子供のころ

私は都会とは無縁の場所で育ちいま現在は高層ビルが並ぶ近くで生活している。子供の頃育った場所は野や山、川などが身近にあり、隣の家よりもそちらの方が近い感じのところで生活していた時期もあったりしたこともあって、人の中よりも一人で山や川に行きそこで見つかる様々なものを眺めるのが好きだった。季節になるとその季節のその場の状況とそこにその季節にあるものを見ては思いを巡らし、季節をつかんで行ったところがあった、身近で体験したものは全て自分にとっての真実であると思っていた。そしてつい最近までそんな子供の頃の経験は実感を持って信じられた大切なことだった。

子供の頃そんな感じで育ったこともあって、都市部での生活は野や山、川などから離れた生活となったために、そんな生活の中で少しでも子供の頃に当たり前に感じていた野や山、川などを少しでも感じられるところに足を運ぶことをいつの間にか求めるようになっていた。公園はそんな場所の一つであった。近所の公園は、高層ビルが近くにあるが木があり、小さな生き物が生息している姿を感じられる貴重な場所でもあった。春になると木々が芽吹きヒキガエルがウロウロし始め、夏になるとセミが鳴き、カナブンやハナムグリなどが樹液にきたり、夏の終わり頃にはコオロギやマツムシの声。とそんな公園が近くにあったので子供が小さかったことはよく一緒に歩いていろいろなものを一緒に見た。

そんなよく見たものの一つに春のカエルの卵やたくさんのオタマジャクシの姿があった。今は夏以外は水が抜かれてしまっているが、以前のジャブジャブ池は夏のシーズンが終わっても水が入っていて、そこは季節になるとカエルの卵やオタマジャクシがよく見られた。オタマジャクシは春すぎると足が生えて手が出て数ミリくらいの小さな小さな黒いカエルとなって池から這い上がり外に出て行く光景も毎年のように見ていた。

その光景を子供と見ていた頃は、こんな小さなカエルの種類がいるのだなと思っていたのだけど、あるとしの春に池の近くを夕方通りかかったら薄暗がりの池の中に大きなカエル(多分ヒキガエル)が数匹ぷかぷか浮いて絡み合っている姿があっちにもこっちにも見えた。そこで初めてあの黒いオタマジャクシはヒキガエルのものであって、数ミリの黒い小さいカエルはヒキガエルの赤ちゃんであったことがわかった。

子供の頃に山の中にあった池で、何かいないかとたまですくった時に巨大な10センチ近くあるのではないかと思われるまだら模様のオタマジャクシを目にして、夏の夜は近所の水のあるところからはグウォっと大きな声でなく大きな姿のウシガエルが見られたことから想像して、大きなカエルは大きなオタマジャクシと当然のことのように思っていた。そんな想像が勘違いだったことがこんな都市部の公園で明らかになった。私にとってはちょっと衝撃的だった。

この都市部の公園付近では、オタマジャクシは小さいものしか見られない。この付近で育った子たちは反対に大きなオタマジャクシは見たことないと思うので、大きなカエルは小さなカエルが成長して大きなカエルになることが当たり前として考えるのではないかと思う。また、近所の公園では夏になると夕方セミの幼虫がウロウロしている姿をよく見かけて、セミの羽化も季節になると当たり前のようによく見かける。山の中ではちょっと信じられない光景だったりする。木が沢山生えているし木の下草も沢山あったりするためかと思うが、そんな中でセミの羽化を見るというのはそんなに簡単なことではなかったりした。

都市の公園というのは、街の中で隔離された緑の場で、下は綺麗に手入れされているので、山の中では考えられないようなことを体験できるポイントもあったりする。場所によって環境によって当たり前が違ってきたりすることもよくあったりするのも改めて考えさせられた。年齢、身体、場所、環境いろいろな要因によってその人にとっての真実や当たり前は変わってきたりする。そんなことも踏まえて一方的なものでなくいろんな立場や角度から見てものを多角的に捉えて行くことって大切だなと思った。

子供の頃に見て感じたことが、大人になってから同じことを見て感じたこととずれていたりすることもある。反対に子供の頃に感じたものと全く同じものを感じるときもある。そんな違いがあるのだということも変わらないこともあるのだということも忘れずにおきたいと思った。

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