日向の姿がある。
手には跳ねた槍の柄が握られている。
石突きで腹をえぐられ、うめく間もなく、太刀が飛んでくるのが見えた。
見えるだけの経験があった。
死に物狂いで顎を首に着ける。
がちんと音がして視界が半分になった。
兜が断たれて、半分が目を覆ったのだ。
太刀が落ちる。
ナリクはそれを拾おうとする日向の左足にしがみつく。
もみあいになる。
倒れたのは日向だ。
ナリクは最初から転がっている。
倒れる間に日向は小太刀を抜いている。
それでナリクのこめかみを殴る。
斬らなかったのはナリクの視界を覆う兜を嫌がったからだ。
半ば割れた兜を殴られたナリクはその衝撃で魂消た。

ナリクが目覚めたとき、そこには誰もいなかった。
日向の首どころか、鎧武者の死体すらない。
惜しいことをした。
総大将の首を取れていればおやじ殿を大いにもうけさせられたであろう。
だが今、生きていることだけでももうけものと言えばそうでもある。
そうは思っても歯噛みしてしまう。
ふと見ると馬を連れた弥助と伝兵衛がいる。
「殿、目が覚めたべな」
「五平太は?」
「首を持って殿の手柄を報告にいきました」
「日向を討ったか」
「へい」
「そうか」
誰がとは聞かぬ。
己ではないだろう。
だがやったのは己であろう。
「惜しかったか」
「おやじ殿がもうければよいさ」
ナリクは立ち上がろうとして顔をしかめる。
「魂消ておったのでな」
「そうか」
ナリクは弥助と伝兵衛の手を借りて、駿馬の背に這い上がる。
とぼとぼと進む馬も腹が減っているのだろう。
味方の本陣を目指して竹林を抜けると突如、天地をどよもす勝どきがあがる。
初陣などこんなものであろう。

後にナリクは日向を討ち取った者たちがそのまま首を切られ、さらし者にされたと知った。
その中に五平太の首もある。
理由は領主に対しての不忠。
ナリクは首をかしげたがわからない。
ただおやじ殿に劣らぬ功を持つ日向の怯えた顔が浮かんだ。


























































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